朝鮮人街道は、野洲の追分から近江八幡、彦根を経て鳥居本至る、
約四十キロの中山道の脇往還である。
徳川家康が関ヶ原合戦後の上洛の際、利用された道であるが、
朝鮮通信使が通ったことから、朝鮮人街道とか、朝鮮人来朝道と呼ばれたようである。
朝鮮通信使は釜山から海路、対馬を経て瀬戸内海に入り、
室津などで潮待ちをしながら大坂にきて、淀川を遡上し京に入った。
京からは陸路で、中山道、美濃路、東海道を通って江戸に至った。
@野洲追分〜願成就寺(下記) | A 願成就寺〜音羽町常夜燈(近江八幡市) | B 音羽町常夜燈〜JR安土駅 |
C JR安土駅から八幡橋(旧能登川町) | D 八幡橋から芹橋(彦根市) | E 芹橋から中山道の鳥居本宿 |
野洲追分から妓王寺
月日が経つのは早いもので、中山道の近江路を歩いたのは七年前。
その時、野洲の蓮照寺の境内で 「 はちまんみち 」 の道標、そして、 鳥居本で 「 彦根道 」 の道標を見た。
これらは朝鮮通信使が歩いた街道であることから朝鮮人街道と呼ばれる道である。
この時、いつかは歩こうと思ったが、なかなかチャンスがなく、月日が経過した。
平成二十三年五月四日、ゴールデンウイークの最中であるが、思いきって出かけることにした。
名古屋発のひかりに乗ると、一時間で出発地のJR野洲駅に着いたので、早速、以前訪れた蓮照寺に向かった。
蓮照寺は駅から一キロだが、十五分程で到着し、山門に入ると右手に三本の道標があった (左下写真)
一番左の道標が中山道と朝鮮人街道と分岐点(追分)にあったものである。
「 右中山道たが(多賀)北国 」 「 左八まん道 」 と書かれており、
享保四年(1719)に建立されたものである。
中央のは、錦織寺への道標、右のは、 「 従是北膳所領 」 とある領界碑である。
これらは道路や区画整理により、ここに移転されたものである。
前回訪れた時はもっとよい場所にあったが、その場所からは追われたようで、少し残念な気がした。
八まん道 とあるのは近江八幡に向かう街道のことだが、
この道を朝鮮人街道とも呼んでいたのである。
ここはまだ中山道で、朝鮮人街道との追分までは二百五十メートル以上ある。
蓮照寺の先の交叉点を右に行くと、左に行事神社の参道がある。
入っていくと八重ザクラが満開で、濃いピンクの花が美しかった。
自治会館前にはお祭り使う子供用のリアカー改造の山車が置かれていた (左中写真)
ここは行畑集落で、中山道には行畑商店街の標示柱が建っているが、賑わっている感じはなかった。
行事神社の参道は大通りで分断されているので、道路を渡って対面の鳥居を入っていくと、拝殿の間に大きな勧請縄がかけられていた。(右中写真)
「
この縄により外部との間に結界ができ、村に悪霊や疫病などが入ってこないと信じられてきたもので、この風習は滋賀県など近畿地方だけのものである。
長野、山梨、群馬県などに分布する道祖神も同じ役割を果たすものである。
このしめ縄は、毎年、一月に氏子たちにより架け替えられ、一年間吊るされる。 」
交叉点右側に、行合ふれあい広場がある。
そこに祀られている屋根付きの祠の中に、二体の石仏がある (右下写真)
隣のレリーフには 「 背比べ地蔵(阿弥陀如来立像) は鎌倉時代のもので、東山道(中山道)の旅人の道中を守った地蔵である。
我が子の背がお地蔵様くらいになれば一人前と背比べさせるようになり、いつしか背くらべ地蔵と呼ばれるようになった。 」 とあった。
