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天正八年、豊臣秀吉が大阪城築城の際、防衛の一策として
関目より古市、森小路の間、十余町の通路を特に屈折させて、敵兵の進軍を俯瞰し、その軍容兵数を
察知するのに便利なようにした。 これが関目の七曲がりといわれるもの。
淀川は明治の終りに大工事が行われて、北方へと流れが変えられた。 現在、大川と呼ばれて
いるのが、江戸時代の淀川で、中島の手前にある八軒家は、江戸時代の後期になると
盛んになった三十石船の船着場だったところである。
東横堀川には、京街道の起点となる高麗橋が架かっている。 明治に入ると、ここに道路元標が
設けられて、西日本に通じる国道の起点になった。
守口宿から大阪高麗橋
江戸時代の京街道は三叉路を直進し、左斜めに緩やかなカーブを描きながら日吉公園の南の角をかすめる
ようにして行き、右に曲がって今の国道1号と合流していた。 しかし、現在はその道はないので、三叉
路を右折して進むと、交差点があり、その先は三洋電機本社ビルがあるが、交差点を左折して進むと、
交差点の右側に日吉公園がある (右写真)
交差点を右折して公園の前を通って行くと、交差点の先にあるのは廃校になった土居小学校
である。
公園の半分で工事が行われていたので、警備員に伺ったところ、プールを壊して、公園を広げる工事
を行っているといい、小学校が廃校になったことに伴う工事だろうといわれた。
交差点で左折し南進すると、土居へようこその看板がある旭通商店街に出た (右写真)
江戸時代の京街道は日吉公園を経て、旭通商店街の入口あたりに国道に出てきていた、という。
商店街のアーケードの下を東に二百メートル程歩くと、左側に守居神社がある。
守居神社は、延喜十八年(918)の大洪水で周辺が湖のようになったとき、素盞嗚尊(スサノオノミコト)
のお告げによって、土居を築いて治水祈願をしたのに始まる。 天文十三年(1544)の洪水
で再び流されたので、それまで京都の方向の東北を向いていたのを南西の向きにした、とある。 延喜
十八年の洪水の時、ちさ(食用のちしゃの葉)の船に乗り、ねぶか(ねぎ)の櫂で漕いで、淀川を渡って
こられた神様に、雨がやむように祈願したところ、たちまち晴れた。
それ以来、村人はちしゃとねぎは一切食べないようになり、それは明治末頃まで守られていたと、ある。
神社の社名は、明治四十年に守口町の神社を合祀した時、土居と守口の一字ずつをとったものである。
商店街は庶民的な商店が多く、賑わっていた (右写真)
東に向かうと、京阪土居駅があるが、駅の南の方角に延喜式の古社、高瀬神社があるが、鳥居の前に、
史蹟高瀬川の石碑が建っている。 「 かつては淀川の川筋の一つだった高瀬川が
流れ、行基菩薩が架けた高瀬大橋があった。 桓武天皇が長岡京を造営する時、遷都反対に加担したと
して淡路に護送されることになった皇太子、早良親王が断食の末にこの橋のところで亡くなった。 」
と伝えられる。 街道に戻ると、その先は国道1号線と494号線とが交差する京阪本通1交差点である
(右写真)
国道を西南へ向かって歩くと、次の信号交差点には地下鉄太子橋今市駅の入口があった。
交差点を横断するとその先左に入る小路のあたりで、守口市から大坂市旭区に変わる。
時計を見ると、十四時五十分。 今市交差点の左手は今市商店街、道を横切ると横断歩道橋があり、その先に、
昭和六十年に大阪市が建てた
京かいどうの石碑があった (右写真)
今市バス停の先に左に入る狭い道があり、京街道はここで国道を別れ、この道に入っていく。 その先で
道は左にカーブし、左側に政近歯科がある。 カラー舗装の道で、京かいどうの
ロゴが入ったプレートも埋め込まれていて、京街道を歩いていることが確認できた。 その先の左側
には地蔵尊を祀る祠があった。 福島病院の手前から千林(せんばやし)に入る。
