@伏見宿から淀宿 | A 淀宿から石清水八幡宮 | B 石清水八幡宮から枚方宿 |
C 枚方宿から守口宿 | D 守口宿から高麗橋 |
石清水八幡宮と枚方宿との間に橋本がある。 幕末の戊辰戦争では、幕府軍が伏見の戦い
で敗れ、橋本まで撤収し、幕府側の敗北が決まったことで有名である。 明治にに入ると、遊郭が出来て
大変賑わったところである。 枚方は順興寺の寺内
町として開けたが、江戸時代に枚方宿が開設されると、山側から淀川沿いに町の機能が移った。 枚方宿は伏見
と大阪の中間に位置する交通の要衝で、二十石船が寄港したため、くらわんか舟が繰り出し、大変賑わった。
石清水八幡宮から枚方宿
八幡市営駐車場の先の交差点を直進すると、小さな大谷川に架かる橋があり、その先の右側にコンビニ、その奥に
八幡市駅がある。 京街道は、この交差点を右折するが、右側のベージュ色の建物は八幡市駅自転車駐車場
である (右写真)
右側に商店街共同駐車場というものがあるが、商店街はあまりぱっとしない感じである。 それはともかく、
細い道を歩いていくと、古い家が何軒か残っているが、空地も目立ち、古い家も
何年か後には消えていく
ような気がした。 道は木津川へ近づき、その後は堤防沿いに進む。 この辺りは八幡市八幡科手という
地名である。 左手の線路の向こうには曹洞宗常昌寺の看板と建物が見えた。 その先の三叉路で、車が一台
通れるかどうかという狭い道を直進して行くと、堤防ののり面に樹齢千年近い楠の大木があるのが見えてきた
(右写真)
このあたりは橋本尻江町で、道はその先で民家に突き当たるので左折し、続いて、右折して
橋本北ノ町を進む。 道の左側の民家の前に文政五年の八幡宮常夜燈が建っていた。
少し歩くと、堤防が接近するところで、右側から道が合流してきた。 その先の
大谷川の橋を渡ると、三叉路で道幅のある道に合流するので、右折して進むが、このあたりは比較的新しい家が
多い。
少し進むと、交差点で左折する道の方が広いところに出た (右写真)
交差点の角に消防器具庫があり、その右手には、左に少し傾いている、文政二年(1819)
建立の 「 右八まん宮山道 是より十六町 」と書かれた道標が建っていた (右写真)
京街道は狭い方の道を直進すると、左側に豊影稲荷大明神を祀る神社があり、門や塀や庭木のある屋敷や白漆喰の
家が建っていた。 その先には右側に橋本郵便局そして神社があった。 突き当たりは三叉路で、左折すると京阪
橋本駅へいけるが、京街道は右折である。
この道を
百メートルほど進むと、正面にトラックが国道の土手の上を走るのが見える三叉路に
出た。 直進すると、淀川の堤防に出るが、手前に大谷川に架かる橋があり、その手前の民家の前に明治二年
(1869)建立の 「 柳谷わたし 」 「 山ざき あた古わたし場 」 「 大阪下り舟のり場 」 の道標が
建っていた (右写真)
犬や猫に小便をかけられないようにするためか?、水の入ったペットボトルが数本置かれていた。 京街道は、
三叉路を左折して進むが、ここは橋本中ノ町で、昔は遊郭があったところである。 橋本は伏見と大阪を結ぶ京街道
にあり、対岸の山崎とを結ぶ渡しの船着場もある交通
の要所だったので、江戸時代から料理旅館があったが、明治以降、大阪から来た業者達の手で遊廓ができた、という
が、今は古い建物が並ぶ静かな街という感じである (右写真)
遊郭は、京阪電車を利用してくる客が多く、大繁盛したということだが、昭和三十三年の売春防止法の実施により、
旅館やアパートなどに転業せざるをえぬようになった。 伏見の中書島遊郭もその時、廃業している。 仔細に
見てみると、窓ガラスにスナックの文字が残っていた
り、格子や欄間、玄関のタイル細工などに料亭や旅館だったことを示す装飾があったりして、少し前までは
飲み屋などの色町だったという気配はかすかに感じとれた (右写真)
こうした町並みは次の橋本小金川町まで続く。 右側にゆサウナ 橋本湯の看板があるあたりが橋本の町外れで、
その先は三叉路になっている。 直進すると坂道になるが、その先の京阪電車の線路のところで、京街道は
途切れてしまうのである。 その手前に京阪電車の
小金川踏切があるので、しかたなく、この踏切を渡り進む。 踏切から約十メートルほど行ったところが京都府
