朝鮮人街道  


朝鮮通信使の一行は京都を出発すると、最初の宿泊地は守山だった。  そして、翌日の昼食を近江八幡で取った。 
多い時は五百人を越える大きな集団だったので、 これを迎え入れる側は大変だっただろうと思われる。 
近江八幡では、本願寺八幡別院や正栄寺などの寺院がその接待場所に選ばれた。 


@野洲追分〜願成就寺(近江八幡市) A 願成就寺〜音羽町常夜燈(近江八幡市) B 音羽町常夜燈〜JR安土駅
C JR安土駅から八幡橋(旧能登川町) D 八幡橋から芹橋(彦根市) E 芹橋から中山道の鳥居本宿


かうんたぁ。




 朝鮮人街道を歩く A 願成就寺〜音羽町常夜燈  


願成就寺から八幡堀

願成就寺から朝鮮人街道に戻ると、 電柱に 「 京街道筋 → 」 の表示があるので、 その方向に向かうと商店街のポールには 「 西京街道商店街 西元町 」  とあった。 
その先の交差点の角に、手打ちそば処日牟礼庵 があったが、 入口には並んでいる人がいた。 
時計を見ると十三時五十分である。 
空いていたら入ろうかと思っていたが、あきらめた。 
交叉点の右手に白漆喰の築地塀で囲まれた本願寺八幡別院がある (左下写真)
「 この寺には家康が上洛して際に宿泊したとされる。 
守山宿を出た朝鮮通信使の一行は近江八幡で昼食をとった際、正使・副使・従事官らの上級官がこの寺で、残りの随行者は近くの正栄寺や商家で食事をとったといわれる。 
なお、裏門は天明二年(1782)の建立である。 」

交叉点を越えると北元町だが、江戸時代には寺内町と云われたところである (左中写真)
池田町四丁目の交叉点を右折すると、「池田町」 の由来を示す説明板が建っている。

説明板「池田町の由来」、
「 安土町の池田町を移したもの。 
元々安土でのその名前は、織田信長の家臣の名前によるものといわれています。 
一筋西の寺内町と合せて、遊女茶屋が八軒が建て並んでいた。 」 

北の八幡山から南北に通りがあり、池田町の説明板があるこの通りは、 池田町通りで、北から一丁目、二丁目というようになっている。 
この通りを南に少し行くと右側にコロニアル調のウォーターハウス記念館があった (右中写真)

「 この建物は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが、 元早稲田大学の教師ウォーターハウス氏のため、大正二年(1913)に建てた住宅で、 隣にはヴォーリズの自宅があったという。 
その後、近江兄弟社の所有になり、近江勤労女学校、 近江兄弟社女学校などの施設やゲストハウスとして活用された。 
なおヴォーリズ邸は解体されて残っていない。 」

その先に行くと目地の太いレンガ塀で囲っている洋風の家があったが、中を覗くことはできない。
この家も、メレル・ヴォーリズの建築である (右下写真)

塀の説明板 「吉田悦蔵宅 」
「  この建物は明治40年(1907年)メレル・ヴォーリズと近江ミッション(キリスト教伝道団)を創め、伝道しつつ、ヴォーリズ建築事務所、サナトリウム、メンソレータム、学校、社会事業等、近江兄弟社を興した吉田悦蔵が大正二年年(1913)に建てた家です。 」 

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本願寺八幡別院
北元町 (江戸時代) 寺内町
ウォーターハウス記念館
吉田悦蔵宅

池田町四丁目の交叉点に戻り、その先を行くと左側に正栄寺がある (左下写真)

「 朝鮮通信使の一行は、多い時には五百人を越えたといわれ、 守山宿から出た一行の昼食を供する場所としては本願寺八幡別院の他、 当寺など、街道の沿線の施設が使用されたのである。 」

次の交叉点を越えた角に 「 京街道 本町 」 の標柱があり、 板塀には中村四郎兵衛邸の説明板がある。(左中写真)

説明板「中村四郎兵衛邸」
「 中村四郎兵衛は、享保5年に扇四呉服店として開店し、 三代目は京都・大阪に出店、五代目は初代八幡町の収入役に就任、 現在は9代目 」 

その先の信号交叉点の左右は小幡町通りで、通りの先には滋賀銀行がある。
道の反対側の建物の塀には、小幡町を紹介する 説明板と、その前には 「朝鮮人街道」 の道標が建っている (右中写真)

説明板
「 八幡城下町形成時に、神崎郡小幡村の商人がこの地に移り住んで成立した町と伝えられます。 
この地の有力者であった西谷家も小幡出身です。 
この通りは五個荘の小幡商人が移り住んで、商売をしたところである。 」 
道の反対には、正神町「」 の町名の由来を記した案内板があった。 