左に入る三叉路の壁面には京街道と千林大宮の絵が描かれていた (右写真)
千林商店街の看板で、左側には京街道の地図があり、「 千林商店街の道筋は野崎街道(野崎観音に通
じる陸路)と呼ばれ、昔から交通の要所としてにぎわった。 」 など、京街道につい
て書かれていた。 なお、左折して商店街の中を進むと、京阪電車の千林駅である。
道を直進すると、森小路2丁目で、京かい道
商店街森小路と書かれたアーケードが続く商店街に入る。 うなぎ大扇の道角には京かいどうの石柱が
建っていた (右写真)
その先、わずかに右にカーブする交差点にでると、右手には大宮1交差点があり、左にいくと京阪森小路
駅である。 京街道は直進で、ここから森小路1丁目である。 左側の小公園の
手前に吉祥地蔵尊と書かれた小さな祠があった。 また、公園の脇には、先程見たと同じタイプの昭和
六十年建立の京かいどうの石碑が建っていた (右写真-振り返って移したもの)
公園の終りには、先程と同じ、京かいどうの石標が建っていた。 前方に阪神高速12号守口線の高架が見えて
きた。 高速道路のガード下までくると川に橋が架かり、橋柱を見ると古市橋とあった。 橋の中央まで
くると、左側の橋桁に、右大阪、左京とあり、その間に古市橋の
案内板があった。文禄年間に造られた京街道の跡に架けられたこと。 橋が架けられたのは比較的新しく、
昭和十年から十五年にかけて開削された城北運河からで、その上に架けられた今の橋は昭和十二年十一月、
ということが記されていた (右写真)
橋を渡ると高殿7丁目に入る。 道をまっすぐ進むと、左側に田中電工があるが、構内には小さな社が
祀られていた。 そこを過ぎると、国道1号線と府道163号線が合流する関目5丁目
にある関目5交差点の五差路に出た。 関目(せきめ)という名は、平安時代後半、
榎並荘の時代に、見張り所(目で見る関所)があったことに由来するという (右写真)
京街道の道は関目の七曲りといって、この付近は複雑に曲がりくねっている。 小生は、思う込みと
いうのもあったのかもしれないが、交差点の対角線にある地下鉄の関目高殿駅入口へ行き、右折して
少し歩いたがどうもおかしいと思い、通りかかりの男性に聞いたら、逆の方向に
歩いているのではといわれた。 手元の資料をじっくり見ると、指摘されたとおり、反対だったので、
交差点まで引き返し、都島通りを横断すると、ファミリーマートがあったので安心した。 国道1号に
沿って百五十メートル行くと、関目5南交差点がある (右写真)
なお関目5信号を境にして、旭区から城東区に入る。 交差点を右折し細い道に入ると、交差点の左側
に深草温泉があった。 このあたりは成育五丁目で、道なりに進むと、右、そして、
左にカーブし、三差路に出るので、右折すると右側に関目神社があった。 境内にある案内板には、
「 須佐之男尊神社 通称 関目神社 ー 天正八年、豊臣秀吉が大阪城築城の際、防衛の一策として
関目より古市、森小路の間、十余町の通路を特に屈折させて、敵兵の進軍を俯瞰し、その軍容兵数を
察知するのに便利なようにした。 これと同時に北の護りとして武神の須佐之男尊を祀り、崇敬する
と共に浪速の鬼門に当たるので、鬼門鎮護の神として、毘沙門
天王を勧請して小祠を建立したことに始まる。 」 とある。 神社の脇を通ると都島通りに出たので、
右折して都島通りを二百メートル進むと安田皮膚科病院とガソリンスタンドがある。 京街道は道の
反対にあるので、都島通りを横断すると、ダイト自動車美装の前にでるので、左折するとすぐ右に入る
狭い道がある。 道の左側には京街道の道標が建っていた (右写真)
なお、関目の七曲りは、高殿7丁目の本門仏立宗清現寺の交差点を右折し、高殿7交差点を
左折し、関目5交差点のルートのように思われる。 先程間違えて、高殿7交差点まで歩いて引き返したが、
結果としてはこのルートを歩いたことになるが、道を間違えたことで、十五分程損をした。 道は左に
