朝鮮通信使は1回につき約三百人から五百人の人員が随行しており、寛永十三年以降は船団関係者約百名が大坂で残留し、江戸を往復する間に長い航海で傷んだ船体を補修して帰路に備えていたという。
出国して帰国するまで約半年という長い旅だったようである。
京都から江戸までは陸路の旅だったのだが、その中で朝鮮人街道の名が付けられているのは、中山道の野洲追分から鳥居本追分の間だけである。
京都を出発して2日目の宿泊は彦根であった。
彦根は将軍家の大老を担った井伊家の膝元であり、井伊家の菩提寺である宗安寺はその中心となった。
@野洲追分〜願成就寺(近江八幡市) | A 願成就寺〜音羽町常夜燈(近江八幡市) | B 音羽町常夜燈〜JR安土駅 |
C JR安土駅から八幡橋(旧能登川町) | D 八幡橋から芹橋(彦根市) | E 芹橋から中山道の鳥居本宿 |
芹橋から鳥居本の追分
芹川を渡ったところで、時計を見ると十六時少し前、予定より一時間以上かかっていた。
道に引き返したり、トイレに入ったことが響いた。
今日中に朝鮮人街道を終えたいので、
この後はスムースに歩かなければならないだろう。
橋の手前にあるのは橋本町商店街で、彦やんの旗の出迎えを受けた。
「 江戸時代、芹川にただ一つ架かっていた橋のたもとに立地することから橋本町の町名が生まれた。
慶長八年(1603)に、彦根城が完成すると、佐和山城の城下町から移住してきた
津軽屋加藤与兵衛や、城下町の西部の藁屋町から移転してきた町人等により、
町人の町となったといわれる。
慶長十二年(1607)の第一回朝鮮通信使の復路時には、
既に町並みは完成していて、この時の公儀朝鮮通信使案内書には、
「 橋本町は、家数五十戸、男百二十人、女百四十人。 」 と記されている。
また、江戸時代、頻繁に市場が開かれたが、
ここは中山道の高宮方面から彦根城下に入る道筋にあったので、
多くの人々が訪れたといわれる。 」
銀座町交叉点に、戻る。
右側の滋賀県信用金庫の脇を右にいくと、先程降りた近江鉄道のひこね芹川駅に行ける
銀座町交差点を左角に 、 「 古称 久左の辻 」 の石柱が建っていた。
久左の辻は、彦根藩時代、この界隈一帯を所領していた、豪商・近藤久左衛門 の名に由来する。
左折した銀座街は、二百メートル程の間に、個人商店にまじって、 銀行やパチスロ店などが建ち並んでいる。
「
交叉点の北側と西側の道の両側が銀座商店街で、 昭和の時代には、隣の京町商店街や、
橋本町商店街と共に、湖北と湖東のメインの商店街だった。
今回訪れると、日曜日で定休日の店も多かったこともあると思うが、人通りは少なかった。 」
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朝鮮人街道は、銀座街の終りの三叉路を右折して、中央一番街を北に進むルートである。
一筋目の左側の道を奥に入って見ると、
彦根の台所といわれた、市場商店街のアーケード入口がある。
その手前のりそな銀行の前に、「 高宮口御門跡 」 の石碑が建っている。
「
江戸時代、彦根城外濠虎の口の一つであった高宮口御門跡で、番所があった。
朝鮮人街道は、枡形、即ち、逆コの字形の道になっていたといわれ、
中山道高宮宿に通じる道の起点でもあった。 」
ここで寄り道をする。
右折して朝鮮人街道に入らず、そのまま直進して少し西に行くと、
本町1交叉点の左側に、
「彦根藩善利組屋敷跡」の説明板が貼れている建物がある。
説明板「彦根藩善利組屋敷跡」
「 彦根藩の足軽衆の組屋敷は、城を守る役割を果たすため、城下町の一番外側に置かれ、
この善利組の他、中藪組、大雲寺組、切通上下組などがあった。
善利組は、元和三年(1617)に、
外濠と芹川に挟まれた東西約七百五十m、南北三百mの地域に置かれ、
天保七年(1836)には約700戸を数え、一番大きな組だった。
町なかの通りは、幅一間半(約二.七m)と狭く、 また、行きどまりやくいちかいがあって、
見通しが悪く、防御の役割を果たしていた。
この地域には、間口五間奥行十間の短冊形をした約五十坪の屋敷が整然と、
区画されていた。
屋敷に面して、木戸門と塀を構え、母屋は切妻造り、桟瓦葺きで、
小規模ながら武家屋敷の体裁をとる構造になっていた。
現在も、芹川二丁目を中心とする地区は、地割りがそのまま残され、
当時の建物が数十棟残り、昔の面影をしのぶことができる。 」