次の交叉点の左右の通りは新町通りである。
右折したところにある建物は、旧伴庄右衛門家本家の建物で、 市立資料館になっている (右下写真)
「 伴庄右衛門は、江戸初期に活躍した八幡商人で、屋号を扇屋といい、 江戸日本橋に出店し、麻布・畳表・蚊帳を商った。 
この建物は、七代目の伴庄右衛門能尹が文政十年(1827)から天保十一年(1840)の十数年をかけて建築したもので、 明治に入り、八幡町に譲渡されて、小学校・役場・女学校・近江兄弟社図書館 ・近江八幡市立図書館を経て、 平成十六年より市立資料館の一部として公開されている。 」

ここから八幡山の日牟礼神社までの新町通りは、八幡観光の中心地である。
今日はゴールデンウイークの最中なので、混雑するのは当然。  入場はあきらめた。

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正栄寺
中村四郎兵衛邸
滋賀銀行 (右)道標
伴庄右衛門邸

交叉点の左側の角には、「 左京街道 右町なみ 新町通り 」 と、 彫られた道標がある。
その奥には近江商人のふるさとの案内板がある。 
  その奥に見える建物は市立郷土資料館である (左下写真)

「 郷土資料館は、西村太郎右衛門の宅地跡で、 この建物はかって近江八幡警察署だった。 
西村家は屋号を綿屋と称し、蚊帳や木綿を取り扱っていた。 
太郎右衛門は二代目嘉右衛門の次男として、慶長八年(1603)にこの地で生まれ、二十歳の時に角倉了以の御朱印船で長崎から安南(ベトナム)へ渡り、 二十五年後帰国のため長崎まで帰ってくるが、鎖国により上陸が許されず、やむを得ず引返し安南の地で没したという人である。  彼が故郷への思いを託し、絵師 (菱川孫兵衛) に描かせた絵馬  「 安南渡海船額 」  は日牟礼八幡宮に奉納されている。 」

また、 「近江商人のふるさと」 と題した説明板がある。

説明板「近江商人のふるさと」
「 遠隔地の独占的通商権を得て活躍してきた近江商人は、 信長の楽市楽座設創設以降、 交易拠点を基礎にして、活動するようになった。  天正十三年(1583)、豊臣秀次が八幡城を築き、信長の安土に倣って、 城下に楽市楽座を設けてから、多くの商人が八幡へ移ってきた。 
新町通りは、八幡商人の拠点だったところで、 江戸時代、この新町通りには、八幡商人の本宅が並んでいた。 
近江商人は、主人が江戸や大坂などの大店に滞在する一方で、 その妻は本宅で留守を預かり、地元で採用した丁稚の教育も本宅で行ったといわれる。 」 

朝鮮人街道と別れ、八幡堀の方へ向かう道は、新町通りである。 
板塀に見越しの松を配し、端正な出格子の商家が建ち並んでいる。
この通りは、国の町並み保存地区に指定されている (左中写真)
新町の中ほどに質素な木戸を構えているのは西川利右衛門家旧宅である。
築後約三百年経っている建物で、国の重要文化財に指定されている。 

「 西川家は、屋号を大文字屋と称して、蚊帳や畳表を商い、 江戸、大坂、京都に店を構えた。 
この家は、三代目により、宝永三年(1706)に建築されたものだが、 西川家は昭和五年に途絶え、建物は市立郷土資料館として公開されている。 」

その対面にある家は、森五郎兵衛邸である (右中写真)

「 森家は伴傳兵衛家に勤め、別家を許され、 煙草や麻布を商ったが、江戸日本橋や大阪本町に進出し、店を構えて呉服、 太物などを扱った。  昭和六年(1931)森五商店の東京支店として、 昭和を代表する建築家、村瀬藤吾に依頼して、 日本橋室町に七階建てのビルを建てた。  その後、森五商店は倒産したが、ビルは近三ビルと名を変えて現在も残っている。 
なお、歴史民俗資料館は森家の控宅だったところである。 」

新町通りの先には八幡堀があった。 
八幡城を守るために造られた掘割だが、 琵琶湖水運に活用されて近江八幡町の発展を支えてきた。 
土蔵の白壁が深緑の水面に映り、両側の石垣から柳が垂れ、 屋形船がのんびりと通り過ぎる (右下写真)
八幡堀には麩の吉井という店や、飲食店もあるが、どこも人があふれていて、 食事するのも大変とあきらめた。 

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西村太郎右衛門邸
新川通り
森五郎兵衛邸
掘割と屋形船

日牟礼八幡宮から音羽町常夜燈

白雲橋を渡ると日牟礼八幡宮の神門がある (左下写真)

