葛城古道は、当麻を起点として葛城山の東麓を二上山、葛城山、金剛山と南下する古代の道である。
葛城は、日本書紀に 「 神武天皇が高尾張邑(たかおわけむら)に来て、
土蜘蛛(つちくも)、即ち、手足が長く身長が短い土着の民と戦かったとき、
皇軍が葛の綱を結い、網にして勝利したことから地名を葛城と改めた。 」 とあるところである。
平成十八年八月二十五日、葛城古道を歩く。
古代から葛城と呼ばれた地域は、現在の大和高田市、御所市、香芝市及び北葛城郡にあたる広い土地で、大和六郡の一つと伝えられる。
大和朝廷の時代には、豪族の葛城氏、巨勢氏、鴨氏が住み、仏教を基にした文化を築いたところである。
葛城の南端にある葛城の道 歴史文化館が今日の出発点 (右写真)
入った歴史文化館にはこれといった歴史的な展示物はなかったが、駐車場とトイレがあるので、歩くものにとって利用価値はある。
隣の高鴨神社(高嶋神社ではない)に行く。
赤い鳥居をくぐり、放生池を左に見ながら石段を登ると、室町時代、天文十二年(1543)に建立された極彩色の彫刻を施された三間社流造りの本殿があった。
高鴨神社はここを拠点とした鴨氏が弥生時代から崇敬した神社といわれる古社で、延喜式では名神大社に列し、本殿は国の重要文化財に指定されている。
鴨族は全国各地で開拓移住し、農耕を広めたといわれる一族で、
全国に残る加茂という地名はかれらが伝え、京都の下賀茂神社、
上賀茂神社を始めとする多くの賀茂社を祀ったと
いい、賀茂神社の総社といわれるものである。
春には五百種、二千株を越えるサクラ草が見られると神社の巫女の説明があった。
高鴨神社を出て、地元の車だけが走る道を歩き、高天彦(たかまひこ)神社に向かう。
途中に近畿自然歩道の案内があり、その向こうに金剛山の山並みが見えた(右写真)
道はやや上り坂。
やがて、左折の道案内があり、曲がるとこれまでより坂は急になった。
左側に明治か江戸後期に建てたと思われる漆喰塗りの民家があった。
同行の地元案内人の説明は左側の田圃の下に古墳があるという。
発掘調査の後埋めて元の田に戻されたというが、稲穂が見えるだけでそうしたものがあることは想像できない。
県道山麓線に出てすぐ、案内板により脇道に入り、急な坂を上る (右写真)
振り返ると大和三山(畝傍、耳成、天の香具山)が一望できた。
鬱蒼とした林の中に入る (右写真)
枝斬りをし整備された木(種類は分からぬが)は整然と並び美しかった。
相変わらず登り道である。
右側が立ち入り禁止になっているところにでた。
日本神話に登場する天孫降臨の高天原であると地元の人には信じられてきたところらしい。
林を抜けると空がぽっかりと上に見え、右側の露地では菊の栽培が行われていた。
鶯宿梅(おうしゅくうめ)と書いた立て札があり、梅の木がある。
昔、若死にした小僧の悲運をその師匠が嘆いていると、梅の木にうぐいすが来て、
「 初春の あした毎には 来れども あはでかへる もとのすみかに 」と鳴いたことから
鶯宿梅と名付けられたといわれる梅の木であるが、何代目であろうか??
