葛城古道は、当麻を起点として、葛城山の東麓を、
二上山・葛城山・金剛山と、南下する古代の道である。
葛城は、日本書紀に 「 神武天皇が、高尾張邑(たかおわけむら)に来て、
土蜘蛛(つちくも)、即ち、手足が長く身長が短い土着の民と戦かったとき、
皇軍が、葛の綱を結い、網にして勝利したことから、地名を葛城と改めた。 」
とあるところである。
平成十八年八月二十五日、葛城古道を歩く。
葛城の南端にある葛城の道 歴史文化館が今日の出発点である (右写真)
古代から葛城と呼ばれた地域は、現在の大和高田市・御所市・香芝市、
及び北葛城郡にあたる広い土地で、大和六郡の一つと伝えられる。
大和朝廷の時代には、豪族の葛城氏・巨勢氏・鴨氏が住み、
仏教を基にした文化を築いたところである。
入った歴史文化館にはこれといった歴史的な展示物はなかったが、駐車場とトイレがあるので、
歩くものにとって、利用価値はある。
隣の高鴨神社 (高嶋神社ではない) に行く。
赤い鳥居をくぐり、放生池を左に見ながら石段を登ると、
室町時代、天文十二年(1543)に建立された極彩色の彫刻を施された三間社流造りの本殿があった。
高鴨神社は、ここを拠点とした鴨氏が弥生時代から崇敬した神社といわれる古社で、
延喜式では名神大社に列し、本殿は国の重要文化財に指定されている。
鴨族は全国各地で開拓移住し、農耕を広めたといわれる一族で、
全国に残る加茂という地名はかれらが伝え、京都の下賀茂神社、
上賀茂神社を始めとする多くの賀茂社を祀ったといい、
賀茂神社の総社といわれるものである。
春には五百種、二千株を越えるサクラ草が見られると神社の巫女の説明があった。
高鴨神社を出て、地元の車だけが走る道を歩き、高天彦(たかまひこ)神社に、向かう。
途中に近畿自然歩道の案内があり、その向こうに金剛山の山並みが見えた (右写真)
道はやや上り坂。
やがて、左折の道案内があり、曲がるとこれまでより坂は急になった。
左側に明治か江戸後期に建てたと思われる漆喰塗りの民家があった。
同行の地元案内人の説明では左側の田圃の下に古墳があるという。
発掘調査の後埋めて元の田に戻されたというが、
稲穂が見えるだけでそうしたものがあることは想像できない。
県道山麓線に出てすぐ、案内板により、脇道に入り、急な坂を上る (右写真)
振り返ると大和三山(畝傍、耳成、天の香具山)が一望できた。
鬱蒼とした林の中に入る (右写真)
枝斬りをし、整備された樹木は整然と並び美しかった。
相変わらず登り道である。 右側が立ち入り禁止になっているところにでた。
日本神話に登場する、天孫降臨の高天原であると、地元の人に信じられてきたところである。
林を抜けると空がぽっかりと上に見え、右側の露地では菊の栽培が行われていた。
「鶯宿梅(おうしゅくうめ)」 と書いた立て札があり、梅の木がある。
『 昔、若死にした小僧の悲運をその師匠が嘆いていると、梅の木にうぐいすが来て、
「 初春の あした毎には 来れども あはでかへる もとのすみかに 」 と、
鳴いたことから、「鶯宿梅」 と名付けられたといわれる梅の木であるが、何代目であろうか??