と大阪府との境界となる。 府境から十メートルほど行くと三叉路で、右に入る農道のような道があるので、
入っていく (右写真)
右手には京阪電車が頻繁に行き来している。 少し歩くと、正面のかなり遠くに、楠葉駅前の高層マンション
が見えるが、それ以外は田畑が広がっているだけである。 この道をのんびり
歩いていくと、左手に黄色い塀に囲まれた寺院が目に入ったので、門の方へ近づいていくと、天王山木津寺
(てんのうざんこつじ) 久修園院(くしゅうおんいん)という寺だった
(右写真)
寺の山門の前には、枚方市教育委員会の案内板があり、 「 天王山木津寺 久修園院は、真言律宗の寺で、奈良
西大寺が本山で、この寺は別格本山。 本尊は釈迦如来。 霊亀二年(716)に行基により開基され、神亀二年(725)
に落慶された、とされる。 多くの塔頭と伽藍を持つ大寺院だったが、元和元年(1615)の大阪夏の
陣の兵火で、
大半を失った。 のち、江戸時代の延宝年間に宗覚律師により再建された。 寺には、枚方市有形文化財指定の
宗覚律師作の天球儀と地球儀がある。 」 とあった。 街道に戻り、少し歩くと道の右手に少し入った
ところに、戊辰役橋本砲臺趾の石碑が建っていた (右写真)
傍らの枚方市教育委員会の案内板には、 「 樟葉台場(砲臺)跡 慶応元年(1865)五月、江戸幕府は
大阪港から京都に侵入する外国船に備えるという名目で、淀川左岸のここ樟葉に台場(砲臺)を築きました。
この台場は関門の機能をも備えました。 設計の総責任者には勝海舟があたり、築造には北河内の大工が
総動員されました。
当時の設計図によると、土塁と堀に囲まれた約三万平方メートルの台場内には、カノン砲が三門、番所、火薬庫
を備え、新しく造り換えられた京街道が通っていました。 」 とある (右写真)
この砲台は、黒船が淀川を遡って京都への襲来を防ぐために造られたものだが、結局、黒船は来なかった。
戊辰戦争では、幕府軍の小浜藩が砲台を守っていたが、対岸の高浜砲台を守っていた津藩が官軍に寝返って、
淀川を挟んで交戦状態になった。 さらに進むと交差
点となり、直進する道は広い道になった。 なお、交差点を左折して、坂道を上っていくと一大
住宅地であるが、ここは京都府八幡市。 しかし、住民は京阪橋本駅ではなく、バスが通る樟葉駅を利用している
ようである。 それはともかく、広い道に入り最初の三叉路を右折すると、右側に禅(曹洞)宗 久親恩寺の石柱があり、
その奥にモダンな建物があった (右写真)
久親恩寺(くしおんじ)は、江戸時代、長州藩の参勤交代時の休憩処だったといわれる寺であるが、
コンクリートの建物になっていた。 石柱の左手には今にも崩れそうな門があったが、
そこが建て替えられる前の山門だったのだろうか? 寺の奥の墓地には、石仏が刻まれた下に、八まん道が刻まれて
いる道標などが並べられて祀られていた (右写真)
寺を出て先に進むと、道は京阪電車の線路に突き当たるので、三叉路を左折して、京阪電車の線路沿いに進む。
道の左側の金網越しに芝生の先に見えるのは楠葉取水場である。 その先の三叉路の辺りから両脇に住宅が建ち
並び、道路がアンツーカー色に変わった。
くずは地区では、京街道と一般道路とを道路の色で分けているようで、先ほど京阪電車の小金川踏切で分れた
京街道とは、この辺りで合流したことになる。
このあたりは楠葉中町で、古くからの住民が多いように思えた (右写真)
更に歩くと、町楠葉に入り、道の左側に松栄山長栄寺参道と書かれた石柱が建っていた。
住宅が続く直線の道を歩いて行くと、電柱にある町楠葉一丁目の標識の近くの道端に、
「 旧京街道 (旧国道2号線) 」 と書かれた標柱が建っていた (右写真)
道は突き当たりになるので、直角に右折し、京阪電車の線路のところの三叉路で左折する。 その先すぐのところ
で道路の色が変わり、これ以降は京街道ではなくなる。 京街道は右側にある京阪電車の線路を斜めに横断する
のだが、現在は道がないのでこのまま進むことになる。 二百メートルほど歩くと、繁華街の一角になり、
パチンコ店の角で、府道18号線が
左右に通る交差点に出る。 交差点を直進すると、京阪楠葉駅前にある楠葉モールへ出るが、京街道に出るため、
