◎ 伏見街道
伏見街道は東海道山科追分から伏見宿に行く道で、大津街道とも呼ばれた。
江戸幕府は、豊臣家が消滅後、この道とその先の京街道を合せて、参勤交代の大名が使える街道として、街道を整備し、
宿場を設けた。
大津から大阪高麗橋の間に四つの宿場が造られたので、東海道の延長ということで、東海道五十七次ともいわれた。
@ 山科追分〜伏見宿 | A 伏 見 宿 |
◎ 京街道
京街道は、豊臣秀吉が文禄五年(1596)に大阪城と伏見城とを結ぶ道として、淀川左岸に築かせた文禄堤が始まりである。
江戸幕府はこの街道をベースに街道を整備し、伏見、淀、枚方、守口に宿場を設けた。
@伏見宿から淀宿 | A 淀宿から石清水八幡宮 | B 石清水八幡宮から枚方宿 |
C 枚方宿から守口宿 | D 守口宿から高麗橋 |
◎ 小関越(三井寺観音道)
小関越の道は京から北国街道に入る近道である。
京都山科から逢坂山の北部を通り、三井寺に抜ける道がそれであるが、京から西国札所の三井寺への最短でもあることから、三井寺観音道とも呼ばれた。
小 関 越 |
◎ 朝鮮人街道
朝鮮人街道は野洲の追分から近江八幡、彦根を経て鳥居本至る約四十キロの中山道の脇往還である。 徳川家康が関ヶ原合戦後の上洛の際、利用された道であるが、朝鮮通信使が通ったことから、朝鮮人街道とか、朝鮮人来朝道と呼ばれるようになった。
@野洲追分〜願成就寺 | A 願成就寺〜音羽町常夜燈 | B 音羽町常夜燈〜JR安土駅 |
C JR安土駅から八幡橋 | D 八幡橋から芹橋 | E 芹橋から中山道の鳥居本宿 |
◎ 矢橋道(やばせみち)
矢橋道は、東海道草津宿はずれの矢橋道標を起点に琵琶湖方面へ三キロほどの矢橋港までの道である。
矢橋港から大津まではは、船便が出ていたので、多くの旅人がこの道を利用した。
矢橋道 |
◎ 若狭街道(鯖街道)
若狭街道は、太古からあった古い道で、若狭国小浜から奈良や京の都に通じていた。
日本海の玄関である小浜から種々な物資が運ばれたが、江戸時代に入ると、鯖を一塩にし、鯖を背負い、京都まで運ぶ仕事が登場した。
そのため、鯖街道という名称にもなった。
@ 朽木庄〜熊川宿〜小浜 | A 小浜の神社・寺を巡る |
◎ 西近江路(七里半越)
西近江路とは敦賀から疋田で塩津街道と別れ、海津に至る道であるが、海津の人達は三十キロ程の道のりなので、七里半越と呼ぶ。
この道の歴史は古く、織田信長が関ヶ原からの北国街道を整備するまでは、越の国と京とを結ぶメインルートとになっていた。
西近江路(七里半越) |
◎ 西国街道
西国街道は、京都から山崎を経由して、西宮までの街道で、江戸時代には山崎街道あるいは山崎道とも呼ばれていた。
東海道の大阪高麗橋経由よりも距離が短かったので、西国諸大名の参勤交代の道として多く利用された。
@京都東寺〜長岡京 | A大山崎〜島本駅 | B島本駅〜芥川宿 | C芥川宿〜郡山宿 |
D郡山宿〜瀬川宿 | E瀬川宿〜辻の碑 | F辻の碑〜昆陽宿 | G昆陽宿〜西宮神社 |
◎ しまなみ海道
江戸時代、京都から北九州の小倉まで脇街道として、西国街道あるいは山陽道があった。
この道は海岸線に沿って歩いたり、峠を越えたりした。
それに対し、比較的波の穏やかな瀬戸内海を進む船便は風待ちや潮待ちで欠航はあったものの、
それを気にしなければ、歩くことは不要なので、一般旅行者にも多くの利用者がいた。
しまなみ海道 |
◎ 山陰道
