西国街道は古代から西国を結ぶ重要な道であり、
江戸時代には本街道である大阪廻りよりも距離が短いので、
西国諸国の大名の参勤交代路として多く利用されてきました。
岸井良衛の五街道細見によると、郡山宿から西宮迄五里(約20km)、
瀬川宿まで二里(約8q)とある。
岸井良衛の五街道細見によると、郡山宿から西宮迄五里(約20km)、
瀬川宿まで二里(約8q)とある。
瀬川宿までの行程は、郡山宿を出ると、道祖本村(さいのもとむら)・小野原村・
栗生村・今宮村・茅野村・柴村・東稲・西稲村・牧村・西牧を経て、瀬川宿へ到着である.
宿河原町から勝尾寺川に架かる、新鍛冶屋橋を渡ると、豊川一丁目になり、
新鍛冶屋橋北詰交叉点を直進する。
道の左側に春日神社の常夜燈がある。
左手の鬱蒼とした森の中に春日神社があるようなので、寄り道をした。
少し行くと勝尾寺川が流れていて、橋を渡ると常夜燈と鳥居があり、
石段を上ると森になった。
参道を上っていくが、社殿までは思ったより、長かった。
どんな由緒があるのかという軽い気持ちで入ったが、
社殿はけっこう山の奥にあったが、
由来は分らずに終わった。
参道を下って、街道に戻るまで。二十分足らずの時間を費やした。
その先の三叉路を右折していくと、道祖神社が国道近くにある。
(注)
岸井良衛の五街道細見にある道祖本村(さいのもとむら)に関わる地名は、字・道祖本として
春日神社の南部の山麓の一部に残るだけである。
江戸時代の道祖本村は、現在の豊川1丁目でないか?と、思ったが、間違いだろうか?
右手に正覚寺があり、その先の山下橋手前の三叉路の右側角に道標がある。
「 道標には、「 是ヨリ 豊川学校 勝尾寺 」 「 粟生 宿久庄 清水 道 」と刻まれていた。
豊川学校には川端康成が明治三十九年に入学したと記憶している。 」
勝尾寺川に架かる山下橋を渡ると、豊川二丁目で、相変わらず、カラー舗装は続き、
西国街道の標示の役割を担っていた。
その先に信号交叉点があるが、ここを渡って進むと、左側に汚れて見づらくなったが、
西国街道の標柱が建っていた。
このあたりも住宅地だが、その中を道なりに進むと、大きな道に突き当たった。
左折してこの道を進むと、三叉路で前方は土手のようになっている。
土手の先には蓮池があるようだが、ここは右の道を進んだ。
少し行くと、左側に「西国街道」の標柱が建っていたので、
道が正しいことが確認できた。
いつの間にか、空は晴れて、また、暑さがぶり返してきた。
道は左右にカーブするが、前方に大阪モノレール豊川駅が見えてきた。
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十五時三十分、豊川駅の下にいた。
これからどうするか、このペースでは西宮まではとてもいけない。
お腹はなんとか収まったので、この先、電車の駅があるところまで行き、
そこで今日の旅は終えよう。
豊川駅があるのは大阪モノレール彩都線で、
跨座式線路の下には府道1号線が続いていた。
府道の信号交叉点を横切ると、茨木市西豊川町である。
少し歩くと、茨木市から箕面市に変わった。
箕面市小野原東四丁目だが、古い家はなく、マンションやアパートが多かった。
荒内谷川に架かる橋を渡ると、小野原東一丁目で、
運輸会社や町工場のような建物があった。
道なりに進んでいくと三叉路があり、
右に行く道の方が広いが、狭い道を直進すると上り坂になった。
すぐ右側に小野原東公園があり、奥では子供達が遊んでいた。
少し上ると、道路の舗装の色が変わり、右側の背の高い樹木の下に説明板がある。
説明板「春日神社のお旅所と西国街道」
「 小野原地区には、神護景雲年間(767〜769)の創建が伝えられる春日神社が、村の氏神として鎮座します。
この地は春日神社の大祭の際に御輿が巡行するため、お旅所と呼ばれ、
御輿を置くための台座が所在します。
また、隣接する西国街道の脇には、京都伏見への方向を示す、
享和二年(1802)に建てられた道標や村への疾病の侵入防止を祈願して建てられた常夜灯籠、
楠木正成が水を求めたと伝えられる井戸などがあります。
箕面市教育委員会 」
この空地はこの南西にある小野原西二丁目の春日神社のお旅所で、
奥には二対の常夜燈と小さな祠があった。
台座一対は春日神社の神輿を乗せるものだろうか?
