『 西国街道を歩く E 瀬川宿〜 辻の碑(つじのいしぶみ) 』


西国街道は古代から西国を結ぶ重要な道であり、 江戸時代には本街道である大阪廻りよりも距離が短いので、 西国諸国の大名の参勤交代路として多く利用されてきました。 
岸井良衛の五街道細見によると、瀬川宿から西宮迄三里(約12km)、 昆陽宿まで二里(約8q)とある。
辻の碑(いしぶみ)は、高さ九十二センチ、幅七十六センチの自然石の碑である。
辻のある北村は、摂津国の中心に位置し、東西南北の端まで、七里(約28km)の距離とある。




瀬川宿から辻の碑

平成二十二年九月十九日(日)、前回で終了できなかったので、 再度新幹線で新大阪駅に行き、阪急梅田駅から宝塚線で石橋駅に行き、 箕面線に乗り換えて桜井駅に行った。 
駅に着いたのは八時であるが、早速、箕面自動車教習所まで行き、旅を始めた。 

その先の塀の前には、市が建てた街道の 「 ←昆陽宿 約7.5km 」、  「 郡山宿 →約9.0km 」 の道標があった。 

岸井良衛の五街道細見によると、瀬川宿から昆陽宿への行程は、 石橋村・轟村・今崎村・下河原村・神川を経て、川幅百間の池田川を渡る。
棒杭があり、これより左伊丹とある。
北村、石橋を渡り、辻へ。ここは追分で、南に大阪道・伊丹へ二十丁、大坂へ五里である。 
北へは多田神社へ一里半である。
辻を過ぎると、大鹿村・先祖村を通りと、昆陽宿へ到着する。

その先右奥には寺院があり、道の反対には蔵と板塀に松の庭木のある屋敷があった。 

ここは面白いところで、このような古そうな家があると思うと、 モダンな建物も建っていた。 
これがこの集落の面白いところである。

瀬川二丁目交差点を越えると、二百メートル程先に交叉点がある。
直進すると箕面川に架かる今井橋があるが、 西国街道はここで左折して、南西に進む。 

街道は右側に用水路が流れる道を南下していく。
右側にベルク池田石橋というマンションがあり、その隣に石橋2丁目第2公園があった。 
ここは箕面市と池田市の境で、公園は池田市だが、 歩いている道は箕面市なのである。

西国街道の道標 x 蔵と松のある屋敷" x 今井橋手前の交叉点 x 石橋2丁目第2公園
西国街道の道標
蔵と松のある屋敷
今井橋手前の交叉点
石橋2丁目第2公園


道の両脇のマンションを見ながら進むと、国道171号線の高架橋、 そして、阪急箕面線の踏切が見えてきた。

国道171号線の高架橋の下まで行くと、 「石橋麻田町自治会」と「豊中市」とある看板がある。 
豊中市はここから離れているのに、これはなんだ!!

「 実は、高架橋手前数十メートルから、 踏切を渡った瀬川五丁目交差点までの南北、 そして、西方二百メートル足らずの細長い形の土地は、 豊中市の飛び地なのである。 」

江戸時代、石橋麻田町だけは、麻田藩の飛び地になっていた。
それは池田城主の姫君の婚礼に関わる話が残っている。

「  池田城主の娘が豊中の麻田藩に嫁ぐことになった時、 ここ(現在の石橋麻田町)に新居を建てて、その土地を豊中の麻田藩に譲った。  その結果、ここに豊中市の飛び地ができた。
江戸時代が終わって百五十年もするのに、 今も箕面市と池田市の間に挟まれた飛び地の石橋麻田町がある。 」

阪急電車の踏切を渡ると、ガードレールの先で、国道423号線に合流する。
上には国道171号が通っている。

国道を歩くと瀬川五丁目交叉点で、飛び地の石橋麻田町は終わり、 再び、左側は箕面市瀬川五丁目になる。

高架橋と踏切 x 豊中市石橋麻田町の看板" x 国道423号に合流 x 瀬川五丁目交叉点
高架橋と踏切
豊中市石橋麻田町の看板
踏切の先で国道に合流
瀬川五丁目交叉点