江戸時代の山陰街道は京都から丹波に出て、因幡国に入り、鳥取宿や米子宿を経て、
出雲国に入り、安来宿、出雲郷宿、松江宿、宍道宿、今市宿、石見国に入り、
温泉津宿、郷田宿、浜田宿、三郷宿、益田宿、津和野宿、周防国に入り、山口宿、小郡宿に至るルートだった。
@ 米子宿〜松江宿 | A 宍道宿〜温泉津宿 |
◎ 山の辺の道
今から千数百年前、三輪山の南麓を起点とし、巻向山、龍王山、高峰山、城山、高円山の山裾をめぐって、北を目指す道があった。 この日本最古の道といわれる山の辺の道には、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の三代にわたる天皇が宮を置く政治と経済の中心地であったといわれる。 曲がりくねった起伏が激しい道にもかかわらず、人の往来、物資の運搬に盛んに利用されたと想像されている。
山の辺の道 |
◎ 斑鳩の道
聖徳太子ゆかりの法隆寺などの名刹がある斑鳩は古から交通の要所だった。
聖徳太子が斑鳩に移り住んだ後、飛鳥宮へ通った筋違道や在原業平が河内姫のもとに通ったという業平道もあるし、当麻寺から葛城へ行ける当麻街道の追分でもあった。
江戸時代には、奈良街道を利用して伊勢へむかう参拝者が増えた。 現在も名阪国道(国道25号)が走っている。
斑鳩の道(法隆寺の道) |
◎ 葛城古道
葛城古道は、当麻を起点として葛城山の東麓を二上山、葛城山、金剛山と南下する古代の道である。
日本書紀に 「 神武天皇が高尾張邑に来て、土蜘蛛(手足が長く身長が短い土着の民)と戦かったとき、
皇軍が葛の綱を結い、網にして勝利したことから地名を葛城と改めた。 」 とあるところである。
葛 城 古 道 |
◎ 多武峰への道
多武峰にある談山神社は、平安時代の権力者、藤原鎌足が葬られているところである。
また、桜井市周辺は、古代の大和朝廷の宮居があったという歴史を持つところである。
阿倍文殊院は、安倍清明が生まれたところとされる。
その近くの公園は妙楽寺(談山神社の前身)の僧兵により焼失した安倍寺跡である。
多武峰への道(阿倍文殊院〜談山神社) |
◎ 当尾石仏の道
平安時代から鎌倉時代にかけての阿弥陀信仰の最盛期には、当尾には多くの修行僧が庵を結んでいた。
尾根伝いに岩船寺や浄瑠璃寺の仏塔が多く並んでいたことから、塔尾と呼ばれていたのが、後に当尾になったといわれる。
岩船寺から浄瑠璃寺への道には、修行僧が刻んだと伝えられる石仏群が点在している。
当尾(とうの)の里・石仏の道 |
◎ 柳生街道
柳生街道は奈良公園脇の高畑町から柳生の里まで続く道で、約20kmの行程である。
江戸時代、新影流の上泉伊勢守秀綱、二刀流の宮本武蔵、荒木又右衛門、柳生十兵衛光厳など、歴史に名だたる剣豪たちが通った道として有名である。
柳生街道 |
◎ 熊野街道
熊野街道は、紀州藩が五街道に準じる脇往還として整備した道で、和歌山から伊勢まで通じていた。
本来は藩内の連絡や治世に利用するために整備されたものだが、江戸後半になると、お伊勢参りが流行し、帰途、熊野へと寄るものが増え、大いに
賑わうようになった。 大正時代に、国道として整備されたが、今でも多くの石畳の道が残っている。
熊野街道 |
◎ 十津川街道
十津川街道は奈良県五条市から十津川村を経て熊野に至る道で、正式名称は西熊野街道である。
南北に連なる山地を縦貫しているため、道は獣道のようなもので、車は通行できず、陸の孤島化していた。
十津川街道 |