「  京街道 (大阪街道) を歩く  」

( B 石清水八幡宮から 枚方宿 )


かうんたぁ。


江戸幕府は、東海道の延長として、 道中奉行の管轄下に置き、  京街道(大坂街道)に、、伏見宿 ・ 淀宿 ・枚方宿 ・ 守口宿  の四宿場が設けた。 
京街道の淀宿と枚方宿の間に、 石清水八幡宮があり、八幡町は門前町として、栄えた。 
石清水八幡宮は、大分の宇佐八幡宮から勧請されたという神社で、その創建は貞観元年(859)と古い。 
平安時代には天皇家や公家により、 また、 武家社会になると、武家の守護神として、 源氏の信仰が厚かった。 今でも、厄除けの神様として多くの人々が訪れる。

 
@伏見宿から淀宿 A 淀宿から石清水八幡宮 B 石清水八幡宮から枚方宿(下記)
C 枚方宿から守口宿 D 守口宿から高麗橋   




石清水八幡宮と枚方宿との間に橋本がある。 
幕末の戊辰戦争では、 幕府軍が、 伏見の戦いで敗れ、橋本まで撤収し、  幕府側の敗北が決まったことで有名である。 
明治にに入ると、遊郭が出来て大変賑わったところである。 
枚方は、 順興寺の寺内町として開けたが、 江戸時代に枚方宿が開設されると、  山側から淀川沿いに町の機能が移った。 
枚方宿は、 伏見と大阪の中間に位置する交通の要衝で、 二十石船が寄港したため、  くらわんか舟が繰り出し、 大変賑わった。


◎ 石清水八幡宮から枚方宿

八幡市駅自転車駐車場

八幡市営駐車場の先の交差点を直進すると、 小さな大谷川に架かる橋があり、  その先の右側にコンビニ、その奥に 京阪電車の八幡市駅がある。  京街道は、この交差点を右折するが、 右側のベージュ色の建物は、  八幡市駅自転車駐車場である (右写真)
右側に商店街共同駐車場というものがあるが、商店街はあまりぱっとしない感じである。 
それはともかく、 細い道を歩いていくと、 古い家が何軒か残っているが、 空地も目立ち、
古い家も何年か後には、 消えていくような気がした。 

楠の大木

道は木津川へ近づき、その後は堤防沿いに進む。  この辺りは、 八幡市八幡科手 という地名である。 
左手の線路の向こうには、 「曹洞宗常昌寺」 の看板と、建物が見えた。 
その先の三叉路で、 車が一台通れるかどうかという、 狭い道を直進して行く。 
堤防ののり面に、 樹齢千年近い楠の大木があるのが見えてくる  (右写真)
このあたりは、 橋本尻江町である。 

橋本北ノ町

道はその先で民家に突き当たるので左折し、 続いて、 右折して、 橋本北ノ町を進む。 
道の左側の民家の前に、 文政五年 の 八幡宮常夜燈 が建っている。  少し歩くと、 堤防が接近するところで、 右側から道が合流してきた。  その先の大谷川の橋を渡ると、 三叉路で、道幅のある道に合流する。  右折して進むが、 このあたりは比較的新しい家が多い。 
少し進むと、交差点で、 左折する道の方が、広いところに出る  (右写真)

文政二年建立の道標

交差点の角に、 消防器具庫があり、 その右手には、左に少し傾いている、 文政二年(1819) 建立の 「 右八まん宮山道 是より十六町 」 と書かれた、道標が建っている (右写真)
京街道は、 狭い方の道を直進すると、 左側に、 豊影稲荷大明神を祀る神社があり、  門や塀や庭木のある屋敷や、白漆喰の家が建っている。  その先には、 右側に、橋本郵便局、そして、 神社があった。  突き当たりは三叉路で、 左折すると、京阪橋本駅へいけるが、 京街道は右折である。

柳谷わたし場道標

この道を百メートルほど進むと、 正面に、 トラックが国道の土手の上を走るのが見える三叉路 に出た。 直進すると、淀川の堤防に出るが、 手前に 大谷川に架かる橋があり、その手前の民家の前に、 明治二年 (1869) 建立の 道標が建っている。  道標には、  「 柳谷わたし 」 ・ 「 山ざき あた古わたし場 」 ・ 「 大阪下り舟のり場 」   と、刻まれている (右写真)
道標の前には、  犬や猫に小便をかけられないようにするためか?、水の入ったペットボトルが数本置かれていた。 

