朝鮮通信使の一団が街道を歩く姿は、庶民にとっては物珍しいイベントだった。 朝鮮通信使の行列の様子は絵画にも取り入れられたり、それを見た民衆は自分の文化に取り入れたりした。 今も残る鈴鹿市東玉垣町、津市分部町に伝わる唐人おどりや岡山県瀬戸内市牛窓の唐子おどりは朝鮮通信使を模したものである。
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JR安土駅から安楽寺
平成二十三年五月十五日(日)、朝鮮人街道の終点の中山道の鳥居本の追分まで歩く予定で、今回は車できて能登川駅前のの有料駐車場に入れた。
車を利用した理由は二つ。 一つは時間に柔軟性が持てること、
もう一つは有料道路が休日利用で千円だったことによる。
前回終えた安土駅まではJR琵琶湖線の各駅停車か快速で行くのだが、
休日の早朝は本数が少なく、六時三十六分発で駅をでたが、
次の駅なので安土駅には四分後に到着し、北口を出て今日の旅を始めた。
福寿会館のある三叉路には、平等寺がある (左下写真)
平等寺には木造薬師如来立像が祀られる潮見堂があるが、
門が閉じられていたので、確認はできなかった。
二つ目の交叉点の東南角には安土教会があるが、左側の角に道標がある。
正面に 「 朝鮮人街道 」 、左面に 「 常の浜 」 、右面には 「 安土城跡 」 と刻まれている (左中写真)
前回はここを曲がり、東南寺を経て、セミナリオ史蹟公園に行ったが、
朝鮮人街道は直進である。
少し歩くと松原交叉点で、交叉点の上には直進する道に、
「下街道」 の標識があった。
交叉点を越えて進むと、右側に、 下豊浦お旅所バス停 があり、
その奥に 「活津彦根神社御旅所」 の石碑があった。
その先の交叉点を越えると活津彦根神社の標柱があり、
その先に常夜燈と鳥居が見えた (右中写真)
右側に旧武家屋敷を見て進むと三叉路の右側に方ヶ辻地蔵尊があった (右下写真)
その先の交叉点は県道2号の下豊浦北交差点で、
朝鮮人街道はここを右折して東に向かう。
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右側にある正禅寺を越えた信号交叉点にくると、正面に安土山が見えてきた。
その先の右に入る三叉路に途中で折れた道標があるが、
ここを入っていくと、前回訪れたセミナリオ史蹟公園に出る。
ここから五百メートル程行くと、安土城址前交叉点がある。
道の左側には、 「安土城址」 の碑が建っている (左下写真)
既に訪れているので、県道2号をそのまま歩くと、
右にカーブする手前の右側に 「 ←信長の館 文芸の郷 」 「 安土城考古博物館 」 の道標が建っていた。、ここも既に訪れている。
県道は安土山の南裾を廻りながら、北腰越峠に上っていく。
安土城址前交叉点から七百五十メートルを過ぎた左カーブが始まると、
坂が急になる。
上っていくと右側に 「 近江風土記の丘 」 の大きな石碑が建っている (左中写真)
右側に連なる山は、標高四百三十三メートルの繖山(きぬがさやま)である。
またの名を観音寺山といい、
山頂には佐々木六角氏の堅固な山城・観音寺城があったところである。
近江風土記の丘の案内看板もあり、ここを入っていくと、
信長の館や安土城考古博物館にいける。
道脇の山裾に 「 奉勧請西国三十三所 」 の石碑があり、
その脇には 「 ←きぬがさ山頂1.6km 桑実寺1.4km 」 の道標があった (右中写真)
桑実寺は繖山の中腹にあり、西国三十三ヶ所観音霊場の第三十二番の札所である観音正寺への入口にある。
桑実寺寺伝
「 天智天皇の四女、阿閉皇女(後の元明天皇)の病気回復を僧に祈らせたところ、琵琶湖から薬師如来が降臨し、皇女の病気を治して去った。
それに感激した天智天皇の勅願により、藤原鎌足の長男、定恵が白鳳六年(677)に創建した。
寺名は、定恵が唐から持ち帰った桑の実をこの地の農家にて栽培し、日本で最初に養蚕を始めたことに由来する。 」
大規模自転車道の道標には、三面に 「 大中の湖南遺跡 」
「 安土城址 」 「 風土記の丘 」 と書かれていた。
このあたりが北腰越峠だろうか?
