朝鮮通信使の来日は文化面に多大な影響を与えた。
絵画や歌舞伎の題材にも取り上げられるなど、先進的な大陸文化を吸収するチャンスになった。
英一蝶が描いた 「 朝鮮通信使小童図 」 や紀州藩に伝わる 「 朝鮮通信使御楼船図屏風 」 が有名であるが
日本の各地に通信使の行列を模写した行列絵巻が残っている。
また、象の来日の際は、それを見ようと近隣の人々が集まり、
また、川や峠越えで色々なエピソードを残している。
@野洲追分〜願成就寺(近江八幡市) | A 願成就寺〜音羽町常夜燈(近江八幡市) | B 音羽町常夜燈〜JR安土駅 |
C JR安土駅から八幡橋(旧能登川町) | D 八幡橋から芹橋(彦根市) | E 芹橋から中山道の鳥居本宿 |
八幡橋から犬上橋
八幡橋を渡りきると道は下り坂になる。
少し行くと上稲葉交差点があるが、この交叉点は左に旧道が、僅かに残っていて、
県道の直進する道と、交叉点そ越えた先で合流形になっている。
交叉点の左側は下稲葉町で、旧道の右側に民家がある (左下写真)
これまで家並が続いていたが、これから先の道の両脇は水を張った田圃が続く (左中写真)
民家はほとんどなく、あっても点在している。
彦富交叉点まで約七百五十メートル。
朝鮮人街道は、彦富町交叉点で、県道20号を越えて進む。
右折するとその先にJR稲枝駅がある。
金田町交叉点を過ぎると、歩道は右側に変わった。
金田町交叉点から稲部町交叉点まで八百メートル。
稲部町交叉点の左側には、妻入りの建物が数軒があり、
蔵をもつ家もあった (右中写真)
彦根市に入って始めての道路脇の集落だった。
県道2号の標識の下に 「 彦根市稲里町 」 の表示板がある。
左の田圃の向こうに見える集落が稲里集落で、その先に見える山は荒神山だろう (右下写真)
しばらく歩くと、稲里町交叉点、その下に 「 ←稲里 下岡部 金沢→ 」 の道標がある。
歩道は今度は左側に変わった。
少し進むと、左に入る三叉路のところの道路標識に 「 ← 荒神山1.0km 」 とあった。
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正面に白いタンクがある大きな山が接近すると、県道は右に大きくカーブしていく。 (左下写真)
稲部町交叉点からここまで約二キロの距離だった。
朝鮮人街道は、ここで県道と別れて直進し、
正面に山崎山がある山崎集落に入って行く
集落に入り、三叉路を直進すると、突き当たりに、寺院があった。
茅葺き屋根の黄檗宗長世山国昌寺である(左中写真)
その先には白い蔵がある民家、その先に浄土真宗本願寺派の馬背山仏性寺がある。
手前の道を左折すると、先程直進する手前の道に出たので、
右折して山崎集落の中を歩く。
二百メートル程歩き、三叉路を右折して少しいくと左側の三叉路の角に正面に 「 従是荒神道八丁 」、左脇に 「 奥山寺 」 と刻まれた道標が建っていた (右中写真)
「 奈良時代、行基が荒神山の山頂に奥山寺を開創したが、 明治の神仏分離令により奥山寺は廃寺となり、荒神山神社として残った。
神社まで距離があるので、行くのはやめた。
道は右にカーブし、山崎山の麓を右回りに巻くようにして進むが、通りには近江地方独特の煙出しの家が残っている (右下写真)
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その先の左側に、真宗大谷派の浄宗寺があるが、ここが浄宗寺集落の終りである (左下写真)
亜鉛鉄板屋根の家で左折すると、交叉点の先からは左右は田や畑に緑地がある風景に変わった。
五百メートル歩くと三叉路の左側に 「 従是荒神道 八町 」 「 寛政六戌壬歳三月 」 の大きな石柱が建っていた (左中写真)
その道に入っていくと、「荒神山神社」 という額がある鳥居がある。
その奥に、荒神山神社の遥拝所があった (右中写真)
「
遥拝所の建物は、彦根市の天寧寺にあった、井伊家祖霊社の社殿を、
昭和三十年代に移築したものである。
奥には 「 荒神山神社本坂 」 の石碑があり、本坂道が続いていた。
本坂道は本来の参拝する山道である。
現在は、南北から自動車で、荒神山神社まで上れる。 」
街道に戻ると、その先に天満天神宮がある (右下写真)
「神社の由緒を書いた石碑の文面」
「 伝来記録は不詳なれども、安永年間に近郷の総社にして、
