西国街道は、江戸時代には山崎道とも呼ばれた。
京都山崎と西宮を結ぶ脇街道として、西国大名や旅人らが多く行き交った。
高槻には天神社として二番目に古い上宮天満宮がある。
江戸時代の芥川宿は今もその面影が残るところである。
平成二十二年九月十二日(日)、前回に引き続き西国街道を歩こうと、
朝早く起きたが、なんとなく寝不足である。
仕事では出社がいやになるが、遊びとなると不思議なもので、
起きてしまえば眠いということがなかったので、少し異常を感じたが、
前回同様、名古屋駅始発の新幹線で京都駅に行き、その後、島本駅までいった。
しかし、島本駅に着くと、腹の調子がおかしいので、
念のためトイレに入り、出発した。
駅前ロータリーの先にある桜井1丁目交叉点にローソンがあったので、
飲物とお菓子を購入し、府道67号を南に向かって歩き始めた。
右側に島本町立歴史文化資料館がある。
「 大阪の財界の重鎮の一人・一瀬粂吉等によって、
楠木正成伝承地の敷地は駅の西側まで拡大し、
そこに建てられたのが麗天館である。
それが現在の島本町立歴史文化資料館である。
この建物は大正時代の建物ということである。
入ったが、これといった見るものがなかった。 」
その先右側に青葉ハイツという住宅団地があるが、 入口の角に、「 待宵小侍従墓 700m 」 とある標柱が建っていた。
「
待宵小侍従は、平安末期の二条天皇、太皇太后多子、
高倉天皇に仕えた女官である。
女流歌人として高名で、勅撰集の千載和歌集などに多く残されている。
墓は苔山にあったが、高速道路の工事により、現在地に移されたという。 」
右手の柳原公園を過ぎたあたりから、道は大きく広がり、
右側に県道67号の標識がある、信号のある三叉路が見えてきた。
西国街道はここで右折する。
信号の先は高槻市神内2丁目で、区画整理で誕生したと思える区域で、道を直進すると、途中から道が左にカーブし、阪急京都賓線の上牧駅の脇にでる。
西国街道は右折して、府道67号を進み、JR東海道本線の線路で左折し、
ガードをくぐって反対側に出る。
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ガードを出たところの道の右側は島本町桜井五丁目である。
屋敷門のある家が残っている集落だった。
道巾が狭いので、車はすれちがうことができず、
歩いている小生も隅で小さくなっていた。
その先の交叉点で、道は左に曲がり、その先の三叉路を、 右に少し入ったところに、 「 → 普泉禅寺 地蔵院 」 「 ⇔ 西国街道 」 の標柱が建っていた。
府道は左側の神内公民館を過ぎると、JRの線路に接近し、 この後はほぼ線路に沿って歩く。
府道の道幅は、車がすれちがうのがやっとという狭さであるが、
手慣れた様子で車がどんどんくるのには驚いた。
このあたりから高槻市上牧山手町になる。
少し行くと、高槻市が建てた標柱があり、 「 → 妙浄寺 ↑ 梶原一里塚跡 」 とあったので、
右手の坂道を上っていくと、線路が見下ろせる小高いところに出た。
電車が通り過ぎるが見えた。
妙浄寺は日蓮宗の寺院で、歴史は古い。
建物は昭和六十年代に建てられたものである。
説明板「妙浄寺」
「 本尊は題目宝塔と釈迦多宝二仏である。
享禄元年(1528)に日蓮上人が淀川沿いの井川に創建された寺であるが、
明治の二度の洪水により、移転した正覚寺本堂の跡地である現在地に移転した。
この地の字名の神内は、
土佐日記の作者・紀貫之も詠んでいる神奈備の森に由来する。 」
下に降りて、再び、府道67号を進むと、
JRの線路と別れて右にカーブし、梶原集落に入っていく。
梶原東バス停を過ぎると、
道の右側のお堂の前に、「梶原一里塚跡」 と書かれた説明板がある。
説明板「梶原一里塚跡」
「 この地は旧梶原村の東端に位置し、かって榎を植えた一里塚があった。