坂が下りになると、「東近江市」 という標識が現れた。
合併前は能登川町だった。
県道2号は直進し、坂を下って行くが、
朝鮮人街道は、交叉点の右側の繖山の麓に沿って進む道に入る (右下写真)
JR東海道線のトンネルの上を進むと、 「 やわらぎの郷公園0.2km→ 」 の標識が現れた。
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その先の三叉路を右折して広い道を行くと、やわらぎの郷公園がある (左下写真)
「 朝鮮人街道は直進の細い道で、ここを右折していくと、
集落のはずれから繖山の鞍部を通る山道で、地獄越 といわれる、
中山道に通じる道がある。
江戸時代には利用者が多かったのかもしれないが、旧能登川町南須田町地区と旧五個荘町石馬寺地区を結ぶ峠道で、
ハイカー以外には歩く人はないだろう。 」
南須田町は、街道時代と違い、人の姿も見ることは少ない静かな集落だった。
その先の左側の超光寺の表門(山門)は、
安土城内にあったハ見寺の裏門が移築されたものである (左中写真)
「
当寺は安土のハ見寺の役寺として、天和二年に創建された寺で、山門は文化十年(1828)にハ見寺より移築されたもの。
本堂は延享三年(1745)の再建で、総欅造七間四面本瓦葺きの建物だった。 」
境内に途中で折れた 「 従是南ハ見寺領 」 とある石碑の傍に、 「須田の境界石」 の説明板がある(右中写真)
説明板「須田の境界石」
「 明治十五年まで神崎郡と蒲生郡を分ける郡境を、
室町時代では伊庭庄と豊浦庄の境界を示し、
現在の中村幸一宅前にあった。 」
寺を出ると右側に小さな祠があり、その前に 「 従是南そう見寺領 」 のレプリカがあったが、ここは前述の中村幸一宅前などだろうか?
「 ここは北須田です 」 の看板が倉庫の壁に貼られているところを過ぎると、少し上り坂になり、川に須田橋が架かっている。
橋の手前の右側には 「 ↑須田不動の滝約700m 」 の下に 、
「 須田不動尊参道 」 と書かれた看板がある。
「 不動山みち 」 の標柱も建っていたが、不動尊には寄らず、
そのまま橋を渡って進む (右下写真)
橋を渡ると、右側に三体の石仏を祀ったお堂があった。
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正面に、「きぬがさ街道」 の標識が見える。
きぬがさ街道は右手の山をトンネルで抜け、国道8号線に通じる道である。
朝鮮人街道は道の下のガードをくぐり、直進する。
右側の墓地の前に飲用できる水が出ていた (左下写真)
きぬがさトンネルを掘った際、流出するようになったもので、「 飲むか否かは自己管理でお願いします。 」 と書かれていたのは面白かった。
小生は飲まずに通過する。
ガードをくぐり五百メートル歩くと、三叉路の正面に安楽寺の標識がある。
その下に、小さな石仏が二十体も祀られていた (左中写真)
三叉路を右折し、左折すると少し先の左側に 「 ぽっくりてら焔魔堂 」 の大きな石碑があった。
無住の十応寺である。
中に入るとお堂と墓地があったが、このお堂が焔魔堂なのだろうか?