旧彦根藩の信仰篤く、寛文九年拝殿鳥居を建立し、近郷の氏神となった。
明治四十一年には神社統合令に基づき、近郷の神社が廃止され、
この神社に合祀されている。 」
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朝鮮人街道は荒神山の東麓を左に回り込むように進むが、その先で宇曽川の堤防に出た。
三叉路を左折して、堤防脇の道を歩き、天満橋にでると、
左側に小さな集落がある。
集落の入口の山際に、
「 左 八まん道 」 「 右 千手寺 」 と書かれた道標が建っている (左下写真)
千手寺は荒神山の麓にある寺で、八まんは、朝鮮人街道を示す。
千手寺は右方という矢印の看板もあったので、それに従い、
宇曽川の右へ色付きの道を行くと左側に墓地がある。
その手前に、林道日夏山線があり、
「 ←山頂荒神山神社 ここから2.6K 車で7分 」 の看板があった。
千手寺は、ここから一キロ程上らなければならないようなので、あきらめた。
宇曽川に架かる天満橋を渡ると、その先には須越川に架かる横川橋があった (左中写真)
朝鮮人街道はこの橋を渡り、三叉路で県道2号線に入り、左折して進む。
日夏町中沢交差点で、県道は右折するが、蝶さん神街道は
そのまま直進して久々集落を歩く (右中写真)
このあたりは道が広かったが、途中で道が狭くなったが、歩道がない。
この道は、県道2号線が平行しているのと、甘呂町東交差点の先で、
県道にまっすぐ入れるので、県道に入らずこの道を抜けていく車がほとんどで、
これではバイパスを作った意味はない。
そのこうしていると、狭い交叉点に出た (右下写真)
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ここでは直進ではなく、水路に沿って右斜めに進み、その先で再び、北に向かって進む。
道の右側に 「 ここは日夏町泉です 」 の看板があり、
その隣に、「朝鮮人街道」 の碑があった (左下写真)
この通りには古い家が多く残っていた。
そこから七百メートル程行くと甘呂町東交差点に出た (左中写真)
朝鮮人街道は、甘呂町東交差点の次の交叉点を右折する。
「 直進する道は県道2号線で、
江戸時代には巡礼街道と呼ばれた道である。
彦根城が築かれる以前にあった観音霊場の彦根寺への道である。
白河上皇らが寛治三年(1089)に参詣したことことから、 御幸道 とも呼ばれた。
なお、甘呂町東交差点の手前に、湧水のモニュメントがあり、赤い鳥居を建てられ、「 西国三十二番札所 観音正寺御用達ノ天然湧水 」 が地下から汲み上げられている。 」
朝鮮人街道は、、県道2号線と別れて、東に進むが、 交叉点を過ぎたあたりは田植えが終えた田が広がっていた。
時計を見ると、十三時半を過ぎていたので、
空き倉庫の前で、コンビニで買ってきたおにぎりを食べた。
今回の旅は、県道を歩くのが多いので、食事には困らないだろうと思っていたが、能登川駅周辺を除き、県道にはコンビニしかなかったので、
途中であわてて購入したものである。
食事をして、蓮台寺町交叉点まできた (右中写真)
交叉点の右側に彦根名物ちゃんぽんの店があった。
その先には喫茶店や中華の店など、
次の堀町交差点までに、食事ができる店が多くあった。
食べたばっかりだったので、残念であるが、寄るのは断念して先に進む。
堀町交差点を左折し、県道206号に入るる。
田舎道という雰囲気がする道である。
民家があるところを過ぎると、両側は田圃で、
用水を越すと、森の繁った上り坂になった。
上って行くと、右側に 「 白山神社御旅所 」 の石碑があった (右下写真)
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犬上橋から芹橋
坂を上り切ると犬上川があった。
川に架かる犬上橋から下を見ると、白くしぶきを上げていた部分があったので、
そこは急流になっているのだと思った。
橋を渡ると宇尾町になり、道は下り坂になっていた (左下写真)
道の左側に白山神社があったので中に入っていく。
社殿などは新しいようだが、社殿の前の紅白のつつじの花が見ごろを迎えてきれいだった。
街道に戻り歩いていくと、西今町に入った。
古い街道の情緒が残るところだった (左中写真)