しかし、五十メートルほどのところで、国道と別れて右側の細い道を入ると、 江戸時代の石橋村で、現在は池田市石橋2丁目になる。 
少しの間少しごみごみしたところを歩くと石橋阪大下交叉点の手前で、 国道423号線と合流した。
石橋阪大下交叉点では左折して交叉点を渡る。

交叉点を渡ると、左に入る道があり、 入口に 「← 博物館 ← 大阪大学豊中キャンバス 」、 その下に 「 これより大阪大学の構内につき 徐行 」 、 その下に 「← SLOW DOUN 」 と書かれた看板があった。
阪大豊中キャンバスは、待兼山の南面に広がり、ここは豊中市待兼山町である。

ここから南五十メートルほど歩くと、道の左側に「↑ 国道176号 大坂15km 豊中4q 」  の道路標識がある。
右を見ると、一方通行出口の標識がある、右側斜めの一方通行の細い道がある。
これが西国街道である。 

前方を見ると、石橋三丁目交叉点の先左側に、ローソンが見えたので、 国道を歩き、交叉点を右折し、ローソンに入った。
飲料水などを熱中症対策に購入した。 
例年ならば九月のこの時期になれば台風が来て、その後は少しづつ涼しくなるが、 今年の異常気象は今でも三十五度を連日記録している。 

コンビニで買い物をすませ、国道を西国街道の入口まで戻り、細い道を歩き始める。
右側に白壁の塀がある屋敷があった。

石橋阪大下交叉点 x 阪大豊中キャンバス入口" x 一方通行の細い道に入る x 白壁の塀がある屋敷
石橋阪大下交叉点
阪大豊中キャンバス入口
西国街道入口
白壁の塀がある屋敷


白壁の塀がある屋敷の道の反対側の奥にはお堂が建っていた。
お堂を囲む金網には石橋駅を中心とした地図が描かれていて、西国街道の案内地図になっていた。 
このお堂は地図にある辻のお堂だろう。

「  この絵地図によると、現在地の先の三叉路を左折すると大坂に至る。、  
直進すると石橋が架かり、その先に道標があった。
その先の三叉路は右折すると能勢街道で、入口に丁田池(現 石橋駅前公園)があった。
左手には前池(現石橋南小)があり、道の左に辻の弁天(ゴ―グラがあった)があり、 川の脇にトンドバがあった。
その先の右の三叉路奥に、正光寺があり、境内に夜泣き石があった、記されていた。 」

その先、道は右にそして左にカーブする。 
右側の民家の前に、小さな祠があり、石仏が祀られていた。 

その先は阪急宝塚線の踏切だが、踏切手前の右手に旧石橋村高札場跡の説明板があった。

説明板「旧石橋村高札場跡」
「 ここは、京都と山陽道とを結ぶ 「西国街道」、 大阪と池田・能勢方面とを結ぶ「能勢街道」(江戸時代は「大阪道」あるいは「池田道」) が、 交わる場所です。 
かって多くの人々や物資が行き来交したこの辻には、 幕府や奉行所などから庶民に周知させる法令や禁令、生活の規範などを掲げる高札場がありました。 
江戸時代の石橋
江戸時代の石橋村は麻田藩青木家(一万石)の領地になっていました。  この時代の戸籍台帳である「宗門御改帳」などによると、 元禄三年(1690)に二九軒、一九二人、幕末の文久元年(1861)には二四軒一〇四人の人々が暮らしていたようです。 
 (以下省略)   
近代以降
明治二二年(1889) の町村制の施行によって、石橋村は北豊島村の大字となりました。  昭和一〇年(1935)、北豊島村は、秦野村、池田村と合併、昭和一四年には市制が施行されて、 池田市になり、「石橋」は町名として、その名を今日に残しています。
  平成二十二年四月   池田市教育委員会     」 

辻の地蔵堂 x 西国街道の案内地図" x 小さな祠 x 白壁の塀がある屋敷
辻の地蔵堂
西国街道の案内地図
西国街道入口
旧石橋村高札場跡


「 ここは阪急電鉄西国街道踏切道です 」 と書かれた踏切がある。
踏切を渡ると、右側の道が能勢街道で、西国街道は 正面の細い道に入り、道なりに南西に進む。
前述の絵図にあった地蔵橋は暗渠になったのか見つからなかった。 
また、辻の地蔵もなかった。