「 日牟礼神社は、131年に、第十三代・成務天皇が高穴穂の宮に即位の折に、武内宿禰に命じ、この地に大嶋大神を祀ったのが創祀とされる、 古い歴史を持つ神社である。 
正暦二年(991)、第六十六代一條天皇の勅願により、 八幡山に宇佐八幡宮を勧請して八幡宮となった。
現在の社殿は寛弘二年(1005)に遥拝の社として八幡山の麓に造営されたもので、 下の社といわれた。 
八幡山には上の社が祀られていたが、豊臣秀次が八幡城を築いた時、 上の社は現在の社に合祀された。 」

本殿には、譽田別尊・息長足姫尊と比賣神の三神が祀られている (左中写真)

朝鮮人街道に戻り、旅を再開すると、魚屋町(うわいちょう)通り ・ 為心町(いしんちょう)通りがある。
為心町には 「 恵美須屋松前屋 岡田弥三右衛門宅址 」 の石柱と、説明板が民家の前に建っていた (右中写真)

説明板
「 岡田家は北海道で事業を行い、成功を収めた家で、 初代は慶長十九年(1614)に二十四才で北海道松前に渡り、 呉服太物などを商い、後に漁業にも手を出し、 五代目の頃には最大二十三の漁場を請け負った。  その他、炭坑の発掘など多方面に活躍した。 (以下省略)」 

その先は旧八幡町の中心である仲屋町(すわいちょう)通りである。
街道はこの交差点を右折する。 
その角に、近江肉西川 という店があり、 最低一人五千円はするという肉を提供するのだが、 今日は十四時半過ぎても、あふれるばかりの客がいた (右下写真)
その前の喫茶店風の店も肉を提供するが、そちらも一杯であった。 
とりあえずと小さないなり寿司を食べた腹は食べたいといっているが、いたしかたはない。 

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日牟礼八幡宮 神門
 同 拝殿・本殿
岡田弥三右衛門宅址
近江肉西川

仲屋町通りを南下すると、左側に旧八幡郵便局の建物がある。
そこを過ぎると、仲屋町の由来を記した説明板があった。 

説明板
「 八幡城下形成時に仲買商人の町として成立した町で、 町名は商売の仲買を意味するすあいに因みますが、 後には他の商人町と変わるところはありませんでした。  また、市助(いちすけ)町 とも呼ばれましたが、 これは豊臣秀吉奉行衆の一人だった、一柳一助直末が、 居住していたことに由来するといわれています。  近江八幡観光物産協会  」 

その先左側の駐車場の前には 「 住吉屋中一家 西川伝右衛門邸址 」  の石碑と説明板がある (左下写真)

説明板
「 初代が、寛文年間(1661〜1673)に松前城下に店を出し、 松前藩の御用商人になり、全財産を北海道の事業に投入したこと。  その遺言通り三百年近い間北海道の開発に情熱を傾けた。
 (以下略)                」

この後、朝鮮人街道は仲屋町上にある山岸鶏肉店の交叉点で左折して、 上筋通りに入る。 
次の通りは、永原町通りで、交叉点の左側に 「 旧朝鮮人街道 左 永原町通り 」 の道標が建っていた。 
その先左側の家は、昭和五年に建築された京風数寄屋造りの町屋で、  ボーダレス・アートギャラリーNO-MA である (左中写真)

「 ボーダレス・アートギャラリーNO-MAは、 滋賀県社会福祉事業団が運営するミュージアムで、  伝統的建造物群保存地区にある昭和初期の町屋を、 和室や蔵などを活かして改築し、公開している。  この建物は 「 角大 」 近江屋久右衛門と称して、 茨城県結城で醸造業を営んで財をなし、 結城御三家といわれた近江商人・野間清六の分家の建物である。 
なお、本家の建物は道の反対にあり、  しみんふくし滋賀野間清六邸 とある建物である。 」

通りを更に進むと、博労町通り、慈恩寺町通りとなる。 
その先が鍵之手町で、「鍵之手町」の説明板がある。

「 朝通信使が通った道・朝鮮人街道が、 ここで鍵のように曲がっていることによったと考えられます。 
八幡城下の東の入口あたりになり、 高札場があった関係で、旅籠屋が設けられていました。  慶安年間(1648〜1652)には幕府代官により旅籠屋仲間を作ることを許されました。 近江八幡観光物産協会 」 

その先のやや広い交差点を右折して、縄手町通りを南下する (右中写真)
縄手町中交叉点の右側には、日限地蔵尊の祠があり、 音羽町を左斜めに抜けると、県道2号線の音羽町南交叉点に出た。 
その先には、 万治元年(1864)に万人講により建てられた大きな常夜燈と、 途中で折れた 「 くやんおんみ→ち (観音道) 」 「 長命寺みち 」 と書かれた道標がある (右下写真)
このあたりが八幡城下の東口で、木戸が設けられていたところではないだろうか?

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西川邸址石碑
アートギャラリー
縄手町通り
大きな常夜燈



朝鮮人街道 B音羽町常夜燈から安土駅