その先に樹齢数百年の杉の老木が数本道の両側に高く聳えていた (右写真)
手前にお百度石があり、石燈籠があるのは高天彦(たかまひこ)神社の参道である。
参道に神武天皇が葛網で土蜘蛛族を捕らえたという蜘蛛族の窟がある筈だが、どこにあるのか確認できないまま高天彦神社に到着。
大きな鳥居をくぐると、左側に休憩できるところがあり、正面の鳥居の先の石段を上ると、
瓦葺の社殿があった (右写真)
高天彦神社は葛城氏の祖神(高皇産霊神(たかみむすびのみこと)を祀り、延喜式で最高の社格である名神大社に列せられた神社である。
高皇産霊神は天地開闢の時、天御中主神の次に神皇産霊神と共に高天原に出現したと古事記に書かれている神様である。
葛城族は武勇に優れ、大和朝廷に先行する五世紀に葛城王朝を築き、
亡びた後も平群(へぐり)、巨勢、蘇我氏が豪族として栄えた。
この神社には本殿はない。 というのは神社の背後の円錐形の白雲の峰が御神体であるため、
社殿は遥拝所にあたるからである (右写真)
社殿は小さく、簡素でそれほど古いものではない。 案内人の話では火災に遭い建替えられたものでそれ程古いものではないということだった。
境内の狛犬に蔦で編んだ紐が掛けられていた(右写真)
昼飯はここでとった。 8月の暑さも遮る涼しいところであった。
金剛山は古来、葛城山、高天山と呼ばれていたが、役行者が金剛山寺を創建してから金剛山となったとある。
この山系には鉄鉱石が埋蔵されていたようで、この付近は風がよく吹き、鉄の精錬が行うのに適していたとある。
葛城王朝の誕生もそれと関係があっただろうし、鴨族が全国進出が果たせたのも農機具に鉄が使われるようになったことと関係があるだろう。
金属資源があるところはイオンがその地を冷やし、オゾンを多く発生させるといい、
この地も森厳(しんげん)な森を形成してきたとある。
今日の涼しさもこれと関係があるのだろうか??
神社を後にして道を下ると、左側に駐車場のような広場があった (右写真)
行基は開創した高天寺があったが、南北朝時代に焼き討ちに遭い、焼けてしまった。
前述の鶯宿梅の小僧はこの寺の修行僧であったのである。
右側に史跡高天原と刻まれた石碑が建っていた。
神話では 「 天照大神の御子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に、
高皇産霊神(たかみむすびのみことの娘の栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)が嫁がれ、その間にお生まれに
なったニニギノミコトが高天原からこの国土に降臨された。 」 とあり、太古から神々の住み
給うところと信じられてきた 「 高天原 」 は高天彦神社の御祭神の鎮まるこの葛城台地だったというのである。
トイレ休憩を済ませ、道を下っていくと田圃の先に宝宥山高天寺橋本院があった(右写真)
寺の縁起によれば、 「 高天寺の末寺で、高天寺が南北朝時代の焼き討ちにあった後、残った本尊の十一面観世音菩薩立像などを移した。
すぐ傍の池に橋があったことから、現在の橋本院
という名になった。 」 とあり、最初は奈良の興福寺に属していたが、後に弘法大師の真言宗になったようである。
本堂も弘法大師堂もそれほど大きなものではないが、ご本尊の木造の十一面観世音菩薩立像は、高さが5メートル四十センチと大きかった。
み仏に合掌。
境内は広く、静寂に包まれ、瞑想の庭というようなたたずまいである。
一角に置かれた水盤に植えられた蓮が見ごろをむかえてきれいであった (右写真)
広々とした空間には椿としだれ桜などが植栽されているので、春の訪問もよいのではと思えた。
境内を抜け、再度林の中に入り、川に架かった橋を渡り、更に下っていく。
先程上ってきた高天原の反対側を下っていく感じである。
少し歩くと、田圃が続くところに出た。 奈良盆地が一望できる展望である。
県道山麓線に出て、少し下ると左側に入る道があった。
極楽寺参道の石柱の先にはお城を思わせるような極楽寺の塀が見えた。
真夏の日差しを浴びて歩いているので、短い登りがけっこうこたえた。
上りきったところは高台で、吉野や大峯山から名張方面までの山塊が見え、その手前に橿原市や桜井市の市街地が広がっていた。
寺の入口は鎌倉時代に作られたという鐘楼門になっている (右写真)
極楽寺は、仏頭山法眼院極楽寺が正式名で、浄土宗知恩院派に属する。
天暦五年(951)、興福寺の一和(いちわ)僧都が開いたと伝えられ、鎌倉後期の林阿上人に
よって中興された。
慶長十九年(1614)、兵火を被り、本尊の仏頭をはじめ諸堂や古文書等を焼失したが、寺宝の天得如来像図と鐘楼門は難を逃れた。
