西国街道の京都山崎と西宮を結ぶ道は江戸時代には山崎道といい、
淀川沿って続く大阪道と共に重要な脇街道であった。
高槻市から茨木市にかけては古墳が多い。
継体天皇陵と推定されている今城塚古墳や継体天皇陵として、
宮内庁の所管となっている太田茶臼山古墳がある。
岸井良衛の五街道細見によると、芥川宿から西宮迄七里(約28km)、
隣の郡山宿まで二里(約8q)とある。
郡山宿までの行程は、芥川橋を渡り、川西・郡家村・氷室村・宮田村、橋を渡り、
賀茂・宿・太田村、橋を渡り、相村・十日市・茅原村、手倉川(広さ十間)を橋を渡り、
中河原村・下竹を通ると、郡山宿へ到着である。
芥川に架かる芥川橋を渡ると、右岸は桜堤となっていて、
春にはお花見ができるようである。
堤防道との交叉点を越えた左側には地蔵尊と刻まれた常夜燈と水盤があり、
地蔵堂が建っていた。
芥川の氾濫から守るため、祀られた地蔵尊なのだろうと思った。
芥川橋を渡ると、(高槻市)川西町になり、ここからは下り坂になった。
時計を見ると、いつのまにか、十一時を過ぎている。
西国街道は一方通行の狭い道で、左にそして右にカーブする。
道の両脇の家は比較的大きく、松や庭木を植えた家が多い。
古そうな家もあるが、芥川のような街道情緒は感じられなく、
比較的最近の家が多いように思えた。
信号のない交叉点を越えると、左側にJAたかつきがあり、
右側の奥には川西小学校がある。
JAの先の変則五差路を直進すると、信号交叉点に出る。
折角なので、国指定史跡 嶋上郡衙(しまがみぐんが)跡に寄ることにした。
交叉点の左右に道は府道6号で、右折して北に向う。
右に阪急オアシス、左にオートバックスがあり、
その先の清福寺バス停がある交叉点の南側にかけて広場のようになっている公園があるが、
ここが嶋上郡衙跡である。
それを囲う金網には、 「 ここは奈良・平安時代の郡寺(芥川廃寺)や
郡の正倉(倉庫群)があったところです。 」 という看板が付いていた。
「 この一帯(高槻市や島本町)は、古代の摂津国嶋上郡にあたり、
ここを治めるために、八〜十世紀の律令制度下で
置かれた郡役所が、嶋上郡衙である。
儀式の場・庁院や税(租庸調)を治める正倉(倉庫群)などが設けられていた。
庁院の西側に郡寺(芥川廃寺)、
北に位置する式内社・阿久刀神社(あくとじんじゃ)周辺には
嶋上郡の郡司(長官)一族の住居があった。
山陽道をはさんで西方にある郡家今城遺跡、南方の津之江南遺跡は、
郡衙と盛衰を共にした遺跡と考えられている。 」
信号交叉点に出て、交叉点を渡り、西に向い、左折して狭い道を入っていくと、
前方にこんもりとした森が見えてきた。
その森の入口にある鳥居をくぐると、高槻市教育委員会が建てた説明板がある。
説明板「素盞鳴尊神社」
「 素盞鳴尊神社の祭神は素盞鳴尊神である。 神社の創史時期ははっきりしないが、
古くは神郡社と称した。
当地は奈良時代の芥川廃寺跡と見られ、当社の境内にある手水鉢はその塔心礎とされる。
また、古来からこの周辺を郡家とよばれ、現在まで地名は継承されている。
この一帯は昭和四十六年、国の史跡 嶋上郡衙跡附寺跡 に指定された。
付近の遺跡からは山陽道に面して、屋敷跡、本簡「上郡」と 墨書された土師器などが
出土し、郡衙の偉容を物語っている。 」
x | x | x | ||||
その奥に素盞鳴尊神社の社殿があったが、古いものではなさそうである。
神社の入口に戻り、狭い道を南下すると、
先程、西国街道が府道に交差した交叉点を越えたところに出た。
(高槻市)郡家(ぐんげ)新町の住所表示があり、
西国街道は少しカーブしている道を進む。
右側には敷地の広い立派な屋敷があった。
少し歩くと信号交叉点、その先は更に狭い道になった。
四分歩くと右側に立派な長屋門がある家があった。
道は左にカーブし、右側にクリーニング屋がある狭い交叉点に出た。
ここは氷室町14である。
この北には今城塚(いましろづか)古墳があるので、寄り道をすることにした。
クリーニング屋を右折して細い用水に沿って歩いて行くと、郡家小学校の脇に出た。
x | x | x | ||||