道の反対側の右側には関西アーバン銀行があるが、昔風のトーンに改造されていた。
ここから彦根城外堀までは、夢京橋キャッスルロードという名で、
売り出し中の通りである。
通りにある家は全て、白壁、弁柄、黒格子、簾、紺暖簾などに、改造されて、
城下町の町並みを再現したスタイルになっている。
左側を少し歩くと、白壁の塀で周囲を囲み、 「 浄土宗 宗安寺 」 の標柱がある寺院がある。
「
宗安寺は、朝鮮通信使の上官が宿泊したところである。
朱塗りの山門は、赤門 と呼ばれた門で、
石田三成の居城の左和山城の大手門を移築したものである。
元禄十四年(1701)の彦根大火の際も唯一残った建物であるが、
道路の拡張工事で、当初の位置から、西方へ約五メートル五十センチ移動している。 」
赤門の前には、徳本行者の名号碑があった。
ご参考 宗安寺の歴史
「 宗安寺は、京の百万遍知恩院を本山とする浄土宗の寺院である。
足利尊氏、直義兄弟は各国に安国寺という寺を一つ建立することにしたが、
上野国の安国寺が最初の寺であると、伝えられる。
彦根藩初代藩主の井伊直政が箕輪城主の時、正室の東梅院の両親を供養するため、
安国寺を再興した。
慶長三年(1598)、直政が高崎城主に変わると、安国寺も高崎に移転した。
関ヶ原の戦い後の慶長六年に、直政は近江国佐和山へ転封となると、佐和山城の麓に移転。
同八年、彦根城の築城工事が始まると現在地に移され、寺号を現在の名前に改名した。
元禄十四年の大火で赤門を除き、全焼したが、翌年に長浜城殿舎を移転して、本堂を再建した。 」
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この門の少し左側に黒門と呼ばれる門がある。
「
この門は、朝鮮通信使の接待のための御馳走を搬入するために建てられたと、伝えられる門で、高麗門とも、よばれていた。
現在の門は、老朽化したため、復元された門である。 」
この先は、彦根城中濠に架かる京橋まで、黒壁と白壁の建物が続く。
「 夢京橋キャッスルロードは、昭和六十年に、都市計画道路本町線の道路工事が企画された際、この通りの風情を壊すことなく伝統的な町並みを再生することにより、 活性化を図ることを狙い、現在ある建物に整備したもので、 平成十一年に、すべての整備を終えたという。 」
全て地元主体で、これだけの改革が行われたのは、素晴らしいと思った。
その先にあるのは、彦根城の天守閣への入口の表門にあった京橋である。
京橋を渡ると、右側にある彦根東高校は、井伊藩の藩校の跡である。
「 彦根城の築城は、将軍家康の佐和山城を一掃するという命令により、
慶長九年(1604)から工事が始まった。
当初は琵琶湖湖岸の磯山が候補となったが、最終的には彦根山になり、
天守閣は大津城、天秤櫓は長浜城から移築した。
天守閣は二年程で完成したが、表御殿の造営や城郭整備などで、
城の完成には二十年かかっている。
明治維新の城取壊令により、解体の危機が訪れたが、
北陸巡幸で彦根を訪れた明治天皇の命令により、取り壊しを免れた。
先年、築城四百年を越え、国宝に指定される名城になった。 」
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中央一番街のはずれに堀口ろうそく店があった。
「 夢京橋キャッスルロードには、ろうそくをテーマにしたあかり館がある。
和ろうそくは、彦根の伝統産業の一つである。 」
中央一番街が終わると、立花町交叉点がある。
交叉点を渡った先の道は、二車線から一方通行の一車線となり、狭い道になった。
「 この通りの道幅は江戸時代と変わらない。
宗安寺に泊まった朝鮮通信使の一行は、
この道を通って江戸に向かって行ったのである。 」
この通りは、
先程までの銀座街や中央一番街というアーケードのある商店街ではない。
古い家並みの残って、街道時代の面影が残る風景である。
駅前通りは道幅が広いので注意して横断する。
右手に市役所があるのだが、道からは見えなかった。
朝鮮人街道はそのまま北上するが、このあたりは元町である。
少し歩き、道が突き当たる一つ手前の三叉路を右に入ると、
右側に古い家が残っていた。 このあたりから、船町になる。
交叉点の右側に、 絹屋 と書かれた、 虫籠窓、漆喰壁で、紅殻格子の家がある。
「 この家はまぼろしの陶器といわれる湖東焼を興した絹屋半兵衛の店だっただが、今は個人宅と聞いた。