道は右にカーブし、すぐに左にカーブし、進んで行く。
道の左側に石橋四丁目23の住居表示のある三叉路で、左に行くのが西国街道だが、 ここで正光寺に寄ることにした。 

正光寺は浄土真宗本願寺派の寺だが、右の道に入った先にあるその先の狭い道を進み、 交叉点を越えた先を右に折れると、左側に麻田藩の陣屋門といわれる山門が見えてきた。
境内に入ると、「 中納言菅原峰嗣休憩岩 」 と書かれた石碑の脇に大きな岩があった。

「 平安時代、このあたりは薬草園で、 そこを管理していた天皇の待医・中納言菅原峰嗣が、 見回り時に休憩用として使っていた岩と伝えられてきた。 
江戸時代に入り、麻田藩主がこの岩を藩の陣屋に持ち帰ったところ、 毎晩 「 帰りたい 」 と、岩が泣く夢をみたので、正光寺の近くの辻に持ち帰らせた。 
後に正光寺内に移された。 」 という伝承があり、夜泣き岩と呼ばれているものである。 
また、門は麻田の庄屋・祝氏が、廃藩置県の際払い下げられた、(麻田藩の)陣屋門を買い、 その後、正光寺に寄贈したものと伝わるものである。 

西国街道踏切 x 正光寺山門" x 中納言菅原峰嗣休憩岩 x 正光寺本堂
西国街道踏切
正光寺山門
中納言菅原峰嗣休憩岩
正光寺本堂


街道に戻り再び西に向かって歩き始めた。
このあたりは住吉一丁目で、左側に立派な屋敷門があった。 
道なりに進むと左右に大きな道路がある、池田市住吉2丁目交叉点にでた。
その先の左側にこんもりとした森があり、歩道橋に上ると、「亀之森住吉神社」 の標柱が見えた。

亀之森住吉神社社伝
「 このあたりは大昔は広々とした入江だったが、 第十五代応神天皇の頃、忽然として亀形の小島が現われ、次第に土地が開け、 第四十九代光仁天皇の御代の宝亀元年(770)のある夜、里人の夢に  「 吾ハ住吉大神ナリ、汝等、吾ヲ信ズル者ハ、白箭(矢)ノ止ル処ヲ見ン 」 という、 お告げがあったので、 翌朝、里人等が集り、森にきてみると、お告げの通りだったので、里人らは驚き、畏み、 かつ、喜こんで、ここに住吉大神を奉した。 
 」 
また、 「 風雨順に民豊ナリ依テ郡名ヲ豊島ト呼ビ、其里ヲ豊島ノ庄ト謂ヒ、 世々亀之森住吉神社ト云フ 」 とあることから、  今の池田市や豊中市が所属した豊島郡は、この時代からのもので、 神社は豊島郡の大産土神(うぶずなのかみ)として、古代から崇敬されてきた。 

参道の石段を上ると、右側に朱塗りの建物があり、ここで清めて先に進むと、 社殿が見えてきた。

お参りを済ませると、街道の続きを歩く。
右側に松の木と門が見事な家があった。 
そこを過ぎると、右側に北轟木公園があり、公園を囲む柵に西国街道の絵地図があった。

「 地図を見ると、住吉神社の反対、西国街道の北側に、北轟木の郷倉があった。  また、住吉神社の南側に今も同じ前池(宮之前池)がある。
この先に順正寺があり、その先に今井橋が架かり、 道は左にカーブし、右側に十二神社がある。 
その先に中国縦貫自動車道路が出来たたため、この部分は遮断されている、とある。 」

道の右側の側溝には清流が流れていて、周りに潤いを与えているような気がする。 
右側に、浄土真宗の順正寺があるが、門が閉まっていた。 
先程の絵地図にはこの先に今井橋があるが、暗渠になったか橋はなかった。 

