朝鮮人街道  


朝鮮通信使は足利、豊臣、徳川政権に対し、朝鮮国王が国書と進物をもたらすために派遣した外交使節である。  江戸時代の場合、最初は豊臣政権の朝鮮侵攻により、儒学者や陶工が連れ去られた人々を返還するという外交交渉から始まったが、 その後は将軍交代の慶賀を目的に行われたようで、合計12回行われている。  江戸幕府の命を受けた対馬藩主が朝鮮に使者を派遣し、これを受けた朝鮮は正使、副使、従事官を中心に使節団を編成し、派遣してきた。 


@野洲追分〜願成就寺(近江八幡市) A 願成就寺〜音羽町常夜燈(近江八幡市) B 音羽町常夜燈〜JR安土駅
C JR安土駅から八幡橋(旧能登川町) D 八幡橋から芹橋(彦根市) E 芹橋から中山道の鳥居本宿





 朝鮮人街道を歩く B 音羽町常夜燈からJR安土駅  


音羽町常夜燈から浄厳院

音羽町常夜燈から安土に向かう。 
朝鮮人街道は県道を五十メートル歩くと右の狭い路地に入り、三叉路を左に曲がり、県道26号を横切るコースである。 
小生は昼飯を食べ損ねたので、県道をそのまま歩くと音羽町交叉点があり、その角にローソンがあったので、そこに入った。 
食べられるものはと探すと、カルビ弁当480円があったので、お茶と一緒に購入し、県道26号を少し歩いて朝鮮人街道に合流した。 
県道26号を横断して、細い道に入ると、その先に黒橋川が流れていて、 橋の渡った左手に石碑が見えたので入って行くと、 黒橋川の石碑があった (左下写真)

黒い石碑の文面の概略
「 黒橋川は蛇行が著しく、河積狭小で、近年の開発と急激な土地利用の変化により、流出量の増加のため、溢水氾濫を繰り返し、多大な被害を及ぼしてきた。  昭和六十一年七月の豪雨出水による災害を契機に抜本的な改修が流域二キロ以上で行われた。  黒橋川が永遠に清らかで豊かな恵みをもたらしてくれることを念じて建立する。 」 

ここはベンチがあり、休めるようになっていたので、ローソンで買ってきた弁当を広げた。 
時計を見ると十五時十五分、遅い食事で近江牛ではなかったが、 コンビニでチンをしてもらっていたので、暖かだった。 
これまでゴールデンウイークには旅行しなかったが、こうした時は食事のことを予測して旅することの重要性を感じることができた。 
食事を終え、廻りを見ると、「 黒橋史蹟地碑 」 と書かれている、 大きな石碑があり、花が手向けられていることに気が付いた (左中写真)

「 室町時代末期に、応仁の乱に端を発した全国的な争乱の中で、近江のこの地を支配していた九里氏一族が、佐々木六角氏の襲撃により敗れ、 九里氏が滅亡した場所とされている。 
入口にあった家の奥さんの話では、 以前の黒橋川は現在よりかなり狭かったという。  また、黒橋史蹟地碑もここにはなかったといわれた。 」

河川改修後にここに移ってきた、確証はないようだが、 このあたりの地形が変わったことだけは間違いないようである。 
街道に戻ると、三叉路で右折すると稲荷堂、県道との間の田はれんげの花が咲き、きれいだった。 

その先には祠と愛宕山碑と思われるものが祀られていた。 
集落を出ると水をはった田が広がる三叉路に出たが、 そこには 「 左朝鮮人街道 右八風街道いせ八日市ひの 」 と書かれた木の道標が建っていた (右中写真)

「 八風街道は、近江八幡のここが起点で、中山道の武佐宿に出て、八日市から永源寺、八風峠を越えて、四日市と桑名の間に出る街道である。  右の道を行くと県道26号に出るが、武佐で八風街道といわれる国道421号につながる道である。 」

道を左にとると三叉路があり、朝鮮街道は右折するが、 ここには黒橋町公民館があった (右下写真)
道なりに行くと、正面は新興住宅地であるが、 入口の黒橋バス停のところを右折して進む。
県道199号の広い道に出たので、左折して県道に入った。 