(注) 岸井良衛の五街道細見の小野原村の項に、道神本村と小野原村の間に、
郡山川があり、広さ七間とある。 また、春日大社があり、
九月十六日、十七日が祭礼と、記載されている。
律令制が崩壊した中世に小野原は垂水東牧、萱野郷は垂水西牧となり、摂関家藤原氏の領土となり、
やがて、春日大社に寄進された。 このため、ここの村民は春日神社の神人と称するようになった。
坂を上りきるとT字路になっていて、西国街道は右折するが、
左折すると豊川駅方面に戻る。
この三叉路はかっては鈎型になっていたと思われるが、
左角には、石柱に「楠水龍王宮」と書かれた地蔵堂がある。
楠水は楠木正成がここの井戸水を賞味したということに由来するという。
お堂の前には寛政八年(1796)建立の太神宮常夜燈と、
「 左 京ふしみ道 」 と刻まれた、享和二年(1802)の道標が建っていた。
なお、太神宮とは伊勢神宮のこと。
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このあたりがほぼ頂上で、ここから先は小さな用水が流れていた。
道の左右に長屋門がある家や蔵がある家が多く残っているのには驚いた。
それを見ながら進むと、府道120号と交叉する小野原南交叉点に出る。
交叉点を横断すると、小野原西一丁目と二丁目の境を歩くことになる。
この先の右側にも蔵と屋敷門があった。
その先の狭い交叉点の右側には宮崎自治会館があった。
左側には白壁に板張りの蔵に長い塀に高い松の屋敷が二軒続いてあった。
その先にも、同じような家がある。
右側の黒い板張り蔵に屋敷門、そして、板張り塀の家を過ぎると、
小野原西一丁目は終わりで、
左に入る三叉路の手前に寛政八年(1796)の金比羅常夜燈が建っていた。
そこを過ぎると川が見えてきて、橋を渡ると、
江戸時代の粟生村、箕面市粟生新家になる。
右側に立派な屋敷があるところから上り坂になった。
少し歩くと、タイル付きのカラー舗装の道に変わった。
箕面市の西国街道を示すカラー舗装は場所により異なっていた。
三叉路の角右側には 「 勝尾寺 4.0km 」 の道標があり、 その左に、「 勝尾寺旧参道町石 」 と、書かれた標柱があり、その左に町石があった。
「 大鳥居から勝尾寺山門まで36町あるが、1町(約109m)毎に、
山門までの距離を示す標識の石柱が36本造られた。
古いものは鎌倉時代の宝治元年(1247)の建立の8基で、我が国最初の町石、国の史跡に指定されている。 」
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右手には勝尾寺の大鳥居があるが、二十メートル程で国道171号線が迫るところである。
鳥居は寛文六年(1666)の建立だが、表面を削り、銘文に色を付けているという。
鳥居の下に、「勝尾寺表参道と大鳥居」の説明板がある。
説明板「勝尾寺表参道と大鳥居」
「 勝尾寺へ向かう参道は幾筋もありますが、西国街道に面した、
新家の大鳥居を起点として北へ向かう三十六町(約4km)の道が表参道です。
参道沿いには、寺への距離を示す町石が残されており、宝治元年(1247)に建てられた、
下乗石から七町石までの八基は、最古の町石として国の史跡指定を受けています。
現存する石の大鳥居は、寛文六年(1666)に建てられたものですが、
勝尾寺文書には、鎌倉時代の寛元三年(1245)に、
木の鳥居が建てられたことが記録されています。
箕面市教育委員会 」
勝尾寺は、西国三十三所の第二十三番札所である。 最近は勝ダルマの寺として有名である。
箕面国定公園の中心にあり、千三百年の昔より、勝運の寺、
最近は勝ダルマの寺として有名である。
歩いていくと、道は左にカーブし、小さな橋があり、石仏を祀った祠があった。
橋を渡った先の交叉点で、カラー舗装の道は終わった。
右手に勝尾寺口西交叉点があり、左に行くと千里緑地である。
この交叉点を越えて、国道171号線が平行する狭い道に入る。
左側に箕面墓地公園があり、ここから、江戸時代の今宮村、
現在の箕面市今宮三丁目になる。
その先左側には田んぼがあり、西国街道では始めてみる光景だった。
そのまま進むと、府道119号線と国道171号線の交叉する今宮交叉点の南側にでる。
対面の府道119号を渡るには、一旦交叉点に出て、左折してその道に入るのが安全である。