右側に続くのは繖山の一部・伊庭山(いばやま)である。
山裾に、愛宕神社と六社神社が並んで祀られていた。
その先右側の石段に 、「 天台宗繖山安楽寺 」 の石碑があるのは、安楽寺の参道である (右中写真)
「 與地志略によると、
聖徳太子が近江に建てた四十八寺の第一番目という寺で、
繖山無量寿院(むりょうじゅいん)と号した。
八王子法橋五人衆・十六人衆という組織で、七百年間維持運営されてきた
という寺院である。 」
参道を登ると、左側に十体の石仏が並べられていた。
その先にも祠に祀られた石仏群があった (右下写真)
本堂に続く参道は長く、けっこう急だった。
樹木が茂り、水を含んだ土地には、しゃが の生育がよいようで、
到る所でしゃがの花を見ることができたので、楽しい散歩道の気分で歩けた。
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山門をくぐってもすぐに本堂とならず、竹林としゃがの道を石段を使って上っていく (左下写真)
途中に水が流れているところがあり、如意輪観音が祀られていた。
更に上ると安楽寺の境内に出た。
「 安楽寺は、天正四年(1576)に信長により焼打ちにあったが、江戸中期に再興。 しかし、嘉永六年(1853)に火災があり、寺の記録頬の一部を失ったという。 」
鐘楼の先に 「 近江湖東27名刹霊場 」 の看板が掲けた建物があった (左中写真)
境内には教訓めいた石碑は多く建っていたが、
境内の配置図や寺の由来と案内はなかった。
本尊は千手十一面観音の筈で、このお堂の中に祀られているのだろう。
下りは車道を利用することにした。
途中、ビルマ派遣軍岡田部隊山本隊戦没者慰霊碑が建っていた。
インパール作戦として決行されたビルマ戦線では、壊滅的な犠牲者を出した。
皐月の季節なので、ピンクと白の霧島つつじと赤く芽をふいた樹木がきれいだった (右中写真)
なお、安楽寺の上り下りで費やした時間は二十分程だった。
この後、先程の三叉路まで戻った。
左にカーブした先の三叉路を右折すると、右側に、安楽寺というバス停があり、その先には白漆喰のうだつが上がった家があった。
この集落を抜けると、右側に繖峰三(さんぽさん)神社の標柱と、
常夜燈と白木の鳥居が現れた (右下写真)
傍らに、伊庭坂下し祭(いばさかくだしまつり)の説明板がある。
説明板 「伊庭坂下し祭」
「 毎年五月四日、繖山の山腹にある繖峰三神社から麓の鳥居まで、急斜面の崖に足場を求めながら、三基の神輿を氏子の若衆が引きずりおろす。
このため、崖はくずれて凹状の斜面をつくる。
道路に流れ出た土砂は取り除かれるが、
その他の傷跡はそのままにして翌年を迎える。 」
普通の神社の参道は石段でなければ整地された道が続くものだが、
ここの参道は祭の神輿で引きずられて、土砂崩れかのように、
中央に溝をきざんで、砂利が石段の形を無残に崩したままだった。
これまでいろいろな所に行ったが、こうした祭は聞いたことはない。
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望湖神社から八幡橋
この先の左側にJRの変電所、右側の小高いところのお堂は行者堂である。
その先には望湖神社の標柱と、鳥居や常夜燈があった (左下写真)
また、鳥居の前には 「 柳津観世音菩薩 」 の石碑があった。
そのまま進むと、東海道線の能登川踏切が見えるが、
右側に日蓮宗の妙啓寺がある。
その前を通りすぎると、右側に 「 愛宕神社御旅所 」 の石碑がある。
その先に 「 御殿地広場 」 がある (左中写真)
説明板 「伊庭御殿遺跡」
「 伊庭御殿遺跡は、
徳川将軍が江戸と京都を往復するときに利用した休憩所の跡である。
設計者は国宝二条城二の丸御殿などをつくった小堀遠州である。 」