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黒橋川の石碑
黒橋史蹟地碑
木の道標
黒橋町公民館

県道の交叉点を二つ過ぎたところで、三叉路を左に入り、 突き当たりの三叉路を右折し、西庄町の集落に入った。 
集落の中程左側に教称寺があり、少し先の右側には祠があり、 大きな樹の下には日出講により建立された伊勢神宮の大神宮常夜燈が建っていた (左下写真)
その奥には愛宕大神碑と小さな社が祀られていた。 
上り坂になると長命寺川があり、川に架かる橋のプレートに、「街道大橋」  とあった。 
橋を渡ると、金田東保育所の入口に、愛宕大神碑と祠があった。 
道は突き当るので右折し、東海道本線の手前の交叉点を左折して、 県道199号に再び入ったが、 交叉点の左角には、高木神社があった  (左中写真)
このあたりは長田町集落で、高木神社の先に金円寺があり、 県道は右手のJR東海道本線と平行してまっすぐ続く続いている。 
集落の中央に進むと左側に二軒の大きな屋敷があった。 
二軒の間に長田大町バス停があり、 大きな常夜燈と対になった常夜燈の奥には、神社が祀られていた (右中写真)
大きな両皇常夜燈には、「大神講」 の文字が見え、 伊勢神宮の奉納常夜燈であることが分かる。 
塀の中の小さな社は津島神社で、隣に愛宕山碑がある。 

右側に白漆喰の家と蔵があり、 集落が終わるあたりの民家の一角に、愛宕大神碑があった。 
今日これまで愛宕山碑をいくつみてきたことだろう。 
火除けの神として、集落毎に建てられてきたことが分かる。 
倉のある家を過ぎると、山本川に架かる松原橋を渡る。 
道の両脇は田畑が広がっているが、ここからは旧安土町で、 現在は安土町香住である。 
(注) 平成二十二年(2010)三月二十一日に新設合併により近江八幡市となり、 旧町域に安土町地域自治区が設けられた。 
合併後も、合併白紙撤回運動がおきていて、合併が収まったという感じがしない土地である。 

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大神宮常夜燈
高木神社
大小の常夜燈
白漆喰の家と蔵

松原橋を渡り、両側が田畑であるところを少し行くと、 交叉点に右角に 「 安土浄厳院 」 の道標がある (左下写真)
交叉点を右折して踏切りを渡ると、 「 金勝山浄厳院 」 の標柱があり、 左側に説明板がある。(左中写真)

説明板
「  天正6年(1578年)、織田信長によって建てられた浄土宗の寺院である。  この地はもと佐々木六角氏頼が建てた慈恩寺(天台宗)の跡地であり、現在も大字慈恩寺として地名に残っているが、 近江八幡市多賀町にあった興隆寺のお堂(注:弥勒堂、現在は本堂で国の重要文化財)を移し、栗府太郡の金勝寺より明感という僧侶を招いて、金勝山浄厳院とした。  また、本尊の阿弥陀如来像は愛知郡二階堂にあった古寺より譲り受けたもので、平安時代の作である。  ここは、また、信長公記(太田和泉守牛一著)に見られる法華宗(注:日蓮宗)と浄土宗との間で争われた安土問答(注:安土宗論−仏教論議)の場としても有名である。 」 

 山門をくぐると、正面に見える鐘楼は江戸中期に建立された、 と推定されるもので、三段石積基壇上に、袴腰付きの大きなものである。 
本堂は、桁行七間、梁間六間の入母屋造、向拝三間、本瓦葺の建物で、 室町時代後期に建てられもので、国重要文化財である。 (右中写真)
この建物は、浄厳院の創建にあたり、信長の命により、 多賀町の寺から移設されたものである。 
不動堂は元禄十六年に建てられたとされるが、 宝形造、桟瓦葺で禅宗様を取り入れた建物である。 
浄厳院の前身の慈恩寺のものとして唯一残るのは、朱塗りの楼門である (右下写真)