国道171号線の北側にはPCデポやケーズデンキ、南側にコーナンがあり、
このあたりの商業の中心であるような気がした。
西国街道に入ると、すぐの右側には「柳谷観世音菩薩」の大きな石碑があった。
道の角に、「 萱野三平旧宅 1.6km 」、
「 勝尾寺大鳥居 0.8km 歴史の道 西国街道 」 の道標があった。
「
道路はカラー舗装ではなかった。
道標の萱野三平旧宅への矢印には、西国街道の表示がないので、
この道は旧西国街道ではないということだろう。 」
ここから今宮二丁目で、この道は一方通行で、
道を歩いて行くと道は右にカーブし、千里川の小さな橋を渡る。
橋を渡ると、右側から国道が急接近してくるが、左側は目にしみるような緑の稲で、
遠くには新船場の卸団地のビル群が丘陵に見えた。
左側の大きな木の下に、お堂と西国街道には珍しい青面金剛の碑があった。
道が左に曲がると、住居標示は西宿二丁目に変わり、
そこを過ぎると、国道171号が通る、西宿二丁目の交叉点に出た。
ここから、国道171号を歩くことになる。
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その先二百五十メートル先で、新御堂筋(国道423号)の高架下にある萱野交叉点を
横断する。
ガードをくぐると、西日が目に入り歩きづらかった。
「 国道423号は、大阪市から箕面市を経て、 京都府亀岡市を結ぶ一般国道だが、大阪市から箕面市の区間は、 大阪万博に合わせ整備された新御堂筋(旧府道大阪箕面線)で、 昭和五十七年に国道に昇格した。 」
岸井良衛の五街道細見では、江戸時代には茅野村の名で登場するが、
現在の地名は、萱野三平と同じ、萱野である。
本来の西国街道は、萱野四丁目交差点から、斜めに善福寺まで達していたようである。
今はその道は残っていないので、国道を
萱野二丁目交差点まで歩き、左折すると左側に善福寺があった。
「 高野山真言宗の寺院で、天平年間(729〜749) 義仲の開創と伝える。
宝亀八年(777) に開成皇子(光仁天皇の子)の勅願により建立された、
勝尾寺(弥勒寺)の外院6坊の一つである。 」
萱野二丁目交差点を左折するとカラー舗装の道であった。
「
善福寺とその手前の大きな家の間にある道、そして、
その先萱野三平の旧邸前の道も、カラー舗装の西国街道を示す路面になってきた。
西国街道は、萱野四丁目交差点から善福寺の部分はなくなっているので、
どの道でもよいという意味なのだろう。 」
道の奥の左側に萱野三平の旧邸があり、道の角に説明板があった。
説明板「 大阪府指定史跡 萱野三平旧邸 」
「 美濃の旗本・大嶋氏の所領である椋橋荘(現豊中市大島町)の代官を務めていた、
萱野重利の三男として、延宝三年(1675)当地に生まれた三平重實は、
十三才の時、大嶋出羽守の推挙により、
播州赤穂の浅野内匠頭の小姓として仕えるようになりました。
元禄十四年三月十四日、江戸城松之廊下で、内匠頭の吉良義央に対する刃傷事件後、
三平は大石内蔵助を中心とした仇討ちの同士に加わろうとしましたが、
三平を推挙した大嶋氏へ迷惑が掛かることを心配した父の反対を受け、
元禄十五年(1702)一月十四日、当地において自刃し、二十八才の生涯を閉じました。
涓和の俳号で多くの優れた句を残した文化人でもある萱野三平の生誕、
終焉の地である旧邸は、地元自治会の努力により保存継承され、
昭和四十八年、大阪府の史跡指定を受け、平成四年箕面市へ寄贈されました。
箕面市教育委員会 」
入ろうとすると受付は終わっていた。
時計を見ると、十六時四十分、終了時間は十七時だが、
入場できるのは十六時三十分までだったのである。
大阪モノレール豊川駅で辞めるか否かをお茶を飲みながら考えていたのが仇になった。
中に入れなかったので、建物の周りを歩いて終わりになった。
なお、萱野三平旧邸の内部を見学できるが、月曜日は休館。
萱野三平は義理と人情、そして、忠と孝の板ばさみにあった短い人生だった。
後年、この事件をもとに制作された、歌舞伎の仮名手本忠臣蔵では、
早野勘平として登場する。
腰元のお軽と駆け落ちをし、最後は自害して果てる悲劇の人物として描かれている。
この後、萱野三平旧邸前の道を西に向かう。
この通りには古く屋敷門がある大きな家が残っていた。
