@伏見宿から淀宿 | A 淀宿から石清水八幡宮 | B 石清水八幡宮から枚方宿 |
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枚方宿から守口宿の淀川は、洪水により下流の地区に大きな被害を与えたようである。 古くは、
日本書紀の仁徳天皇の項に、淀川に堤を築いたが、どうしても決壊してしまう個所があり、その対策
のため、人柱を立てたという記述がある。 途中に残る遺蹟は淀川に関わるものが多い。
守口宿に入ると、豊臣秀吉が築いた文禄堤が一キロ程残っている。 京阪守口市駅に近い本町橋を
下から見ると、文禄堤の高さが分かる。
枚方宿から守口宿
平成二十二年二月二十四日、始発の新幹線で名古屋から京都へ行き、京都駅から近鉄、京阪と乗り継いて、
枚方公園駅に着いたのは七時五十分過ぎ。 さっそく、前回終了の西見附から出発する。 西見附の案内板
のある交差点を左折し、南東に向かい、次の三叉路で右折すると、右側に白い蔵があり、竹長商店とあった
(右写真)
また、高い煙突は桜湯の煙突である。 この先、高麗橋に到着するまでに、複数の銭湯を見ることになる。
それに対し愛知県に多いスパー銭湯は大阪地方には少ないようである。
通勤時間とあって、駅に向かう人達とすれ違う。 少し歩くと三叉路があり、その角には桜町と書かれた
標石が建っていたが、桜町は明治時代に入り遊郭ができたところである (右写真)
右折して進むと古い家は二、三軒残っていたが、残りの家は新しい家になっていた。 そのまま、進むと
上方に枚方大橋が架かるところに出て、前方に水面廻廊という看板がある。 入ってみると、用水路を
利用した小公園である。 水と歴史のふれあい広場と銘打った公園で、
淀川を往来していた三十石舟をイメージしたモニュメントがあった。 枚方大橋の下をくぐると、前方の右側には高層マンションが林立して
いた。 公園も終わっていたので、もときた道に引き返すことにしたが、小公園にはわざわざ寄るほどの
ものではないと思う (右写真-水面廻廊)
先程の桜町三叉路まで引き返して、直進する下り坂を八十メートル程進み、次の三叉路を右折し、次の三叉路を
左折すると、枚方大橋南詰交差点へ出た。 枚方宿から守口宿は約三里
(12km)の距離である。 枚方大橋南詰交差点の左右の道は環状線になっているので、交通量が多い。
京街道は交差点を横断し、対面の狭い道に入る。 左側にいわた歯科医院があり、道なりに進むと道が
左にカーブして、読売新聞販売所などの商店が並んでいた (右写真)
広い通りに出たが、道は対面に続いている。 信号交差点は左手にあるが、車の通行を確認しながら
道を横断して対面の小道に入った。 道は右に左にとカーブし三叉路に出たので、
右折すると学校のようなものがある。 廃校になった枚方西高である。 その隣にも学校があって伊加賀
小学校とあった。 周りが塀に囲まれて中が覗けない位厳重である (右写真)
伊加賀地区はかっての伊加賀村で、歴史を紐解くと、古代史に登場する物部氏の基礎を築いた伊香
色謎(いかがしこめ)の生まれたところとされ、地名もそこから生まれたようである。
彼女は孝元天皇の妃となり、天皇の死後、その子の開化天皇の妃となり、崇神天皇を生んだとされ
る。 小学校の先には交差点があり、正面に道が二つあるが、ブリキの壁の小屋の右側にある細い道に
入る。 このあたりは出口二丁目である。 細い道を進むと左側に白い漆喰壁と板囲い壁で構成された
蔵があり、石垣の上に乗っている (右写真)