その先に樹齢数百年の杉の老木が数本道の両側に高く聳えていた (右写真)
手前に、お百度石があり、石燈籠があるのは高天彦(たかまひこ)神社の参道である。
参道に神武天皇が葛網で土蜘蛛族を捕らえたという蜘蛛族の窟がある筈だが、どこにあるのか確認できないまま高天彦神社に到着。
大きな鳥居をくぐると、左側に休憩できるところがあり、正面の鳥居の先の石段を上ると、
瓦葺の社殿があった (右写真)
高天彦神社は葛城氏の祖神(高皇産霊神(たかみむすびのみこと)を祀り、
延喜式で最高の社格である名神大社に列せられた神社である。
高皇産霊神は、天地開闢の時、天御中主神の次に、
神皇産霊神と共に高天原に出現したと、古事記に書かれている神様である。
葛城族は武勇に優れ、大和朝廷に先行する五世紀に葛城王朝を築き、
亡びた後も平群(へぐり)、巨勢、蘇我氏が豪族として栄えた。
この神社には本殿はない。 というのは神社の背後の円錐形の白雲の峰が御神体であるため、
社殿は遥拝所にあたるからである (右写真)
社殿は小さく、簡素でそれほど古いものではない。 案内人の話では火災に遭い建替えられたものでそれ程古いものではないということだった。
境内の狛犬に蔦で編んだ紐が掛けられていた(右写真)
昼飯はここでとった。 8月の暑さも遮る涼しいところであった。
金剛山は古来、葛城山とか、高天山と呼ばれていたが、
役行者が金剛山寺を創建してから、金剛山となった、といわれる。
この山系には鉄鉱石が埋蔵されていたようで、この付近は風がよく吹き、
鉄の精錬が行うのに適していたという。
葛城王朝の誕生もそれと関係があっただろうし、
鴨族が全国進出が果たせたのも、農機具に鉄が使われるようになったことと、関係があるだろう。
金属資源があるところはイオンがその地を冷やし、オゾンを多く発生させるといい、
この地も森厳(しんげん)な森を形成してきた。
今日の涼しさもこれと関係があるのだろうか??
神社を後にして道を下ると、左側に駐車場のような広場があった (右写真)
行基は開創した高天寺があったが、南北朝時代に焼き討ちに遭い、焼けてしまった。
前述の鶯宿梅の小僧はこの寺の修行僧であったのである。
右側に、「史跡高天原」 と刻まれた石碑が建っていた。
神話では 「 天照大神の御子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に、
高皇産霊神(たかみむすびのみことの娘 ・ 栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)が,
嫁がれ、
太古から神々の住み給うところと信じられてきた 「 高天原 」 は。
高天彦神社の御祭神の鎮まるこの葛城台地だったと主張する。
トイレ休憩を済ませ、道を下っていくと、田圃の先に、宝宥山高天寺橋本院があった(右写真)
寺の縁起によれば、 「 高天寺の末寺で、高天寺が南北朝時代の焼き討ちにあった後、
残った本尊の十一面観世音菩薩立像などを移した。
すぐ傍の池に橋があったことから、現在の橋本院
という名になった。 」 とあり、最初は奈良の興福寺に属していたが、
後に弘法大師の真言宗に改宗した。
本堂も弘法大師堂もそれほど大きなものではないが、
ご本尊の木造の十一面観世音菩薩立像は、高さが5メートル四十センチと大きかった。
み仏に合掌。
境内は広く、静寂に包まれ、瞑想の庭というようなたたずまいである。
一角に置かれた水盤に植えられた蓮が見ごろをむかえてきれいであった (右写真)
広々とした空間には椿としだれ桜などが植栽されているので、春の訪問もよいのではと思えた。
境内を抜け、再度林の中に入り、川に架かった橋を渡り、更に下っていく。
先程上ってきた高天原の反対側を下っていく感じである。
少し歩くと、田圃が続くところに出た。 奈良盆地が一望できる展望である。
県道山麓線に出て、少し下ると左側に入る道があった。
極楽寺参道の石柱の先にはお城を思わせるような極楽寺の塀が見えた。
真夏の日差しを浴びて歩いているので、短い登りがけっこうこたえた。
上りきったところは高台で、吉野や大峯山から名張方面までの山塊が見え、
その手前に橿原市や桜井市の市街地が広がっていた。
寺の入口は、鎌倉時代に作られたという、鐘楼門になっている (右写真)
極楽寺は、 仏頭山法眼院極楽寺が正式名で、浄土宗知恩院派に属する。
天暦五年(951)、興福寺の一和(いちわ)僧都が開いたと伝えられ、鎌倉後期の林阿上人に
よって中興された。
慶長十九年(1614)、兵火を被り、本尊の仏頭をはじめ諸堂や古文書等を焼失したが、
寺宝の天得如来像図と鐘楼門は難を逃れた。