「 天文年間(1532〜1555)の甲良大工により、 建てられたものという。 
かちどき念仏 というのが、十月に行われるようだが、これは 法華宗との宗論で勝ったことを祝って始めたとされ、 かねや太鼓を打ち鳴らして念仏を唱えるものである。 」

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安土浄厳院 道標
浄厳院 山門
 本堂
朱塗りの楼門

沙沙貴神社からJR安土駅

沙沙貴神社は南東の方向なので田圃の中をその方向へ向かって歩いていくと、 「 甲賀道 ←沙沙貴神社 安土駅→ 」 の道標がある道に出た。 
この道を右折してしばらく行くと突き当ったので左折して民家の建つ道を行くと、沙沙貴神社の境内に入った。 
左に参道があったので進むと、長い回廊がある茅葺の楼門が現れた (左下写真)

「 この楼門は、平安、鎌倉様式を継承し、 江戸中期に再建されたというものである。 
沙沙貴神社は、延喜式に記載された式内社で、 古い時代に 少彦名神 を祀ったのが始めで、その後、 当地を支配した沙沙貴山君(ささきやまのきみ)が大彦命を祀り、 景行天皇が 志賀高穴穂宮遷宮 に際しては、大規模な社殿を造営した、と伝わる。  その後、この地に土着した宇多源氏(敦實親王)から生まれた、 近江守護の佐々木定綱と、その一族及びこの地三十三村の氏神として、 崇敬された。 」

社殿は、九亀藩主、京極家によって、弘化五年(1848)に再建されたもので、 国の重要文化財である (左中写真)
境内には、佐佐木源氏の四ツ目結いの定紋が見られるが、 全国の宇多源氏、佐佐木源氏(京極家、黒田家、三井家、佐佐木家など)  に縁のある神社として、 有名な神社である。
意外だったのは明治の元勲、乃木元帥も祀られていたこと。  彼も佐々木一族の末裔だったようである、 」

境内には、 中山道の武佐宿にあった、 安永八年(1779)の 「 佐々木大社道 是より十九丁 」 の道標が移設されていた (右中写真)
ここから武佐まで、およそ、二キロの距離である。 
道標の先の鳥居を出ると、左折して安土駅に向かう。 
道の脇に、沙沙貴神社の常夜燈が建っていた。
敷地の終りの交叉点に 「 ←郷土館 浄厳院→ 」 の道標がある。 
そのまま直進すると、三叉路の上に 「 ←浄厳院0.5km 」 の  道路標識があった。 
その先に 「 すく桑実寺薬師 西国三十二番観音寺 」、  「 右 京 八幡まん 長命寺 」 と書かれた道標があった。
ここは二キロ先の桑実寺道の入口で、その先に観音正寺、 そして、中山道に通じる道である。 
なお、すく とは真っすぐのこと。 
この道に入り、と左手を見ていくと安土城郭資料館が見えてくるので、 その道にはいると、安土城郭資料館と安土駅があった。 

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茅葺の楼門
沙沙貴神社社殿
安永八年の道標
道標

時計を見ると十六時三十分なので、次の能登川駅に行くには時間的に不足なので、安土探訪に切り替える。 
地下道をくぐって安土駅の北口に出ると、駅前の広場には織田信長の銅像が建っていた (左下写真)
その隣で織田桜が咲きていた。 
また、 「 従是北安土城址 十丁 」 の道標があった。 
安土駅の北口を出ると右折し、福寿会館の三叉路を左折すると、平等寺がある (左中写真)
細い道を進んでいくと、二つ目の交叉点の角には道標がある。
正面に 「 朝鮮人街道 」 、左面に 「 常の浜 」 、右面には 「 安土城跡 」 と刻まれている。 
東南角には、日本キリスト教団安土教会があり、右折すると東南寺である。 

二つ目の交叉点の角には道標がある。
正面に 「 朝鮮人街道 」 、左面に 「 常の浜 」 、右面には 「 安土城跡 」 と刻まれている。 
安土教会があり、その先には東南寺があったので、 中に入ると八重桜がきれいだった (右中写真)