カーブし、その後も少しくねくねしている高殿4丁目の道を進むと、左側に
京街道の道標があり、京街道に間違いないことが確認できた (右写真)
右側にゴルフ練習場があり、左にラーメン五右衛門がある。 そこを過ぎると、また、都島通り
に出たので、右折して都島通りを進んで行くと、歩道にアーケードのあるアサヒ国道筋商店街に出る。
入口付近は飲食店が多く、その先は、魚や豆や総菜などの店があった (右写真)
続いて、城北貨物線の高架をくぐると、アーケードのデザインが変わり、名前も野江国道筋商店街に
変わるが、共通するのは戦後のバラック時代に小屋掛けした雰囲気が残るということである。 商店街
が終わったところで、道は二つに分れるので、右側の狭い道を道なりに進んで
行く。 道の入口に京街道の道標が建っているが、一方通行の出口にあることと関係あるのか分から
ないが、京街道の道標はここだけ右側に建っていた (右写真)
道なりに進むと、城北筋の三差路に出る。 ここで高殿7丁目から始まった関目の七曲りが終了。
分かりづらく、迷子になったが、一安心である。 時計を見ると十六時二十分前、日暮は近いので、
あせりの気持が出てきた。 なお、三差路の手前の左側に京橋口から2.1kmと
書かれた京街道の道標がある。 三差路は左折して城北筋の道を進むと、地下鉄野江内代駅の入口が
あり、その先に野江4交差点がある。 野江4交差点の手前で、左から都島通と合流するが、交差点を
横断すると、京街道は右折して百メートル程進む。 細江3西交差点の手前に居酒屋もりちゃんとい
う看板を掲げた店がある (右写真)
手前の一方通行の狭い道に入ると、細江3西交差点からの道に合流し、広い道に変わる。
二百五十メートル程歩くと、道は左にカーブし、前方の信号交差点にはファミリー
マートがあるが、そこまで行くと行きすぎ。 左にカーブするところで、右手を見ると道路の右側に
側道があるので、その道に入り、交差点を越えると、中三商店会の看板があった (右写真)
ここからは都島区である。 古そうな家も残る佇まいの道を歩いて行くと、老人ホームの青都荘の前に、
榎並地蔵の小さな社が祀られていて、その左には、京街道 野江 高麗橋と書かれた
地図とイラストのパネルがあった。 その先の左側に大内病院があり、その先にある京かいどうと書かれた
道標はこれまで見てきたものとタイプが違う。 このあたりは道が少しくねくねするが、山本医院を
過ぎたあたりから手作り豆腐屋などお店が増えてきた (右写真)
大内病院からこのあたりまでの東手の地名は野江2丁目であるが、野江刑場(仕置場)はどこにあったのだろ
うか? 野江刑場では豊臣の残党が処分された他、淀屋辰五郎や天野屋
利平兵衛などもここで追放処分された
といわれる。 重要犯罪を犯したものを見せしめのために人目がつきやすいところに刑場を
設けたといわれ、野江刑場も京街道に沿ったところにあったという。 地元の話では、今も細長い
百メートル位の土地に首切り地蔵尊と野江刑場跡と書かれた表示があるというのだが、場所は確認でき
なかった。 新しいアーケードのリブストリート(京橋中央商店街)は、天井がガラス貼りなので、
明るい感じでよいと思った (右写真)
先程の話に戻るが、刑場にあった題目石が先程通ってきた守口宿義天寺の題目碑であり、
移転したのが明治の後半だから、このころまでには刑場は廃止されていたのだろう。 そこを過ぎる
と、ドーム型の広場に出たが、ここからはビギン京橋(新京橋商店街)である。 商店街を見ながら少し
進むと、天井がカラフルなビギンドームの下の広場にでる。
そこには昭和六十二年建立の京かいどうの案内碑があった (右写真)
長い商店街を出ると国道1号線(京阪国道)と合流する交差点に出た。 時計を見ると、十六時
三十六分。 日暮まで
に一時間半あるかどうかというところ。 明るい内に高麗橋に着くことはできるか?!