住吉神社の森 x 亀之森住吉神社社殿" x 西国街道の絵地図 x 順正寺"
住吉神社の森
亀之森住吉神社社殿
西国街道の絵地図
順正寺


道は左にカーブし、その先には中国縦貫自動車道路の高架が見えてくる。
三叉路の先に、鋳造された美術品が展示されていて、その脇に地下道がある。 
そのまま進むと中国自動車道の高架前の道に出た。 
道を右折するとすぐ右側に 「駒の森 十二神社」 と書かれた標柱と鳥居があった。
十二神社は、天神七代(国常立尊より伊弉諾尊、伊弉冉尊に至る七代の神々)と、 地神五代(天照大神、天忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火火出見尊、鵜葺草葺不合尊)を祀っている。 

神社の由緒
「 十二神社は、十二の宮、あるいは、駒の森と称し、北今在家、西市場、 北轟木(古くは下河原) 三村の産土神として厚い信仰をうけていた。 
明治四十二年の神社統合令により、神田の八坂神社に合祀されたが、 昭和二十一年に元の場所に転座された。 」 

鳥居の奥に、今在家村の商人などが建てた文政九丙戌年(1826)十月日と刻まれた常夜燈があった。 
境内には第二次世界大戦時に掘った防空壕跡の石碑が建っていたが、 防空壕は埋められて残っていないようである。 

「  小生は、終戦を山口県旧徳山市(現周南市)で迎えたが、 戦艦大和に燃料を供給する基地があったことから、米軍により焼け野が原になったが、 防空壕のお陰で助かったという経験がある。 
今や死語になった防空壕に接するとは思わなかった。 

中国自動車道の高架の手前の歩道脇にある地下道入口までもどる。
地下道をくぐると、高速道の脚柱が見える道にでるが、 その先にもう一つの地下道があるので、そこをくぐって、中国自動車道の南西側に出る。 
西国街道は、高速道路建設により、寸断されてしまっているが、 地下道を出ると目の前に黄色いテントの弁当店がある。
西国街道はこの弁当店の裏側にある道である。 

美術品と地下道 x 十二神社標柱と鳥居" x 西国街道の絵地図 x 黄色い弁当店"
美術品と地下道
十二神社標柱と鳥居
常夜燈 (奥)本殿
黄色い弁当店


弁当屋の角で左折すると、電柱に 「豊島南一丁目3」の標識が貼られており、 道はその先で右にカーブする。
左側に茅葺屋根を金属板で覆った家があり、 右側に「橋川Iの標札がある虫籠窓の漆喰壁の家があり、 その先に「北今在家広場」の碑がある。

何もない広い広場だが、奥の方に石碑のようなものが見えたので、奥まで行くと、 広場の植え込みの奥に墓地があった。
その隣に江戸時代庄屋を勤めた橋川家代々の屋敷跡の記念碑がある。
「 江戸時代に麻田藩の米方として藩政に貢献した橋川家の子孫が、 屋敷跡を公園用地として寄贈した。 」という内容が書かれていた。 

「 麻田藩は、摂津国豊島郡・川辺郡などを領有した藩で、一万石の小藩である。
豊島郡麻田村(現豊中市蛍池)に陣屋が置かれた。
初代藩主・青木一重の父は美濃の出身で、美濃の守護大名・土岐頼芸に仕えていた。
青木一重は、今川家に仕え、没落後は徳川家に仕えた。  その後、徳川家から丹羽長秀の元に移り、その後、秀吉の家臣となった。
大坂冬の陣で、豊臣方の和睦の使者として駿府に下向したが、帰りに京都で拘禁され、 徳川方の捕虜になり、旧主家康の軍門に下り、領地を与えられて、麻田藩を立藩した。 」

その先交叉点の左側に、浄土真宗本願寺派の西宝寺がある。
斜め右側の受楽寺の山門前には春團治の碑がある。 

「  三代目の春團治が、初代、二代目への御恩報謝の意を込めて、門弟達と建立したものである。
池田は初代も得意とした 「 池田の猪買い 」 「 池田の牛もめ 」 の舞台であり、 二代目は清荒神に居を構えていた頃、よく当地を訪れ、受楽寺の住職とも交流があったという。 」