交差点を右折して京阪本線のガード下をくぐる。 ガードの先は左右とも一方通行になっているが、
この道が旧京街道で、先ほど京阪電車の踏切で別れた京街道がここで合流するので、道を左折すると、府道13号線
(府道京都守口線)に出る (右写真)
左側に京阪本線樟葉駅と超高層ビルがあり、右手には淀川の看板と河川敷には楠葉パブリ
ックゴルフ場のコースがある。 13号線を京阪電車沿いに、河川敷を見ながら南へ歩いて行く。
千三百メートル程歩くと、道はゆるい下り坂になり、樋之上北交差点に出た (右写真)
時計を見ると、十二時四十二分。
楠葉駅前の楠葉モールで昼飯をとればよかったのだが、遠回りになると思って歩くところに店はないかと思って
いる内、この時間になってしまった。 道の反対を見ると、軽食と喫茶 リーベの看板があり、車が何台か停まって
いた。 交差点を横ぎり
店内に入り、メニューからパスタセットを頼み、休憩となった。 客数も少ないので、すぐ出て
くると思っていたのが
間違い。 女店主は、麺だけでなく、味付けも手作りとあり、二十分以上もかけてやっと出てきた。 胡椒が効きすぎ
かと思えたが、味は合格。 珈琲も旨かったが、ここで四十分ほどの滞在となった。 先程の場所まで戻り、旅を再開。
道を直進すると樋之上町にある信号交差点の手前に左斜めに入る細い道がある (右写真)
これが京街道で、左側に樋之上公民館があるが、その前を通り進んでいく。 しかし、住宅地
の中を二百メートル程歩くと、船橋川の土手にぶつかってしまう。 京街道は本来は直進するのだが、橋がない
ので、土手沿いに右に八十メートルほど迂回して、先程の府道13号線の楠葉側道橋を渡り、京街道に入るため、
川沿いに戻ってきて、二股になった道の右の方の坂道を下っていくと途中の土手に、地蔵を祀る祠があり、その脇に
道標が建っている (右写真)
道標には、 「 八幡宮 参宮道 橋本へ一里 」 と書かれており、八幡宮は石清水八幡宮
のことである。 この地点で、先程、川の反対側でなくなった京街道が復活する。
道は左右にカーブするが、上島町の住宅の中を進むと、左に京阪電車の踏切のある交差点に出る。
線路沿いに進み、とうかえでの道を横断し、小さな橋を渡ると牧野下島町になる。 坂道になった道を上って
いくと、右側の低くなったところに虫籠窓の白漆喰の家が建っていた (右写真)
踏切の交差点から六百メートル程歩いたと思えるところに、車が多く通る踏切があり、その先
には京阪の牧野駅がある。 京街道は駅舎を斜めに横断し、穂谷川の西側の川沿いに出るのだが、現在は通行
できない。 駅舎の手前の踏切を渡り、穂谷川の上に建てられた牧野駅の左側を通りぬけることにする
。 駅の一角に片埜神社の朽ちた標識が立っていた (右写真)
「 垂仁天皇の時、野見宿彌が当麻蹴速を角力で破った功によりこの地を賜って、須佐之男命を
祀った 」と社伝にある古社で、豊臣秀吉は大阪築城の際には艮(東北)の方位にあたる
此の社を、鬼門鎮護の社と定めて尊崇した、という。 古くは一の宮牛頭天王と称されていた
が、明治以降、現在の名前になった。
慶長七年(1602)、豊臣秀頼により造営された本殿は、国の重要文化財に指定されている。 駅の脇を通りぬけ、
そのまま進むと突き当たるので、左折して進むと阪今池公園がある。
公園の脇を進むと黄金町一丁目のはずれで、道は右にカーブし、京阪電車の踏切にでる (右写真)
(注) 公園入口、片埜神社への参道の両側にある
常夜燈は享和元年(1801)建立、台座の左側には 京都、右側には大坂と刻まれていて、道標の役割も果たしている。
踏切を渡ると三栗(めぐり)一丁目。 住宅街を西へ進むと、右に浄土宗清伝寺、その先の左の
三栗郵便局前を過ぎると、府道13号線の三栗交差点に出る (右写真)
京街道は直進の狭い道に入る。 道は左にカーブし、三百メートル程行くと、
三栗南交差点で、この道は再び府道13号線に合流してしまう。 吉野屋の前の農道と書かれた標識は京街道の
あったことを示しているような気がした。 府道を歩いて行くと、渚西交差点で京阪電車の線路沿いになり、
さらに進み、御殿山駅の脇を通り、ひたすら歩き続ける。
やがて磯島交差点に到着。 三栗南交差点から磯島交差点までは千五百メートル程か?