その先の三叉路で左のカーブする道を進むが、
カーブ内側の民家の石垣の角に、「柴村高札場跡」の説明板があった。
「 江戸時代、放火やキリスト教、偽金銀の使用の禁止等のお触書きを掲示するために、
村々に高札場が設置されました。
この旧芝村の高札場は、西国街道と村の中を通り抜ける道が交差する、
人通りの多い場所に立地しています。
また現存しませんが、萱野地区の西国街道沿いには、
一里塚があったことも推理されています。
箕面市教育委員会 」
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この後、カラー舗装している道を進むと、消防団の火の見櫓がある前を通り、
左側一段下がった畠の先には箕面市立病院の建物が見えた。
萱野3丁目南交差点に出ると、左端に 「 歴史の道 西国街道 」 「 萱野三平旧邸 0.4km 」 の道標があった。
交叉点を横断すると、稲(いな)三丁目で、周囲が丸石に色どられたカラー舗装の道になった。
(注) 岸井良衛の五街道細見では、東稲と西稲村の地名で登場するが、現在は稲1丁目〜3丁目である。
また、西稲村に善福寺と教覚寺がある、と記している。
時計は十七時少し前を指しているためか、周囲がかなり暗くなってきたので、
この先どこで終了するか?
少し歩くと左側に 「 瀬川・半町駅所跡 南西2.3km 」、
「 萱野三平旧邸 北東0.9km 」 と書かれた道標があった。
ここはどこだろうと心配になって、右側にある交叉点に出ると、
稲二丁目交叉点だったので安心して、街道に戻って進む。
交叉点を越えると、江戸時代の牧村と西牧で、現在は牧落という地名である。
パソコンショップの脇に出て、国道171号線と合流。
国道を南西に進むと、牧落(まきおち)交叉点に出る。
交叉点から前方を見ると、横断歩道橋が見えたので、交叉点を右側に渡る。
西国街道は、交叉点を直進し、陸橋手前の右側にある道に入り、国道とは別れた。
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ここは牧落二丁目で、西国街道は狭い道で、国道171号が左に平行して続いている。
この道は、道の両脇にモザイクのカラープレートが敷かれている、カラー舗装なっていて、
「西国街道」であることを示している。
交叉点の左側の畳屋の屋根には、「水」の文字があり、
かっては茅葺き屋根であったような気がした。
交叉点の右側の民家の前には道標二基と、「牧落の旧札場と道標」という、説明板が建っていた。
説明板「牧落の旧札場と道標」
「 本地は、もと牧落村の高札場(掲示場)である。
幕府や領主から出された命令・規則の御触れを書いた木札・貼紙をここに掲示して、
村民・諸人へしらしめた。
この地は箕面・大坂道と西国街道の交わる四ツ辻にあたるので、
行路の目安となる道標二基が今も建っている。
大きな道標は、 石柱の上部に 手指が彫られている指差し道標で、
その下の右側に「 大坂 四り半 」 、 左側に 「 はっとり 二り 」、その中央に「 天神 」、一番下に 「道」の文字が刻まれている。
はっとりとは服部天神のこと。
小さな道標には、 「 みのをみち 」 と刻まれている。 」
大きな道標の脇の鉄柱に、横に 「 ← 瀧安寺 2.5km 服部天神 7.8km → 」 のプレート、
縦に 「 ← 瀬川・半町立会駅所前 1.5km 1.8km 萱野三平旧宅 → 」 のプレートが付いていた。
瀬川・半町立会駅所は、瀬川宿なので、あと一キロ強で、宿場跡に行けるようなので、がんばろうと
思った。
その先には八幡神社の鳥居があり、奥に参道が伸びていた。
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そこを過ぎると百楽荘三丁目である。
その先の左側には大きな木があるが、その下に 「 歴史の道 西国街道 」、
「瀬川・半町立会駅所跡 → 」 の道標が建っていた。
道幅が急に細くなるところには阪急箕面線の踏切があった。
踏切を越えると、桜井一丁目に入り、道幅は急に広くなった。
左側に白壁に板張りの塀を巡らせた大きな屋敷の旧家があった。
箕面桜井郵便局を過ぎると、左側にグルメシテイのある交叉点があり、