橋本遊廓跡

京街道は、三叉路を左折して進むが、ここは橋本中ノ町で、昔は遊郭があったところである。  
「 橋本は、 伏見と大阪を結ぶ京街道にあり、  対岸の山崎とを結ぶ渡しの船着場もある、  交通の要所であった。 江戸時代から料理旅館があったが、 明治以降、  大阪から来た業者達の手で、 遊廓ができた、という。  」   今は、 古い建物が建ち並ぶ静かな街 という感じである (右写真)
遊郭は、京阪電車を利用してくる客が多く、 大繁盛したということだが、 昭和三十三年の売春防止法の実施により、  旅館やアパートなどに転業せざるをえぬようになった。 

欄間

仔細に見てみると、 窓ガラスに、 「スナック」 の文字が残っていたり、  格子や欄間、玄関のタイル細工などに、 料亭や旅館だったことを示す装飾があったりして、  少し前までは飲み屋などの色町だったという気配は、かすかに感じとれた (右写真)
こうした町並みは次の橋本小金川町まで続く。  右側に、 「 ゆ サウナ 橋本湯」 の看板があるあたりが、 橋本の町の外れで、  その先は三叉路になっている。 

農道

直進すると、 坂道になるが、 その先の京阪電車の線路のところで、  京街道は途切れてしまう。 
その手前に、 京阪電車の小金川踏切があるので、 しかたなく、 この踏切を渡り、進む。 
踏切から、約十メートルほど行ったところが、 京都府と大阪府との境界となる。  府境から十メートルほど行くと三叉路で、  右に入る農道のような道があるので、入っていく (右写真)
右手には京阪電車が頻繁に行き来している。 

久修園院

少し歩くと、正面のかなり遠くに、 楠葉駅前の高層マンションが見えるが、それ以外は田畑が広がっているだけである。 この道をのんびり歩いていくと、 左手に、木津寺 がある (右写真)
山門の前には、 枚方市教育委員会が建てた説明板がある。
「 天王山木津寺 久修園院 (てんのうざんこつじ くしゅうおんいん)は、 真言律宗の寺で、 奈良西大寺が本山で、 この寺は別格本山。 本尊は釈迦如来。 霊亀二年(716)に、行基に より、
開基され、神亀二年(725)に落慶された、とされる。 多くの塔頭と伽藍を持つ大寺院だったが、 
元和元年(1615)の大阪夏の陣の兵火で、 大半を失った。 のち、江戸時代の延宝年間に、
宗覚律師により、再建された。 寺には、 枚方市有形文化財指定の宗覚律師作の天球儀と
地球儀がある。 」 

樟葉台場(砲臺)跡案内板

街道に戻り、 少し歩くと、 道の右手に少し入ったところに、「戊辰役橋本砲臺趾」 の石碑と、枚方市教育委員会による説明板「樟葉台場(砲臺)跡」が建っている   (右写真)
 「 慶応元年 (1865) 五月、 江戸幕府は、 大阪港から京都に侵入する外国船に備えるという名目で、 淀川左岸のここ樟葉に、 台場 (砲臺) を築きました。 この台場は、関門の機能をも備えました。 設計の総責任者には勝海舟があたり、 築造には北河内の大工が総動員されました。  」

石碑と案内板

説明板の (続き)   「   当時の設計図によると、 土塁と堀に囲まれた約三万平方メートルの台場内には、 カノン砲が三門 ・ 番所 ・ 火薬庫を備え、 新しく造り換えられた京街道が通っていました。 この砲台は、 黒船が淀川を遡って京都への襲来を防ぐために造られたものだが、 結局、黒船は来なかった。 戊辰戦争では、 幕府軍の小浜藩が砲台を守っていたが、  対岸の高浜砲台を守っていた津藩が官軍に寝返って、 淀川を挟んで交戦状態になった。 」  (右写真 − 石碑と説明板)