これは段蔵と呼ばれるもので、度々起こる淀川の洪水の対策のため、家具など
を避難させるために、二段、三段の高さを連立させた蔵、あるいは高く積んだ石垣の上に築かれた蔵
で
ある。 こうした段蔵はこの先多くみられる。 道を右に入ると光善寺の山門があった。 光善寺
は、室町時代の浄土真宗の僧で本願寺八世の蓮如上人が開いた寺である (右写真)
蓮如は
越前国吉崎に滞在していたが、富樫氏家の内紛をきっかけに、文明七年(1475)、吉崎を退去し、河内
国茨田郡出口村に移った。 淀川河畔の葦原を埋め立てて造った草庵がこの寺の前身といわれる。
ここを拠点として近畿一円に教化活動を展開したが、山科本願寺再建
のため、二年半で山科野村に移住している。 なお、光善寺初代住職は長男の順如である。
(注) 蓮如が生まれた頃は、本願寺は青蓮院の末寺という寂れた状態で、延暦寺や
同じ宗派の真宗高田派などから攻撃を受けていたが、蓮如の力により今日のような本願寺になった
ので、本願寺中興の祖と呼ばれる。 寺の境内には親鸞筆とある石碑が建っていた (右写真)
光善寺の前の道を南下すると、狭い道の両脇に昔ながらの建物の並ぶ。 しかも段蔵付きである。
このあたりは出口三丁目である。 光善寺から百数十メートル歩き、用水に架かる小さな
橋を渡ると、左へ行く変形の三叉路がある。 目に飛び込んできたのは正面の板張の段蔵。 その左に
繁みがある。 その前に行くと、大きな石碑が見えた。 それには、 親鸞聖人 蓮如上人 御田地 と
刻まれていた。 その先の玉垣の中には、文明七乙未歳八月下旬 蓮如上人御遺跡と書かれた石碑があり、
隣に丸くうすく平らな小さな石がある (右写真)
この石は蓮如上人が腰をかけて説法したという腰掛石である。 光善寺の草庵が建てられる
までは、蓮如上人はこの石に腰掛けて、村人達に説法していたといわれる。 ここには、御腰掛
石であることを案内する表示板もなく、また、思ったより小さな石であった。 道を南下すると、
このあたりも段蔵が付いた古い家が残っていた。 少し歩くと三叉路があり、その先の左側に幼稚園が
あり、その先には郷社蹉陀神社御旅所と書かれた石柱と鳥居がある (右写真)
鳥居をくぐると、右側の案内板には、 「 蹉陀神社御旅所(境内) この地は蹉陀天満宮の御神輿が
例大祭にお渡りになる御旅所と呼ばれるところで、本宮を遥拝する神域である。 」
とある。 蹉陀(さだーだは正式には足へん)神社は、ここから南東へ一キロ程のところにある旧中振村
の蹉陀天満宮のことで、蹉だは菅原道真が左遷されたとき、後を追ってきた娘の苅屋姫が悲しみ、
足摺(蹉だ)したことに由来する。
この奥には常夜燈、その先に狛犬が鎮座し、遥拝所と書かれた石柱が建っていた (右写真)
道を進むと、左側の家と家との間に、樹齢七百年以上の柿の木があり、その下を見ると根元
に「柿の木
家の傍らに自生していたので 人々は姓を呼ばないで 柿木氏と呼んだ 」と漢文で書かれた石碑が
立っていた。 そこを過ぎると、交差点があり、このあたりが出口三丁目と五丁目の境のようである。
交差点を越えて進むと、道はゆるやかに右に左にカーブして進むが、前方にCITYARK枚方という
マンションが見えてくる (右写真)
その先に水路があり、橋が架かっているので渡って進むが、このあたりに
一里塚があった筈
だが、その跡がどこかは分からない。 そのまま進むと、淀川の土手に突き当たるが、
土手の下の道を左に進むと三叉路の先に小さな祠がある。 中には四体の石仏が祀られて
いたが、松ヶ鼻の地蔵尊と呼ばれているようである (右写真)