説明板
「 東南寺には桑実寺正覚院に宛てた織田信長や足利義晴等の文章をはじめ、 屋根瓦に足利氏の家紋の二両引などが残されている。  これは室町幕府第十二代将軍義晴の仮幕府が置かれた正覚院が浄土宗に転宗し、 東南寺が正覚院の寺務と寺格を引き継いたためで、 天台宗中本山として勢威を誇った。  国重要文化財の地蔵菩薩は、この時正覚院から移されたものと考えられ、 像高66.7センチの小像であるが、大像の風格をうかがわせる量感を持ち、 平安中期の作と考えられる。 
        安土町教育委員会          」 

寺院を出て、そのまま狭い道を北に進むと、県道に出たが、その前にある細い道に入る。
フレンドマートを右手に見ながら進むと、右側広い道が合流した。
道なりに進むと交叉点の手前に、東町ぼうや地蔵のバス停がある。
交叉点の右の奥くまったところに、 ぼうや地蔵のお堂があった (右下写真)
左側の石造りの台座の上には、小さな石造りの祠が祀られていた。 

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織田信長の銅像
平等寺
東南寺
ぼうや地蔵堂

交叉点の右側の石垣の上に 「 セミナリオ跡100m 」 と書かれた看板があったので、指示されたとおり、東に向かって歩いた。 
百メートル歩くと、「東町づくり」 と書かれた石碑があり、 水辺にはボートが二隻結ばれていた。 
ここは池というか用水堀という感じのところだが、 右側には、「セミナリオ址」 の石柱が建っている (左下写真)

「 ここは、天正八年(1580)、 織田信長より与えられた教会建設用地に、 イタリア人宣教師オルガンチノが日本最初のキリシタン神学校を建てた場所である。 
信長も時折訪れて、少年が弾くオルガンに聞きとれていたというが、わずか二年後、信長が本能寺の変で討たれ、その後、安土城が炎上した際 三階建ての壮麗な建物は焼失してしまい、今は緑の繁った史蹟公園として残っているだけである。 」

公園をあとにし北上すると、県道2号に出たので左折して、 下豊浦北交叉点に出た。
ここを右折し、次の交叉点を右折すると、安土城のあった山の麓に出た。 
奥に登って行くと、信長の菩提寺の総見寺がある。
右折すると会勝寺があり、その一角に、観音堂がある (左中写真)

「 観音堂は、天明四年(1784)に改築されたもので、 平安後期の十一面千手観音立像(国重文指定)が祀られている。 」

この後、西の湖に向かって進むと、 四百メートルの右側に、活津彦根(いくひこね)神社がある (右中写真)

活津彦根神社の社伝
「 御祭神は活津日子根神(天照大神の第四御子神)で、 創建は不明ですが古より豊浦庄の産土神として尊崇されています。  この豊浦庄は桓武天皇が奈良薬師寺に寄進された土地ですが、後、延暦寺・日吉社の勢力下にはいりました。  織田信長は安土城を築くにあたり参詣寄進、彦根城主の井伊直孝も彦根神を尊崇、自分の城に彦根の名を付けました。 」 

本殿前に、説明板が建っている。(右下写真)

「  本殿は、三間社流造で桁行三間梁間二間の身舎正面に前室を設け、一間の向拝が付く。  棟札から江戸寛永三年(1626)の建築と認められるが、江戸後期に前室の蟇股、木鼻等が取り替えられ、平成四年の檜皮葺から銅板葺に改められました。 」 

西の湖は琵琶湖の内湖の一つで、近江八幡の水郷のはるか対岸にあたる。 
西の湖を目指してきてみたが、その先の湖岸道路を出たところでは水面が見えなかった。 
湖岸までは少し行かない駄目だが、まわりが薄暗くなり始めたので、JR安土駅にむかった。 
駅に到着したのは十七時三十分を過ぎていた。 
安土駅には快速は停まらないので、 各駅で米原駅に行くと特急しらさぎが来たので、それで名古屋に帰った。 