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交叉点を過ぎると、道は右にカーブし、右側に祇王井川と行事神社の林があった。
百メートル程歩くと三叉路があったが、ここが中山道と朝鮮人街道の追分である。
三叉路の右側に地元商店街が建てた 「 ←朝鮮人街道 」 「 中山道 」 の道標があり、
その下に 「 ここは朝鮮通信使ゆかりの朝鮮人街道分岐点です。 」
と書かれていた。
以前中山道を歩いた時には見かけなった道標だった。(左下写真)
三叉路の左の道を進むと、右側に野洲小学校がある。
その先の右側に 「 駅前サウルス公園 」 の標柱のある前に、
「 野洲郡勧業館・野洲郡役所 」 の標石がある。
標石「野洲郡勧業館・野洲郡役所」
「 明治四十三年(1910)に、野洲郡勧業館として木造瓦葺二階建ての建物が建てられ、公会堂や物産陳列場として活用された。
また、大正四年(1915)には野洲郡字小篠にあった野洲郡役所がこの地に移転し、大正十五年(1926)の郡役所の廃止まで、郡業務を行った。 」
祇王井川が流れる道を進むと、安井駅前交叉点の手前右側に 「 真宗木造派本山錦織寺一り 」 と書かれた道標が建っていた (左中写真)
交叉点を右折、次の市役所前交叉点を左折すると、右側に野洲市役所がある。
ここは奈良・平安時代の郡衙跡である。
市役所の植え込みの中に 「 ミ上妙見 従是十三町 施主彦根八百屋九兵衛 」 と 「 右ミやうけん道 文化六年巳五月 仁保村 」 とある二つの道標があった。
これらは国道8号の野洲川付近にあったものである (右中写真)
「
妙見とは北斗七星のことで、中央アジアの遊牧民は北極星や北斗七星を信仰したのが始まりとされる。
道標にある仁保村は近江八幡市十王町の旧村名で、江戸時代には三上藩領だった。
鎌倉幕府の成立に力を貸した房総半島の豪族、千葉氏は守護神として、妙見様を信仰したが、幕府成立後、各地に勢力を伸ばしたが、
近江三上藩一萬石の遠藤氏も千葉氏の一族であるので、当然ながら信仰したことだろう。 」
安井駅前交叉点まで戻り、右折して祇王井川に沿った道を行くと、
左側にはマンションが続いていた。
駅にも近く通勤快速も停まるので、京阪に通勤するサラリーマンのねぐらになっているのだろうと思った。
その先には県道155号が左右にあり、ガードをくぐるとその先はJR東海道線の線路と野洲き電区分所によって、朝鮮人街道は分断されていた。
しかたがないので道を戻って、手前の久野部跨線橋に上り、歩いていくと久野部交叉点に出た。
交叉点の先には円光寺があった (右下写真)
説明板「円光寺」
「 円光寺は天台宗山門派の長福寺と真盛派の円光寺が合体したもので、現在は真盛宗に属する。
本堂は国の重要文化財だが、鎌倉時代の康元二年(1257)に建てられたものを元禄十七年(1704)に修理した際、入母屋造、本瓦葺きに改造した。
昭和三十一年の解体修理で、元の切妻造に復原した。・・・ 」
地続きの大行事神社の本殿も国の重要文化財に指定されている。
説明板「大行事神社」
「 大行事神社は円光寺の鎮守社として始まったと伝えられ、祭神は高皇産霊神を祀る。
現在の本殿は室町中期の再建で、一間社流造、屋根は檜皮葺きである 」
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県道2号線を交叉点で渡り、その先の狭い道に入る。
その先の三叉路を左折すると、右側には祇王井川がある。
その先はJRの車両基地、左手には一戸達の住宅団地が続いていた。