交差点を横断すると右折して、JR大坂環状線のガードの下を通り、すぐに左折すると、正面に京阪
京橋駅の京阪モールの建物が見えてくる (右写真)
京阪モールに向かうとき、道を左にとったため、右側の第一晃進ビルの前にある、左京みち 右大和なら
のさき と書かれた文政九年(1826)建立の道標を見落としたが、時間がないので
そのまま進む。 江戸時代の京街道は京阪モールビルの中をそのまま進み、西側の片町交差点の手前
に出るが、線路で遮断され道がないので、京阪モールビルに沿って歩いていく。 京阪モールビルが
終わった先の信号交差点を渡ると、京阪の下にはKふらっと HIRATAが入っている。 右側に
市立桜宮幼稚園があった (右写真)
その先の信号交差点を左折すると、片町信号交差点に出られるが、近松門左衛門の心中
天の網島の
小春、治兵衛の比翼塚がある大長寺へ向うため、交差点を右折して進む。 これが時間的に無理だった
ことが後で分かる。 東野田南交差点の先、左手には太閤閣迎賓館、さらに歩くと東野田町交差点だが、
大長寺は交差点を越えた先である (右写真)
往復などに二十分近くかけたので、中味的にも無理して寄る必要はなかった。 先程の交差点まで戻り、
京阪本線のガード下を潜り、その先の狭い道の交差点を直進すると三差路に出る。
これが片町交差点で、
左右の道が土佐堀通である。 先程別れた京街道はこの辺りに出てきていたはずである。 土佐堀通を
横断して向こう側に渡り、右折して南西の方向へむかう。 少しの間歩くと、左側の家と家との間から
大坂城天守閣が姿を見せた (右写真)
この天守閣は、高さが五十五メートルの鉄骨鉄筋コンクリート造で、昭和六年(1931)に再建されたもの
である。 小生は高校の修学旅行で大阪を訪れたのが最初だが、今回まで戦後に
再建されたと思っていた。 日は一気に落ち始めている。 寝屋川東詰交差点を渡ると、すれ違う通行人
の顔は影になり、陽光が目に入りまぶしかった。 その先の歩道橋の下に、京橋川魚市場跡碑がある
(右写真)
石山本願寺時代に始まった、漁民が京橋の北詰に魚を持ち寄って販売する市が起源といわれ、
徳川幕府に入り、大坂で川魚を独占的に扱うことを公認された市場となった、とある。
横断歩道を歩き、寝屋川東詰交差点まで戻り、淀川に注ぐ寝屋川にかかる京橋を渡る。 豊臣
秀吉が大阪城を造った時、城北側の寝屋川に架けられた橋で、京都に通じる橋という意味から京橋と
命名された。 橋から見る寝屋川の上流は、
青く輝くクリスタルタワーを始め、大阪ビジネスパークの高層ビル群が、絵に描いたようである (右写真)
豊臣秀吉が淀川左岸を改修して堤防上に築いた京街道は、最初は大坂城の京橋口が起点
だったが、江戸幕府が制定した東海道五十七次からは高麗橋東詰に変わったのである。 橋を渡るとその
先、右側に入る細い道を進むと、右側はレンガ色の日本経済新聞社ビルの側壁で、道に出る手前、ビル
の東北隅に、案内板とその下に石垣状のものがある (右写真)
日経ビルの石垣は、元和六年(1620)に江戸幕府の手により大坂城が再築された時、城北の旧大和川の
左岸に護岸用に築かれた石垣の一部で、ビル工事で地下から発見されたものを
移築したもの、とある。 道の左側に府立女性総合センタービル(ドーンセンタ)があり、その前に
大坂城三の丸の石垣跡を復元したという案内板があった (右写真)
徳川家康は、慶長十九年(1614)、大坂冬の陣の講和の条件として、大坂城の三の丸の石垣を壊させた。
このビル建設で地下から取壊された石垣が発見され、それをビルの北側の塀沿いに移築復元したもの
である。 ビルの前の道は上町筋の通りである。 江戸時代の京街道
は、上町筋を斜めに横断して、天満橋ビルと大坂歯科大学の間の道に入るが、旧道が残っていないので、
右折して京阪東口交差点に出る (右写真-移築復元された三の丸の石垣)
交差点で上町筋を横断して、左折して旧京街道に入るのはやめて、そのまま土佐堀通りを歩く。
土佐堀通(とさぼりどおり)は、東西に通る全長五キロ足らずの道で、北側には