江戸時代の終り、絹屋半兵衛は京や大坂と彦根の間を行き来して、
呉服と古着を商っていたが、
京都で見た清水焼の魅力に取りつかれて、仲間と彦根で焼物を始めることになった。
スポンサーを求め、働きをかけた結果、芸術文化に理解のあった十二代藩主 ・
井伊直亮に認められ、藩窯として援助をうけるようになったので、
伊万里や九谷から名工を呼び寄せ、高級品志向の陶器を作りだす努力を行った。
しかし、十三代藩主井伊直弼に代わり、彼が桜田門外の変に倒れたため、
彦根藩は窯業から手を引くことを決め、絹屋半兵衛も翌年に死去した。
その後、湖東焼は民窯としてしばらくはあったようだが、消えていった。 」
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船町集落を歩いていくと、その先に車道があるが、
その先の用水の先はJR琵琶湖線の線路で行き止まりになっていた。
左手を見ると国道306号の高架の手前から人が現れたので、
そちらに向かうと、地下道がある。
地下道に入り、JRの線路の下を通りぬけると、その先には、
近江鉄道の踏切がある。 ここは古沢町である。
近江鉄道の踏切を渡り、道路の下をくぐり抜けると、狭い交叉点になっているが、 正面はゆるやかな上り坂になっている。
「
江戸時代、このあたりは松縄手と呼ばれていた。
彦根藩主が帰国し、彦根の町に入る時、鳥居本宿を過ぎた行列はここで態勢を整えた。
藩主は馬に乗り、仰々しく大名行列を組んで城下に入っていったという。
車では狭い道だが、馬や駕籠なら十分な広さがあった。
この坂は山を切り通してつくったもののようで、切通坂 という名が付いていた。 」
自転車を押して上っていく男子高校生がいたが、 小生と自転車を引いて上る速度が変わらなかったので、それなりの急な坂であるといえよう。
上っていくと、右側にお堂があり、坂下地蔵尊が祀られていた。
国道6号線に突き当ったが、くぐるガードがあるので、そこをくぐる。
道は左にカーブするが、正面の上には、毘沙門天のような四神将像が立つ、
金閣寺のような建物が現れた。
道の脇に、 瑞岳寺 という表示があり、 佐和山三成会 とある。
その先には佐和山城のようなものも建っていた。
大手門のようなものがあり、そこには 佐和山遊園 とあるが、無人である。
国道に再び合流したところには、佐和山美術館 とある建物があり、
自由にお入りくださいとあった。
(注) 廃墟になったテーマパークのように思えてそのまま通過したが、
後日調べると、個人の人が全て手作りで製作したものと知った。
個人の土地に造っているので、問題はないのだろうが、大変目につく所にあるので、
気になる存在である。
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国道8号はその先で佐和山トンネルに入って行くが、 車道と歩道と別れたトンネルになっている。
国道の左側に、旧道が残っているが、民家の先で消失している。
「
江戸時代には、トンネルはないので、この先は佐和山の一角を上り、下って、
鳥居本へいったと思われる。
トンネルの北方四百メートル程の佐和山頂上近くには、 関ヶ原の戦いの西軍の大将・
石田三成の五層の天守閣をもつ佐和山城があった。
関ヶ原の戦い後、家康により壊されて、
多くの部材は彦根城に使用された。 」
左側の歩道車用の佐和山トンネルを三百五十メートル歩くと、再び、国道と合流する。
その先に、右に下る県道239号があるので、
国道を横切って右の県道に入っていく。
県道を下りていくと、集落のなかにラブホテルが沢山建っていた。
その先の交叉点の右側に、彦根カントリークラブの石碑が建っていた。
そこを過ぎると、東海道新幹線の高架があり、新幹線が走っていく姿が見えた。
新幹線のガードをくぐり、二百メートル程行くと、三叉路に出た。
手前の右側に道標があり、、「 右彦根道 」 「 左 中山道 京いせ 」 と、
太い堂々とした字で書かれていた。
三叉路の角には 「 彦根道との分岐点 」 という説明板がある。
「 鳥居本宿の最南の百々村は、室町時代には百々氏の居館があり、
江戸時代の記録では百々氏の祖・百々盛通の菩提寺、百々山本照寺が建立されていました。
中山道と彦根道(朝鮮人街道)の分岐点に建つ 「 右彦根道 」 「 左 中山道京いせ 」 と刻まれた道標は、文化十年(1827)に建立されたもので、