少し行くとJRの線路とは別れ、左側の戸建ち団地が終り、高層住宅が現れたところに三叉路がある。
朝鮮人街道は右に入る。 すぐに中ノ池川に架かる小さな橋を渡る。
その先の祇王井川に架かる橋を渡ると、冨波乙集落になる (左下写真)
左側に浄土真宗本願寺派の光円寺がある。
次の交叉点を左折すると、右側に生和(いくわ)神社があり、
鳥居の社額には正一位生和大明神とあった。
(左中写真)
生和神社の生い立ちについては、諸説あるようである。
野洲市観光物産協会の建てた説明板
「 祭神は藤原忠重。 平安時代中期、藤原氏の荘園だった冨波荘の領主は藤原忠重だった。
冨波荘は、元来、池や沼が多く、この沢に棲息していた大蛇を退治、村民の永年の憂いが拭払されると共にこの沼沢地を開拓村の鎮守神として祀られた。
室町期の延徳三年土御門天皇より正一位の神階と勅額を賜った。 」
生和神社本殿に 滋賀県教育委員会の説明板がある。
「 生和神社の草創は平安時代で、その後、鎌倉時代に冨波荘の領主、鎌倉左衛門次郎が祖先を氏神として祀ったとも伝えられる。 」
地元に残る話もある。
「 今から約一千年前の平安末期、この地、冨波荘は沼や池が多く、中でも一番大きい一の沢沼の大蛇が夜な夜な村人をさらって困らせていた。 大和の国からやってきた領主・生和兵庫介藤原忠重は、大蛇退治を決意し、 氏神の春日大社をこの地に春日神社として分社し、願をかけた。 藤原忠重は矢で大蛇を見事に射ぬいて退治したが、自身も大蛇の吐いた毒で落命。 そうした忠重の徳をしのび、村人が春日神社の横に生和神社を建立した。 」
小さいながらも唐門の回廊をめぐらせた本殿は気品があった。(右中写真)
滋賀県教育委員会の説明板
生和神社本殿は、一間社流造、檜皮葺。
一間社造としては大型で、背面に縁を廻し、
中備えに蟇股を飾ることが特徴といい、国の重要文化財に指定されている。
南北朝の建立と考えられるが、昭和三十八年に第二室戸台風災害復旧工事が行われた。 」
右側の建物は生和神社の末社、春日神社本殿で、これも又、国の重要文化財である。
滋賀県教育委員会の説明板
「 この建物は鎌倉時代の建立と推定され、小規模な一間社流造の基本的な姿を示す建物である。 」
街道に戻ると、その先の左側に浄土真宗本願寺派の遍照寺があった (右下写真)
この集落には白壁に板囲いの蔵や白漆喰の家などが整備されていた。
また、今井栄助商店の看板には創業文久弐年とあった。
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小さな橋を渡ると左手に円信寺があり、その先で左斜めの道と左折する道がある。
江戸時代の道は左折する細い道で、その道に入り右折する。
江戸時代には鈎型になっていたが、今は左斜めに道ができたという訳である。
ここが集落の境で、冨波甲集落に入る。
信号交叉点を過ぎると、右側に遊林寺があった (左下写真)
静かな冨波甲集落の先に、交叉点があり、左側に 「 浄土宗 福泉寺 」 の石標があり、その奥に寺院が見えた。
ここからは永原集落で、その先の右側に屋棟(やなむね)神社がある (左中写真)
この神社は天井川の旧家棟川の守り神として祀った神社である。
その先の左手に大きな煙突が見えたが、交叉点の角に薬師堂がある。
その前では自治会による祭の準備が行われていた。
交叉点を左折すると左側に 「 福谷三郎兵衛商店 妓王井 」 と書かれた提灯が下がった家があった (右中写真)
先程の煙突はこの家のもので、妓王井という銘柄の日本酒を造っているようだった。