そこを通ると正面に入母屋造り本瓦葺きの本堂があった (右写真ー左側が本堂)
本尊は阿弥陀如来、阿弥陀堂には天得如来像図が祀られている。
天得如来像図には、 「 約七百年前、金剛山で鹿を見つけ、矢を放とうとした武士のところに行者が現れ、生命の大切さ、仏の教えの尊さを教え、如来の姿を描いた一巻の巻物を与えて姿を消した。 」という説話が残っているようである。 極楽寺の敷地は広く、
枯山水の庭園、後方には大きな墓地が広がっていた。 暑いこともあってここでしばしの休憩をとり、水の補給後、先程の県道山麓線まで戻り、歩き始めた。
金剛山が左に寄り、葛城山が大きく見えるようになった (右写真)
両山の間が水越峠でその先は大阪府という説明を受けた。 ここは和歌山県、大阪府と奈良県の境にあることを知った。
その先を少し行くとJAの直売所があったが、自動販売機もあり、
立ち寄るには好都合。 駐車場も十分である。
葛城古道で感心するのは道しるべとトイレが多くあること。 観光に力を入れているといえばそれまでだが、これだけ充実しているところはそれ程ない。
そんなことを思いながら歩いている内、右側の細い道に入るところにきた。
道路脇に道案内があるので問題なかったが、左から右に横断しなければならないので、車に気をつけながら渡った。
道は農道のような道だが、古い常夜燈があるところを見ると古い道なのだろう (右写真)
この先は下り坂なのでとんどん歩く。 途中に、住吉神社、高木神社、春日神社があった。
住吉神社と高木神社の間は十分ほどなのに三つも神社があるのは集落にそれだけ歴史があるということだろう。
なお、住吉神社は白鳳年間(7世紀後半)に大阪の住吉大社より分霊をお祀りしたという由緒ある古社である。
この集落には漆喰塗りの家屋もあるが、屋敷門がある家が続く (右写真)
道は左右にカーブしながら下っていたが、葛上中学校を過ぎると、道も平らになり、古い民家
が残る通りになった。
今回の旅の目的は名柄の古い家を見るのも大きな目的である。
左右をきょろきょろしながらゆっくり進む (右写真)
漆喰壁の家があると思うと茅葺きであったと思われるトタン屋根の家もある。
太神宮の刻まれた常夜燈は伊勢神宮へのものだろう。
その先の小さな社(やしろ)には不相応の石造り常夜燈があったが、これらは集落が豊かであったことを示す証拠ではないだろうか?
左側によく見ないと気が付かない煙突のある家があったが、葛城酒造さんという造り酒屋である。
葛城は良質の伏流水が流れていることから、奈良県の中でも造り酒屋が多いところのようだった (右写真)
これまで全国を旅して各地の酒を飲んだが、滋賀、京都、大阪、兵庫の酒は飲んだが、奈良と和歌山の酒は飲んだことはない。
灘と伏見の酒が有名すぎて、その他の酒には目がいか
ないのではないか? 交叉点の向こうにあるのが御所市内で最も古い中村邸である。
江戸初期の家の造りを今に伝える建物は、国の重要文化財に指定されている (右写真)
吐田城主、吐田越前守の子孫である中村正勝が慶長期(1596〜1615)に建てたものらしい。
古い時代の手押し消火器具が軒下にぶらさげられてあった。
屋敷の中を見学できないのは残念だった。
中村邸の前の家も黒い漆喰壁で古く年輪を重ねていると思える家だった。
左側には最近修復したと思える家があり、露地を越えた先に木造の古く朽ち始めた建物が目に入った。
いつ建てられた分からないが、旧名柄郵便局である (右写真)
突き当たりは龍正寺という寺院である。
ここは変則の交叉点で、左右の道は水越街道で、直進するのが葛城道である。
少し行った突き当たりを左折すると、一言主神社があり、綏靖天皇の高丘宮跡を経て、櫛羅に至る。
今回の旅は旅行社の主催だが、フリーハイクなので、自分のペースで歩けた。 残りはわずか。
交叉点を左折し、少し歩くと県指定文化財になっている長柄神社があった (右写真)
案内人から、 『 延喜式神名帳に記されている古社で、祭神は下照姫で姫の宮と称する。
本殿は一間春日造、桧皮葺、丹塗りの建物で、細部に禅字様の手法が見れられ、室町中期頃と推定される。
日本書紀の天武天皇天武九年九月九日の項に、 「 朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を名柄杜に看す 」 と記され、
流鏑馬(やぶさめ)をご覧になったことが記され
ている。 手水屋は朝原寺から移したもの。 」 、 という説明があった。
今日の旅はこれで終えた。 この後、ハイクの汗を流すため、かもきみの湯に向かった。
それにしても、葛城は名古屋からは遠いですなあ!!