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セミナリオ址
会勝寺観音堂
活津彦根神社
 同 本殿



安土城址や信長の館等は、 以前に訪れた時のことを下記したので、ご覧ください。 

安土史蹟めぐり

平成二十年(2008)九月十三日に娘と一緒に安土を訪れた時のことを書こうと思う。

安土城址の入口にある交叉点の右側に 、 「 安土城址 」 の大きな石碑と、「特別史蹟安土城址」  と書かれた説明板が建っていた (左下写真)

説明板「特別史蹟安土城址」
「 織田信長が天下統一を目前にその居城として築いた城である。  天正四年(1576)着工、天正九年ごろ竣工したと認められる。  天正十年(1582)六月本能寺の変の直後に天守閣等も罹災し、ついで廃城になった。  琵琶湖に突出した丘陵の安土山の全域を城域とし、各所に石垣を築き、 中央に七層の大天守閣をはじめとする各御殿等を建て、雄大かつ壮観を極めた。  また、山ろく平地には城下町を形成するなど近世の城郭の先駆であった。  現在、城のなわ張りを知ることができる。  石垣、石段、礎石等のほか、罹災をまぬがれた織田氏の菩提寺である総見寺の三重塔、楼門および金剛二力士像(いずれも重要文化財)が残存している。 」  

大きな駐車場に車を止めると、 その先の石垣のあたりに史跡を発掘して分ったことを記した説明板が建っていた。 
公衆トイレがあったので、そこに入ってから、入場料を払って安土城址の探訪を始めた (左中写真)
城の正門は大手門だけなのが普通だが、安土城の場合は正面の石塁に設けられた出入口は四つあり、  信長が自慢の城に天皇を迎えるべく、行幸用として余計に三つの門を用意したのだといわれる。 
石段を上るところに、 「 安土城を象徴する大手門 」 という説明板がある。

説明板「安土城を象徴する大手門」
「 安土城の大手門から山頂に築かれた天主・本丸に至る道で、その構造から直線部分、横道の七曲り状部分と主郭外周部分の三つによって構成されています。  大手門から山脇まで約180mにわたって直線状に延びる部分の道幅は約6mと広く、その両脇に幅1.2mの石敷側溝があり、 さらにその外側に高い石塁が築かれています。  道の東西には複数郭が雛段状に配した伝羽柴秀吉邸跡、伝前田利家邸跡等の屋敷があり、これらは書院造りの主殿を中心に厩や隅櫓等、多くの建物で構成されています。  まさに安土城の正面玄関を飾るのにふさわしい堂々とした屋敷地と言えるでしょう。 」 

 

石段を少し上った左側の空地に、 「「羽柴秀吉邸跡」 の説明板と、 発掘した状態の写真もあったが、ここが秀吉の邸宅だったところである (右中写真)<

説明板「「羽柴秀吉邸跡」 
「 秀吉の屋敷は上下2段の郭(造成された平地のこと)で構成され、下段郭の入口には壮大な櫓門が建ち、門をくぐると厩があった。  厩の中には7頭ほどの馬が飼われていて、武士が控える遠侍という部屋があった。  上段の郭の正面は大手道の石段に面して高麗門があり、それを重層の隅櫓で囲って防御していた。  門を入ると、右手に台所の建物があり、その先に3棟の建物を接続した366uの秀吉が暮らす屋敷があった。  玄関を入ると、式台と遠侍があり、その奥に主殿があり、さらに奥に内台所と遠侍があった。 」 

石段の右手には前田利家邸の跡があったが、内容はほぼ同じものである。 
山腹部分は傾斜が最も急なところで、ジグザクに曲がりながら延びていた。 
この付近は屈曲部分に平坦な踊り場を造らず、 踏石列を扇状に展開させたのが特徴という。 
若い者でも息をはずませながら上って行く (右下写真)
老いの身には堪える石段である。 