江戸時代の京街道は、西見附からの道は明治十八年の大洪水で流されて、現存しないので、前述した道を
歩いてきたが、ここで江戸時代の旧道(文禄堤)に戻ったことになる。
祠の前の道を進み、堤防の法面下を四百メートルほど上って行くと、淀川の堤防の上の道に出た。
堤防道は、車の出入を規制しているので、自転車と人のみで安心して歩ける。 但し、自動車が通れる
設計になっているため、町の歩道より固めである (右写真)
堤防の右手は河川敷を利用した淀川河川公園になっていて、その向うには雄大な淀川の流れが見られる。
水曜日であるが、堤防道はウォーキングを楽しむ人が多かった。
また、下の公園ではスポーツを楽しむ
人達の姿が見られた。 そのような光景を見ながら進むと、四百メートルくらいのところに蹉陀ポンプ場
放流渠があり、それを過ぎると寝屋川市へ入った。 また、四百メートルくらい歩いたか? 堤防道の
左下に大阪府の枚方土木事務所太間排水機場の建物と排水池が見えた (右写真)
先程の蹉陀ポンプ場もそうだが、これだけ排水場が続くのは、このあたりの土地は淀川より
水位が低いのだろうか。
少し歩くと堤防道に通行止の標識があり、右側に、よどがわ 大阪湾まで約21.9kmと書かれた表示板が
あるところにきた。 堤防道から一段下がったところに、茨田(まんだ、まむだ、まぶたなど
の呼び方がある)
堤と刻まれた大きな石碑が建っている (右写真)
近くに茨田堤を説明する碑もあり、「 日本書紀に茨田堤の築造は、仁徳天皇十一年とあり、
これは河川堤とて本邦最初のものである。・・・ 」 と書かれている。
(ご参考) 日本書紀の仁徳天皇の項には、以下の記述がある。
「 冬十月、宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西海に入る。 因りて其の水を號けて堀江と曰ふ。
又將に北の河の水勞を防かむとして、茨田堤を築く。 是の時、兩處の築かば乃ち壞れて塞ぎ難き有り、
時に天皇、夢みたまはく、~有して誨へて曰したまはく、「 武藏人強頸、河内人茨田連衫子(衫子、此を
ば艸呂呂母能古と云ふ。) 二人を、以て河伯に祭らば、必ず塞ぐこと獲てむ。 」 則ち二人を覓ぎて
得つ。 因りて、河~に示壽る。 爰に強頸、泣ち悲びて、水に沒りて死ぬ。 乃ち其の堤成りぬ。 唯し
衫子のみは全匏兩箇を取りて、塞き難き水に臨む。 乃ち兩箇の匏を取りて、水の中に投れて、請ひて
曰く、 「 河~、崇りて、吾を以て幣とせり。 是を以て、今吾、來れり。 必や我を得むと欲へば、
是の匏を沈めてな泛せそ。 則ち吾、眞の~と知りて、親ら水の中に入らむ。 若し匏を沈むること得ず
ば、自づからに僞の~と知らむ。 何ぞ徒に吾が身を亡さむ。 」 是に、飄風忽に起りて、匏を引きて
水に沒む。 匏、浪の上に轉ひつつ沈まず。 則ち瀚々に汎りつつ遠く流る。 是を以て、衫子、死なず
と雖も、其の堤且成りぬ。 是、衫子の幹に因りて、其の身亡びざらくのみ。 故、時人其の兩處を號
けて、強頸斷間、衫子斷間と曰ふ。 」
「 冬の十月に北の河(淀川)に堤を築いたが、どうしても切れてしまう場所、絶間(たえま)
が二箇所あった。 仁徳天皇は人柱を建てると決壊が収まるという夢を見た。 仁徳天皇の命により、武蔵国
より強頸(こわくび)、また、河内国からは茨田連衫子(まんだむらじころもこ)
が選ばれた。 強頸はそのまま入水し人柱となり、堤の犠牲となったが、茨田は、本当の神なら、
ヒサゴを沈めても浮かばないようにせよ!! そうすれば自分も本当の神意と知って水の中に入るが、