(ご参考) 日本書紀巻三 神武天皇の「葛城」 の地名の由来の部分
《神武天皇即位前紀己未年二月辛亥》 に、 「 己未年春二月壬辰朔辛亥。
命諸将練士卒。是時層富県波多丘岬有新城戸畔者。 又和珥坂下有居勢祝者。
臍見長柄丘岬有猪祝者。
此三処土蜘蛛並恃其勇力、不肯来庭。天皇乃分遺偏師皆誅之。 又高尾張邑有土蜘蛛。其為人也、
身短而手足長。 与侏儒相類。
皇軍結葛網而掩襲殺之。 因改号其邑曰葛城。 夫磐余之地、旧名片居。 亦曰片立。
逮我皇師之破虜也。 大軍集而満於其地。 因改号為磐余。 」 とあり、
「 狭野は部隊を分遣し、曾富県の波多丘岬新城戸畔、和珥の坂下居勢祝、
臍見の長柄丘岬の猪祝の邑むら)を討伐。
高尾張邑を討伐して葛城邑と命名。 磯城邑を磐余邑と命名が大意 」 とある。
また、葛城に関する部分 「 又高尾張邑有土蜘蛛。 其為人也、身短而手足長。 与侏儒相類。 皇軍結葛網而掩襲殺之。 因改号其邑曰葛城。 」は
「 又高尾張邑に土蜘蛛有り。 其の人と為り身は短くして手足長く、
侏儒と相類たり。 皇軍葛網を結いて掩襲ひ殺しつ。 因りて其の邑を改め号けて葛城と曰ふ。 」
と書かれているが、
この地方を平定した人達と手足の長さがかなり違う種族だった、ということだろうか?
(ご参考) 司馬遼太郎の 「 街道をゆく 1巻 」
司馬遼太郎は、「 街道をゆく 1巻 」 の中の葛城山、葛城みち、葛城の高丘、一言主神社、
「高鴨の地」の章で、葛城族や鴨族とその信仰などについて述べている。
まず、「葛城山」の章であるが、三輪神社から竹内街道を走り、葛城方面へ向かっている。
遼太郎氏は、 「 山の辺の道と竹内街道が日本最古の官道だろう。 」 としている。
また、「 竹内峠を越えると大阪湾が広がる河内国で、さらに瀬戸内海、
九州から海外につながっていて、古代の鉄がこの
ルートを通って畿内に入りこんできたことや
王家をしのぐ程の勢力をもった蘇我氏はこの葛城山麓から高市郡の一角までを
勢力圏としていた。 」 という。
次に「葛城みち」については、「笛吹の社」について、ページを費やしている。
『 大和葛城山の台地に、「笛吹」 という古代から続く小さな村落が樹林に
うずもれている。 (中略)
この葛城山麓で古代さかえた王朝 ー 葛城王朝といってもよい = が、
その後大和盆地で成立する天皇家より当然ふるいという印象は、あくまでも印象だがどの古代史家も否定できないであろう。
その葛城古代国家の村々が、葛城山麓に点々として残っている。
(中略)
「記紀」 では、天つ神の子孫(神武天皇や崇神天皇)が後から大和盆地にやってきて先住の国つ神の部族を平定したのだが、
その古い集落が、葛城の神々をいまもなお祀って森の社を護持しているというのは、当然といえば当然だが、なにやら歴史の可笑しみのようなものを感じる。
さらに痛快なのは、それら葛城の国つ神の御子孫たちが、そのまま神主としてそれぞれの森の中に棲んでおられるというから、日本も古い国である。 』
と書いておられる。
遼太郎が訪れようとしたのは、笛吹の 「葛木座火雷(かつらぎにいますほのいかづち)神社」 という神社で、
今は草ぶかい村の鎮守にすぎないが、延喜式の大社に列し、上代での社格はとびきり高く、
「 葛城にすわっていらっしゃる火の雷の神のやしろ 」 というとおり、雷神を祀る。
その神さまを祖神とするのは笛吹部で、その親玉が笛吹連である。
連は村の小高いあたりに第館をかまえ、氏族神をまつり、祭政一致で村を治めていたようである。
その跡を探して、遼太郎は笛吹の村の小高いところに上り、古墳と神社が同居しているところを訪れている。
この後の章 「 葛城の高丘 」 には、
五世紀の後半、大和の初瀬に住んだ雄略天皇の悪業が日本書紀に書かれている。
『 この帝は即位の前に皇位継承権を持つ兄たちを殺したが、ついでに先帝の重臣だった葛城円(かつらぎのつぶら)という者をも殺し、葛城氏をほろぼした。 』 とあるが、