そこを通ると正面に入母屋造り本瓦葺きの本堂があった (右写真ー左側が本堂)
本尊は阿弥陀如来、阿弥陀堂には天得如来像図が祀られている。
天得如来像図には、 「 約七百年前、金剛山で鹿を見つけ、矢を放とうとした武士のところに行者が現れ、生命の大切さ、仏の教えの尊さを教え、如来の姿を描いた一巻の巻物を与えて姿を消した。 」という説話が残っているようである。 極楽寺の敷地は広く、
枯山水の庭園、後方には大きな墓地が広がっていた。 暑いこともあってここでしばしの休憩をとり、水の補給後、先程の県道山麓線まで戻り、歩き始めた。
金剛山が左に寄り、葛城山が大きく見えるようになった (右写真)
両山の間が水越峠でその先は大阪府という説明を受けた。 ここは和歌山県、大阪府と奈良県の境にあることも知った。
その先を少し行くとJAの直売所があったが、自動販売機も
あり、立ち寄るには好都合。 駐車場も十分である。
葛城古道で感心するのは道しるべとトイレが多くあること。
観光に力を入れているといえばそれまでだが、これだけ充実しているところはそれ程ない。
そんなことを思いながら歩いている内、右側の細い道に入るところにきた。
道路脇に道案内があるので問題なかったが、左から右に横断しなければならないので、車に気をつけながら渡った。
道は農道のような道だが、古い常夜燈があるところを見ると古い道なのだろう (右写真)
この先は下り坂なのでとんどん歩く。 途中に、住吉神社・高木神社・春日神社がある。
住吉神社と高木神社の間は十分ほどなのに三つも神社があるのは集落にそれだけ歴史があるということだろう。
なお、住吉神社は白鳳年間(7世紀後半)に大阪の住吉大社より分霊をお祀りしたという由緒ある古社である。
この集落には漆喰塗りの家屋もあるが、屋敷門がある家が続く (右写真)
道は左右にカーブしながら下っていたが、葛上中学校を過ぎると、道も平らになった。
古い民家が残る通りである。
今回の旅の目的は名柄の古い家を見るのも、大きな目的である。
左右をきょろきょろしながらゆっくり進む (右写真)
漆喰壁の家があると思うと茅葺きであったと思われるトタン屋根の家もある。
太神宮の刻まれた常夜燈は伊勢神宮へのものだろう。
その先の小さな社(やしろ)には不相応の石造り常夜燈があったが、これらは集落が豊かであったことを示す証拠ではないだろうか?
左側によく見ないと気が付かない煙突のある家があったが、葛城酒造さんという造り酒屋である。
葛城は良質の伏流水が流れていることから、奈良県の中でも造り酒屋が多いところのようだった (右写真)
これまで全国を旅して各地の酒を飲んだが、滋賀、京都、大阪、兵庫の酒は飲んだが、奈良と和歌山の酒は飲んだことはない。
灘と伏見の酒が有名すぎて、その他の酒には目がいか
ないのではないか? 交叉点の向こうにあるのが御所市内で最も古い中村邸である。
江戸初期の家の造りを今に伝える建物は、国の重要文化財に指定されている (右写真)
吐田城主、吐田越前守の子孫である中村正勝が慶長期(1596〜1615)に建てたものらしい。
古い時代の手押し消火器具が軒下にぶらさげられてあった。
屋敷の中を見学できないのは残念だった。
中村邸の前の家も黒い漆喰壁で古く年輪を重ねていると思える家だった。
左側には最近修復したと思える家があり、露地を越えた先に木造の古く朽ち始めた建物が目に入った。
いつ建てられた分からないが、旧名柄郵便局である (右写真)
突き当たりは龍正寺という寺院である。
ここは変則の交叉点で、左右の道は水越街道で、直進するのが葛城道である。
少し行った突き当たりを左折すると、一言主神社があり、綏靖天皇の高丘宮跡を経て、櫛羅に至る。
今回の旅は旅行社の主催だが、フリーハイクなので、自分のペースで歩けた。 残りはわずか。
交叉点を左折し、少し歩くと県指定文化財になっている長柄神社があった (右写真)
案内人から、 『 延喜式神名帳に記されている古社で、祭神は下照姫で姫の宮と称する。
本殿は一間春日造、桧皮葺、丹塗りの建物で、細部に禅字様の手法が見れられ、室町中期頃と推定される。
日本書紀の天武天皇天武九年九月九日の項に、 「 朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を名柄杜に看す 」 と記され、
流鏑馬(やぶさめ)をご覧になったことが記され
ている。 手水屋は朝原寺から移したもの。 」 、 という説明があった。
今日の旅はこれで終えた。 この後、ハイクの汗を流すため、「かもきみの湯」に向かった。
それにしても、葛城は名古屋からは遠いですなあ!!
(訪 問) 平成十八年(2006)八 月二十五日