緑が濃い山塊に近づいていくと、工事中の囲いで覆われた中は、 ブルドーザーが土を掘り返し、赤茶けた色になっていたが、史跡の学術調査の一環かなあと思った。
「
今城塚古墳は継体天皇陵ではないかといわれるもので、
淀川流域で最大級の前方後円墳である。
墳丘の長さは百九十メートル、二重濠を含む全体の長さ三百五十メートルで、
六世紀前半に築かれた古墳としては日本最大級といわれるもので、
昭和三十三年に国の史跡として指定を受けた。
墳墓の荒廃が激しいのは、慶長元年(1596)の伏見大地震により、
墳丘が土滑り崩壊を起したためである。
同古墳は宮内庁の陵墓及び参考地に指定されていなかったため、
史跡指定を受けた頃にはすでに高度成長期に入っていて、
遺跡のかなりの部分が民間のものになり、
その大部分は水田や畑になっていたが、その後、住宅地に変貌していった。
高槻市は、古墳の保存に乗り出し、国や大阪府の支援をうけて、
約五十年かけて、民有地を買戻して、ほぼ全域を公有化し、
ここに史跡をテーマにした都市公園を作る計画を建てた。
その結果、既に釣り人が竿をたれる池になっていた環濠や水田などをブルドーザーで、
埋めて、古墳を復元し、公園にする工事が進んでいたのである。 」
上記のことは帰ってから知ったのだが、そうしたことは知らない小生は、
一周すれば遺跡跡に触れられると思い、半周以上歩いたが、全て工事で閉鎖されていた。
三十五℃以上の暑い日差しの中を歩いて、骨折り損という訳である。
「 7ヶ年に渡る復元整備工事で、2011年4月1日。日本初となる 埴輪祭祀場を復元した今城塚古墳と今城塚古代歴史館が公開され、今城塚古墳として 利用することができるようになっている。 」
讃岐うどんの店があったので、そこで昼飯をとることにした。
食事は順調だったが、部屋のクーラーのせいか、おなかの具合がまた悪くなり、
トイレに寄ったので、三十分以上の時間がかかった。
西国街道は普通二日あれば十分と思っていたが、初日は島本駅で終わっていたし、
腹の具合や途中のロスで二日では終えられないと思った。
クリーニング屋の先の氷室町一丁目15の右側に三基の道標があった。
「
一番大きな道標は、明治四十三年に建立されたもので、
手前には 「 右 石川 見山 妙見道 」 とあり、
街道に面した面には 「 右 芥川 山崎 京都 左 豊川 池田 神戸 」 と、
書かれている。
小さい自然石の道標には、「 右ハ妙見 すく惣持寺 すくそう志寺 道 」 と、
書かれているが、すくとは真っ直ぐのことで、直進を意味する。
もう一基の道標は、民家のブロック塀に埋め込まれていて、
「 右 妙見道 」 という部分だけが見えた。
x | x | x | ||||
如是川を越えると、道の左側に用水のように流れる氷室川を見ながら進む。
「止まれ」の標示のある交叉点には巡礼橋のバス停がある。
左右の道は府道115号、巡礼橋は確認しなかったが、左手の橋だろう、と思った。
西国街道の右側は氷室町、左側の氷室川の南は宮田町となっている。
交叉点を越えると氷室町二丁目で、右側にある家は塀などでよく見えないが、
茅葺をトタン板で覆っているように思えた。
この先からは氷室川は暗渠になっていて、
道の両脇の家も比較的最近建てられたものである。
そのまま進むと、氷室町三丁目のスズキバイクショップの看板があるところで、
道は突き当たる。
枡形(鈎型)のようになっていて、この三叉路を左折し、続いて右折する。
ここは宮田町二丁目である。
右折してすぐの道の左側に板貼り塀に門があり、庭木が豊富で蔵がある家があった。
その隣は白漆喰の塀で、門構えも立派で、
門の前には 「 今日是好日 」と書かれた石碑と人形があった。
この先も蔵があったが、和菓子処の看板があるビルの先に信号交叉点があり、
そこを越えると長かった高槻市は終わった。
なお、ここからJRの攝津富田駅や阪急富田駅までは千四百メートルの距離である。
x | x | x | ||||
茨木市に入ると、左側にある藍野大学では敬老の日も近いので、 地元の敬老会の行事が行われていた。
そこを過ぎると東太田四丁目交差点で、左側にはサークルKがあったので、
健康飲料を購入。 これを飲むと体調はよくなるだろうか?