磯島交差点で、府道とは別れを告げて、京街道は左手斜めの細い道に入る (右写真)
三百メートル歩くとベージュ色の家があるが、その右側の道を進み、二百メートル程いくと、天野川の土手に
遮られる。 このあたりに一里塚があったとあるが、その跡は分からなかった。 天野川は、四條畷市を源流
とし、淀川に合流する川で、流れが美しかった。 その姿は天上の天の川と見なされ、平安貴族があこがれる
歌どころだった。 京街道には木橋が架けられて
いたが、紀州藩徳川家が参勤交代で渡る時は、その上流に土橋の仮橋が架けられた。
今は橋がないので、右折して八十メートル程歩くと、鵲橋(かささぎばし)があった (右写真)
川に橋が架けられて後、中国の 「 天の川にかささぎの群れが集まって橋となり、牽牛と
織姫との橋渡しをする 」 という七夕説話に因んで、鵲橋と呼ばれるようになったという。
川を越えると、枚方宿に入る。
枚方(ひらかた)宿
鵲橋を渡ると左折して、川沿の坂道を進む。 橋から八十メートルほど下ると、三叉路になり、そこには堤防を
バックに枚方宿東見付跡碑や東見付の説明板が建っていた (右写真)
枚方は牧方とも書かれたが、日本書紀に 「 ひらかたゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の稚子 い笛吹き上る 」
という歌が書かれているように、古くからある土地である。
室町から戦国時代にかけては、枚方城の城下町でもあり、また、浄土真宗の寺院の門前町
だったようだが、桃山時代の終りになると共に、城は廃城になり、寺の
勢力も衰えていった。 なお、天野川の対岸で別れた京街道は、東見付のここからまた始まる (右写真-天野川)
江戸時代の慶長六年(1601)に幕府により、岡新町村、岡村、三矢村、泥町の四つの村が
枚方宿に指定され、岡新町の東見付から泥町の西見付まで淀川に平行して、長さ十三町十七間(1477m)の長い
宿場町が誕生した。 また、元禄二年(1689)には、旗本久美氏の長尾陣屋が設けられた。
案内板には、 「 東見附は天野川に接する枚方宿の東端で、道の両側に柵に囲まれた
松が植えられていました。 河内名所図会(享和元年ー1801) 天川 には淀、伏見方向へ向かう大名行列が天野川の橋に
差しかかり、見送りに出た宿役人が東見附で待ち受ける光景が描かれています。
元文二年(1737)の岡新町村明細帳によると、天の川には長さ17間、幅3間1尺の木橋が架かっていました。
」 とあり、当時の天野川とかささぎ橋の様子が描かれていた (右写真)
枚方宿は、天保十四年(1843)に編纂された宿村大概帳によると、三矢村を中心に本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠が
六十七軒あった、とある。 枚方は伏見と大阪の中間地点にあり、 淀川
の京都伏見と大阪八軒屋浜とを結ぶ三十石船の寄港地でもあり、また、対岸に渡る渡しもあったので、陸上の交通の要衝として重要な位置を占めていた。
道を右折し、道なりに進む通りは宿場の面影が残っている。 入ってすぐ左側には小野平右衛門住宅がある (右写真)
小野家は江戸中期より、村年寄と問屋役人という要職を務めた家柄である。 当家には、正徳六年(1716)建築の古図
と鬼瓦があるが、現在の建物は幕末だろうとのこと。 街道に面した広い間口の建物で、白漆喰の壁に袖卯建が
上がり、表門口には揚見世(地方によっては、ばたんこといわれる)や下げ戸が現存している。
このあたりには、江戸時代、左側に町飛脚、右側
に郷倉があったはずだが、その跡は確認できなかった。
三百メートルも歩かないうちに、ラポール枚方前信号交差点から続く大通りがある交差点に出た。 交差点の
左手には京阪枚方市駅がある。 交差点を直進すると、三叉路というか、変則的な交差点に出た (右写真)
駐車場の左の空間の一角に枚方橋跡の石碑が建っていた。
石碑は二本あり、一つは枚方橋と書かれた橋柱の形をしているもの。
もう一つは安尾川枚方橋跡とある石柱で、東見附
などへの道標を兼ねたものだった。 江戸時代の枚方橋は土橋だったようだが、交差点の地形から考えると枡形になっていたのではないか?
