京街道(続き)  


@伏見宿から淀宿 A 淀宿から石清水八幡宮 B 石清水八幡宮から枚方宿
C 枚方宿から守口宿 D 守口宿から高麗橋   




   淀宿から石清水八幡宮 


京街道の淀宿と枚方宿の間に、石清水八幡宮の門前町だった八幡市がある。 石清水八幡宮の創建は貞観元年 (859)と古い。 大分の宇佐八幡宮から勧請されたという神社で、平安時代には天皇家や公家の参拝が多かっ た。 武家の守護神として源氏の信仰が厚かった。 今でも、厄除けの神様として多くの人々が訪れていた。



淀宿から石清水八幡宮
三叉路 平成二十二年一月十八日、今日は中書島から歩き始めたが、現在、十時を過ぎたところである。 ここから枚方 宿までは、三里十二町(13km)の距離であるが、そこまではいけるだろう。 とりあえず、石清水八幡宮の ある八幡市に向かう。 淀新町のバス停がある橋の先の三叉路は車は一方通行になっているが、直進すると 府道15号の信号交差点に出る (右写真)
京街道はこの交差点を直進する。 少し歩くと右側に西岸寺があるが、このあたりは淀美豆町
古い家 である。 西岸寺を越えて、二つ目の交差点の手前がNTT西日本京都支店淀別館で、次の次の交差点を 右折し、八十メートルほど先の美豆公民館の先の三叉路を左折すると長い直線道路となり、道の両側には 古い家がところどころに残る (右写真)
先程歩いた淀宿には残っていなかった昔の街道筋を漂わせる雰囲気を感じさせてくれた。  左側に圓通寺が あるが、その先で道は下り坂になる。 やがて住宅は途絶え、前方が急に
松ヶ崎記念病院 開けて、一面が畑となるが、その中を進む。 右からの道と合流した辺りの右側は塀で覆われているが、 京阪電車の車両基地のようである。 また、左側には松ヶ崎記念病院があるが、町から少し遠い気がするが、 患者はどこからくるのだろうか? (右写真)
その先で京阪電車のガードをくぐると、すぐに道は二つに分かれるので、左側の細い農道に入っていくと、 ガードに沿って道は右にカーブし、左右は田畑、正面に京滋バイパスの高架橋と
京阪電車の
ガード先の農道 宇治川に架かる石清水大橋、その先には旧京阪国道(府道13号)を走る車の姿が目に飛び込んできて、ここは 交通の要所であることが実感できた (右写真)
七十メートルほど行くと、用水路のようなものが現れるが、そこが京都市伏見区と八幡市の境と思われるが、 標識などはなかった。 用水路の脇の道を進み、京滋バイパス石清水大橋の袂までくると、左手にある宇治川 の堤防に上がる階段を登り、ガードをくぐった。 昔のこの辺
御幸橋橋柱 はどのようになっていたのかはっきりしない。 前述したようにこのあたりは巨椋池が張り出していたと思うし、 木津川と宇治川との関係も今とは違うはずだからである。 とりあえず、堤防の上の道を直進し、旧京阪国道 (府道13号線)の御幸橋(ごこうばし)の袂に出た (右写真)
この後、この橋を渡って、石清水八幡宮へ向かうが、現在、四車線化の工事が行われている。 宇治川にかかる 大阪方面の橋は新築されたきれいな橋である。 歩道も付いているので安心して渡った。 橋を渡り終えると、 右手に桜並木が堤に沿ってあったので、春はきれい
御幸橋 だろうと思った。 続いて、木津川に架かる橋を渡る。 現在左側の橋は舗装工事中で、こちらは四車線化 のために新築されたものである。 右側の橋にも御幸橋の橋柱が付いているが、かなり古い感じがした。  四車線から二車線に変わるため、車はのろのろ運転だった。 橋の先にこんもりとした山が見えるが、これが 石清水八幡宮が鎮座する男山である (右写真)
石清水八幡への参道を御幸道と呼んでいたので、昭和五年(1930)に橋を架けた際、御幸橋と