『 この時、葛城の領地は雄略帝のものになり、大和盆地の勢力が葛城山を圧倒し、古代葛城王朝の末裔はここに絶えたとみていい。 』 と書いている。
この後と次の「一言主神社」の章は、雄略天皇に逆らった一言主神と土佐に流された話である。
釈日本紀二十八巻の 「雄略」 のくだりに、
「 時ニ神、天皇ト競ヒ、不遜ノ言アリ。
天皇大イニいかり、土左ニ移シ奉ル 」 とある。
遼太郎は、 「 一言主神が天皇の衣装をつけ、天皇の供ぞろえをしたことは明治憲法では不敬のきわみであるが、
葛城王朝の神である一言主神の感情よりすれば天孫民族こそあとから大和に来たものたちであり、
自分たちの方が古い。
しかも葛城円の死によって、その氏族神である自分を祀る者がなくなった。
そのうらみから、天皇の前で不埒な行動に出たものだが、
先住民族に天皇の対抗する力は残っていなかったため、
葛城王朝の遺民と一言主命は土佐に流された。 」
と同情している。
先だって高知市の東北一キロにある土佐一宮の土佐神社に訪れたが、
そこには一言主命が祀られていた。
また、その付近に葛木神社があり、大和葛城の神を祀っていた。
遼太郎は、 『 雄略という天皇が葛城の神を土佐に追放したかどうかはわからないにしても、葛城に先住していた神々が大和から追い出されてしまったことだけはたしかだろう。 』 と記している。
その後、三百年経ち、天平宝字八年(764)、この葛城の鴨族の巫人のひとり、高賀茂田守が奈良の朝廷に奏して、土佐から
一言主神を呼び戻すことに成功した。
神祠を建てたところは 「高丘」 という高台で、遼太郎は、 『 さまざまなことから類推してここがどうやら古代葛城王朝の宮殿の場所であったかと思われる。
なぜなら、伝説上の第二代目の天皇であるすいぜい帝の皇居がここにおかれたというし、
のち葛城氏後裔と称する蘇我蝦夷が、自分のはるかな祖先の祖廟をつくるとしてこの地を選定したからである。
その高丘は、いまの地名でいえば(御所市)森脇であり、くりかえすようだが、いまの一言主神社のある高台である。 』
と書いている。
また、 「一言主神社」の章では、
京都に残る賀茂川や下賀茂や上賀茂の地名を残す「鴨族」について触れている。
鴨族の出身で有名なのは、鴨長明と役小角で、特に役小角については詳しく書いている。
最後の「高鴨の地」の章の最後は、小生も訪れた高鴨神社である。
遼太郎は一言主神社から葛城のふもとを南にたどって高鴨神社を訪れている。
鴨族の祖神をまつるこの高鴨のやしろは古代鴨族の根拠地にあり、
葛城の段丘式水田の壮大な風景の森をなしている。
遼太郎は、 『 高鴨神社の森に入るとすぐ古色をおびた池があり、
葛城・金剛の山みずをここに溜めるというしくみであったことがひと目でわかる。
この森の池が鴨族の段丘田園をうるおし、その人口をやしない、さなにはこの水のほとりにその族神をまつって、水のまもりにしたのだろう。
この森をふくめた段丘の風景ばかりは、おそらく弥生のころから変わっていないようにおもえた。 」 と書き、葛城の旅を締めくくっている。
(ご参考) 葛 城 王 朝
葛城王朝とはなにかを知らなかったので、日本の歴史1井上光貞著(昭和40年発行中央公論社)を
再読してみた。
「 葛城氏が活躍したのは四世紀の後半、俗に古墳時代といわれる時代で、
卑弥呼の邪馬台国、そして、倭の大乱を経て、
国家が成立しようとしていた時期である。
三世紀の邪馬台国の方が大和政権の興起期であるこの時期よりはっきりして
いて、四世紀は謎の世紀といわれる。
空白の世紀とも呼ばれるが、この時代にはまだ文字もなく、政治的に流動期であった
ことから、いろいろな学説が乱れ飛ぶ訳である。
根拠とする研究の対象になるものは、当時の中国や韓国の歴史書と国内では日本書紀と古事記があるが、日本書紀と古事記が創られたのは西暦720年、712年と三百年以上の後のことである。
しかも、記紀(古事記と日本書紀)を編纂する際、参考にしたのが旧辞(古い伝承を集めたもの)と
