西国街道は古代から西国を結ぶ重要な道であり、
江戸時代には本街道である大阪廻りよりも距離が短いので、
西国諸国の大名の参勤交代路として多く利用されてきた。
岸井良衛の五街道細見によると、
辻の碑から大鹿村・先祖村を経ると、昆陽宿(こやしゅく)へ到着。
山崎道の終点である、西の宮へは昆陽宿から二里(約8q)の距離である。
西国街道の旅を再開すると、その先で北園一丁目交叉点に出た。
ここで交叉するのは県道13号だが、
西国街道は交叉点を横断して坂道に入っていく。
北園一丁目交叉点の先には木立が見える。
交叉点を越えて、坂道を上っていく。
三十メートルほど行くと、休憩できる四阿があり、
手前に「伊丹緑地」の石碑があった。
「伊丹緑地」の石碑の右側に、伊丹市が建てた大理石の西国街道の道標がある。
石柱に貼られた説明板
「 ここは伊丹市春日丘6丁目 伊丹坂
伊丹段丘に位置するここ伊丹坂は、
寛政10年(1796年)に刊行された「摂津名所図会」にも描かれています。
西に向かう旅人にとってはきつい坂だったでしょう。
← 辻の碑(北伊丹1) 0.2km
猪名川西岸(北伊丹5) 0.7km
昆陽寺(寺本2) 3.1km →
大鹿東口(春日丘3) 0.5km
伊丹市猪名野ライオンズクラブ 伊丹市文化財保存協会 」
伊丹坂は、道標の説明通りかなりの坂道である。
坂を上るとすぐ左側に 「 ↑伝和泉式部の墓 」 の表示板があり、
その先で左に上る道があった。
右側を歩いていたので、直進と思って坂の上の交叉点まで歩いてしまった。
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このあたりの左手かなあと思いながら、自動販売機で飲物を買った。
少し変。 地図で見るともっと手前のような気がしたので、また、
下がって行き、先程見た左側の坂道に入って行った。
右側に赤い屋根の小さな祠が二つあった。
祠の中には北向き地蔵尊が安置されていた。
その先カーブのところに和泉式部の墓の矢印があったので、
この道と確信した。
坂を上りきって少し行くと、
左側の空地の角に、和泉式部の墓の案内矢印があったので、
中に入ると右側にお堂があった。
登り坂から百二十メートル程のところだった。
市指定史跡の祠に入れられている団子のような石造物は、
伝和泉式部の墓ではなく、鎌倉時代に造られた五輪塔のようだった。
伊丹市教育委員会の説明板
「 和泉式部の墓と伝えられる五輪塔で、
残っているのは花崗岩製の塔身と一石彫成の請花・宝珠だけであるが、
完全であれば総高225cmの比較的大型の五輪塔であったと考えられる。
五輪塔として整った鎌倉時代の特徴を示し、端正な全容がしのばれる。
おそらく鎌倉時代後期の造立であろう。
和泉式部は平安時代の有名な歌人で、和泉守橘道貞に嫁いたことから、
この名がつけられた。 道貞と離別後、藤原保昌と再婚し、保昌が
攝津国川辺郡平井(現宝塚市)の人であったことから、
この地に供養塔が建てられたのであろう。
和泉式部の墓や供養塔を伝える石塔は各地にあるが、
これは女性の遊行僧が和泉式部の名で各地を回り、
信仰を広めたことに由来するものと考えられる。
式部の歌の中で、伊丹に関係があるのは、
次のただ一首である。
「 津の国の こや(昆陽)とも人を いふへきに ひまこそなけれ 芦の八重葺 」
伊丹市教育委員会 」
和泉式部の墓は、これまで訪れた、中山道の御嵩宿、
甲州街道の上諏訪宿の温泉寺などで見てきたが、
美女の誉高かった彼女は殿方の憧れのまとだったことが、
こうした石造物を生んだ背景でだろう。
なお、先程の空地には八幡神社跡の石碑があったので、