三叉路交差点 名づけたという。 橋を渡り終えると、三叉路になっていたが、正面の道路案内板には右大阪13号、左 木津川市、京田辺市、直進京阪八幡市駅と表示されていた (右写真)
左の方角には新たに加わる二車線の橋が見えるが、この工事に関連して、この一帯は変貌の途中だった。  信号と歩道表示に従い、三叉路を向こう側に渡り、左折して京阪八幡駅方面へ向かう。 歩道は右にカーブし、 その先は長い下り坂である。 右側に八幡市営駐車場があり、 その先の交差点で、直進すると、八幡市駅 で、その先に石清水八幡宮の一の鳥居が
建っている。 京街道はベージュ色の八幡市駅自転車駐車場の方へ右折である。  
石清水八幡宮へは前日の朝、訪問済だが、その様子を下記したい。 

石清水八幡宮
やわた走井餅老舗 平成二十二年一月十七日の朝、石清水八幡宮へ向かう。 京阪八幡市駅を降ると、右手にロープウエイがあり、石清水八幡宮への 歩いて登る参道は左側の駅前広場を横断して、直進する。  その先の右側には、やわた走井餅老舗がある (右写真)
この店の創業は、明和元年(1764)に大津宿から山科に抜ける手前にあった髭茶屋追分のあたりで、走井の名水 を用いて、井口市郎右衛門正勝が餡餅を作ったことに始まるという。 
走井餅 明治四十三年に、六代目井口市郎右衛門の四男、井口嘉四郎が分家して、ここ石清水八幡宮の門前で営業を始めた。  餅の形は、三條小鍛治宗近が走井の名水で名剣を鍛えたという故事にちなみ、刀の荒身を表しているとあるが、 箱に入ったものを購入し、自宅に持ち帰って開けたせいか、いろいろな形に変わっていた (右写真)
甘みは抑えられていて、上品な味がした。 餡ものの苦手な家内がこれならいけると好評だった。 以前、東海道 を歩いていた時、山科の名物は走井餅だったとあったが、その場所には
岩清水八幡宮
一の鳥居 月心寺が建っていた。 この店の話では本家は昭和の初期に廃業したとのことだった。 東海道を歩いているとき、 食べられなかった名物をここで発見できたのは収穫である。 その先にある、八幡宮の幣額が架かった鳥居が 、岩清水八幡宮の一の鳥居である (右写真)
岩清水八幡宮は貞観元年(859)の創建で、応神天皇、神功(じんぐう)皇后、比(ひめ) 大神を祀る。 承平(じょうへい)、天慶(てんぎょう)の乱、元寇等の際には 国家の危急を救う神として朝廷の
崇敬を受けた。 また、武家の守護神として源氏の信仰が厚く、その分社は全国に及んでいる。 
航海記念塔 鳥居をくぐる手前に右に入る狭い道があり、神応寺の表示があったので、そちらに入っていくと、右側に神応寺の 標柱があるが、それを無視してそのまま進むと、右側の石段の上の小高いところに巨大な五輪塔が 建っていた (右写真)
傍らの案内板には、石清水八幡宮五輪塔(航海記念塔)とあり、 「 高さ6m、地輪一辺2.4m、全国最大規模 の鎌倉時代の五輪塔で、国の重要文化財に指定されている。 摂津尼崎の商人が中国宋との貿易の 帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、その恩に報いるために
不動尊と書かれた鳥居 建立されたと伝えられ、航海の安全を祈って参拝され、航海記念塔として称される。 」 
とあったが、その起源については色々な説があるようである。 この先の道を進むと、不動尊と書かれた鳥居があり、 高いところに杉山谷不動尊を祀る不動堂がある (右写真)
弘法大師ゆかりのものとあるので向かったが、思ったより急坂なのと時間がないので、途中で引き返し、神応寺の 中に入っていった。 神応寺は、貞観二年(860)に石清水八幡宮を勧請した行教律師が応神天皇の霊を奉安して建立 した寺で、後に天皇の号をはばかって神応