一里塚は、江戸時代、街道の一里(約4q)ごとに塚を築いて、
路程の目印としたものであるが、市域では旧芥川宿との二ヵ所があり、
今でも芥川一里塚は健在である。
文化元年(1804)発行の浪花講定宿帳には一里塚前茶屋平七の名がみえ、当地周辺には旅籠(旅宿)があったものとみられる。
なお、堂内の地蔵尊はかって淀川沿いの中村にあり、
度重なる水害から守り継がれてきたもので、
水あかりの地蔵さまとも呼ばれ親しまれている。 」
その先右側には長屋門の家があった。
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少しいくと、三叉路を右に少し入った所に、「南無妙法蓮華経」の髭文字の題目碑があり、 その奥に一乗寺の山門が見えた。
一乗寺の歴史
「 一乗寺の詳しい創建年月は不詳だが、元々は千観の草創し、
当初は金仙寺と称して真言宗に属する寺院であったが、その後は荒廃し、
毘沙門天二体を残すだけの無住寺となっていた。
応永三十四年(1427)、宇野、西村両氏が京都の一条戻り橋のたもとで、
辻説法をしていた日親上人の話を聞き感激し、
日親上人に帰依して建立、名を一乗寺に改めたと伝えられている。
寛永年間(1624〜164)に堂宇は焼失したが、
慶安三年(1659) 紀伊大納言徳川頼宜の生母・養寿院の寄進により、
本堂や庫裏、開山堂などの諸堂を再建。
また、頼宜の息女松姫の病気平癒祈願に1万石の寺領を寄進されるなど、
歴代紀州徳川家の崇敬が厚かった。 」
入ってみると境内は相変わらず広いが、 山門、本堂や開山堂等は平成十年以降に再建されたものであった。
開山堂の横には、「弁慶の駒つなぎ」 と言われる樹齢は約八百年、
高さが二十九メートルのクスノキの大木があった。
街道に戻ると左側に虫籠窓の家や蔵がある。
少し先の右側に「畑山神社」の標柱と常夜燈と鳥居があった。
奥に進むと、一間流造背面三間桧皮葺の本殿と入母屋造桟瓦葺の拝殿は、
宝永三年の建築とは思えぬ新しいものだった。
社伝
「 この地を治めた林丹波守が、元亀年間(1570-74)に金仙寺の鎮守、三十番神を合祀し、
殿舎や二重宝塔を建て、永福寺と名付けられたという。
慶長年間に火災で焼失し、宝永三年(1706)現在の社殿や多宝塔などが再興された。
文化四年(1807)編纂の山崎通分間延絵図には、
神社と寺院が混淆する様子が描かれている。
明治元年の神仏分離令により、永福寺は廃され、
明治五年(1872)、祭神を春日大神・菅原道真とした畑山神社に名称を変え、村社として残った。
多宝塔は西武に売却され、ユネスコ村にある。 」
ここには七世紀後半頃には梶原寺があり、山麓には瓦を焼いた窯跡がある。
説明板
「 奈良正倉院文書には、天平勝宝八年(756)、東大寺の造営にあたっていた造東大寺司が、
梶原寺に六千枚の瓦を発注したという記録が残されている。
当地で焼いた瓦を淀川まで運び、木津川を経て、船便で東大寺まで輸送していた。 」
道は左右にカーブするが、梶原1丁目に入ると、
「梶原1丁目8」の地名標識のある屋敷門の家があった。
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小さな三五郎橋を渡ると、県道79号が左右にあるガードをくぐる。
道は狭くなり、右手に高速道路が接近してきて、
左手にはJR東海道線に色々な電車が走っていた。
その先から高槻市萩之荘で、萩之荘バス停の左側からは大きな道が合流してくる。
左にカーブするあたりは上り坂で、右側の石段の先には成就寺がある。
そこを過ぎると桧尾川が見えてきて、
川の手前の交叉点には日蓮宗富松山法照寺の看板があった。
法照寺は右手のやや高台にあるが、寄らずに先を進む。
桧尾川には大名行列のレリーフが埋め込まれていたが、
島本駅からこの橋まで三キロ半程であろうか?