土佐堀川が並行して流れている。 交差点より五十メートル程歩いたところで、大坂歯科大学の脇
を通り、
右折してきた旧京街道と合流する。 その先には高架下の天満橋交差点は
横断すると、右側のビルには京阪電車天満橋駅と大きく書かれていた。 道の反対(左側)には
永田屋昆布本店があり、暖簾の下に、八軒家船着場跡の石碑が建っていた (右写真)
このあたりは、江戸時代には八軒屋浜と呼ばれ、京と大坂間を往復していた淀川の三十石船が発着する
ところとして賑わったところである。 その歴史は古く、平安時代には渡辺之津(向かう側へ渡る渡し
場の意)と呼ばれ、紀州熊野詣での上陸地だったが、豊臣秀吉が大阪城を築くとと、天満橋、天神橋が
かけられ、また、淀川には文禄堤が造られた。 案内板には、
「 淀川を上下した三十石船の発着場で、八軒の船宿があったことから八軒家と
呼ばれている。 大江山の鬼退治で有名な渡辺綱はこの地を支配した摂津源氏一族の出身である。 また、
楠正行がここにあった渡辺橋からなだれ落ちる敵兵を救いあげ、衣料を払って
国へ帰してやったという美談もある。 」 とあった。 北浜東2交差点の手前、左角の
福助ビルの歩道に、熊野かいどうの石碑が建っている (右写真)
熊野街道の陸路は、ここを起点として熊野三山へ続いていたのである。 土佐堀通をさらに
進むと、松屋町筋との交差点の右手に、土佐堀川と堂島川に架かる天神橋が見える。
交差点を横断して進むと、阪神高速環状線の高架の下で道は二つに分かれる。 右側は土佐堀通で、
左側が京街道である。 土佐堀通を直進すると葦屋橋があり、それを渡って回り込んだところに今橋の碑
があった (右写真)
今きた道を戻り、左側の京街道に入ると東横堀川に架かるのが碑にあった
今橋である。
橋を渡った先にある交差点を左折して百メートル程進み、交差点を左折すると、その先に阪神高速
環状線の高架と橋が見えてきた。 左右に常夜燈が付いた橋は
京街道の起点になる高麗橋である。 高麗橋を渡ると、京街道のゴールとなる。 時計を見ると、
十七時四十六分。 周りはかなりうす暗いが、日が暮れた余韻が残る中でのゴールである (右写真)
最近のカメラは精度があがり、ASA1600で写せば、ボケもせず、また、明るく写る。
橋を渡り終えると、高麗橋の東詰に、高麗橋案内碑が建っている。 その碑には「 東横堀
川は大坂城築城のとき外堀として改修され、高麗橋はその頃にかけられた。
江戸時代の高麗橋は幕府管理の十二公儀橋の中でも最も格式が高く、西詰には幕府のお触書を
掲示する制札場があったほか、諸方への距離を測る起点にもなっていた。 」 とある (右写真)
また、 「 明治三年(1870)、大坂最初の鉄橋として架け替えられ、さらに昭和四年(1929)に現在の
鉄筋コンクリートアーチ橋にかえられた。 欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷を
模した柱は昔をしのぶ姿となっている。 」 とあり、大阪の歴史を象徴する代表的な橋といえよう。
その隣に里程元標跡の碑がある。 碑には、「 明治時代に高麗橋東詰に設置され、
西日本の主要道路の距離計算はここを起点として行われた。 」 とある (右写真)
この里程元標は、東京日本橋の里程元標と対をなすものだが、現在は梅田新道交差点に置かれて
いる大阪市道路元標が七本の国道の起点となっている。
ベンチに座ってしばし感傷に
浸る。 今日歩いてところで良かったのは淀川沿いの堤防道。 左右が広々としていて、解放
感が
あった。 河川敷では老若男女がスポーツに興じていた。 守口市には短いながら、秀吉の文禄堤が
残っていた。 淀川にこうして堤を延々と造った秀吉のスケールの大きさが感じられた。
これで小生の京街道の旅は終了。 すっかり日が
暮れた高麗橋を渡る (右写真)
橋の上から見ると、水が淡々と流れていて、江戸時代から続いているように思えた。 また、川には多くの
橋が架かり、八百八橋と表現されるのも頷くことができた。 この後、今橋から
淀屋橋に出て、地下鉄で新幹線の新大阪駅へいき、名古屋へ帰った。
平成22年(2010) 2月