右側に用水が流れる道を進むと、右側に市立祇王幼稚園がある。
更に少し進むと左側に大変大きな屋敷があった (右下写真)
切り妻の建物の屋根は、この地方独特の煙出しが付き、
焼板に紅殻格子の塀で囲んでいる。
低い二階の白壁には虫籠窓があり、玄関をの右側には出格子で、駒寄せを配していた。
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道の斜め向かいの奥に、永原下町自治会館がある。
道路に面して、薬医門と一対の石灯籠、
電柱には屋根を取り付け半鐘が吊り下げられている。
由緒あるような風情であるが、説明はなかった (左下写真)
その先の三叉路を左折して、江部交差点で県道2号を横断すると、
右手に野洲北中学校がある。
左側には光念寺があり、少し行った交叉点の右側に土安神社があった (左中写真)
神社の前の説明板
「 今から800年程前、江部の荘司で、橘時長の娘、妓王と妓女は京の都に出て、平清盛に仕えていた。
ある時、妓王はふるさとの用水不足の嘆きを清盛公に申し上げたところ、さっそく三上山の麓の野洲川より分水して水路を開通せしめた。
工事の途中で蹉跌した時、夢に現れた一童子が工事の手法を授けたことによって完成したもので、上流を妓王川、下流を童子川と名づけ、この童子を土安神社に祀ったのでありました。 」
土安神社の脇に、 「 ←菅原神社250m 妓王寺330m→ 」 と書かれた道標があった。
交叉点を左折して歩いていく右側に菅原神社があった (右中写真)
菅原神社は、もとは天満天神社と呼ばれ、江部荘の産土神で、菅原道真を祀る。
神門は室町後期の築造と推定され、県の重要文化財に指定されていた。
道の反対の自治会館の前には談笑していた人達がいたので、永原御殿があった場所に聞くと、先程ここではと思ったところだった (右下写真)
早速引き返すと、左側のこんもりとした竹林が徳川家康の永原御殿があった場所だったが、そうした表示がなかった。
「 徳川家康が関ケ原の戦いで勝利し、上洛した際に宿泊したとされる御殿で、
近江国内ではこの他、柏原御殿、伊庭御殿、水口御殿(水口城)が造営された。
三代将軍、徳川家光以降は上洛はなくなり、御殿の維持費も多額なので、貞享三年(1686)、幕府の命により永原御殿は廃止された。
今は人も入れないような竹林と西側に石積みが残っているだけである。 」
土安神社まで戻り、三百三十メートル先の妓王寺に向かうと、
一車線位の狭い道になった。
三叉路の正面に明覚寺があり、その前には 「 ←妓王寺130m 」 の道標があった。
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道標の指示に従い進むと、その先にも道標があり、右折して進むと、左側に妓王寺があった (左下写真)
祇王寺は祗王姉妹の菩提を弔うために村人が建てたという小さな寺で、門は閉ざされていて無住だった。
「 小生が知っている祇王寺は京都の嵯峨野にある。 祗王は、母と妹の祇女と共に京に出て白拍子となり、平清盛の寵愛を受けたのも束の間、加賀出身の白拍子、仏御前に平清盛の寵愛を奪われたので、 嵯峨野に三人で庵を結んだが、仏御前をその後参加し、四人で清盛の霊も祀ったのが京都の祗王寺である。 」
明覚寺まで戻り、その先の交叉点を左折すると県道32号に出た。
そこには 「 ←妓王寺350m ↑北村季吟句碑400m 」 の道標があった。
なお、この道標では、妓王寺の先の三叉路を左折するルートを選んでいた。