橋を渡ると下り坂になり、檜屋川バス停を過ぎると、
右側の駐車場の隣に屋根付きの構築物があり、常夜燈があった。
「増尾山春日神社200m」 の看板があることから、
変な構築物は鳥居を意味するものなのだろう。
春日神社は山手橋で、桧尾川を越えた市立山手老人センターの奥にあるようだが、
寄らずに街道を直進する。
左側に浄土真宗西本願寺派の瑞応寺があり、
更にあるくと山手町薬師堂があった。
お堂の前の柵は閉められていたので、薬師さまの顔は拝むことはできなかった。
説明板
「 このお堂にある薬師如来は、仏体に漆箔が施された寄木造りで、
像高八十六センチ、平安時代の作りと推定される。
このお堂に伝承される版木に、
桧尾川の北にあった養楽寺からこの薬師堂に移されたものであろう。 」
(ご参考)
山崎通分間絵図には、この地は「下村」と記され、
通りに面して、前述の瑞応寺と薬師堂の奥の大泉寺が描かれているが、
今より敷地は広かったように思える。
岸井良衛の五街道細見の山陽道には、桧尾川を天井川とし、
芥川宿までの行程を下村・西村・安満村・別所、川を渡り、
古曽部・田隅・東町を経て、芥川宿に至る、と記されている。
道の右手の奥まったところにある小さな祠は清丸地蔵尊であろうか?
大泉寺の先で道は左にカーブし、安満東の町に入ると、
左側に数軒続いて古そうな家があった。
二軒は漆喰壁で、もう一軒は茅葺屋根を銅版で囲ったような構造になっていた。
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その先の三叉路(安満バス停がある)には、「磐手杜神社これより200m」
の看板があったので、右折していくと左側に「愛宕神社」の石標があり、
右手には虫籠窓の白漆喰壁の屋敷があった。
屋敷は、門を閉ざしているので、よく見えなかった。
その先左側には 「磐手杜神社御旅所」 の石柱が建っている。
更に行くと道は上り坂になって、三叉路の左に愛宕山の常夜燈があり、小さな祠があった。
小さな祠が愛宕神社なのだろうか?
三叉路を直進すると桧尾川に沿って続く道(府道125号)に出た。
道を横切って川を渡ると、森の中に磐手杜神社があり、入口に説明板があった。。
説明板「磐手杜神社(いわてもりじんじゃ)」
「 磐手杜神社は、安満山の南西麓にあり、桧尾川に面して、もとは安満神社といいました。
十二世紀頃に春日神社に改めて、たけみかづちのみこと、ふつぬしのみこと、などを祭神とし、
明治四十四年(1911)に大字別所の雲峰神社を合祀して現在の社名になりました。
春日を冠したのは、当時安満一帯が奈良春日神社の荘園となって、
村の鎮守に春日大名神を勧請したためとみられています。
建久六年(1195)、後鳥羽天皇がこの地を訪れた当時、社殿は壮大で美しかったが、
天正年間に高山氏の兵火によって焼失し、
元和八年(1622)になって現在の社殿が建てられたと伝えられています。
社頭の森は磐手の杜と呼ばれ、歌枕として名高く、毎年一月十五日には、
氏子がそろって参詣し粥占いの神事を行い、その年の穀物の豊凶を占います。
また、毎年五月五日には、稚児が乗った三頭の馬が神輿とともに神社を巡る
神輿渡御神事(通称:馬祭)が行われます。 」
川を渡ったところに磐手杜神社の標柱と鳥居、常夜燈があり、その奥に社殿があった。
先程の三叉路を右折すると、道祖神神社があるようだが、街道に戻り西に向かった。
左側のJRの車両基地が接近してくる。
安満新町に入ると右手の広場の一角に「磐手杜神社御旅所」の石柱が建っていた。
祭の当日、儀式が行われるようである。
その先は車道が高架になっているガード下をくぐる。
(注)岸井良衛の五街道細見には、芥川宿への行程は、下村・西村・安満村・別所・古曽部・田隅・
・東町・芥川宿とある。
標記の別所は、車道の北側に別所交叉点が
あり、その北に別所中の町・別所本町の地名で残っている。
古曽部の項には能因法師の塚と伊勢姫の塚が、田隅の項には天神があると、記載されている。
その先左側に小さな地蔵堂の祠があり、その前に元治元年(1864)再建の「能因塚」の道標が建っていた。
「