神応寺本堂 寺と改めたといわれる。 はじめは四衆兼学の道場であったが、現在は曹洞宗に属している。石段を登っていくと、 静かな佇まいの中に本堂があった (右写真)
  文禄の役の際、豊臣秀吉は、石清水八幡宮に詣でて、軍の先鋒に八幡宮の神官を望んだが、神社は命に服さなかった のに 秀吉は機嫌を損ねた。 その際、神応寺の僧の機転により、征韓の首途(かどで)には、まず応神 天皇の御寺に参詣すべきことを進言したので、秀吉は
頓宮殿と参集殿 機嫌を直し、寺領200石を寄進したといわれる。 明治維新までの石清水八幡宮は神仏習合でこのような寺が多く あったようである。 寺は閉まっていて入ることは出来ないようなので、先程の一の鳥居まで戻る。 石清水八幡宮 にお参りするため、一の鳥居と楼門をくぐって中に入ると、右側に頓宮殿があり、その奥に参集殿が建っていた (右写真)
  その先には塀をめぐらした頓宮南門があるが、その前には多くの少年剣士達が列を作って
高良社 いた。 どうやら、寒げいこの一環として、神社まで駆け足で上っていくようである。 小さな子もいたが、その後 どうなっただろうか? 頓宮南門を出ると馬場前であるが、今は駐車場になっている。 少し進むと頓宮勤番所から 直角に山手の方へ向う参道があり、右手に鳥居があり、石段を登った小高いところの正面に拝殿、右側に側面を向けた社殿があった (右写真)
この神社は高良社という石清水八幡宮の摂社で、旧八幡町の氏神社である。 創建は石清水
八幡宮とほぼ同年で、当初は河原社と称していたが、かわら→こうらと変化して、現在の字が
二の鳥居 当てられるようになったといわれる。 祭神は福岡県にある高良大社と同じ、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)である。 境内の左側にはタブの巨木 もあった。 石段を降り、参道に戻り先に進むと右手から人が降りてくる。 こちらの太子道は下り道で、上り道は直進 と、参道は一方通行になっていた。 この先に二の鳥居がある (右写真)
そこからは上り坂に変わり、神幸橋を過ぎると左からの道と合流し、七曲がりの坂と呼ばれる
大扉稲荷社と影清塚 坂を上っていく。 犬を連れている人もいるが、彼らは参拝者なのか、散歩として歩いているのか、分からない。  おじいちゃんと孫やカップルなど、バライティに富んだ集団が山を上っていく。 やがて、道が二股になっている ところにでた。 石段の左側にあるのは、大扉稲荷社で、三叉路の中心にある塚は影清塚だろう (右写真)
京都の七条に住む石井巳之助に、「 我は相槌稲荷の子、名を登毘良明神と申す 」 という
神告があったので、それを信じた人達が神社の許可を得て、文政十二年(1829)に社殿を建て
影清塚 たのが始まりで、当初はお扉さまとして崇めていたということである。 
影清塚には道標が建ち、その左には手水鉢のようなものが置かれている ここは、祓谷の流れが猪鼻坂方面へ向きを変える曲水の所に当たっていて、大祓に於いて行われる、人形を流す 祓いの行事が昔はここで行われ、参詣人はこの清水に己の影を写して心身を祓い清めたといわれる。  かげきよとは、影清(め)、即ち、 姿を清める所という意味だ
石垣が組まれたところ ったという。 手水鉢は、当時の名残りを残すもののようである。 上りの参道は左側のなだらかな坂道。  更に上っていくと、右側は石垣が組まれたところが何か所かあるが、その上には江戸時代、神仏習合による 数多くの坊舎が建っていたところである (右写真)