その先五又路では左斜めの細い道を進む。
右側に「池田作業所」の看板があり、 府道2号線の高架が見えてくる。

虫籠窓の漆喰壁の家 x 北今在家広場" x 春團治の碑 x 府道2号線の高架"
虫籠窓の漆喰壁の家
北今在家広場
春團治の碑
府道2号線の高架


ガードをくぐると、箕面川沿いの道に出る。 
ここは池田市豊島南二丁目の境で、少し歩くと、江戸時代は下河原村、 現在は兵庫県伊丹市下河原3丁目になる。 
箕面川沿いを下流へ向かって二百メートル進むと、 南東にかけて、大坂国際空港の広大に敷地が広がっている。
飛行機の発着が見たくなり、それが見られるところをと思い、途中で左折して下って行くと、 民家の袋小路のようなところに入ってしまい、空港の施設はあるが、塀で邪魔される。

左に行けば行くほど遠ざかり、空港に入る高速道路の出口近くから府道2号の方に戻り、 再び、先程の箕面川沿いの道に戻ってきた。 
この間、三十分無駄に使ったので、この後、大きく響いてくる。 

箕面川沿いの道を南下すると、兵庫県伊丹市下河原になり、右手に橋が見えてくる。  最初の道をそのまま進めばよかったのである。
左手に「下河原緑地」の看板があり、 この南は、エアポートオアシス下河原という公園で、 飛行機が見られる駐車場完備の公園として人気がある。 
中に入り、伊丹空港の滑走路が見渡せる展望台で、飛行機を見ながら、休憩した。
旅客機は次から次にと飛び立つものと思っていたが、 一定の間隔を置いて、離陸と出発を繰り返すものであることを知った。
知らぬ間に三十分経過していたので、慌てて公園を後にする。 

箕面川沿いの道 x 空港の施設" x 飛び立つ飛行機 x 着陸した飛行機"
箕面川沿いの道
空港の施設
飛び立つ飛行機
着陸した飛行機


エアポートオアシス公園の対面にある橋を渡って、箕面川の対岸に出る。
大阪ダイハツの物流センターを左に眺めながら、 道を北上して新開橋のたもとの府道2号の高架のところに戻る。 

「 岸井良衛の五街道細見によると、
江戸時代、下河原村・神田までが豊島郡で、その先に川巾百間の池田川が流れ、 川を渡ると北村で、棒杭があり、これより左は伊丹とある。 
北村を過ぎると、石橋があり、それを渡ると、辻宿で、辻に入る手前が追分で、 右側の道が多田道で、多田神社まで一里半、左の道は大坂道で、伊丹へ二十丁、大坂へ五里とある。 」

新開橋交叉点は国道171号で、その先に府道2号が合流している。
国道171号は下り坂で歩いて行くと、道の左側、歩道橋の先に、 浄土真宗本願寺派の浄源寺があった。
寺の塀の前に伊丹市が設けた、「下河原の旧地名」の説明碑がある。

「 下河原は、江戸時代から下河原村の村名で摂津川辺郡に属していました。
西国街道の渡りの要所であり、浄源寺の銀杏の木は街道の一里塚的存在だったと言われています。
明治二十二年の町村制施行により、川辺郡神津村になり、昭和二十二年に伊丹市と神津村との 合併がおこなわれ、伊丹市下河原になりました。  平成十三年住居表示の実施(変更)により、永年親しまれた字(アザ)が一〜三丁目となりました。 
地区内には、都市景観形成建築物が残っており、当時を想いおこさせます。 
旧地名の「宮ノ前」は猪名川沿いに太神宮(現在の皇大神社)があったところから、 また、「越し井」、「水引」は田畑を灌漑する湧水(出水)や用水路に関連した、地名として 永らく使われてきたと思われます。 
(一部省略)          
この表示板は、これらの旧地名を永く後世に伝えるために作成したものです。 
  平成十五年三月  伊丹市      」

箕面川対岸の道 x 新開橋交叉点" x 浄源寺 x 説明碑"
箕面川対岸の道
新開橋交叉点
浄源寺
説明碑


また、その隣には、市が建てた西国街道の道標がある。 

西国街道と書かれた石柱の左側に、「ここは伊丹市下河原 浄源寺/大銀杏 」と書かれたプレートが埋め込まれている。
以下がその文面である。
「 京の都と西日本結ぶ幹線道路だった西国街道は、東寺の門前を起点として、大阪府下を経て、 ここ下河原で伊丹市域に入ります。  猪名川を渡り、北村〜大鹿〜千僧〜昆陽〜寺本の各村を通過した道は武庫川を渡って、 西宮神社からさらに西へ続いていました。