能因塚の名で親しまれる伝能因法師墳は、ここから七、八百メートル北方にある。
平安中期の歌人・能因法師の墓と伝えられているもので、道標はそこへの案内役を担っている。 」
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その先の左側に、関西大学高槻ミューズキャンパスがあるが、これは最近造られたものである。
「
大学も少子化の影響を受け、社会人や老人を対象にした講座を増やしており、
交通の利便性が尊べれるようになってきた。
このキャンバスには小、中、高校と大学、大学院の一部が入っている。 」
その先右側に高槻病院があるが、先程から腹の調子が今一つ変なので、
病院に入りトイレを借用した。
島本駅でも入ったので、トイレは二度目であるが、暑さのせいか、寝冷えによるのか、
腸がおかしくなっていたようである。
この調子ではこの先心配だが、幸い、都会地を歩いているので、
行けるところまで行こうと思う。
腹は十五分程でおさまったので、自販機でペットボトルのお茶を買い、出発。
白梅町に入ると道の左側に西武百貨店(現阪急デパート)の駐車場がある。
その先の交差点を左折するとJR高槻駅、西国街道は直進である。
右手を見ると、大きな鳥居が道を覆っていた。
この鳥居は上宮天満宮の一の鳥居である。
せっかくなので、神社へお参りにいく。
交叉点を右折すると天神町一丁目交叉点にでて、左右の道は県道67号である。
道の対面には石段があり、
見上げると「上宮天満宮」と書かれた鳥居と常夜燈が見える。
神社への参道はその先、北に向って続いているが、
この参道が天神の馬場なのだろうか?
「
天神の馬場は、かつては松並木が続いていたといい、
天正十年(1582)の山崎合戦の際には、秀吉の本陣が置かれていたところである。
秀吉は戦勝に感謝し、天正十八年(1590)、神社に土地を寄進し、社殿を修造している。 」
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参道はけっこう長く急である。
上っていくと、「てんじんさま」と「上宮天満宮」の幕が掲られたコンクリート製の門があり、
そこをくぐると境内にでた。
右手に 「式内野身神社」 の石標があり、コンクリート塀に囲まれた中に、野身神社の小さな社(やしろ)がある。
扉に、「野身神社と宿称塚古墳」と「車塚古墳」の説明文が貼られていた。
「
土師器と呼ばれる素焼きの壺や皿は祭祀に用いられ、
これらを製作する土師氏を率いる族長が、ノミ(祈み)のスクネ(直の根) と呼ばれ、
神に対する直系の長を意味する。
この日神山(ひるかみやま)を北端として、南西一キロ・南に三キロの地域は、
野身郷 と云い、その族長が葬られ、連綿と祭祀された。
九二七年に制定され始めての法体系ともいうべき延喜式の神社台帳ともされる「神名帳」に
記載されている神社を式内社とするが、
野身宿称を祀るのは四社(三河、尾張、因幡、及び当社)しかなく、
弊社の原点ともいうべき古社である。
そして、明治十二年以降かなりの間、この全域は古名野身神社が正式名称であった。
日本書記の説話をもとに、相撲の神様としての伝承も定着している。
■ 車塚古墳
この天神山(日神山)は南北に四つの古墳が築かれている。
境内に二つの古墳があり、その一つが宿称塚(野身神社)、
あとの一つは参道を下り、交叉点を左に折れ、急な小坂をあがったところにあり、
前方後円墳とハッキリ解る。
この古墳は、元来、当社境内地であったが、道路建設の為、分断された。
猪狩りの様子をあらわした動物埴輪が並んでいる。
現在のものは模型であり、生け捕りの狩は角力(スモウ)の原義を示し、
巫女の角笛も見られ、全国唯一の角笛埴輪である。
立寄って頂き野身宿祢とのゆかりをしのんでいただきたい。 」
その先の車道側に、上宮天満宮の説明板がある。
説明板「上宮天満宮」
「 御祭神 武日照命
野身宿禰命
菅原道真命
由緒
日の神・武日照命の天降って鎮座された、此れの太古の杜、日神山一帯は、
弥生人の住居跡として銅鐸も出土し、南北に並ぶ四古墳のうち、
中央の円墳上には式内古社の野身神社が在る。