現在は石垣が僅かに残るのみだが、地元では御殿のあった一帯を御殿地と呼んでいて、広場はゲートボール場として利用され、また、愛宕神社の御旅所にもなっている。
今回の旅で二軒目の御殿跡である。
三叉路まで戻り、東海道線の能登川踏切を渡ると、能登川交叉点がある。
時計を見ると、九時四分。
朝鮮人街道は次の交叉点を右折して能登川集落をぬけていくが、伊庭集落へ寄り道をすることにした。
交叉点を直進ししばらく行くと、能登川港郵便局がある。
その先の田圃の先に能登川西小学校がある。
やがて右側に、大きな樹木と常夜燈が見えてきた。
ここが東近江市伊庭町の入口で、能登川交叉点から約一キロの距離だった。
「 伊庭は、伊庭千軒と称し、今の伊庭、能登川、安楽寺、須田の四字を伊庭荘といい、皇室の御領地だった。
八百数十年前、崇徳上皇より、源為義(為朝の父)に賜ったことが、
保元物語に記されている。
鎌倉時代にはいり、建久年間に、観音寺城主・佐々木行実の四男の高実が、
伊庭氏を名乗り、この地を領した。 」
右側の大浜神社は、古から伊庭荘の産土神として信仰されてきた神社である (右中写真)
滋賀県教育委員会の説明板
「 大浜神社の草創は明らかでないが、
文明三年(1471)の前身本殿造営の棟札があることから、
この頃には社殿が存在していたことが分かる。
鎌倉時代、領主の伊庭頼高が地主神とし、その後も伊庭氏が庇護したことから、
神社は隆盛し、戦国時代には安土城から辰巳(北東)の方向にあることから、
安土城の鬼門鎮護の鎮守社になった。
江戸時代の初期の伊庭荘は幕府領だったが、
元禄十一年(1698)に、旗本・三枝土佐守の地行地になると、
領主の三枝土佐守が約百七十年にわたり、庇護を続けた。
なお、現在地に大浜神社が遷座されたのは文禄三年1594)である。 」
社殿の脇に道祖神神社が祀られていた。
左に行くと、舞台のような広い建物があった。
これは鎌倉時代前期に建てられたと推定される、仁王堂 である (右下写真)
滋賀県教育委員会の説明板
「 大浜神社仁王堂は、桁行5間、梁間5間、1重、入母屋造、茅葺。
建物は、現在、祭礼の場あるいは神輿庫として使用されているが、
もとは正面に一間の向拝が付く五間四方の仏堂で、
後世に現在地に移築されたものである。
滋賀県内に残る数少ない中世初期の仏堂建築の遺構として貴重な存在で、
滋賀県指定有形文化財に指定されています。 」
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仁王堂の左奥に高木観世音菩薩正福寺の建物がある。
その前に 「 本尊は慈恵大師の作とされるもの。
三本の杉の中木で観世音を作り、左の木で大日如来を、右の木で薬師如来を刻み、天暦五年九月にこの地に安置した。 」 とある。
道路の反対側のバス停には、 「智恵の文殊堂」 の石柱とお堂があった。
文殊堂の先には妙金剛寺があった。
ここには安土宗論に召し出された貞安上人の墓がある (左下写真)
寺の隣には伊庭内湖から引かれた用水が流れている。
橋を渡ると右側にお稲荷さんの折玉大明神が祀られた社がある。
その隣のお堂は薬師寺のようだった (左中写真)
直進すると、また、用水が流れていた。
橋を渡った先の小さな交叉点を左折し、用水に沿って道なりに歩く。
道の脇の水路には、ミニチュアの水車があったり、大きな鯉が放たれていて、
舟にはあやめが植えられていた (右中写真)
伊庭町内はここ以外にも到る所に水路が引かれていて、
それを生活の場をうるおいのあるものとして活用しているように思えた。
用水を眺めながら歩いて行くと、用水の左側に 「 伊庭城址石垣 」 の石碑が建っていた (右下写真)
説明板
「 ここは伊庭城跡と伝えられるところである。
建久年間(1190〜1199)、観音寺城主佐々木行実の四男、高実が伊庭氏を名乗り、築いたといわれるのが伊庭城である。