また、左手には八幡市の景色が木の間からかいま見ることができる個所があったが、これは昭和の中期まで 存在した市殿坂の跡地のようである。 市殿とは、石清水八幡宮に仕えて
豊蔵坊址 いた巫女たちを指し、山下から八幡宮に参勤する巫女が、毎日この坂を利用していたことから坂の名になった。  その先、右側の石垣の袂に豊蔵坊址の石柱が建っている (右写真)
江戸時代には、徳川家康の四十二歳の像が祀られていたところで、毎年、将軍家のために厄除開運祈祷が一山 を挙げて行われ、その御神札は江戸の将軍のもとへ献上されてきた。 そのため、豊蔵坊では、江戸に神札を 献上のことを司る役僧を常駐させていたといわれる。 
鳩茶屋 しかし、明治維新の神仏分離により、豊蔵坊は廃絶 され、家康像は京都衣笠の等持院に移された、という。  更に進むと、右側におかめの絵の看板を出した鳩茶屋がある (右写真)
現在鳩茶屋という茶店のある場所には、明治維新までは愛染堂(あいぜんどう)があり、 お堂には丈六(座像なので像高は半分の八尺、約2.42b)の愛染明王(あいぜんみょうおう) が祀られていた、という。 寛元四年(1246)に、石清水八幡宮の検校、壇棟清が、後嵯峨天皇の中宮、
開山堂跡 藤原の娘(きっし)の御祈祷所とするために建立したのが始まり。 六角堂の建物は何回も火災にあい、 その都度再建されたが、明治維新で廃された。 また、道の反対側は竹を編んだ柵に覆われているが、 開山堂があったところである (右写真)
開山堂は、間口五間(約9メートル)、奥行四間(約7.2メートル)の瓦葺の建物で、東面して建ち、堂内に行教律師、弘法大師と本覚大師の木像が安置されていたが、明治維新の神仏分離
三の鳥居 で廃されてしまった。 ここにはモデル竹林とあったが、エジソンが電球を発明してとき、フィラメントに使用 したのは八幡宮の竹炭だったといわれ、境内にはエジソン記念碑がたてられている。 急な石段を数段上ると 平らな参道に変わり、右手に三の鳥居が建っていた (右写真)
左側に神馬舎があり、ここから下っていくハイキングコースの道もあった。 三の鳥居は正保二年(1645)に 建てられた高さ四間一尺五寸(約7.7b)、柱間四間(7.2b)の石造りの大鳥居だったが、昭和三十六年の 第二室戸台風により倒壊したため、翌年、再建されたもの。 
庭園石組 再建された鳥居には、正保二年製の鳥居の銘文部分が用いられ、鳥居の先の参道両脇にある重森三玲が造った庭園石組には三十数個に割れた他の石材も使用されている (右写真)
重森三玲といえば、昭和を代表する造園作家であるが、手入れが悪いのか、がらくた石が無造作に置かれているという印象しか受けなかった。  参道の両脇には常夜燈が続いているが、危険なので触らないようにという注意書きが目立った。 参道を進むと、正面に赤い回廊
南総門 に囲まれた南総門があり、手前の左側には、手水舎とその奥に供御所があった (右写真)
供御所は、文禄元年までは御本殿西門外にあった竈神殿のところにあったが、地震で倒壊したため、飯殿 があった現在の場所に移されたとある。 南総門をくぐって中に入ると、厄除け祈願の案内や厄除け神矢の案内の放送が誠にうるさい。  石清水八幡宮は、空海の弟子の南都大安寺の僧、行教律師が宇佐神宮に参詣した折に、  「 われ都近き男山の峯に移座して国家
神楽殿 を鎮護せん 」 
との神託を受けて、清和天皇の命により社殿を建立したのを創建とする。 
皇室や朝廷より篤い信仰を受け、天皇、上皇、法皇などの行幸は二百五十を越える。  神楽殿前では、厄除け祈願の人達が神楽を舞った巫女から八幡御神矢を授けていた (右写真)