彦根道は二代彦根藩主・井伊直孝の時代に、
中山道と城下町を結ぶ脇街道として整備されました。 」
左右の道は中山道で、ここで、朝鮮人街道は終了である。
合流したところは、中山道の鳥居本宿跡である。
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道の両脇には、漆喰壁の家や卯達を揚げた家があり、宿場町の雰囲気を醸し出していた。
その先左側に專宗寺があり、ここにも説明板がある。
「 專宗寺は、
文亀二年(1502)および天文五年(1536)の裏書のある開祖仏を有する、
浄土真宗本願寺派の古寺で、聖徳太子開祖と伝わります。
かっては、佐和山城下町本町筋にあり、泉山泉寺と号していましたが、
寛永七年(1640)に洞泉山專宗寺と改め、ここ西法寺村に移ってきました。
本堂などの建立年代は十八世紀後半のものと推定されています。
山門の右隣の二階段の太鼓門は佐和山城の遺構と伝わります。
西法寺村は、佐和山山麓にあった元集落(古西法寺)から、
寛永年間に街道沿いに移されました。 」
右側に、 屋根の上に合羽の形をした看板をあげている家があり、 合羽屋「松屋」 という説明板がある。
「 江戸時代より雨具として重宝された渋紙や合羽も、戦後のビニールやナイロンの出現で、すっかりその座を明け渡すことになり、
鳥居本での合羽の製造は一九七〇年代に終焉し、
今では看板のみが産地の歴史を伝えています。
昔そのまま屋根の上に、看板を掲げる松屋松本元輔店は、丸田屋から分家し、
戦後は合羽製造から縄づくりに転業しています。
2001年に、かっての家屋の構造を生かしながら、改修されました。 」
そこから少し行った右側の民家の庭に、「脇本陣跡」 と手書きされた看板がある。
ここが鳥居本宿の脇本陣兼問屋場だったところである。
説明板
「 鳥居本宿には脇本陣が当初二軒あったが、本陣前にあった脇本陣は早い時期に消滅し、
問屋を兼ねた高橋家だけが残った。
建物の間口のうち、左三分の一ほどに塀があり、その中央の棟門は脇本陣の施設で、
奥には大名の寝室があり、屋敷の南半分が問屋場だった。 」
その隣が本陣があったところである。
花が植えられている塀に、「本陣跡」 の看板と説明板がある。
説明板
佐和山城落城後、小野宿は廃止され、慶長八年(1603) 鳥居本に宿場が移るとともに、
鳥居本宿本陣役となりました。
本陣屋敷は合計二〇一帖もある広い屋敷でしたが、
明治になって大名の宿舎に利用した部分は売り払われ、
住居部分が、昭和十年頃ヴォーリズの設計による洋館に建て直されました。
倉庫に転用された本陣の門が現存しています。 」
その先に、近江鉄道の鳥居本駅がある。
鳥居本宿はその先も北に続くが、ここで終了にして、本陣跡正面の道に入り、
鳥居本駅に行った。
しばらく待った後来た電車にのり、彦根の朝鮮人街道を辿った旅は終了した。
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(ご参考) 司馬遼太郎の 「 街道をゆく 24 近江散歩 」 について
司馬遼太郎は上記の中の彦根城に訪れたことを書いている。
「 一つは金阿弥という人物のことである。
金阿弥は、徳川家康が、彦根藩の開祖の井伊直政の養育係に付けた同朋衆の一人で、彦根古絵図を描いた人物だが、 「山河を惜しむ心があった。 」 として、
紹介している。
遼太郎氏は、 「 前夜、琵琶湖湖畔のホテルから彦根城の天主閣が照明を受けて、白々と浮かんでいるのを見て、とくめぐほどに感動した。 」 と記しているが、朝になり彦根城に上ったて見学しているが、彦根城の様子などについては一言も触れられていなかい。
本編の中では、井伊家の三代目藩主の直孝について、くわしく述べている。
「 二代目藩主、直継の時、彦根城が築城されたが、
縄張りなどは家康の指示が色濃かったようである。
家康は築城を公儀普請とし、江戸から普請奉行三人を派遣しただけでなく、
伊賀、伊勢、尾張、美濃、飛騨、若狭、越前の七ヶ国十二大名に手伝わせた。 」 と下記、「
三代目藩主の直孝は庶子だったので、本来ならば藩主は無理だが、
家康はその統率力を買い、嫡男の直勝を安中城主にして、
彼に彦根を継がせたが、家康の期待に応えて戦いの時は徳川軍の先鋒として、
平時は幕政を総覧した。 」 と、記述している。 」