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安土城址碑と説明板hi
正門跡
羽柴秀吉邸跡
山腹部分

石段の石がなにか変と感じて立ち止まった。 
踏石の一部に、 「石仏」 の表示があり、よく見ると仏の姿が彫られていた (左下写真)
城普請に使用する多くの石材は近郊の山々から採取されたものだが、 石仏や墓石等も集められて使用されているという。 
安土城は突貫で工事が進められたことと規模が大きかったので、 石段に使う石を近郊の山々から採取するだけでは無理だったのだろう。 

上っていくと、「伝武井夕庵邸跡」 の石柱が建つところまできた (左中写真)

「  武井夕庵は美濃土岐氏、斎藤道三を始め三代に仕え、斎藤家滅亡後は織田信長に仕えて祐筆(秘書役)となり、信長の傍に仕えて、内外政に活躍した武将であり茶人だった。 」

このあたりから上には森蘭丸などの小姓や茶人の屋敷が多かったようである。 
武井夕庵邸の北東付近から大手道は東に屈曲し、 主郭部の外周を構成している高石垣の裾を廻っていく。  本丸に直接通じる本丸裏門に至る。 
「 ここは215段目 天守閣跡まであと190段 」 の木札が、 大きな樹の幹に吊されていた。 
これに励まされて上っていくと、織田信忠邸跡の石碑があるところに来た (右中写真)

「  織田信忠は信長の嫡男で、信長に従って各地に転戦する。  天正四年(1576)信長が岐阜城から安土城に移ると、信忠が岐阜城主となる。 天正十年(1582)、甲斐国に攻め入って武田勝頼を討ち滅ぼす。 同年の本能寺の変の時、信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に向かうべく、京都の妙覚寺に滞在していた。  明智光秀が信長の宿所の本能寺を襲ったことを知り、本能寺へ救援に向かうが、信長自害の知らせを受け、わずかな軍兵で明智軍と善戦を見せたが、衆寡敵せずに自害した。 享年二十六才のことだった。 」

このあたりは四メートル程に狭まっているが、本丸裏門近くでは六メートルを越える広い道だったとある。 
安土城の正面を通る下街道から見える直線的な大手道とその延長線に見える天守閣は街道を行き交う人々に信長の存在を強くアピールしたであろう。 
木立を抜けると突然、堅固な虎口をほこる黒金門跡に出た (右下写真)
壮大な石垣を誇る二の丸への入口で、説明板が建っている。

説明板「黒金門跡」
「 黒金門は城下町と結ばれた百々橋道、七曲口道からの入口で、この門から先は信長が選んだ側近達と日常生活を送っていた安土城の中枢部である。  この一帯は標高180mを越える安土山では最も高いところにある。  東西180m、南北100mに及ぶ周囲は高く頑丈な石垣で囲まれ、周囲が屹立していた高石垣の裾を幅2〜6mの外周路が巡り、山裾からの城内道と結ばれていた。 」 

黒金門をくぐると右折し、石段を上ると左折して二の門と呼ばれる門をくぐって城内に入るのが当時の姿だったようであるが、門は残っていない。  

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石仏
伝武井夕庵邸跡
織田信忠邸跡
黒金門跡

石段を上った先の正面を左に上ると 「 二の丸跡 」 「 織田信長公本廟 」 の石碑が建っていた (左下写真)
その奥には常夜燈の先に織田信長公本廟があった。 
下に降りて右に行くと木立の中に広場があるが、そこが本丸御殿跡である (左中写真)

説明板「本丸御殿跡」
「 この場所は千畳敷と呼ばれた本丸御殿の跡と伝えられる。  東西約五十メートル、南北約三十四メートルの東西に細長い敷地は天主台、本丸帯郭、三の丸の各石垣に囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けている。  残された礎石から天皇の住まいである内裏清涼殿とよく似っている建物だったと推測されている。  信長公記に天主近くに一天の君万乗の主の御座御殿である御幸の御間と呼ばれる建物があり、内に皇居の間が設けられたことが記されている。  天皇の御幸は実現できなかったが、この本丸建物こそ天皇御幸のために信長が用意した御幸建物だった。 」 