二百五十メートル程いくと、「太田(おおだ)公民館と太田茶臼山古墳」 の看板があったので、右折して中に入っていく。
公民館は左側にあり、その前には「太田茶臼山古墳」の説明板があった。
「 古墳は北から南に広がる低い台地の上に築かれた前方後円墳です。
全長226m、前方部147m、前方部高19.8m、後円部経138m、
後円部高19.2mで、前方部と後円部が接するところに両側から造り出しが設けられて
います。
古墳の周囲には幅28m〜33mの一重の濠がめぐっており、
その様式から5世紀に築造されたものと考えられています。
この古墳は継体天皇三島藍野陵とも呼ばれ、
宮内庁による第26代継体天皇陵とされています。
しかし、日本書記によると、継体天皇の没年は西暦531年(6世紀)とされ、
古墳の築造年代とは異なるものです。 」
その先には柵があり、そこから古墳の様子は見ることはできるが、
継体天皇陵として宮内庁の所管となっているので、内部には立ち入れない。
昭和四十七年の府の調査では、西北部(後円部側)で円筒埴輪が並んで発見され、
昭和六十三年の市の調査でも西南部(前方部側)でも同じ埴輪が発見されたという。
(注)今城塚古墳が継体天皇陵とするのが学会では通説であり、
茨木市教育委員会もその説に沿った書き方をしていた。
街道に戻ると、その先は下り坂で、道の左に「 ← 太田廃寺 」、「 ↑ 太田神社 」 の標柱があった。
坂を下ると、左側に小さな道標があり、「右 とん田 ミしま田 道」、
「左 京 ふしみ道」と書かれている。
このあたりは太田三丁目で、 東から西へ下るこの坂道は「雲見坂」 と呼ばれている。
江戸時代の摂津名所図会に、「 太田村にあり、太田頼基ここにて天文を見て雲気を考え、
軍の勝敗をさとりし所といふ 」 という記述があるが、
太田城を築いた太田太郎頼基が、空の雲の動きを見て、
天気や戦のやりかたを判断したといわれることから、この名が付いたといわれている。
x | x | x | ||||
道の右側には二基の常夜燈が建っていたので、 参道を行くと少し奥まったところに太田神社(おおだじんじゃ)があった。
「
太田神社は、平安時代の延喜五年(905)に、醍醐天皇の命により、
編纂された延喜式の神名帳に記されている。
祭神は天照皇大神、速素戔嗚尊、豊受皇大神で、明治五年に村社になったとあるので、
この地の鎮守社であろう。
約六百四十四坪の境内には、本殿、拝殿、石灯籠などのほか、
境内社として、天神社、稲荷神社が合祀されていた。 」
街道に戻ると、道の左側は広大な空き地だった。
少し前までは東芝の工場があったところで、町名は今も太田東芝町である。
電気製品の製造が中国などに移転した結果がこの姿で、
日本からどれだけの雇用が失われたことか?!