ここは道なりに斜め左に進むと、正面の交差点に東急リバブルと書かれた黄色いビルが見えてくる (右写真)
交差点まで行くと、枚方駅へ行き来する人通りは多い。
黄色い建物の一角には、正面に「右 大坂ミち」側面に 「 右 くらしたき 是之四十三丁、左 京六リや王(わ)た二リ 道」 、「願主
大阪 和泉屋次右衛門 近江屋又兵衛 綿屋伊兵衛 小豆嶋屋勘右衛門」とある文政九丙戌年(1826)十一月建之の道標があるが、ここが
京街道と磐船街道とのの追分だった。 交差点の左側のBARBAR SHIKITAの角に、宗佐の辻と書かれた道標が建っている (右写真)
宗佐の辻とは、角野宗佐の屋敷があったことからそう呼ばれたようで、 「 送りましようか、送られましょう
か、せめて宗左の辻までも 」 と俗謡にあるように、遊郭から客が帰るときに遊女がこの宗佐の辻まで見送ったという。
江戸時代にはこのあたりのどこか分からぬが、紀州
徳川家の七里飛脚所があった。 交差点を右折し、江戸時代は岡村だった通りを進むと、ラポール枚方南信号交差点から続く大通りの
交差点である (右写真)
交差点の右側にあるビルはSATYなどが入っているビオルネだが、その前に、京街道(枚方宿)、側面に←
特別史跡百済寺跡の道標が建っていた。 枚方宿は京都伏見と大阪高麗橋のほぼ中間の二十キロにあり、陸上の
交通の要衝として繁栄したが、幕末が近くなると、船便に
より伏見から大坂までいく旅人が多くなり、枚方宿の経営は難しくなっていった。
ビオルネビルの脇を通るブロック舗装の歩道を歩くと、左側に岡本町公園があり、京街道と枚方宿という案内板があった (右写真)
「 枚方市は淀川に面して、古くから交通の要衝であったが、中世末に願興寺(願生坊)の寺内町として町づくりが
始まった。 豊臣秀吉は淀川左岸に文禄堤を築いたが、その堤が、江戸
時代になって京街道になって整備された。 この公園の街路の飛石が旧京街道の中心線である。 ・・・ 」 と記されているが、歩道に色の濃い
四角のブロックが一直線に敷かれているのは、そのことを示している。 ビオルネ側にあった、東海道
枚方宿の案内板には、東見附から西見附までの地図や主な史跡の案内が記されていた (右写真)
ビブレ歩道は公園までで、その先の交差点を横断して進むと、道幅も街並みもがらっと変わる。
通りの道幅は江戸時代当時の道幅のままではないかと思えるし、宿場を思わせるような情緒が残って
いる。 交差点の先の左側には、宿場にマッチさせて、最近改装されたと思われる建物、マンションは景観を損
なわないように建設されている (右写真)
そうして心使いが大阪に近い大都市で行われているのはうれしいなあ、と思いながら歩いていくと、交差点の
先の三叉路の右側に、旧三矢村岡村の村界と書かれた道標が建っているが、
ここは岡村と三矢村の境界にあたる。 ビオルネ前の東海道 枚方宿の案内板に、三叉路の手前に下井戸跡と
書かれてが、これは何を意味するものだろうか? 道標の隣
には、「 妙見宮 」「 他力 」「 開運講 」 と書かれた文政十二年(1829)建立の常夜燈があった (右写真)
その先に見えるのは歴史を感じさせる建物である。 枚方の伝統的建物は、広い間口と出格子、漆喰塗りの
連なる虫籠窓の構成で出来ている。 この通りの古い建物には、この伝統的
な構成をしたものが多い。 江戸時代、三矢村は枚方宿の中心をなし、本陣や脇本陣、問屋場など、宿場の機能の中核をなしていた。
三叉路の左側にある専光寺の塀の一角には、枚方市が建てた高札場跡(札の辻)の道標が
建っていたが、江戸時代にはその手前あたりに脇本陣があったようである (右写真)
そこから少し行くと、右側には白漆喰の壁に袖卯建のある建物があるが、江戸中期、享保