帝記(稗田阿礼が暗誦していた天皇の系譜)であり、それらがどれだけ正確か疑問である。
天皇の誕生に関する記述としては、日本書紀と古事記では高天原という天上の国から、
日向の高千穂の峰に降臨したということなっている。
昭和二十三年、江上波夫氏が騎馬民族説 「 崇神天皇は任那(当時日本が支配していた韓国南部の国)からの征服者である 」 を発表して話題になった。
これに近いのが、古代満鮮史研究家三上次男氏の説で、 「 当時の朝鮮(扶余、高句麗、百済など)の支配者は狩猟民的な民族であった。
そればかりではなく、日本国家を成立させた主体も、そのような民族と見てよいだろう。 」
というものである。
天皇家の始祖はだれなのか、外来人の末裔か否かについて結論はでていないようである。
「 記紀に記されている天皇の系図に疑問がある。 応神王朝以前の天皇は架空の人物であり、応神天皇が実在の初代であろう。 」 と説く学者がいる。
中国南朝の史書に五人の倭王が遣使したことが書かれているが、天皇の名は讃、珍、済、興、武と、中国風に一字で現わしていて、五人がどの天皇なのか分かっていない。
武は応神王朝(西暦400年頃)の雄略天皇であるというのは定説になっているが、それ以前の天皇には色々な説がある。
とはいえ、応神王朝時代の天皇であることは間違いないようだ。
応神天皇は北九州の豪族(邪馬台国と対峙した狗奴国王の末裔)というのが水野学説であるが、著者の井上氏は応神天皇は外来系の人であったと推論されている。
はっきりしたことはわからないが、応神天皇の時代には北九州から大和にのぼってきて、大和朝廷の王位を奪ったというのは正しそうに気がする。
この時代、畿内勢力を屈服させて誕生した応神王朝を補佐したのが葛城氏である。
その活躍振りは日本書紀神功皇后紀
六十二年(382)に、 「 新羅がそむいたので、(葛城)襲津彦をつかわして撃たせた。 」 とある。
葛城襲津彦の娘は、応神天皇の子の仁徳天皇と結婚し、三人の天皇を生み、その後も政略結婚により、葛城氏は天皇の外戚として権力を振った。
このころ栄えていた氏族に応神王朝成立に功労のあった和珥氏がある。
和珥氏の一族は後宮に入ったものが多く、二世紀に亘って繁栄し、氏族は春日、粟田、小野の諸氏に分岐して行った。
初期の大和朝廷(応神王朝)は、天皇家を中心とする畿内周辺の諸氏族の連合体であったことは明かであるが、
海外遠征の
将軍として武勇に秀でた葛城氏と応神王朝成立に功労のあった内政の和珥氏が中核を占めていたことは間違いないだろう。
岸俊夫氏は、 「 葛城氏は大和西南部の葛城地方、和珥氏は大和東北部(旧大和国添上郡和邇、現天理市和爾町、櫟本町付近) に根拠をもっていたことから、
崇神王朝の根拠地は奈良盆地東部の佐紀古墳群の地にあったと思われる。 」
としている。
いずれにしても、今から千六百年前の西暦400年の古墳時代に、この地を舞台に活躍した人達の歴史が葛城古道を彩っていることは間違いない。
追記: 吉 備 王 国 について
古代の天皇家を支えた豪族に葛城氏や和珥氏などの大和や和泉の勢力があったわけだが、
出雲勢力に対抗するため、協力していたのが岡山県の吉備氏であった、といわれる。
歴史に興味のあった司馬遼太郎も、 『 歴史を紀行する 』 の中で、
桃太郎の末裔たちの国よりとして、
「 吉備という語感がたまらなく好きである。 上古 岡山県は吉備国といった。
のち、備前、備中、備後それに美作をくわえて四カ国にわかれたが、
吉備といわれていたむかしは、出雲が大和朝廷に対する隠然たる一敵国であったように、
吉備国もまた一個の王朝のすがたをとっていたに違いなかった。
鉄器が豊富であった。
中国山脈で砂鉄を産したがために、武器、農具が多くつくられ、兵はつよく、
土地ははやくからひらかれ、
出雲とならんで、いわゆる出雲民族の二大根拠地であり、その富強をもって大和に対抗していた。 」 と記している。
本当に吉備王国は存在したのだろうか??