太田東芝町交叉点を横断すると、右側は太田二丁目、左側は太田一丁目である。
右側に黒い板張りの蔵と塀に屋敷門の家がある。
この先から上り坂になったが、右側に石仏を祀った小さな社があった。
左側に、白壁と板張りの蔵に、連子格子で、虫籠窓に黒漆喰壁の家があった。
このあたりから下り坂になった。
x | x | x | ||||
この先にも、千本格子やべんがら格子、白壁に虫籠窓、
黒板塀や長屋門のある家が残っていた。
道が狭いため、家の軒が壊されるのか、家の前に石が並べて防止している家が多かった。
立派な屋敷門のある家の先はかなりカーブしている。
その先の右側に地蔵堂があり、お堂の左側には「太田橋」の橋柱があった。
お堂の奥には石仏が多く集められた祠があり、
その右側に太田老人クラブ常設集会所があった。
お堂の前に根が曲がった老木があり、そこに茨木市教育委員会が建てた「西国街道」の 説明板があった。
「 西国街道は、古代から京都と西国を結ぶ重要路であり、
江戸時代には幕府が直接管理する五街道に接続する脇街道ですが、
参勤制度によって多くの西国大名が大阪や京を避けて、
江戸への往来に利用された街道です。
文化四年(1807)に完成した五街道其他分間見取延絵図によると、京から西国への道は、
伏見から分かれ、山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽・西宮の各宿を経て、
中国道に続くまでを山崎通(やまざきみち)とし、これがいわゆる西国街道です。
茨木市内をほぼ東西に走るこの街道は、
高槻市土室<(はむろ)町から茨木市高田町に入って西進し、
攝州郡山宿本陣(椿本陣)の前を通って、西豊川町から箕面市小野原へと通じています。 」
市が建てた 「 歴史の道 西国街道 」 の道標があり、
「 安威川・太田橋 」 は直進とあった。
道を進むとその先に小さな川が流れているので、
橋を渡ると正面に高速道のシェルターが見えてくる。
ここは複雑な交叉点になっているが、西国街道はシェルター側の太い道には出ず。
その左の狭い道で、安威川に架かる太田橋を渡る。
岸井良衛の五街道細見によると、太田村と相村・十日市の間の川は太田川とあり、太田川の広さは十間とある。
太田橋が架かる安威川(あいがわ)が、太田川に該当する、一間は1,82mなので、
川巾は十メートル〜二十メートルである。
坂道を上ると信号交叉点がある車道に出る。
西国街道は信号交叉点を横断して、名神高速道路のガードをくぐる。
x | x | x | ||||
高速道路をくぐると、住所標示板は 茨木市十日市町(とおかいちちょう) とあった。
江戸時代には嶋上郡からここから嶋下郡になり、嶋下郡は江戸幕府の天領であった。
西国街道は。前方の左斜めの一方通行の道に入る。
狭い道だが、その先の三叉路の左側に、「右」 「左」の下に、
指の絵の付いた、指さし道標が建っていた。
明治四十一年に建立されたもので、
「右 芥川 高槻 山崎 京都 」「 左 福井 豊川 箕面 池田 神戸」など
と書かれている。
この辺りは耳原(みのはら)二丁目である。
耳原交番北交差点で、南北に交叉する道は府道46号線である。
道を渡ると、耳原ジャパンがある狭い一方通行の道を行く。
その先の耳原三丁目の右側には背の高い松があり、
その下に阿為神社の鳥居と「式内阿為神社御旅所」 と書かれた標柱が建っている。
鳥居をくぐると、広い境内の奥には常夜燈と狛犬が鎮座し、立派な建物もあった。
説明板「阿為神社御旅所」
「 ここは、ここから約1.5km北にある阿為神社(あいじんじゃ)の御旅所です。