年間に塩問屋として創業した塩熊商店の小野家が店舗兼母家として使用していたもので、現在はくらわんか
ギャラリーという名前で、郷土品展示や民芸品の販売を行っている (右写真)
この建物は明治二十九年に火災後再建したものという。
くらわんかとは、淀川舟便の三十石船が枚方浜へ寄港すると、小舟で漕ぎ寄せ、船客相手に 「 さあさあ、
飯くらわんかいっ! 酒くらわんかいっ! あん餅くらわんかいっ! みな起きくされっ! なんじゃい、
銭がのうて、ようくらわんか? 」 と、威勢のよい声で寝ている人までたたき起し、酒や飯を売り付けたかけ
声のことである。 東海道五十三次を書いた十辺舎一九は、享保二年(1802)に三十石船とくわらんか舟を書いて
いる。 また、広重の京都名所之内 淀川の浮世絵にも、三十石船に煮たきをするくわらんか舟が接近している絵が
描かれている (右写真)
その先の交差点の先の右側は工事用塀に囲まれていた。 その角に枚方市が建てた本陣跡と淀川旧枚方浜への矢印
の付いた道標が建っていた。 江戸時代、工事柵に囲まれたあたり
に池尻善兵衛家が営む本陣があり、御三家の紀州徳川家や西国大名が参勤交代で宿泊し、第十五代将軍、
徳川慶喜も宿泊したところである (右写真)
右側の三矢町7のマンションの角に、「 すく國道第二号路線京道 左枚方
街道渡場 」と書かれた道標がある。 その先、左側の卯建のある旧家の角に 「 大阪、京街道 旧三矢村 」
「 志賀美神社→ 」と書かれた道標があり、坂口医院の間の道を行くと、京阪の踏切の先に
願生坊、さらに先に、志賀美神社がある。 願生坊は、永正11年(1514)、蓮如上人の子で
本願寺第九世、実如
上人が開基し、後に願生坊となり、西御坊の浄念寺に対して東御坊と呼ばれる寺院である。 時間の関係から
寄らずに進むと、坂口医院のすぐ先は右そして左に屈折する枡形となっている。 その角に西御坊の浄念寺がある
(右写真)
門前に浄土真宗と枚方寺内町の看板があり、以下のように記されていた。
「 枚方は浄土真宗とゆかりの深いところである。 永禄二年(1519)に蓮如上人の子、実従が順興寺に入寺し、
一家衆(本願寺宗主の一族)寺院として栄えた。 枚方
はこの寺を中心に、蔵谷、上町、下町などの町場が形成され、商人など多くの人々が住んだ。 このような
真言寺院を中心とした集落を寺内町という。 しかし、本願寺勢力の低下とともに、順興寺は廃止され、寺内町
は衰退した。 江戸時代に入り、淀川に沿って枚方宿が形成され、台地上にあった都市機能も宿場に移って
きたと考える。 本願寺の東西分裂後、東本願寺は再興された寺院に願生坊の名を与え、西本願寺は浄念寺
を本寺兼帯所として特別な扱いをした。 人々は願生坊を東御坊、浄念寺を西御坊と呼ぶようになった。 」
(右上図ー河内名所図会 枚方万年寺)
河内名所図会に描かれている万年寺は万年寺山の山頂にあった寺であるが、明治維新により、廃寺になった。
その跡は梅園などになっている。 浄念寺の前を左折すると、枚方パークハイツ手前に道標があるので、鍵屋資料館
の方へ右折する。 この辺りは当時の泥町村で、少し行くと右側に、枚方宿の問屋役人だった木南家の古い重厚な屋敷
がある (右写真)
旧枚方宿問屋役人 木南喜右衛門 屋号は田葉粉屋とある案内板には、
「 木南家は楠木一族の後裔で、江戸時代
初期から庄屋と問屋役人を兼ね、また、くらわんか
船の茶船鑑札を所持し、枚方宿と泥町村の運営に大きな影響を行使した。 現在の建物は明治期の建築で、長い
間口に出格子と虫籠窓が連なる伝統的な表屋造りで、広い敷地内に四棟の土蔵を配している。 」 とあった。
建物が建つ先の塀の角に枚方船番所跡の道標があり、右折した先に古い石柱が建っているのが見える (右写真)