沈まなかったら偽りの神と思うがよいか!!といい、ヒサゴを水に投げ入れたが、水に浮き沈まなかった
ので、その身は助かった。 その後時が経ち、二か所の堤は無事完成した。 」
強頸が犠牲になった堤は、大阪市旭区千林二丁目あたりのようで、千林商店街近くの民家に、強頸絶間跡と
いう碑があるという。
このあたりは寝屋川市太間町(たいまちょう)であるが、絶間の字が太間に変わったの
だろうか? そこから二百メートル余り歩くと、堤防の左下に段蔵がある大きな屋敷が見える。 少し先に
石段があるので下りていくと、西正寺があり、その先に太間天満宮があった (右写真)
神社の創建年代は不詳だが、祭神は菅原道真と茨田連衫子で、
日本書紀の茨田堤の故事により、衫子の断間である当地に昔から小社を建てて祀っていた、という。
近くの三井の若山に
壮麗な天満宮が造営されたが、慶長三年(1598)に焼失、再建に当たって主導権争いが起こり、
太間村では天満宮を分社して、衫子社に合祀した。
その後も紆余曲折を繰り返し、昭和四十二年に現在の形になったようである。 また、その先の小さな
川には絶間橋という名の橋が架かっていた。 道に戻る途中にある段蔵のある屋敷は地表からかなり高い
ところにあり、自然への備えは今も続くのだなあ、と思った (右写真)
そこから二百メートル歩くと淀川新橋。 橋の下をくぐって進むと、点野(しめの)
1丁目で、堤防
の左側にはマンションがあり、その先には茨田樋遺蹟水辺公園がある筈なので、石段を降りていくと
茨田樋之跡の石碑があった (右写真)
傍らの案内板によると、 「 茨田樋は、昔、淀川から農業用水、生活用水を引き込んでいた用水の樋門
で、淀川左岸の枚方から毛馬まで八ヶ所あった。 台風などの大水時に堤防が決壊するおそれがあると
して、すべてが廃止され、その跡が残っているのはここだけである。 」
とあった。 その先には鳥飼仁和寺大橋がある。 橋の先から仁和寺という地名になるが、京都の
仁和寺領があったことに由来する。 右側の河川敷にはパターゴルフ場があり、だいの大人がゲームに熱中
する姿を微笑ましく思いながら歩いた (右写真)
八百メートル程歩き、堤防道の左手にある団地が途切れる
ところにくると、堤の下の道路の先に鳥居を見ることができる。 階段を降りると民家が立ち並んでいて、
その先に用水があり、国道を渡る信号交差点がある。 用水路の手前の右側には、淀川筋佐太渡船場の石碑
が
ここは河内国佐太と摂津国鳥飼を結ぶ渡し場の跡である。
あった。 用水路の橋を渡ると、国道1号の佐太中町7の交差点である。 交差点を渡ると、佐太天神宮の
鳥居があるが、その右手に、万延元年(1860)建立の道標があり、もり口一里などと書かれている。
常夜燈が続く長い参道を歩くと佐太天神宮の本殿があった (右写真)
菅原道真が太宰府へ左遷された時、暫くの間滞在し、自身の木像を残したといわれ、死後の
五十年後、菅原公を祀って創建されたのがこの神社とされる。 天神様には梅がつきものであるが、この
神社もごたぶんにもれず、梅の木が多く、また、梅のシーズンとあって、梅の香がほのかにした。
神社の脇には来迎寺がある。 菊の御紋がついた勅使門があるのは創建当時、後村上天皇の勅願所だった
ことと関係があるのだろう (右写真)
境内の石造案内板によると、 「 来迎寺は、実尊誠阿上人が正平二年(1347)に現在の守口市来迎町
(河内国茨田郡下仁和寺庄守口村)に来迎堂を建立したのが始まり。 」 とある。
「 その後、二十六回もの移転を繰り返し、延宝六年(1678)よりこの地に定着した。 現在は浄土宗で