時計を見ると十四時二十分、少しゆっくりし過ぎたかなとペースをあげたら、
西今町交叉点まできた。
右折すると一キロで南彦根駅に行けるところで、
このあたりは駅にも近いので開発が進んでいるように思えた。
手元のメモを見ると、十王村の水を飛ばして来ていることが分かった。
あわてて引き返すと、茅葺にトタンで覆った屋根の家の前に、
「 妙厳寺← 」 の看板があったので、小路に入っていった。
浄土真宗本願寺派の寺で、建物は新しかった。
小路で遊んでいた三人の小学生に、
「 きれいな水が出ているところは知らない? 」 と聴くと、
三人は異句同音に答えて、走りだした。
小生はどしよりなので、ゆっくり跡を追いかけると、西今町南交差点の角に、
玉垣が設けられ、その下に水が流れ出ているではないか!! (右中写真)
少女達にお礼をいうと、その一人は前の家を指さして、 「 ここはおばちゃんの家だから、知っていた。 」 と云いながら、去っていった。
変な爺さんが聞いたのに、警戒しないで教えてくれたことは、よかったと思った。
先程ここを通ったが、交叉点の右側の建物の影に隠れて、気が付かず通り過ぎてしまったものである。
池の中には母乳地蔵尊が建ち、その傍の竹筒から、清水が滾々と湧き出ていた (右下写真)
「 この水は十王村の水と呼ばれ、五個荘の清水ケ鼻の水、
醒井の水とともに湖東三名水の一つである。
また、全国名水百選にも選ばれている。
喉が渇いていたので、がぷりがぶり飲んだが、これがこの後祟った。 」
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再び、西今町交叉点まで戻り、その先で右の狭い道に入っていく。
右側の城南小学校の前に、「福満遺跡」 の石碑が建っていた(左下写真)
「 ここは大正七年四月に縄文時代晩期と考えられる遺跡が発掘されたところである。
この一帯は、旧福満村と旧竹ケ鼻村で、南彦根駅の開設に伴い、
地域開発と平行して、遺跡の発掘調査が行われたという。
それにより、福満遺跡の集落跡や、
駅周辺の平安初期の竹ケ鼻廃寺遺跡の居住跡などから、
古式土師器や須恵器、子持勾玉などが発見されたのである。 」
道は小学校の先で突き当たってしまった。
左折して県道に戻り、右折すると、小泉交叉点に出た。
すると、突然腹が痛くなったので、
目の前の丸善スパーチェーンのトイレに駆け込んだ。
先程大量に水を飲んだことが腸を刺激したようで、
しばらくの間、トイレに閉じ込められることになった。
お腹の調子が落ち着いたのを確認して、旅を再開。
平田町東交叉点までくると、織田信長に激しく抵抗した明照寺に寄るのを忘れていたことに気が付いた。
また、小泉交叉点の近くに引き返した。
交叉点の一つ手前だったか?、右側の三叉路に 「 本派別格別院 明照寺 」 の標石があった (左中写真)
ここから明照寺までは思ったより、距離があった。
八百メートル程歩くと正面に明照寺の山門がある (右中写真)
その前の右側に、 「 芭蕉翁笠塚李由句碑 」 の石碑と、句碑が建っている。
句碑には、 「 百歳(ももとせ)の 気色(けしき)を庭の 落葉かな 」 という句が刻まれている。
「 明照寺十四代目住職の李由は、芭蕉一門と親交があった。
芭蕉は、元禄四年(1671)十月に、寺に訪れ、李由が庭に植えた梅を詠んだ。
笠塚の由来であるが、芭蕉の没後、形見分けで芭蕉が使用していた笠をもらい、
笠を埋めて塚を築いた、というものである。 」
山門をくぐると、立派な最近建てた建物があった (右下写真)
「
明照寺は、明徳四年(1393)に、旧多賀村後谷に創建された浄土真宗本願寺派の寺である。
戦国時代に入り、浅野長政が織田信長に対抗するため、近江一揆を企て、諸寺に檄文を発した。
明照寺住職の了縁は、石寺町に城をつくり、大砲で沖を通る信長の船を攻撃、
それに怒った信長は、羽柴秀吉に命じて、石寺城を攻撃させて、滅ぼした。
天正元年(1572)、明照寺は焼き打ちにあい、寺院は焼失した。
慶長四年(1598)に現在地に移転し、元禄十四年(1701)に、
立派な本堂等を再建した。
昭和五十八年の失火で、門の一部を残して焼失。
その後、檀家の協力で、建物を再建した。
前述の笠塚も最近ここに移転したように思われた。 」
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街道に戻り、右側の歩道を歩いていく。