久親恩寺

さらに進むと、 交差点となり、直進する道は広い道になった。  なお、交差点を左折して、坂道を上っていくと一大住宅地であるが、ここは京都府八幡市。  しかし、住民は京阪橋本駅ではなく、バスが通る樟葉駅を利用しているようである。 それはともかく、広い道に入り、 最初の三叉路を右折すると、 右側に、「禅(曹洞)宗  久親恩寺」 の石柱があり、 その奥に、モダンな建物がある (右写真)
久親恩寺(くしおんじ)は、 江戸時代、 長州藩の参勤交代時の休憩処だった、といわれる寺である。

石仏群

石柱の左手には今にも崩れそうな門があったが、それは建て替えられる前の山門だったのだろうか? 
寺の奥の墓地には、 石仏が刻まれた石碑の下に、 「八まん道」 と刻まれている道標 などが、  並べられて、 祀られている (右写真)
寺を出て先に進むと、 道は京阪電車の線路に突き当たる。  三叉路を左折して、 京阪電車の線路沿いに進む。   道の左側の金網越しに芝生の先に見えるのは、 楠葉取水場である。 

楠葉中町の民家

その先の三叉路の辺りから、 両脇に住宅が建ち並び、 道路がアンツーカー色に変わった。 
くずは(楠葉)地区では、 京街道と一般道路とを道路の色で分けているようで、  先ほど京阪電車の小金川踏切で分れた京街道は、 この辺りで合流したことになる。 
このあたりは楠葉中町で、 古くからの住民が多いように思えた (右写真)
更に歩くと、町楠葉に入り、 道の左側に、 「松栄山長栄寺参道」 と書かれた石柱が建っている。 

旧京街道(旧国道2号線)道標

住宅が続く直線の道を歩いて行くと、 電柱にある 「町楠葉一丁目」 の標識の近くの道端に、 「 旧京街道 (旧国道2号線) 」 と、書かれた標柱が建っている (右写真)
道は突き当たりになるので、 直角に右折し、 京阪電車の線路のところの三叉路で左折する。 
その先すぐのところで、 道路の色が変わり、 これ以降は京街道ではなくなる。  京街道は、 右側にある京阪電車の線路を斜めに横断するのだが、 現在は道がないので、  このまま進むことになる。 

府道13号線

二百メートルほど歩くと、 繁華街の一角になり、  パチンコ店の角で、 府道18号線が、左右に通る交差点に出る。  交差点を直進すると、 京阪楠葉駅前にある楠葉モールへ出るが、 京街道に出るため、  交差点を右折して、 京阪本線のガード下をくぐる。  ガードの先は左右とも一方通行になっているが、  この道が旧京街道で、 先ほど京阪電車の踏切で別れた京街道がここで合流する。  道を左折すると、 府道13号線 (府道京都守口線) に出る (右写真)

樋之上北交差点

左側に、京阪本線樟葉駅と超高層ビルがあり、  右手には 「淀川」 の看板と、河川敷には 「楠葉パブリックゴルフ場」 のコースがある。  13号線を京阪電車沿いに、 河川敷を見ながら、南へ歩いて行く。 千三百メートル程歩くと、 道はゆるい下り坂になり、 樋之上北交差点に出る (右写真)
時計を見ると、十三時四十二分。  楠葉駅前の楠葉モールで昼飯をとればよかったのだが、遠回りになると思って歩くところに店はないかと思っている内、この時間になってしまった。  道の反対を見ると、「軽食と喫茶 リーベ」 の看板があり、 車が何台か停まっていた。  交差点を横ぎり、店内に入る。

樋之上交差点

メニューからパスタセットを頼み、休憩となった。  客数が少ないので、 すぐ出てくると思っていたのが間違い。  女店主は、 麺だけでなく、味付けも手作りとあり、 二十分以上もかけてやっと出てきた。  胡椒が効きすぎかと思えたが、味は合格。 珈琲も旨かったが、ここで四十分ほどの滞在となった。
先程の場所まで戻り、旅を再開。 道を直進すると樋之上町にある信号交差点の手前に左斜めに入る細い道がある (右写真)

祠と道標

これが京街道で、 左側に樋之上公民館があるが、 その前を通り進んでいく。  しかし、住宅地の中を二百メートル程歩くと、 船橋川の土手にぶつかってしまう。  京街道は本来は直進するのだが、 橋がないので、 土手沿いに右に八十メートルほど迂回して、  先程の府道13号線の楠葉側道橋を渡り、 京街道に入るため、 川沿いに戻ってきて、 二股になった道の右の方の坂道を下っていく。  途中の土手に、地蔵を祀る祠があり、 その脇に道標が建っている (右写真)