交叉点を越えると道は狭く分りずらいが、道なりに行くと西遊寺の南側に出た (左中写真)
西遊寺の外をぐるーと廻るように進むと、三叉路に出た。
そこには北村季吟の句碑が建っていた (右中写真)
「 北村季吟は、寛永元年(1624)に当地で生まれ、松永貞徳のもとで土佐日記、伊勢物語、源氏物語、枕草子などの注釈をした。 元禄二年(1689)江戸に上り、幕府に歌書を修めたという江戸時代の国学者である。 松尾芭蕉も弟子の一人のようである。 」
句碑には 「 祗王井にとけてや民もやすごおり 」 とあるが、
この句は 「 妓王の御蔭で掘られたさらさらと流れる妓王井川を枯水で悩んだ野洲の民が田用水として使い、心安らかに暮らすことができるだろう。 」 という意である。
北自治会館の先を右折し、次の三叉路を右折する。
前方の小高いところに八幡神社が見える (右下写真)
手前を左折すると三叉路に出たが、ここで右折か左折か迷ったが、右折して次の三叉路を左折して、北に向かった。
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家棟川から小船木橋
この道は左右に田畑が広がる農道で、その先には家棟川の堤防が見えた (左下写真)
堤防に上ると、右折して家棟川に沿って進むと、県道2号線に出た。
県道2号線に入り、家棟川(やのむねがわ)に架かる新家棟川橋を渡る。
左手に善勝寺などの集落が見えた (左中写真)
道の右手に見える悲願寺のあたりも集落を形成していたが、県道2号線の両脇はそうした家並はなかった。
朝鮮人街道は先程、家棟川の堤防を上ったところで川を渡り、左側の集落に入っていったと、考えるのが合理的であるが、その確認はできなかった。
小南交叉点の左手前にコンビニがあったので立ち寄り、小さないなりすし三個入りパックとお茶を購入した。
近江八幡に行けば食事はできると思ったが、十一時十三分なのにお腹がすいてきたので、その繋ぎと思って購入したが、
これがその後、役に立ったのである。
右側の小南自治会館を過ぎると、道は左にカーブしながら上っていく。
その先には、日野川に架かる仁保橋があった (右中写真)
橋の架け替え工事は終了していて、以前にはなかった歩道橋があるので、安心して渡ることができた。
橋の渡り始めると、近江八幡市の領域になった。
橋には朝鮮通信使行列絵図の模写画と、琵琶湖図という山水画もある (右下写真)
説明板 「仁保橋と朝鮮人街道」
「 仁保橋は一級河川日野川に架かる県道大津能登川長浜線の橋です。
昔の橋は今より下流にあり、朝鮮通信使も通行した橋でした。
朝鮮通信使は慶長12年(西暦1607年)から両国の親善のため明和元年(西暦1764年)までの間、10回にわたり江戸城まで往還しました。
その途中、中野洲から中山道と分かれて近江八幡を通り、彦根で再び中山道に合流する区間を朝鮮人街道と呼ばれるようになりました。
当時の仁保橋は板橋の上を渡り、対岸の堤防を登る簡単な橋だったようですが、
朝鮮通信使等が通行する時は、川元町(江頭村、十王村)と仁保川橋掛組合と呼ばれる小南村を始めとする11ヶ村が協力して土橋に架け替わって楽に通行ができるようにしていました。 」
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橋を渡り終え、堤防を左に下ろうとすると、その下には正林寺が見えた。 (左下写真)
「 正林寺は守川山と号し、宝暦十三年(1763)の朝鮮通信使来朝の際に仁保川(日野川)の仮土橋設置に携わったとされる寺院である。 」