御旅所とは、神社の御例祭の際に、本宮から出た神輿がしばらく仮にとどまる所です。
阿為神社は、平安時代の延喜五年(905)、
醍醐天皇の命により編纂された延喜式の神名帳に記されている式内社のひとつで、
中臣藍連が初めてこの地に来て、
祖先である天児屋根(あめのこやね)命を氏神として祀ったのが始まりだといわれています。
明治四一年(1908)には、手久良山の幣久良(てくら)神社(式内社)を合祀されました。
毎年五月三・四日に行われる阿為神社の御例祭の際には、神輿とふとん太鼓が安威、
耳原地区をまわり、この御旅所で休息をとります。
またここから約100m北へ行きますと、帝人(株)大阪研究センターがありますが、
この研究センター内に、六世紀頃に造られた円墳で、横穴式石室を持ち、
その内部に家形組み合わせ式石棺と家形刳抜き式石棺が安置されている耳原古墳があります。 」
その先は上り坂になるが、上りきったと思われるところの右側に顕本法華宗の法華寺がある。
入口には、「南無妙法蓮華経」 と書かれた題目塔があり、
その一面には「左 そうぢしミち」と刻まれ、道標の役割を果たしている。
x | x | x | ||||
耳原(みのはら)集落は、左側の蔵造り、右側の長屋門の家など情緒があった。
右側には善光寺常夜燈がある安養寺がある。
その先に「鶴亀地蔵尊」の標柱があり、
八体の顔に白く化粧された地蔵尊が祀られている祠があった。
その先の左側に耳原小学校があり、信号交叉点を過ぎると上野町である。
道は左にそして右にカーブし、茨木川が見える幣久橋交叉点に出る。
ここから百メートル程上流で、勝尾寺川が茨木川が合流している。
交叉点の手前右側に、茨木市が建てた
「 歴史の道 西国街道 白井河原の合戦場跡」の道標と、説明板が立っている。
十六世紀の戦国時代に摂津の武将、茨木・伊丹両氏の連合軍と池田氏が、
この白井河原を舞台に、死闘を繰り広げたのである。
説明板「白井河原の合戦場跡」
「 この茨木川をはさんで付近一帯を白井河原といい、
茨木・伊丹両氏と、池田氏とが歴史上の合戦をしたところです。
茨木方を支持する和田伊賀守惟政と、池田方の荒木摂津守村重、中川瀬兵衛ら、
池田二十一人衆との対立となり、元亀二年(1571)八月、
ついにこの白井河原で激突しました。
この時、和田勢五百余騎、池田勢二千五百余騎が相対しましたが、
和田軍はまだ戦列が整っていませんでした。
そこで、部下の一人・高利平太夫(軍兵大夫)が(荒木・中川連合軍が陣取る馬塚に出向き)、時間かせぎをしようとしましたが、
その計略がみやぶられ、逆に戦闘が開始された。
この時、高利氏は、主君惟政に 「 多勢に無勢、これでは勝目はない。
大将は強いだけが能ではなく、可をみて進み、不可を見て退き、
無事をもって利をはかるのが大将である 」 と進言しました。
しかし、惟政これを聞き入れず、後続軍の到着を待たずに二百余騎の少数で突撃しました。
この時、惟政は、池田方の武将・中川瀬兵衛に討ち取られました。
主君を失った和田・茨木の郎党たちは、「 主を討たせてどうして生き残れようか 」
と斬って出て討ち死にしたので、 「 白井河原は名のみにして、唐紅いの流れとなる 」 ほど、赤い血に染まったそうです。
茨木市教育委員会 」
説明板の横には二つの石碑と多くのお地蔵さんが祀られていたが、
顔がやはり白く塗られていた。
右手に墓地があるが、戦死者と関係はないのだろうと思った。
茨木市が建てた 「 歴史の道 西国街道 」の道標の隣に、
幣久良(てくら)橋の橋柱を見付けた。
先述の太田橋の橋柱と同様、橋が建て替えられた際、記念に残されたものと思ったが、
間違いだろうか?