日本最初の歴史書の「記紀」には、雄略天皇の時代に吉備氏に反乱の動きがあったので、
討たせたという記述、簡単な記述があるだけである。
明治から昭和二十年までは天皇支配の国家維持のため、我が国の生い立ちについて、
深く掘り下げることが難しかった。
最近になり、奈良をはじめ各地の古墳の発掘が行われ、
古代に関する新たな事実が見つかるようになってきた。
吉備王国の根拠とされるのが、
岡山市周辺にある造山古墳や作山古墳などの古墳群の存在である。
造山古墳(つくりやまこふん)は前方後円墳で、大きさは全国で四番目といい、
天皇陵に匹敵する大きである。
更に、つくられた時期が仁徳陵、応神陵、履中陵の3つよりも古い時代という可能性が高いことが、
最近の研究によりわかってきた。
これだけのものをつくれるのはかなりの勢力がないと無理であることから、
古代にここに大きな勢力があったことが間違いないとされる。
経済の基盤は中国山地に産する鉄で、鉄製農具により農業の生産性を高め、富を蓄えた。
また、鉄製武器の生産により軍事力も高めた。
大和王朝が鉄に関心があったのは日本武尊の東征で分かる。
武尊は金属に関係するところにでかけているので、吉備国の存在は気になる。
大和王朝は出雲王国に対抗する意味で格好の相手であったことは間違いない。
また、吉備王にとっても、考え同じだったはずで、両者は同盟できた。
古事記や日本書紀に、景行天皇、ヤマトタケル、応神天皇、仁徳天皇、
雄略天皇などが、吉備の女と婚姻関係にあることが記されているので、
この時代には両者の関係は良好であったことは間違いない。
葛城王朝側からみれば、鉄資源の確保はもちろん、吉備の女性を人質にすることで、
吉備王国の動きを封じ、葛城王朝の支配下に置こうという狙いがあった。
葛城王朝から大和朝廷として国家確立の段階になると、
吉備王国が大和朝廷を陵駕するほどの勢力をもっているのは危険である。
特に、天皇を支える大和の豪族側から見ると、
吉備氏一族の女性が入ってくることにも警戒があっただろう。
大和政権は吉備氏の勢力を殺ぐことに力を入れた。
その一つが、日本書紀にある雄略七年(463)の前津屋の反乱である。
吉備弓削部虚空という人物により、吉備国主吉備下道臣前津屋に謀反の企てがあると訴えられて、
前津屋とその一族70人を殺してしまった、という事件である。
それに対し、吉備勢力は新羅と手を組んで、大和政権を牽制しようという動きがあったようで、
それと関係するのが、雄略天皇が稚媛を吉備田狭から奪ったことでおきた田狭の反乱である。
この事件は歴史的にはどの程度事実かについて疑問視されているが、
当時の朝鮮は新羅、高句麗などに分割され、互いに
争っていた時代なので、
吉備王朝(吉備連合体)としては大和に対抗するため、そうした動きがあったことは予想できる。
吉備王朝と大和朝廷との争いには葛城氏も吉備氏の女性との婚姻を通じて巻き込まれていく。
大和朝廷は吉備国の勢力を裂くため、国を三分割し、備前、備中、備後とした。
これ等のことを通し、吉備勢力は力をなくしていった、といわれる。
昔話の桃太郎は吉備と大和の対立の話といわれる。
きび団子を持った正義の味方、桃太郎は大和政権、悪役の鬼は吉備王国である。
地元の岡山県に残る「温羅伝説」によると、
吉備王国は温羅(うら)という人物に擬人化され、人民を困らせたために、
朝廷に討たれたことになっている。
温羅の首が埋まられているのが吉備津神社。 温羅が住んだというのが鬼ノ城である。
しかし、実際には温羅は大陸から文化を伝えた渡来人で、
この地の先進的な指導者であったと思われる。
時の権力者が地方の新興勢力を抑えたのを正当化するのに鬼を使うのは、
小生が歩いた中山道に残る逸話にも多かった。
岡山の桃太郎もその一つにすぎないのだ。
歴史書は時の権力により変るというのはままあることだが、
幻の吉備王国についての今後の研究が待たれる。
(訪 問) 平成18年(2006)8 月
(文作成) 平成18年 10月
(吉備王国 追加)平成19年(2007) 2 月