此地は、「日本書記」が古代祭儀としての埴輪や相撲の逸話を記した野身宿禰を、
千数百年も前から斎き祀ってきた島上郡野身里である。
彼の率いる祭祀者一族、土師氏は、何百年か後に菅原道真、大江匡房始め、
平安時代に於ける史学、文芸学者たちを次々に生み出すが、
殊に右大臣にまで昇った道真公は、然しその後天皇廃立に関わったとされ、
九州へ追放される。
その死後、百年近い頃、正暦四年(994)に正一位左大臣の位を遺贈する勅使として、
菅原為理が太宰府へと赴いた。
御霊代など奉じての帰途、芥川を遡り当地の上田部(市役所西)に上陸し、
領主近藤氏の城館に宿った。
ところが、いざ出立となると輿が動かず、
これを先祖と共に留まりたい霊意と排察して、里人が日神山上に天満宮本殿を造営し、
改めて三神を併祭し奉った。
実際の創建はこれより五十年も早く、京都北野社鎮座以前であり、
全国天神社のうち二番目の古社とされている。
戦国の天正年間、豊臣秀吉は当社参道「天神馬場」 に本陣を置き、
明智勢を山崎天王山に討った。
その戦勝を感謝して、後に秀吉は社殿を美々しく修造する。
これは平成八年に事故により失われた。
江戸初期には高槻藩主・永井直清が拝殿を設け、大鳥居も建立、
時の天台座主親王・天松院宮筆の神額を奉納した。
古来、近郷の三島地方はもとより遠く京都、
大阪始め北攝能勢や北河内方面の崇敬を集め、今に至る。
例祭「初天神」 は、延々と露天の連なる京阪神きっての民衆的大祭である。 」
神社の境内は広く、絵馬堂もあった。
拝殿をくぐった先には平成十四年(2002)に再建された本殿があったので、お参りをした。
本殿は、平成八年十一月に放火により焼失したが、地元の竹を使い、再建されたという。
説明板「竹の本殿」
「この建物は柱、壁、屋根の殆どが竹でつくられております。
竹はわずか5年で成竹となり、再生可能な木質系資源として、
国連レベルでも注目を集めております。
失われつつある森林は砂漠化の原因ともなり、代替材として期待され、
研究と実用化が進んでおります。
弊社は2ヘクタール8千本の竹林を持ち、その整備と資源活用を通じて、
全国各分野の専門家集団と関わり、世界で始めてとされる竹による外部構築物を完成させ、
建築ー行政ー環境分野で、反響を呼びました。
10年をメドに屋根の葺替えが予定され、耐用期間の長期化を計っております。
尚、天正十八年(1590年) 豊臣秀吉により建てられた旧本殿は、
平成八年十一月七日深夜、裏山から侵入した少年5人組の賽銭狙いで放火焼失しました。
弊社の諸システム導入による徹底「防犯」体制確立の契機となった出来事です。 」
本殿の前に一対の狛犬が鎮座している。
説明板「上宮型狛犬」
「 本殿左右一対の狛犬は、宝暦九年十一月(1759)に芥川在の石大工、西田新九郎正義により、作られたもので、高槻市内最古のものである。
細かい技を生かすことが出来る柔らかい砂石を素材にしたこの作品は、
浪速狛犬と総称される関西圏の多くのものの内、獅子舞の獅子頭に似た四角い顔と
毛筋を、はっきり表現した、新しいデザインにより、上宮型狛犬として主流となった。
その改良型として、三輪神社(高槻市)の三輪型狛犬(大明五年・一七八八年)がある。
狛犬はライオンをモデルとしたもので、
大阪商人による寄進を地元有力者が取り次ぐという形で、鎮守社に奉納されたケースが多い。
」
石段を下りていく時、駅方面が見下ろせてかなり高いところに建っていることが実感できた。
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天神町一丁目交叉点まで降り、左手を見ると、県道に陸橋が架かっている上に、
古墳のようなものが見えたので、それを確認するため、県道を歩き、陸橋の上に登っていく。
樹木に覆われた丘陵があり、柵の中には「昼神車塚古墳」の標柱と説明板があった。
「 天神山はひるがみ山ともいい、車塚は前方後円墳の俗称である。
この古墳は天神山丘陵の南端にあたり、同じ丘陵にある中将塚、宿禰塚などと一連のもので、
この地を支配した首長たちの墓である。
車塚古墳は六世紀中頃までに造られたものと推定される。