あるが、かっては摂河和城四ヶ国に末寺六十余寺を擁する大念仏宗佐太派の本山だった。 」 という。
本堂の前の松の枝ぶりは見事の一言につきる (右写真)
寺の本尊は天筆如来(阿弥陀三尊来迎図)だが、これは石清水八幡宮を創建した僧、行教が貞観元年(859)
に感得したとされる阿弥陀三尊の絵像である。 また、本堂の裏の庭園には、
嘉元二年(1304)の建立の石造十三重塔が建っている。 山門を出て、右折していくと右側に市立老人
福祉センターがあるが、その手前、来迎寺の鐘楼の裏側にあたるところに小さな竹林があり、その中に
佐太陣屋跡の案内板があるが、気をつけないと分からない (右写真)
佐太陣屋跡の案内板には、 「 この佐太地区は京都、大阪間の交通、軍事の要地であったことから、
美濃加納藩(32000石)の永井氏が貞享年間(1684〜1688)に渚(現枚方市御殿山)から
この地に陣屋を移し、摂津、河内の一万二千石を領有支配し、約五千uの敷地に屋敷、蔵、
牢屋などを次々に整備していきました。 この陣屋は加納藩の大阪における蔵屋敷の役目を果たし、
年貢米の納入はもちろん加納藩の特産物である提灯、傘等もここにいったん集積し、大阪の商人に
売りさばき、金融、物資の調達など、加納藩の台所の役割を担っていきました。 」
とあった。 戻る途中、来迎寺の塀に石清水八幡宮本地天筆如来の石柱があった (右写真)
(ご参考) 加納藩の永井氏は、淀藩第二代藩主、永井尚政の三男尚庸が初代。
尚庸は徳川家綱の小姓となり、万治元年(1658)に淀藩領から河内国内で二万石を分与され、
大名になり、
その後、加増され三万石となった。 子孫は転封を繰り返した後、美濃加納藩主として明治
維新を迎えている。 陣屋を移した貞享年間はその子、第二代の直敬の時代で、貞享四年(1687)
には下野国烏山藩に転封になっているが、陣屋の移転はその前後である。
淀川筋佐太渡船場の石碑の前を通って街道に戻った (右写真)
このあたりは佐太西町で、既に守口市に入っている。 寝屋川市から守口宿までは一里弱
(約3.6キロ)の距離である。 ここから二キロ弱歩くと、優美な姿の鳥飼大橋が架かっている。
橋の左下
にある道を通り、堤防道を四百メートル程歩くと大庭二丁目で、堤防道は直進するが、京街道は左斜め
の坂道を下っていく。 分かれ目の堤防道では工事が行われていて、一部閉鎖になっていた。 左下
に見えるのは八坂瓊神社である (右写真)
坂道を降りきったところに右に入る道があるので、入っていくと守口市浄水場の入口があるが、そこを
通過すると、道は左にカーブする。 その先の交差点を通過し、八雲北公園の中
ほどの三叉路を右折して進むと、突き当たりに正迎寺(しょうごうじ)がある。
正迎寺は、観応元年(1350)、南朝方の同基善正が存覚上人に帰依した建立された寺だが、元和元年(1615)の
大阪夏の陣の兵火によって焼失してした。 その後、再建された寺院は、元禄十五年(1702)に正迎寺と
して認められたという寺である (右写真)
正迎寺で左折する交差点があり、右側に八雲北町3丁目自治会館がある。 その前には、 左旧守口方面
右旧大庭方面 京街道 と書かれた道標があり、京街道を歩いていることが
確認できる。 正迎寺の西方には八雲神社があるので、行ってみることにした。 この交差点を右折し
進んでいく。 途中で道がなくなった場合は左右にある小路に入って西に進むと、八雲北第二公園が
あり、標示の下に、 人面墨描土器 八雲遺蹟 と書かれていた (右写真)