白漆喰の家

道標には、 「 八幡宮 参宮道  橋本へ一里 」 と、書かれており、 八幡宮は、 石清水八幡宮のことである。 この地点で、 先程、 川の反対側でなくなった京街道が復活する。 
道は左右にカーブするが、 上島町の住宅の中を進むと、 左に、京阪電車の踏切のある交差点に出る。 線路沿いに進み、とうかえで の道を横断し 、小さな橋を渡ると 牧野下島町になる。  坂道になった道を上っていくと、 右側の低くなったところに、 虫籠窓の白漆喰の家が建っている (右写真)

片埜神社標識

踏切の交差点から六百メートル程歩いたと思えるところに、 車が多く通る踏切があり、 その先には京阪の牧野駅がある。京街道は、駅舎を斜めに横断し、 穂谷川の西側の川沿いに出るのだが、 現在は通行できない。 駅舎の手前の踏切を渡り、 穂谷川の上に建てられた、牧野駅の左側を通りぬけることにする。  駅の一角に、 「片埜神社」 の朽ちた標識がある (右写真)
「 垂仁天皇の時、 野見宿彌が、 当麻蹴速を角力で破った功により、 この地を賜って、 須佐之男命 を祀った 」  と、 社伝にある古社で、 豊臣秀吉は、 大阪築城の際には、 艮(東北) の方位に
あたるこの社を、鬼門鎮護の社と定めて、 尊崇した、という。 古くは 「一の宮牛頭天王」 と
称されていたが、 明治以降、現在の名前になった。   」

京阪電車の黄金町一丁目踏切

慶長七年(1602)、豊臣秀頼により造営された本殿は、国の重要文化財に指定されている。 
駅の脇を通りぬけ、  そのまま進むと突き当たるので、 左折して進むと、 阪今池公園がある。 
公園の脇を進むと黄金町一丁目のはずれで、 道は右にカーブし、京阪電車の踏切にでる (右写真)
(注) 公園入口、片埜神社への参道の両側にある、常夜燈は、 享和元年(1801)建立、  台座の左側には 「京都」、右側には「大坂」 と刻まれていて、 道標の役割も果たしている。

三栗交差点

踏切を渡ると、 三栗(めぐり)一丁目。 住宅街を西へ進むと、 右に浄土宗清伝寺、  その先の左の三栗郵便局前を過ぎると、 府道13号線の 三栗交差点に出る (右写真)
京街道は、 直進の狭い道に入る。 道は左にカーブし、 三百メートル程行くと、  三栗南交差点で、 この道は、再び。府道13号線に合流してしまう。 
吉野屋の前の 「農道」 と書かれた標識は、 京街道のあったことを示しているような気がした。 

磯島交差点

府道を歩いて行くと、 渚西交差点で、 京阪電車の線路沿いになり、  さらに進み、御殿山駅の脇を通り、 ひたすら歩き続ける。 やがて、 磯島交差点に到着。  三栗南交差点から、磯島交差点までは、千五百メートル程か?    磯島交差点で、府道とは、別れを告げて、 京街道は左手斜めの細い道に入る (右写真)
三百メートル歩くと、ベージュ色の家があるが、 その右側の道を進み、 二百メートル程いくと、  天野川の土手に遮られる。  このあたりに一里塚があったとあるが、その跡は分からなかった。 

鵲橋

説明板 「 天野川は、四條畷市を源流とし、 淀川に合流する川で、 流れが美しかった。  その姿は、 天上の天の川 と見なされ、 平安貴族があこがれる歌どころだった。  京街道には木橋が架けられていたが、 紀州藩徳川家が参勤交代で渡る時は、  その上流に、 土橋の仮橋が架けられた。  」
今は橋がないので、 右折して八十メートル程歩くと、 鵲橋(かささぎばし)がある (右写真)
説明板の続き 「 天野川に橋が架けられて後、 中国の七夕説話 「 天の川にかささぎの群れが
集まって橋となり、 牽牛と織姫との橋渡しをする 」 に因んで、 鵲橋と呼ばれるようになった。 」

川を越えると、枚方宿である。 
岩清水八幡宮へ立ち寄ったので、 枚方に着いたのは夕方であった。


旅をした日          平成二十二年(2010)一月十八日



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