そこを過ぎると、右側に池田泉州銀行、左奥に阪急桜井駅、右側に尼崎信用金庫がある。
駐車場の中に 「 歴史の道 西国街道 」 、「 ← 瀬川・半町立会駅所跡 北東0.6km 」 の道標が建っていた。
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これまで歩いてきた道は二車線であったが、駅前から先は巾一車線余という、狭い道に変わった。
道幅が狭いので、車の通行は少ないが、車がくると身を構える感じになる。
町名もすぐに、箕面市半町(はんじょ)2 という呼び方が難しい地名になった。
左側には連子格子白漆喰の家などがあり、古い落ち着いた町並みが残っている。
また、右側にはコンクリート台座の上に石の祠に石仏が祀られていた。
半町二丁目交叉点を過ぎると、右側の蔵の先に、火の見櫓が見えた。
その先右側に「蓮如上人由緒地」の石柱があり、奥に入ると浄国寺の山門がある。
山門は古そうだが、建物は最近建てられたものだった。
左側には茅葺を金属板で囲った家がある。
右側に「箕面自動車教習所」の看板を掲げた門があり、その左の駐車場の塀の前に、
箕面市教育委員会が立てた「瀬川・半町立会駅所と本陣跡」の説明板があった。
説明板「瀬川・半町立会駅所と本陣跡」
「 江戸時代の瀬川と半町は西国街道筋の駅所村でした。
公用の人と馬、荷物を継ぎ立てる立会(共同)駅と、
参勤交代の西国大名の泊まる本陣、庶民のための旅宿もあった宿場でした。
寛永年間(1624−1643)頃に、瀬川の宿駅が整備され、宝暦年間(1751−1763)には、
半町も瀬川本陣同様の旅舎を造りあげ、半町本陣を名乗るようになりました。
明治十三年(1880) 駅所は廃止されましたが、半町本陣の建物の一部は現存し、
古文書や宿札等、貴重な資料が数多く伝え残されています。
箕面市教育委員会 」
江戸時代には人馬を継立てするところは問屋と呼ばれ、旅宿は旅籠と呼ばれたが、
当地は駅所という呼び名だったのだろうか?
それはともかく、半町村と瀬川村で一つの宿場としての機能を果たしていたのだろう。
(ご参考) 瀬川宿と半町宿
「 箕面市の歴史を調べると、古代の山陽道には、摂津国で五つの宿駅が設けられた。
大原駅(嶋上郡・高槻市)、殖村駅(嶋下郡・茨木市)、草野(すすきの)駅(豊島郡・箕面市)、
葦屋駅(う原郡・芦屋市)、須磨駅(八部郡・神戸市)である。
草野駅は現在の萱野のあたりに置かれたもので、13疋の駅馬を常備することになっていた。
しかし、駅家制度は十世紀以降急速に衰え、私人が経営する宿になっていく。
箕面でも、古代の草野駅が機能を失い、代わって瀬川宿が現れる。
中世に入ると、農村が商品となるの物資を生産するようになり、瀬川宿は生産品の集散地になり、
小規模ながら町の性格を持つようになった。 こうした集落を在郷町という。
江戸時代に入り、瀬川宿は天領で、山崎通(西国街道)の公認の宿場となった。
宿場には問屋(公用のための伝馬所。私用のための馬借所)や本陣・脇本陣・旅籠・木賃が置かれた。
半町集落は、もとは箕面川の北岸にあったが、次第に街道筋に移転してきて、
馬借・駄賃馬・旅籠を営むようになった。
こうしたことに、瀬川宿は反発したのだろう。 天和年間(1681〜1684)になると、
幕府は半町集落に瀬川宿の助郷を命じる。
それが発展して、宿場の業務を瀬川と半町が共同で行う、立会駅になり、
瀬川半町立会駅と呼ばれるようになった。
その結果、本陣は瀬川と半町の両方へ設けられ、両者は交代で役目を果たすことになった。
瀬川は商品集散地であったが、近世半ばを過ぎると、水運の利便を持つ池田に奪われていく。 」
この後、瀬川二丁目を越えたあたりに、瀬川本陣があった、とされるので、行ったみたが、
痕跡は確認できなかった。
問屋・脇本陣・旅籠なども、得られず、お手上げである。
これで、今日の旅は終了することにして、阪急桜井駅まで戻った。
「
十七時二十五分に今日の旅は終えたが、腹の調子がおかしい上に、
35℃以上の炎天下よく歩いたと思う。
駅員のアドバイスを受け、阪急梅田駅に出て、JR大阪駅から新大阪に出て、新幹線で名古屋に帰った。 」
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旅をした日 平成22年(2010)9月12日(日)