その先には県営守口北住宅という団地があり、団地の中を突っ切っていくと、光明寺の前に出た。 光明寺
は、大同元年(806)、弘法大師空海により創建と伝えられる寺で、もとは八幡宮寺
とも称し、八雲神社の神宮寺だった。 塀で囲まれ、門も閉ざしているので、寺の内部は窺いしれなかった。
寺の先を左折し進むと、八雲神社があった (右写真)
守口市教育委員会の案内板には、「 河内名所図会には
三社権現といわれ、中央に素盞嗚尊、左に菅原道真、右に八幡大神の三神をまつり、もとは旧八番村、
北十番村、下島村、南十番村の氏神でした。 この神社の本殿は、三間社流造で向拝の中央柱間には虹梁を
通さない
という北河内では珍しい形式を持っています。 また、この神社の秋祭りは、旧八幡、北十番、
南十番、下島の村から一台ずつ、また新たに八雲南から一台、計五台の山車が競って宮入するさまは誠に
壮絶であり、貴重な民族文化財でもあります。 」 とあった。 本殿から参道は松並木に
なっていて情緒があった (右写真)
鳥居から外に出て、三叉路を左折して、くねくねした道を進むと、阪神高速
12号守口線の高架
がせり出しているところに出た。 少し歩くと交差点があり、左に行くと正迎寺に行く。京街道は右折
である。 なお、阪神高速の
高架の下には、八雲樋遺蹟 京街道 、旧南十番村 八雲公園 時空の道 と書かれた石柱が建って
いた (右写真)
細い道に入ると、左側に八雲小学校と八雲公園がある。 交差点を二つ横断すると、その先は三叉路で
左から来る京阪北本通と合流した。
右折してこの道に入ると、左側に守口東高校がある。 当日は高校の卒業式だったようで、小さな花束を
持った生徒が校門前で群が
っていた。 学校のはずれの右側に高垣商店があり、その角を右斜めに入る。 この道は左に半円を描く
ようにカーブしているので、道なりに二百メートル程歩くと、また、京阪北本通に出た。 信号交差点を
斜めに横断し、少し進むと左側のマンションの前の繁みに、京街道 一里塚 大名行列 と書かれたレリーフ
があった (右写真)
ここに一里塚があったのかなあと思ったが、大名行列と一里塚の碑が描かれていたので、これ
は京街道を
表しているのだと思った。 その先は右カーブする変則四差路で、右側には山本金属守口工場がある。
少し進むと、右側の家と家の間に細長い土地があり、その奥に守口一里塚の案内板の守口一里塚跡の石碑
が建っていた (右写真)
ここは守口宿の出入口にあたるところだったようで、江戸時代、大名が宿泊や通過する時には、宿場の
宿場役人や庄屋などの村役人が、麻上下などを着てこの一里塚で送迎したとあるので、ここが守口宿の東
見附だったのだろう。
守口宿
一里塚跡を出て進むと、国道1号線の浜町(はままち)交差点に出るので、交差点を斜め
に横断し、対面の道に入る (右写真)
守口宿は、江戸から数えて五十七番目の宿場であるが、宿場になったのは大坂夏の陣の翌年、元和
二年(1616)のことである。 宿場は、京街道の文禄堤に沿って、南北は約十町というから一キロほどの長さ、
東西は約一町(110m)で、宿場には本陣が一軒、問屋が二軒、問屋場
が一軒あった。 しかし、大坂から二里
という近さのため、旅人の宿泊は少なく、また、時代が経過すると淀川舟運が発展し、交通量も少なくなっ
た。 といっても、米、菜種、綿花などの農産物の集散地として重要な機能をはたし、商業活動は活発だっ
たようである。
最初の交差点の手前左側の家の一角に瓶橋旧親柱、渡った先には かめはしの旧親柱がある (右写真)