およそ全長六十メートル、前方部の幅四十メートル、後円部の経三十五メートルで、
前方部は後円部よりやや高くつくられ、新しい特徴をそなえている。
墳丘は弥生時代の墓地の上に高さ四メートル五十センチの盛り土をした上に造られた。
昼神車塚古墳は現在も上宮天満宮の神域として守り伝えられている。 」
古墳の全貌が見られるところはないかと、古墳の周りを一周したが、 周りは住宅に覆われていて、説明板の説明とは違い、 上宮天満宮は古墳の最小限度を残して、残りは売ってしまったことが分かった。
高槻市の古墳説明板ある陸橋の反対側には、「能因墳」の標柱が建っていた。
その下には、「歴史の散歩道 伊勢寺、能因塚コース」 と書かれていたが、
これらはこの北部の古曾部三丁目付近にあるので、今回は断念した。
街道に戻るには天神町一丁目交叉点で左折だが、うっかりして県道をそのまま歩いてしまった。
その先の高いところには広智禅寺がある。
道は右にカーブして、信号がある五又路に出た。
横断歩道を歩いて対面にでると、交叉点の角に「霊松寺笠松地蔵尊」の標石があったので、
その先に行くとお堂があった。
近くにあった説明板
「 堂内の地蔵尊は、笠松地蔵(座像)と片袖地蔵(立像)の二体が安置され、
中央の片袖地蔵は背面に宝永三年(1704)年紀の付けられた石造りの地蔵菩薩立像です。
弘化四年(1847) 初秋再建棟札のあるお堂は、牛飼山の山麓霊松寺のもとの境内南端に位置し、
松の大樹があったことから、笠松地蔵の名前がついたといわれています。
片袖地蔵と呼ばれるのは、右の袖が刃物で削られたようにそがれているためで、
近隣の茶の木平の野仏だった地蔵尊が 「 芥川宿の宿屋に雇われていた女性の身代わりになった 」 という話(講中伝)や、 「 仇討ちの助太刀をした 」 という話(霊松寺伝)などがあります。
子授け、安産、子育てに効験があるとされている。 」
道を間違えたため、思わぬ場所を訪れたが、西国街道に復帰しなければならない。
地図ではつたやの南のはずなので、交叉点の角のGSに聞くと、このまま道を下っていけば、西国街道の交叉点に出ると教えられた。
西国街道に入る交叉点は芥川二丁目交叉点で、観音前モータープールの看板があるところだった。
なお、西国街道の西武駐車場に差し掛かったのが九時四十分だったが、
今は十時三十分なので、五十分程上宮天満宮付近をうろうろしていたことになる。
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交叉点を越えると、その先の六又路は信号はないのに左右の道に自動車が多くいた。
信号待ちの車に注意して横切ると、狭い一方通行の道に入る。
西国街道の左側には連子格子に虫籠窓の白漆喰の壁で、卯建のあがる古い家があった。
道を直進すると、「出会い注意」 の表示がある三叉路に突き当たるので、
西国街道はここで左折する。
左折したあたりは江戸時代の芥川宿の東の入口にあたり、
前述の笠松地蔵尊の案内板にあった仇討はこのあたりで行われたようである。
賎ヶ岳七本槍の一人、加藤嘉明の曾孫、十四歳の助三郎がこの辻で親の仇討をしたという話である。
西国街道は道なりに南下して行くと、左側には高槻芥川局がある。
そこから奥にかけて、芥川商店街が続いていた。
西国街道はこの先の三叉路を右折していくが、
先程の左折とともに宿場特有の鈎型になっていたところである。
三叉路の手前左側に地蔵堂があり、傍らに「芥川一里塚と旧芥川宿」の説明板があった。
後に下がってみると榎の大木が見え、地蔵堂は一里塚の上にあることが分かった。
説明板
「 一里塚は、江戸時代、街道の一里(約4km)ごとに塚を築いて榎を植え、
路程の目印としたものである。
芥川一里塚は、西国街道の宿場町、芥川宿の東口にあたり、市域では、ほかに梶原にあった。
ここは旧芥川宿の東口に当たる。
淀川とともに重要な交通路であった西国街道は、江戸時代には山崎道といい、
京都山崎と西宮を結ぶ脇街道として、西国大名や旅人らが多く行き交ったという。
十二世紀頃、すでに芥川は宿(町)として成立していたが、
十七世紀初め、徳川幕府によって宿場町としての姿を整えた。