守護代になった伊庭氏は、その後、文亀二年(1502)守護の六角氏に背いて反乱を起こしたが、負けて没落した。
江戸時代には、旗本の三枝氏が城跡に陣屋を構えた。 」
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興味を覚えたので、中に入っていく。
左側に鯱鉾の鬼瓦の 「謹節館」 という建物があった (左下写真)
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「 元禄十一年(1698)に、旗本三枝氏が領主になり、ここに陣屋を構えた。
明治維新後、建物の一部を村役場とし、
明治十二年八月、この地に伊庭小学校を建てた。
昭和二十三年小学校跡に、新しく建てたのが謹節館である。 」
その前庭に 「 かげすずし 山に重なる 軒の松 」 という、
宗祇の句碑が建っていた。
室町時代の連歌師・宗祇の出身地について、紀伊説もあるが、
この地の出身の方が有力のようである。
そういうことから、碑が建てられたのだろう。
右側の建物は老人憩いの家で、伊庭区事務所と自治会会館を兼ねていた。
この建物の右側に行き、裏に廻ると、右側に守国大明神があった (左中写真)
「 明治維新により、三枝家十二代目の三枝守道は、
朝廷に帰順を願い出たが、明治二年旧領地は没収され、士族になった。
その息子の守経は東京であきないの道に活路を求めたが、
失敗に終わったといい、東近江市須田へ移住し、
三枝家の元祖である守国を祭神とする守国神社の守護を職としたが、
明治十九年逝去し、大身旗本八千石の三枝家は途絶えた、といわれる。 」
この後、能登川交叉点の手前の交叉点まで戻った。
時計を見ると十時三分になっていたので、伊庭に一時間いたことになる。
再び、朝鮮人街道を歩く。
能登川交叉点の手前の交叉点を左折すると、弁柄の板塀に出格子、白漆喰の家がある。
また、 茅葺の屋根だったところを銅版で覆った家もあり、
旧街道の面影を残していた (右中写真)
驚いたのは茅葺の屋根の家が残っていたこと。
しかし、県道2号に合流するとそうした風景はなくなり、最近の建物が建つ普通の町並に変わった。
林交差点を右折すると、左手に能登川駅がある (右下写真)
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南側にある踏切りを渡り、二筋目で左折すると関西アーバン銀行に突き当った。
右折すると、元町商店街のある交叉点に出た。
朝鮮人街道は交叉点を左折する。
少し行くと左側に能登川神社があった (左下写真)
能登川神社の祭神は事代主神である。
事代主神はもとは垣見の天神社に祀られていたが、
明治時代に能登川駅が開設され、駅前の町が出来たので、
此の地区の氏神として勧請されたという。
垣見交叉点は直進、躰光寺川に架かる本町垣見橋を渡ると左側に垣見天神社があった (左中写真)
垣見天神社は、天慶年間には繖山の北面の山腹に鎮座していたが、
神託があり、この地に社殿を建立して遷し祀ると、伝えられる神社である。
その先の交叉点を左折して、垣見踏切を渡る (右中写真)
踏切を渡ると三叉路で、県道2号線に出た。
三叉路を右折して、県道2号線に入ったが、歩道は左側だけである。
ここから県道を千五百メートル程歩くと、左側に日本電気硝子の工場と駐車場があった。
このあたりから上り坂になり、上っていくと八幡南詰交叉点がある。
その先には、愛知川(あちがわ)が流れている。
橋の名前は、八幡橋 であるが、 橋柱に 愛知川 とあり、
水車と川をイメージしたモニュメントがあった (右下写真)
八幡橋を渡ると彦根市になる。
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