境内は広いが、本殿は正面にある建物である。 創建当時は、宇佐八幡宮と同じような本殿だったが、天皇家の 崇敬を受け、その後、大きな建物になっていったが、火災や打ちこわしなど
本殿 で何回も立て直されている。 現在の建物は、三代将軍徳川家光により、寛永十一年(1634)に造営されたもの で、桧皮葺きの本殿は前後二棟から成る、八幡造りという建築様式で、その前には幣殿、舞殿、楼門と続き、 周囲を百八十bに及ぶ回廊が囲んでいる (右写真)
本殿をはじめ建物の全てが丹漆塗りで、随所に当時の名匠による極彩色の彫刻が刻まれている壮麗な社殿で、 国の指定重要文化財である。 また、本殿の棟の間に架けられている黄金
本殿 の樋は、織田信長により寄進されたものである。 本殿の裏側に回ると、若宮社(祭神仁徳天皇)、若宮殿社 (祭神応神天皇の皇女)などの社殿が祀られていて、校倉もあった。 
本殿でお参りを済ませ、南総門を出ると 右手に降りていくところがあるので降りていくと、その先には朱塗りの小さな一間社流造りの三女神社が あった (右写真)
この神社は石清水八幡宮の末社だが、歴応二年に福岡の宗像神社から勧請されたもので、
合鎚神社 航海の神といわれる 宗像三女神が祀られている。 その先はケーブルの山頂駅があるが、引き返すことにした。 石翆亭という 建物に入ると、厄除けしるこや厄除けうどんがあったので、三百円だしてしるこを購入したが、寒かったので うまかった。 この後、下山したが、先程上った七曲がりの手前の左側に気になった社があったので、 行ってみた (右写真)
鳥居には相鎚神社とあり、社殿は石清水八幡宮の参道の崩れを防御するかのように建って
いる。 江戸時代には石段上の分岐点の北側に南面して建っていたといい、昔から地元住民
山の井戸 が祀ってきた合鎚稲荷社で、鳥居の額には、社名の上に 三条/小鍛冶 という小さな文字が刻まれている。  その右側の建物の前に山の井戸と書かれた道標があった (右写真)
三条小鍛冶は、平安時代の中頃、京都三条で活躍した刀工、三条小鍛冶宗近のことで、謡曲 「 小鍛冶 」 では、 一条天皇の勅命を受けた宗近が、稲荷神の化身である童子と共に槌を打ち、名刀を作り上げたという話に なっている。  相槌神社に祀られているのは、この相槌を打った稲荷神で、この時、宗近が刀鍛冶に用いた水は、その傍らにある山ノ井戸の水だった
泰勝寺 といわれる。  その先は三叉路になっていて、駅は直進だが、右折してすすむと、右側に 「 松花堂 泰勝寺 」 の 説明板を掲げた寺院があった (右写真)
松花堂とは松花堂昭乗のことで、この寺に彼の墓がある。 松花堂昭乗は、慶長五年(1600)石清水八幡宮の 社僧となり、その後、瀧本坊の住職となった。 彼は、書道、絵画、茶道の
奥義を極め、特に書道は近衛信尹、本阿弥光悦とともに寛永の三筆と称せられた、という人物
泰勝寺 である。  寛永十四年(1637)、石清水八幡宮(男山)の中腹にあった泉坊のそばに草堂を設けてそこに隠棲。  この建物は二畳の広さに茶室と水屋、持仏堂を備え、松花堂と呼ばれたが、 石川丈山、 小堀遠州、江月、沢庵など、多くの文人墨客が訪れた (右写真ー泰勝寺内部)
泰勝寺は予約制のようなのであきらめ、八幡市駅に向かい、石清水八幡宮の参拝は終わった。  今回の旅で見損なったのは中腹にある石清水社(今でも清水が出ている)である。 
また、石清水八幡宮社務職が建立した善法律寺、石清水八幡宮の社家で尾張藩主徳川義直
の母、お亀の方の実家、志水家の菩提寺として建立された正法寺には機会があれば、訪れた
いと思った。 



平成22年(2010)   1月


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かうんたぁ。