また、交差点右側の民家の壁には、 京街道 陸路官道第一の驛 守口 と書かれた表示板が
張られていた。
浜町1丁目の通りには古い家がほとんどなく、最近になって建築されたと思える二世代住宅と貸マンション
を兼ねた住宅が多かった。 その先の左側には、東本願寺の末寺の盛泉寺(じょうせんじ)
がある (右写真)
慶長十一年(1606)に教如上人が開基した寺で、本堂は天保六年(1835)に再建されたものである。 また、
大塩平八郎直筆の書簡が寺院に保存されている。 案内板に、 「 幻の遷都に
なった明治元年の大阪行幸の際の内侍所奉安所阯として史蹟となっている。 」 とある。
寺院を過ぎると左右は広い竜田通りに出るが、交差点を越えた左側は難宗寺(なんしゅうじ)
である。 難宗寺は、蓮如上人が開創したと伝えられる寺である (右写真)
前述した来迎寺(現在佐太中町)がかってあった場所で、二百二十年経った文明七年、開山の実尊上人が
建立された跡地には、小さな御堂が残されていた。 出口の光善寺を本拠としていた蓮如上人は、淀川
を利用し、河内、大和、和泉、摂津の布教に過ごされた。 守口へは堺へ
の途中立ち寄り、この御堂で
教えを説かれ、文明九年、その教えに感動した来迎衆は全員揃って真宗に帰依した、とある。 今も
難宗寺の西側に来迎町の地名が残っている。 その左角、難宗寺の塀の一角に四つ石碑が建っている (右写真)
一番左側は 「 左京 すぐ京 」 、次のは 「 すぐ守口街道 」 と刻まれた道標である。 右側の二つは
「 御行在所 」と 「 御假宿所 」の石碑である。
(ご参考) 右から二番目の「 御假宿所 」の碑は、明治四十三年、淀川架橋大演習
の視察で来阪された皇太子(後の大正天皇)が、明治天皇が泊まられた難宗寺行在所に宿泊されたことを指す。
一番右の「 御行在所 」の碑は前述の盛泉寺の内侍所奉安所阯ともからむものである。 慶応四年一月
(九月に明治と改元)、鳥羽伏見で敗れた幕府軍は京街道を橋本、守口と通って敗走し、大阪城に逃げ
込んだ。 それを追う形で、天皇の大阪親征大行進は3月二十日京御所をたち、初日は八幡の行在所。
翌二十一日夜、当寺の行在所に到着され、翌日出発し、大阪の仮御所となった北御堂(津村別院)に入った。
この御親征には大阪遷都の計画があり、三種の神器と文武百官も同行し、守口は一夜の帝都となった、
という出来事だった。
難宗寺は、周りを築地塀で囲み、山門、鐘楼、本堂などがあり、威厳を感じさせる寺院である。 山門の
左側には明治天皇行在所の大きな石柱があり、その左には高さ約二十五メートル、樹齢四百年の大イチョ
ウがあり、大坂府指定天然記念物になっている。 江戸時代に入り、本願寺が分裂した結果、この地の本願寺
門徒は二つに分断されたが、お寺も難宗寺は西本願寺、盛泉寺は東本願寺派となり、それぞれ西御坊と
東御坊と呼ばれるようになった。 お寺を出ると、竜田通りを西に向かう。 この通りは江戸時代から
広かったようで、当時定められていた
二間半(約4.6m)より大巾に広い十五メートルもあったのは
この場所が枚方や大坂への人馬継立てや荷物の受け渡しをする場所だった(問屋場?)ため、という。
道の左側に南大門という焼肉屋があるが、その手前の駐輪場と書かれている
ところが吉田八郎兵衛が務めた守口宿本陣跡である (右写真)
さらに進むと、国道1号線と合流する八島交差点に出る。 交差点の手前に白い蔵を持つ古い
家があり、
標札には白井産業とある。 この家は白井家で、祖先の白井孝右衛門は、大塩平八郎の乱で有名な大塩