  ←  京都・東寺 
     椿の本陣(茨木市) 
         猪名川西岸(北伊丹5)     0.9km  →
         寺本(寺本1・昆陽里交叉点5) 5.2km   
     伊丹市猪名野ライオンズクラブ   伊丹市文化財保存協会  」

浄源寺は、蓮如上人が有馬に向かう途中、説法を行った場所がのちに寺になったという。 
境内に街道の一里塚の役割を果たしていたといわれる、イチョウ(銀杏)の木が現存している。
樹齢三百年、高さ二十メートルの大木で、桐とムクが寄生いているが、 今なお樹勢は旺盛で、市の指定天然記念物となっている。 
木が大きすぎて、カメラにおさまらなかった。

浄源寺の先には、連なるように、古い家が二軒建っている。
蔵などを有する立派な屋敷である。 
これらは入江家と中村家で、伊丹市景観形成建造物に指定されている。
写真は蔵が連なるのは入江家住宅である。

その先には猪名川に架かる軍行橋があるが、その手前に軍行橋東詰交叉点があり、 ここを右折して交叉点の反対側に行くと、「東宮御野立所」の碑がある。
明治四十四年(1911)に猪名川を挟んで行われた大演習の際の東宮行啓記念碑で、 軍行橋の名前は、この大演習のために橋を架けたのが由来だという。 

「 猪名川に架かる軍行橋は、 明治四十四年(1911)に猪名川を挟んで行われた、 第四師団大演習・第十六師団大演習の際に架けられたもので、 当寺皇太子だった大正天皇が観戦のため訪れ、後休息された場所を示す碑である。 
橋が架けられる前は、ここは猪名川渡しと呼ばれる方法で渡っていた。
人足による歩渡しち、「百姓自分渡舟」と呼ばれる地元農民による渡し舟があり、 冬場は板橋があった、という。

西国街道道標 x 山門とイチョウ" x 入江家住宅 x 東宮御野立所碑"
道標
山門とイチョウ
入江家住宅
東宮御野立所碑


軍行橋で猪名川を渡ると、左手に大阪空港が見えるが、着陸誘導灯は川の中にまで連なっていた。 
夜くると印象が変わるだろう。 
軍行橋を渡りきると左折して、猪名川右岸の堤の道を下流に、三百メートルほど南下する

このあたりに江戸時代には西国街道の渡しがあったようである。 
しかし、それを示す表示などはなかった。
江戸時代には、猪名川が池田川と呼ばれたのだろう。 
また、このあたりは北村で、棒杭があり、「これより左伊丹」と書かれ、 ここから西が河辺郡であったはずである。
道の右側の土手を下ったしげみに、芭蕉翁あゆみの地の碑や廻国供養塔と新建石橋碑が建っていた。

「  芭蕉翁あゆみの地碑は、貞享五年(1688)に松尾芭蕉が笈の小文を書く際、 伊丹を通ったことを記念して建てられたものである。 
また、廻国供養塔には寛政六年(1794)の文字が刻まれていた。  」

末谷化学前バス停を過ぎると、信号交叉点があるので、西国街道はこの交叉点を右折する。 
道の左側には「Fabrica de Hiro  cafe e doce INAGASA 」と書かれた、 しゃれた建物のHIROコーヒー伊丹いながわ店があった。
繁盛しているようで、入口でガードマンが車の誘導をしていた。 

軍行橋 x 渡し場跡付近" x 蕉翁あゆみの地の碑など x ヒロコーヒー猪名川店"
軍行橋
渡し場跡付近
芭蕉翁あゆみの地の碑など
ヒロコーヒー猪名川店


道の右側には市が建てた西国街道の新しい道標があった。

「  ここは伊丹市北伊丹5丁目 猪名川(いながわ)西岸 」 とある道標には、
「 猪名川は堤と堤の間が百二十間(216m)もありましたが、渡し船はなく、 あの松尾芭蕉もここを歩いて渡って行ったそうです。 
下流では高瀬舟を使って酒荷物が運ばれていました。 」 とあり、
その下に 「 ← 浄源寺/大銀杏(下河原)  0.9km 
             辻の碑(春日丘6) 0.6km 
             伊丹坂(春日丘6) 0.7km → 」   とあった。 