x | x | x | ||||
茨木川に架かるを渡ると交叉点があり、西国街道は直進する。
交叉点を過ぎると、左側は北茨木商店街になっている。
西国街道はその先の三叉路を直進するが、左折するとアル・プラザがある。
このあたりから茨木市中河原町で、府道110号線(亀岡街道)と交叉する信号交叉点に出る。
交叉点を渡った右側は小公園になっていて、
その角には大きな路程柱と市が建てた「西国街道」の道標が建っていた。
「 大きな路程柱は明治三十年建立のものを再建したもので、 「 南 堺九里住吉七里大阪五里吹田三里茨木駅 」 、その他、「 東 大津・・・・」 、 「 西 姫路・・・」 というように、柱の三面に。 行き先と里程が細かく刻まれていた。
その先には「史跡中川清秀由緒」の石柱と、 茨木市教育委員会が建てた 「 交通の要衝 中河原 」 という説明板があった。
説明板
「 この地は、茨木市内を東西に走る西国街道と、
南北に走る亀岡街道が交差するところです。
町名を中河原町といい、茨木城の城主として名を連ねている、
賎ヶ岳七本槍のひとりとして、有名な中川清秀が生まれたといわれる由緒地です。
中川清秀は、中川佐渡守重清公の長男として生まれましたが、
中川資料集によると、天文十一年壬寅(1542) 、
「 城州所詳ならずに於いて、御誕生御名虎之助、後瀬兵衛尉と称し奉る 」 とあり、
生まれた詳しい場所は分かりませんが、清秀の菩提寺である梅林寺の蔵書に、
摂州島下郡中川原とあることから、この辺りであると考えられています。
ここから、西国街道を、西へ約1km行くと、江戸時代の参勤交代などの時に、
西国の大名が宿泊する宿として有名な郡山宿本陣(椿の本陣)があり、
東へ約1.5km行くと、太田茶臼山古墳(第二十六代継体天皇陵)などがあります。
また、亀岡街道を北へ約0.8km行くと、
中川清秀の氏神である、福井の新屋座天照御魂神社(にいやにいますあまてるみたまじんじゃ)や
古墳時代後期(六世紀後半)の新屋古墳群、また、
天平二十年(748)行基の開基といわれる、麒麟山真龍寺などがあります。
さらに北へは、風光明媚な山地部を通り、京都府の亀岡へと続いています。 」
中川清秀は、白井河原の合戦で和田惟政を討ち取ったが、
賤ケ岳の合戦で柴田軍の勇将・佐久間盛政の猛攻に遭って、奮戦したものの戦死している。
x | x | x | ||||
一方通行の道を道なりに進むと、右から勝尾寺川が近づいてくる。
勝尾寺川を右に見ながら堤防道を行くと、
右側に下井町の名号碑と呼ばれる、「南無阿弥陀佛法界」の碑がある。
右側の板塀のお屋敷は、一部茅葺になっていて、なかなか立派な家である。
西国街道は、川から離れた道を直進。
少し下っていくが、左側に西国街道の標柱が建っている。
右側の黒い板塀の屋敷は、一部茅葺になっていて、なかなか立派な家である。
街道を道なりに進むと、勝尾寺川が右側に現われる。
その手前右側に西国街道の標柱(道標)と説明板が立っている。
茨木市が建てた説明板「西国街道」
「 西国街道は古代から西国を結ぶ重要な道であり、
江戸時代には本街道である大阪廻りよりも距離が短いので、
西国諸国の大名の参勤交代路として多く利用されてきました。
一般に西国街道の名で親しまれていますが、幕府の名称では山崎通と呼ばれ、
東海道の大津宿から京都に入ることを避けて、
直接伏見宿に至り、山崎、芥川、郡山、瀬川、昆陽を経て、西宮に至る、
全行程約50kmの街道です。 (以下省略) 」
このあたりは茨木市内5.5kmを東西に横断する西国街道のほぼ中間点である。
西国街道の標柱(道標)には、「 郡山宿本陣(椿本陣) 0.3km 」 とあった。
その先の右側の新豊川橋が架っている道は国道171号線で、信号交叉点になっている。
横断歩道用のボタンを押してもなかなか変わらなかった。
交叉点を横断して進むと、宿河原町になった。
少し歩くと歩道橋のある交叉点に出た。
この道も国道171号線で、西国街道は歩道橋を越えた先の
石畳が敷き詰められている狭い道である。
x | x | x | ||||