道を挟んで淀川舟運 枚方浜(問屋浜)跡の案内板があるが、江戸時代にはこの辺りまでが
淀川の浜で、船高札場と船番所があった。 船番所では、淀川を往復する過書船、伏見船、
二十石船の検閲を行っていた。 過書船とは、幕府が営業許可を与えた船が関所を通過できる令状で、これを備える船である。
街道に戻り、直進すると右側に鍵屋の軒行灯を掲げ、白漆喰の建物に垂れ幕を張った鍵屋資料館があった
(右写真)
鍵屋は、淀川で京都と大坂を往復する三十石船の船待ち客や街道の旅人が泊まる船宿を営んでいた。 創業は天正年間
(1573〜1592)というから古く、淀川三十石船唄に 「 鍵屋浦には碇(いかり)はいらぬ、三味や太鼓で
船止める 」 と唄われた老舗である。 京阪電車が開通
して、船運がなくなった後は平成九年まで料亭を営んでいたが、平成十三年、市立枚方宿鍵屋資料館となった。
現在の鍵屋の主屋は、文化八年(1811)の建築である (右写真-内部)
表玄関は京街道に面し、裏口は淀川に接した岸辺にあり、三十石船の乗降に最適な構造になっていた。 三十石船は、
淀川の京都伏見と大阪八軒屋浜を結び、二十八人の乗客を乗せ、それを船頭四人と臨時の引き子数人で川の上り下り
行っていた。 淀川は底が浅いため、櫓は使えないため、棹を操り、それで上れないところは岸から引いていた。
朝出て夕べに着く
船を昼舟といい、夕べに乗って朝に至るのを夜舟といっていた。 伏見からの出航は夜に
出て、早朝に着くのが一般的だったが、その船が枚方へ寄港すると、くらわんか船が漕ぎ寄せてきた訳である。
上りと下りでは労力に違いがあるため、船賃は上りは下りの2倍以上であったようである。 また、享保の頃の
下りは七十二文だったが、幕末の繁忙期にはその倍になったこともある。 道を進み交差点に出ると、右角に
西見付案内板が建っていた (右写真)
ここには、かり(草かんむりに刈という字)捨高札場があり、枚方宿の西のはずれだった。
これで枚方宿は終わる。
ご参考:
田辺聖子さんの書かれてた姥ざかり花の旅笠(集英社文庫)に枚方に関する記述があるので、参考までに転載
させていただくことにしたい。 この本は、天保十二年に旅した小田宅子が書き残した東路日記をもとにしたものである。
『 宅子さんらは三十石舟に乗った。 淀川の水車もなつかしかった。 いざ大阪へ。 見え渡るたる御城うる
わしくというのは稲葉丹後守さま十万二千石の淀城だろう。 あれが石清水八幡、こちらが山崎、などとさしながら
のうちに舟は下る。 岸の柳は長雨に水隠れているのも面白い。 はや、河内の国、枚方である。 東海道分間延
絵図で見ると、満々たる淀川の岸に過書役場、伏見船役所が書きこまれている。 川
舟の監視所で通行する舟から運上金を徴収する。 それより有名なのはくらわんか舟だろう。 三十石
舟に漕ぎ寄せて、船客に飲食物を売りつける小舟であるが、口汚いので有名。 「 くらわんか、くらわんか、
牛蒡汁、あん餅くらわんか、巻ずしどうじゃ、酒くらわんかい、銭がないのでようくらわんかい 」
(東海道分間延絵図)
その由来、といっても伝説であるが、徳川家康が大阪夏の陣で淀川べりまで追われ、渡るに舟がなくて
あわやというところ、漁夫が舟を漕ぎ寄せ、危急を救った。 戦後その恩賞として漁夫の望みにまかせ、
淀川の上がり下りの船客に飲食類の一手販売を許したという。 それゆえその悪口も天下御免の悪口
としているそうな。 枚方には遊女町もあった。 「 ここは枚方鍵屋の浦よ 鍵屋浦には碇はいらぬ、
三味や太鼓で船とめる(淀川三十石船歌) 」
と書かれていて、当時の枚方の様子が目に浮かぶの気がしたが、皆様はどう思われたでしょうか!!
平成22年(2010) 1月