参勤交代のための本陣や伝馬(公用の荷馬)、旅籠などが置かれ、
享保19年(1734)に描かれた芥川宿絵図では、整然とした街並みや寺院、東に一里塚もみえる。
十九世紀前半(天保期)には、旅籠三十三軒、家数も二百五十三を数えて大いに賑わい、
幕末の文久三年(1863)八月には、政変に敗れて長州に逃れる途中の三条実美ら七卿も、
この芥川宿に泊まっている。
しかし、時の流れとともに宿場町の面影は姿を消し、僅かにのこる格子窓の家に往時が偲ばれる。
街道の両側にあった芥川一里塚も、東側だけが残り、
昭和十六年(1941)五月、府の史跡に指定されている。
平成元年三月 大阪府・高槻市教育委員会 」
その先、鈎型だったところを右折すると、右側に古い家が数軒並んで建っていて、
宿場の風情が残っていた。
以前にはもっと古い家があったが、その家は壊され空地になっており、
後十年もするとこの景観が変わってしまうような予感がする。
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左側にも、べんがら格子に、二階が虫籠窓、ねずみ灰色の漆喰壁の家があった。
その先の二階建ての家の隣は、周りを柵で囲った連子格子の白漆喰壁の家である。
家の前には、「 ← 教宗寺 45m先を右折 」 の標柱があり、
道はここから少し左にカーブする。
江戸時代の芥川宿絵図には、芥川宿本陣(山根新四郎)が
教宗寺(きょうそうじ)の手前、左側に描かれている。
残念ながら、その存在を示すものはなかった。 」
右側に「教宗寺」の標石があったので、入っていくと、当日は檀家達が来て、
樹木や境内清掃が行われていた。
芥川宿絵図に描かれている教宗寺の配置とほぼ同じであった。
境内には底に水抜孔があることから、石風呂ではないかといわれている石槽がある。
高槻市教育委員会の説明板「教宗寺」
「 教宗寺は浄土真宗西本願寺派に属し、寺伝によると、田淵久兵衛教宗が親鸞聖人の直弟子になり、
自分の邸宅を寺院に改めて、弘安十年(1287)に開創した寺で、のちに、
聖人の勅号に因んで、教宗寺の号が与えられたという。
堂宇はその後大破し、元禄五年(1692)に再建され、本堂と庫裏、鐘楼堂に市蛭子大神宮がある。 」
街道に戻ると、道は僅かに蛇行しながらやや上り坂になる。
急な坂道に変わると、右側に地蔵堂があった。
お堂の前の左側に大きな愛宕山常夜燈が建っていたが、側面には文政五年(1822)と記されていた。
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その先十メートルほどで交叉点にでるが、出る手前の道の両脇に仕切りの石柱がある。
「
これは芥川の支流が氾濫したときに、水防用の水門扉を嵌めるための仕切りが、
差し込めるようにしているものである。
川が増水したときに水防用の仕切りが差し込める水門扉を嵌める石柱があり、
芥川橋の支流の氾濫に備えている。 」
小さな用水のような支流に架かる橋を渡ると、左側に橋詰地蔵尊が祀られている。
隣にある享和元年(1801)の道標には、石柱に 「 神峰山寺(かぶさんじ)毘沙門天道 是より四十丁 」 、台座には右と刻まれていた。
坂を上りきると、左右は芥川の堤防の道で、その先には芥川橋が架かっている。
道の角に、高槻市が建てた、「 教宗寺 芥川宿一里塚 」、「 芥川桜堤 太子堂 」
の標柱(道標)があった。)
ここで左折し、堤防道をちょっと行くと、左側にすらりと細長い金毘羅大権現常夜燈が建っていた。
「 この常夜燈は文政十二年(1829)に建立されたもので、「 従是道汰六十三里半 」 と、 讃岐の金比羅山までの道のりが記されていた。 」
岸井良衛の五街道細見によると、芥川橋が芥川宿の西の入口で、芥川の川幅は十五間とあり、
江戸時代にも橋が架けられていた。
芥川宿はここで終わるが、高槻駅から近いのに、芥川宿はよく保存されていて、街道の風情を味わうことができた。
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旅をした日 平成22年(2010)9月12日(日)