平八郎を信奉し、経済的援助もした協力者である。 大塩平八郎は、白井家の書院で近郷の郷士や農民
に出張教授をしていたという (右写真)
白井家のある交差点のあたりに、江戸時代、高札場があったらしい。 八島交差点は五差路だが、交差点
では国道1号線には入らないで、すぐ左側の斜めの道に入る。 ゆるい坂道を
登るとすぐ右側に川東提灯店があり、うだつがある蔵造りの家で、屋根には鐘馗様が祀られている。
道の左側には、京街道と文禄堤の案内板があった (右写真)
文禄堤は、豊臣秀吉が文禄五年(1596)、毛利輝元、小早川隆景、
吉川広家などの毛利一族に命じて淀川左岸に堤を築かせたもので、京街道のうち二十七キロにも及ぶが、
八島交差点からこの先の義天寺までの約一キロの間だけ残っている。 案内板には東海道の五十七番目
の宿場である守口宿が栄えたところであったことや京都からは大坂街道と呼ばれたことも書かれている。
文禄堤上の元宿場の町並みには、連子格子、虫籠窓、うだつのある情緒ある家が残っていた。
少し歩くと、左に下りる石段があり、下り口に 「 右なら
のざきみち 」 と刻まれている小さな道標がある (右写真)
この細い石段の道は来迎坂と呼ばれ、この道は難宗寺の南側を経て、旧奈良街道(後の守口街道)に通じ、
宿場が出来る以前からある守口では一番古い街道である。 先程、難宗寺の塀の一角にあった道標に
「 すく守口街道 」とあったが、そこに通じているのである。
石段を下りて、上を見上げると、石段が急勾配なのには驚いた。
この道は静かな落ち着いたたたずまいであるが、飲食店もあり、京阪守口市駅から近いので、変貌しつつある
ように思えた。 その先にあった本町橋の脇を下ると、駅手前の交差点に出て、駅の近く
の餃子の王将で昼飯をとった。 食事後、外に出て本町橋を見て、文禄堤の高さを確認した (右写真)
坂を上り、本町橋まで戻り、橋を渡ると橋のたもとに文禄堤の案内が書かれた石碑があった。
左手に守口市駅を眺めながら進む。 この文禄堤の京街道は、道幅は一車線余と狭く、車は一方通行に
なっているが、古い建物も残り、宿場町だった情緒が残る道だった。 陸橋の守居橋を渡り、ゆるい坂道
を進むと、右側の建物の外壁に義天寺とある (右写真)
義天寺は、日蓮宗の一派、本門法華宗の本因寺から別れた本門佛立宗の寺で、明治二十三年、開祖の
日扇上人が京都から淀川を下って大阪へ向かう途中、守口の茶店丁子屋で休息
したがここで亡くなり、その由縁で建立されたという。 山門の左側には南無妙法蓮華経と書かれた
、大きな題目碑が建っていた。 題目碑は、かって、豊臣氏の残党を処刑した大坂市野江の仕置場(刑場)
にあったが、明治時代にここに移された、という (右写真)
京街道の文禄堤の道は、真直ぐ進むと下り坂になり、その先の三叉路で終わっていた。 京街道は
三叉路をそのまま進み、日吉公園の西南の角に出て、国道1号線の京阪本通東交差点
へ出ることになるが、今は道が残っていない。 また、三叉路手前、左側のコンクリート塀には、
「 陸路官道第一の驛 守口 」 の大きな表示板が貼られていた (右写真)
文久元年(1861)に発行の名所絵図、淀川両岸一覧には、 「 守口驛は浪華より京師に
上がる陸路の官道第一の驛なり。 高麗橋より此地に至る行程二里。 片町、野田町、野江、内代、
関目、森小路、土居、これを本街道とも言い、東街道(ひがし街道)とも言ふ・・・ 」 とある。
また、この突き当たり辺に、大阪側の見付があったようなので、守口宿はここで終わる。
平成22年(2010) 2月