その奥の左を上ると、礎石の跡が残る天主台跡である (右中写真)
安土城天主は記録から地上六階、地下一階の高層建築であったことが分かる。 
完成して三年後の天正十年六月に焼失してしまい、そのまま今日まで放置されてきたものを発掘調査し、礎石の跡を見付けた、とある。 
写真を撮った高いところは地階部分だが、 崩れているので実際はこれの二倍半の高さだった、とあった。 

下を見下ろすと田畑が広がり、その先に琵琶湖八景の西の湖が見えた (右下写真)
のんびり眺めた後、大手道を下りると、途中にハ見寺の標識があったので、 立ち寄ることにした。  

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織田信長公本廟
本丸御殿跡
天主台跡
天主からの展望

歩いて行くと、「ハ見寺本堂跡」 の石碑が建つ空き地があった (左下写真)

「  ハ見寺は、天正四年(1576) 織田信長が鈴鹿山の江雲寺を移して造立した臨済寺の寺で、天主と城下町を結ぶ百々橋口道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って、信長のところに参上したことが、数々の記録に残されている。 
天主付近が炎上した時には類焼をまぬがれたが、 江戸末期の嘉永七年(1854)に惜しくも伽藍の中枢部が焼失してしまった。  昭和七年に、大手道筋の伝徳川家康邸跡に、仮本堂を建てて、現在に至っている。  」

ハ見寺跡に建っている三重の塔は、 三間三重の塔で、本瓦葺きで国の重要文化財となっている (左中写真)
棟木に享徳三年(1454)とあり、 信長が天正三〜四年に甲賀の長寿寺から移建したものである。 

石段を下りたところに、二王門がある。
入母屋造本瓦葺きで、棟木に元亀二年(1571)の銘が残っている (右中写真)
この建物も国の重要文化財である。 

門内に安置されている金剛力士像も、国指定重要文化財である。
頭部の内側に、応仁元年(1467) 因幡院朝作 の造像銘が残っており、 信長がハ見寺の創建にあたって、他所から移したものである (右下写真)
この後、駐車場に戻り、原寸大に再現した天主閣上部を見るため、信長の館に向かった。

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ハ見寺本堂跡
三重塔
二王門
金剛力士像

安土城址前交叉点を左折し、少し先の狭い三叉路の道に入る。
JRのガードをくぐると、左側に文芸の郷 文芸セミナリヨという建物があり、 その前の駐車場に車をとめた (左下写真)
その先に信長の館があり、入場料500円を支払って館内に入ると一階は朱色に塗られた柱の中に金貼りの障壁画に囲まれた部屋があった (左中写真)
階段を上がると、天主の最上階とその下階の屋根部分は金箔に張られ、最上階は仏間になっていた (右中写真)
色彩は強烈で現代の日本の美術でもあまりないと思えるものである。 

ここを出るとヨーロッパの中世風の建物をした県立安土城考古博物館(入場料400円)があった。 
弥生時代、古墳時代から中世・戦国時代までの近江に関する資料が展示されていて、安土城を始めとする城郭の変遷や織田信長の人物像を解明している。 
館内を出た庭には東海道と伏見街道の追分にあった道標が移設されていた (右下写真)
道標の三面には 「 ひたりハふしみみち 」 「みぎハ京ミち 」 「 柳緑花紅 」 の文字が刻まれている。 
建立された時期は不詳だが、1780年刊行の都名所図会には  「 追分は京師伏見大津の駅路なり。 ・・・ 」 とあり、 既に有名な道標だったことが窺える。 
ここには、 東海道の逢坂山の国道1号で出逢った逢坂常夜燈も一基建っていた。 
傍らの説明では、寛政六年(1794)に大津米屋中によって寄進された四基のうちの一基で、二基は小生が見た国道に今も残されている、とあった。 
また、山科街道で使われた車石も展示されていた。 
(注) 小生は中山道、東海道と伏見街道を歩いたが、その時山科の追分で、 この道標をみたが、レプリカだったということになる。  

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文芸セミナリヨ
信長の館内
天主の最上階 復元
追分道標



朝鮮人街道 CJR安土駅から旧能登川町・八幡橋





かうんたぁ。