坂を下ると左側に松谷化学工業があるが、道なりに進むとJR福知山線(宝塚線)の踏切に出る。
踏切を越えて道は左にカーブし、Y字路にでるが、左に行く。

その先の三叉路では左の広い道にいかずに、細い道を直進する。 
右側に北伊丹郵便局と北伊丹第1公園があり、 そこを過ぎると駄六(だろく)川に架かる、坂口橋を渡る。 

駄六川を渡ると北伊丹一丁目で、 南北に伸びる府道13号(尼崎池田線)と交叉する北園一丁目交叉点の一つ手前の交叉点の右側に、 元禄十四年(1701)建立の 「 従是多田御社江 一里半 」 の多田街道の道標と、 「多田街道 水車小屋こちら ⇒ 」 が建っている。
また、左側は小公園になっていて、休憩できるようになっていた。

「 多田街道は、現在の川西市にある多田神社(多田院)を出発し、 西多田村、萩原村、火打村、栄根村、下加茂村、久代村から当地、北村に来て、 北多郷村に至る街道である。
今はほとんど残っていないようで、南は五〇メートルほどで県道13号線に吸収され、 北は五百メートルほどの国道171号線で、行き止まりになっている。 」

新しい道標 x JRの踏切" x 坂口橋 x 多田街道道標"
新しい道標
JRの踏切
坂口橋
多田街道道標


この交叉点は左右(南北)に伸びる古い小道が残っている。
右折すると、きちんと整備された道の右側にお堂のような建物があり、 その前の右側に 「伊丹市指定史跡 辻の碑」 の碑、 左側に 「八坂神社跡地」の石碑が建っている。

また、その手前の地面には 「新改正摂津国名所旧跡細見大絵図」と書かれた絵図が埋められている。
その右側の二本の石柱に、左「摂津国」」、右「摂津国」と彫られていて、その間に説明板が挟まれている。

説明板の文面「 辻の碑(つじのいしぶみ) 」
「 ここは西国街道と多田街道とが交差する、いわゆる「辻」といわれた場所で、 そこに置かれた道標が辻の碑です。 碑は自然石に銘文を刻んだもので、 高さ九十二センチ、幅七十六センチ、鋭角の部分を上にして据えられています。  現在では、下部が大きくはがれ落ちていますが、 上部に1行、「 従東寺拾里 」 5文字が残っています。
江戸期の文献「摂津名所図会」(寛政10年(1798年刊行)では、この辻が摂津国東端の関戸、 西端の須磨、北端の天王、南端の大小路から、 それぞれ七里(約28km)の距離にあることが刻まれていたとあり、 この地が摂津国の中央に位置していたことがわかります。  碑が建てられた年代は明らかでありませんが、とうじすでに、 下方の文字を読み取ることがせきなかったと、記されています。
(以下省略)   」

建物の中にあるのが、史跡 辻の碑(いしぶみ)である。
昭和四十年(1865)に、市の指定史跡になったが、当時、野ざらしになっていた。
平成九年に、碑を納める覆屋が新調され、石張りの広場が整備された。
表面の銘文は長年の風雨により摩滅し、「 従東寺拾里 」 の他は読めませんが、 東寺から四十キロ歩いてきたことになる。  左には八坂神社跡の標柱が建っていたので、ここに八坂神社が以前にはあったのだろう。 

道標のある四つ角に戻り、先程の「多田街道 水車小屋の道標」に従い、左手(南)に少し歩いていくと、水車小屋があった。

昭和四十年建立の覆堂 x 辻の碑説明板" x 辻の碑(いしぶみ) x 水車小屋"
昭和四十年建立の覆堂
辻の碑説明板
辻の碑(いしぶみ)
水車小屋


旅をした日 平成22年(2010)9月19日(日)
 



西国街道 目次                                      F辻の碑〜昆陽宿






かうんたぁ。