十一時三十五分だったが、お腹がすいた感じがしたので土手に座り、
コンビニで買ってきた稲荷ずしを食べてしまった。
お茶を飲み、出発しようとした瞬間、手に持っていた地図の一部が強風で飛ばされてしまった。
今日は朝から中国からの流砂で空一面が曇っていて、目や鼻に鼻に入らないように気を付けていたが、それだけではなく琵琶湖からの強風がすごかった。
失くした部分はここから近江八幡を出る部分で、この後失くした影響が出たのであるが・・・
下に降りると、右側に地蔵尊を祀っていると思える祠と石仏群があった (左中写真)
そのまま進むと、右側に正林寺があり、左側には正覚寺がある。
白漆喰の家もあり、なんとなく宿場町の雰囲気がする通りだった。
十王町西交叉点には 「 朝鮮通信使の通った仁保の町 」 と書かれた石碑がある。
朝鮮通信使をむかえて四百年を記念して最近建てられたもののようだった (右中写真)
その先には石仏が祀られたり、むべ地蔵と祀った祠もあった。
中川百貨店の反対側には平成十八年に建立された朝鮮人街道の道標があった。
愛宕大神碑には御札を治める箱が付けられていた (右下写真)
江頭町の近江八幡江頭郵便局前には、 御菓子司まんすて という、
珍しい名の店があった。
十王町から江頭町の両脇には、昔ながらの商店が残っているし、
土壁の建物が残る街道らしい風情が残っていたので、のんびりと歩いた。
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右に少しカーブすると左側に志賀盛の今宿酒造店があった。
ここからは田中江町である (左下写真)
田中江のバス停の先に大橋があり、といっても名前のような大きな橋でなく、
小さな橋である。
それを渡ると道は狭くなり、左側に愛宕山常夜燈が建っていた (左中写真)
その先の川村酒店あたりは道が広くなったが、それもつかの間、道は極端に狭くなる。
車はその手前で右折して、県道2号方面に出ていった。
加茂西バス停を過ぎると、右から県道から分かれた道が合流してきた (右中写真)
少し歩くと 「 いにしえの競馬神事 足伏走馬 5月1日午後3時〜 賀茂神社馬場 」 の立て看板があった。
「 この地は平安時代、山城国の加茂別雷社の賀茂祭の競馬料領だったことから、足駄の走馬儀式が始められたといわれ、今も行われている。 」
三叉路には 「 加茂町西出 」 の標柱と、左側に愛宕大神の碑があった。
「 近江路では火除けのお守りとして愛宕さん信仰は強く、
この先でも愛宕碑は多く見られた。
なお、ここを北西に行くと、加茂神社がある。 」
右側には、正面に「 牧村妙見宮コレヨリ八町 」 側面に 「 永楽講中 」 の指差し道標が建っている (右下写真)
この奥には国の重要文化財に指定されている阿弥陀如来を祀る生蓮寺がある。
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蔵と屋敷門のある家を見ながら進むと右側に西光寺があった (左下写真)
左前方に見える八幡山がだんだん大きくなってきたが、西から吹く風が強く、
帽子を飛ばされ、路上を走って追いかけた。
その先で再び県道2号線に合流した。
合流した地点には 「 緑とぬくもりのかおる 加茂町 」
の大きな看板が建っていた (左中写真)
ここは近江八幡市と合併しなかった町かと思ったが、調べるとやはり近江八幡市である。
なぜ馬鹿でかい町名表示を集落の入口に掲げたのだろうか?