江戸時代、この辺りから先が郡山宿である。
「 西国街道は、古来、奈良時代から重要な街道(山陽道の一部)として
存在し、京都・奈良から西に向うための主要幹線道路の役目を果たしており、
郡山宿は、古来は郡山駅宿として栄えた。
江戸時代には京都〜西宮間の街道にある5つの宿場の中間点にあるため、
西国大名などの参勤交代等に郡山宿が使われた。 」
五十メートル程行くと右側に、白漆喰の虫籠窓の立派な屋敷がある。
「史跡 椿の本陣 」の石柱と柵に囲まれた本陣の正門の御成門(おなりもん)がある。
今も当主が居住されている、郡山宿の本陣である。
石柱の脇に説明板がある。
説明板「史跡 椿の本陣(郡山宿本陣)」
「 京都と西宮を結ぶ西国街道沿いには、
かつて、山崎、芥川、郡山、瀬川、昆陽の五つの宿駅があり、
郡山宿本陣は、その中央にあって重要な役割を果たしていました。
この本陣は、享保三年(1718)に類焼にあって、
建物とともにほとんどの古記録が焼けてしまい、
現在の建物は、享保六年(1721)に、西国諸大名などの寄付によって再建されたものですが、このような形で現存するのはここだけです。
建物としては、母家二棟、土蔵三棟、納屋一棟、茶席一棟で、居間数は、
茶席を含めて二十五あります。
また、焼ける前の元禄九年(1698)の宿帳をはじめ、和時計、関札、駅鈴、古文書、火縄銃、銃丸製造具などが数多く残っています。
残された宿帳から、摂津、備前、備中、美作、四国の讃岐などの大名や、
忠臣蔵で有名な赤穂城主 浅野内匠頭長矩が宿泊し、
また慶応元年(1865)七月十五日に、明治天皇がお立ち寄りになっています。
この本陣の正門の脇に椿の大樹があり、見事な五色の花を咲かせたことから、
いつしか椿の本陣と呼ばれるようになりました。
昭和二十三年十二月十八日に、国の史跡に指定されています。
茨木市教育委員会 」
本陣の当主は代々善右衛門を名乗り、一橋家より帯刀が許されていた。
御成門脇に咲く椿が有名であったことから、「椿の本陣」とも呼ばれた。
火災にあった後、享保六年(1721)に建て直されたものだが、
江戸時代の本陣の原形をほぼとどめているという。
現在も本陣の主の末裔の梶家の所有で使用されているといい、
事前予約制で団体のみとのことだったので、中に入ることはできなかった。
郡山宿の脇本陣や問屋の情報は得られなかったが、
問屋は常時30人の人夫と30匹の馬を用意、不足が出た時は、付近の村落から、
助郷で集められた、という。
宿河原町には、その先にも右側に門構えの立派な屋敷、
左側に茅葺をトタン屋根で覆った家など、情緒ある家並みが続いた。
道の左側にある門柱に、「宿川原西会場」の看板があり、
その下に 「 右かつをうじ 」 、左側の門柱下に 「 すくかつをうじ 」 と、
書かれた道標があった。
門の左奥にも、 「 これより右ハかつをしみち 」 と書かれた道標と、
上が折れた 「 し寺 大坂 道 」 の道標が建っていた。
「
勝尾寺は、高野山真言宗のお寺で、西国三十三箇所の第二十三番札所である。
箕面市粟生間谷にあるお寺であるが、道標は西国巡礼が通るための道しるべとして、
建てられたのだろう。
なお、すくとは直進のことである。 」
カラー舗装の道をいくと、勝尾寺川に架かる鍛冶屋橋に出る。
鍛冶屋橋は最近造られたもののようだが、街道風景が浮き彫りされていた。
川のはるか向こうには、大成化工や三菱倉庫など、大きな建物が見えた。
橋を渡ると信号交叉点で、そこを越えると道は狭いが、豊川一丁目に入った。
いつの間にが雲が出てきて、夕立が降るかもという気配であるが、
そのおかげでかなり涼しくなって楽になった。
このあたりは住宅地で、一部だけ古い家が混じっているが、
先程の宿河原町がそうだったが、古い家をモダン化して使用しているように思えた。
道端の祠には石仏が祀られていて、その先には火の見櫓(?)もあった。
その先、左側に春日神社の常夜燈があるが、これは文政十年(1827)の建立である。
x | x | x | ||||
旅をした日 平成22年(2010)9月12日(日)