雨壺山交叉点では、斜め右に向かう道を横断すると、右側の道は千鳥ケ丘公園への道である。
この道も横断すると山側に 「 千鳥ケ丘公園 」 の表示があり、つつじの花が咲いていて美しい。
朝鮮人街道は、山の端を左に廻わり、右に廻ると 道の反対に 「 芹橋雨壺山通 」 の道路標識があり、平田バス停があった。
右側に平田公民館かあり、隣の高台に、延文年間(1356〜1360) 創建の
鳴宮天満宮がある (左下写真)
石段のところに、平田町の歴史がかなり詳しく綴られている。
「 小字の名が、大化の改新の班田制による区画割であることから、
当地は古くから、耕地帯として開かれたところである。
室町時代、湖北軍と湖東軍の合戦が行われ、平田和泉守の館があったが、
信長により亡ぼされた。
江戸時代には、井伊藩の火薬製造所、藩士の下屋敷があり、
儒学者若林強斎がでている。
慶長4年(1599)に、山の脇から明照寺が移って来て、松尾芭蕉が訪れている。
明治5年(1872)に平田村となり、同5年学校が今の教導寺に開校された。
明治22年(1889)に福満村平田となり、・・・・(以下省略) 」
和田町バス停を過ぎ、彦根びわこホテル前を通り、
橋向町交叉点の一つ手前の右の三叉路を覗くと、鳥居が見えた。
狭い道を歩いて行くと、彦根神社があった。
彦根神社の生い立ちははっきりしないが、現在境内社になっている岡神社は、
延喜式神名帳に 「 近江国 坂田郡鎮座 岡神社 」 となっているのと同じであろう (左中写真)
「彦根神社の歴史」
「 昔、大洪水があり、多賀より御神体が流されてきたのでこれを祀り、
川流れの明神あるいは田中の明神と呼んだ。
田中神社あるいは岡神社と呼ばれていた。
現在の彦根神社は、天照大神の第四王子の活津彦根命が彦根山に降った、
という言い伝えがあり、
彦根城のある彦根山に祀られていた彦根神社が前身であり、
彦根の地名の由来も、祭神の活津彦根命によるとされる。
慶長十一年、彦根藩・井伊直継は、彦根城を完成させて入城したが、
高崎藩に移動になり、弟がその跡を継いて第二代目の藩主になっている。
この時、彦根神社がどうになったのかははっきりしないが、
城内神としてそのまま祀られたのだろうと思う。
その後、彦根藩は第八代目・井伊直惟の治世の享保十九年(1734)に、
城下に近いこの地(後三条町)の田中神社に、彦根の地名由来神の活津彦根命を勧請し、
田中神社の社号を彦根神社と改めたといわれる。
現在の祭神は、素盞鳴命と活津日子根神であるが、田中神社の祭神が素盞鳴命だったと思われるので、活津日子根神により母屋を奪われた感じかも知れない。
それ以来、彦根神社は、彦根藩の庇護を受け、また、彦根城下の総社となったが、明治時代に入ると、江戸幕府の要職にいた藩の神社だけに、影を薄くしていったのではないか?
今では知る人のみが知るという地元の鎮守になっていた。 」
彦根神社の脇の道を左に行くと、長久寺がある (右中写真)
「
長久寺は、長久二年(1041)、勅願により創建された寺院である。
後三条天皇の援助を受け、また、真言密教の道場として栄えた。
最盛期には、湖東三山や比叡山延暦寺と同等の勢力を誇り、彦根市の半分は寺領だったという。
戦国時代に入ると、永平七年(1501)の六角・京極氏の戦いによる、火災、
元亀二年(1571)の織田信長による焼き打ちにより、
建物のほとんどは焼失し、寺勢は衰退した。
江戸時代に入り、井伊家が彦根藩を作ると、その庇護を受けて、
彦根城下鎮護の祈願寺として再興を果たした。
諸堂は雨壷山の西側の斜面を利用して建てられていて、
本堂の観音堂は、寛永六年(1629)に、彦根藩家老・庵原主税助朝真により、
建てられたもので、本尊は千手観音立像である。
入母屋造、銅板葺、元茅葺び、桁行は三間、梁間三間に向拝一間が付くもので、
滋賀県の指定文化財になっている。
また、高欄の擬宝珠には寛永六年(1628)の銘がある。 」
橋向町交叉点に出て、カラーで舗装されている歩道を歩く。
左側に、蛭子神社がある。
そこから百メートル行くと、芹川に架かる芹橋に到着 (右下写真)
ここまでくると彦根城下はすぐである。
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