県道の歩道は左側のみしかなかったので左側を歩いていく。
左側に石碑がひっそり祀られていた。
JA岡山カントリーエレベーターの先は、ローソンのコンビニのある小船木町交叉点である。
県道326号と交叉していて、左折すると長命寺に行ける。
交叉点を越えて五百メートル歩くと、小船木橋がある。
左側に小船木橋側橋という歩行者用の橋があった (右中写真)
橋の手前の橋名表示の上に、白鳥川に人を運ぶ小舟が浮かんでいる写真がはめ込まれていた (右下写真)
もう一枚の写真には白い蔵が川辺にある様子が撮影されていた。
「 昔は琵琶湖に通じる白鳥川に船木湊があり、
船着場から米や用材を積み出し、船運が繁栄していたようである。
しかし、現在の白鳥川は川幅の三分の一しか水がない上、岸辺の様子も変わってしまい、当時の面影を想像することは難しかった。 」
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小船木橋から願成就寺
橋を渡ると、小船木橋交叉点がある。
食事をしている時、地図の一部を飛ばされたという話をしたが、
そのつけがここで現れた。
本来ならば、ここで左に下りて、その先で右に入る細い道を行くのが朝鮮人街道であるが、
そのまま直進してしまい、中村町交叉点が見えたところで、間違いに気が付いて引き返した。
土田町交叉点を過ぎたところで、右の小路に入り太光寺を訪れた (左下写真)
この後、小船木橋交叉点まで県道を利用して戻ればよかったのだが、
県道には歩道がないので歩きずらい。
太光寺の脇の小路を南に進めば同じだろうと思い歩き始めたが、
路地が入りこんでいたので、思うように行かなかった。
歩いているうち、朝鮮人街道に出た。 入口からではないがしょうがないだろう。
朝鮮人街道は今も道幅五メートルと狭いが、約五百メートル続く道である。
近江八幡の西の入口に位置したため、かっての商店街はかなりの賑わいだったようであるが、県道が近江八幡市街を避けて東に抜けた結果、今や寂しい町並みになっていた (左中写真)
そのまま街道を進めばよかったが、
左に入ると西運寺があり、その西南には諏訪神社があった。
西運寺の脇を北東に向かうと、木立が茂った小山がある。
それを廻るように進むと、鍵解地蔵尊が祀られているお堂がある (右中写真)
傍らの説明板
「 この地蔵は、かぎときじぞう と呼ばれ、
ご本体は高さ三尺五寸の石造りです。
鍵解地蔵は鍵を解くことからいろいろな問題の解決の糸口をあたえてくれると云いつたえられています。
問屋浦といわれたこの地の柴問屋の小屋に祀られていたのを明治十四年に此の地に遷座されました。 」
道なりに進むと、朝鮮街道に出た。
左折していくと 「 ようこそ京街道門前通りへ 願成就寺へ徒歩1分 」 の大きな看板と
電柱の下に 「 左長命寺一り 」 「 右京みち 」 と書かれた道標がある三叉路に出た (右下写真)
京みち(京街道)とは、朝鮮人街道のことだが、
近江八幡の人達は京に向かう街道なので、 京みち とか、 京街道 と呼んだようである。
小船木橋交叉点からここまでは一キロ程の距離なので、十五分もあればこられるはずなのに、道を間違えたため四十分かかってしまった。
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願成就寺に寄るため参道を歩くと、説明板がある。
説明板
「 願成就寺(がんじょうじゅうじ) 号 日杉山普門院願成就寺 」<br>
「 推古天皇二十七年正月に聖徳太子が勅を賜り、近江国内四十八ヶ寺を建立、
終りに至り、当寺が開基された。
故に願いが成就されたとして、願成就寺と号された。
当初は日牟礼山(八幡山)西南に設けられたが、
天正年間秀次の築城により鷹飼に移され、その後、
日牟礼山(八幡山)=通称観音山に移され、現在に至る。」
正面には急な石段と境内の地図などの看板がある (左下写真)
右側のゆるやかな石段を上って行った。
坂を上り切ると右手に大師堂があり、その奥に本堂があった (左中写真)
本堂の御本尊は十一面観音立像(重文)で、聖徳太子の作と伝えられ、
かやの一木造である。
地蔵堂に祀られている本尊の木の中地蔵尊は、国の重要文化財である。
境内には芭蕉句碑が三基ある。
これらは芭蕉の没後百年ごとに建てられたものである。
百年忌句碑は 明王像と椿稲荷の間にあり、 「 一声の 江に横たふや ほととぎす 」 とある。
二百年忌句碑は 急な石段を上ったところにあり、 「 比良三上 雪さしわたせ 鷺の橋 」 という句である (左中写真)
三百年忌は 「 五月雨に 鳰の浮巣を 見にゆかん 」 という句で、句碑は祇園神社の小さな祠と地蔵堂との間にあった。
この後、「京みち」 の道標のところに戻ったが、ここまでが船木町で、 この先は昔の近江八幡町の領域になる。
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