以前にはここに八幡神社があったのだろう。
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この後、先程の坂を上りきったところの交叉点に戻り、街道の旅を続ける。
その先の道の右側はそのものずばり、高台3という地名である。
道の左側は春日丘3であるが、道の両側は住宅地だった。
中野商店街があり、右側の大前病院のところで、道は左にカーブする。
左側の第6中野センターを過ぎると、五又路の信号交叉点に出た。
左右の道は江戸時代の中山・有馬に続く有馬道で、
西国街道は左斜めに進む細い道である。
この道には、
大きな看板「大鹿の歴史」があり、仔細に書かれていた。
要約すると、
征夷大将軍坂上田村麻呂が当地に来て、大鹿を獲た。
理想郷の建設のため、この地を切り拓いて集落を造り、大鹿と名付けた。
江戸時代の初期に酒造りが盛んになり、坂上田村麻呂を祖とする坂上宗清らが
銘酒「剣菱」やその他の銘酒の酒造りにかかわるようになり、
大鹿は経済的な発展をとげた。
剣菱は赤穂浪士が討入るとき、祝い酒として飲まれた。
剣菱は屋号を津国屋に改め、当主は津国屋勘三郎を世襲し、
伊丹郷町の町政を司る惣宿老の一人に選ばれた。
大鹿は西国街道が東西に通り、南北には有馬道が交叉している交通の要衝である。
鎌倉時代後半には多田家の南政所が置かれ、摂津国の交易や人々の往来で栄えた。
西国街道は五差路の左斜めの道を行くのだが、
妙宣寺に寄るため、交叉点を直進し、少し先で右折した。
妙宣寺の近くは路地が入り組んでいるので、行き方が複雑だった。
「
妙宣寺は日蓮宗の寺であるが、昔は真言宗の寺だった。
正平年間(1346〜70)の干ばつ時に、大鹿村全村が大覚大僧正の教えにより、
法華宗(日蓮宗)信徒に変わったが、その中心になった寺という。 」
山門を出て道路に出るところに、
「 大覚大僧正杖竹古跡 」 の道標があった。
寺の西側にある竹塚は、大覚大僧正がさした紫竹の杖から、
紫竹が群生したというものである。
西皇太神社は隣接していると聞いていたので、ここを右折して、
その角を曲がると、「西皇大神社」の大きな石柱と、
氏子中と書かれた常夜燈があった。
そこから少し歩くとやっと鳥居の前に出た。
中に入って分ったのだが、妙宣寺の本堂と脊中併せの位置にあり、
本堂の裏側に抜けていけばすぐだったのである。
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西皇太神社の社殿は新しい。
神社の由緒沿革の碑があった。
「 西皇太神社は、観応二年に、隣接する妙宣寺が
法華宗に改宗した時、開基大覚大僧正が、この地に三十番神社を創建し、
天照大神を奉祭した。
爾来五百年間、法華宗の基で祭祀されてきたが、
明治三年の神仏分離により、西皇大神社に社名を改め、神社神道に復した。
(以下省略)」
境内には石柵で囲まれたところがあったので、 入ってみると、「茶碗樋」 という石組みが保存されていた。
「 素人が見みると、樋だとは分らないものだが、 瑞ケ池から農業用水を引くに当たって水争いが起こり、 穴が茶碗の大きさの樋を引くのを認められたという、歴史を語るものである。 」
妙宣寺の先の道に戻り、右折して進むと右側に石仏群が祀られていた。
その先の交叉点の右側の空地に、「お塚の由来」 と書かれた石碑があった。
「
この丘はお塚とよぶ。 詳しくは経塚である。
観応二年年(1351)に妙宣寺が法華宗に改宗したるとき、
仏像、経巻、釈書等ことごとくみな此の地に埋め、
丘上に松を植え、もとの真言信仰より訣別したという伝説によれば、
そのとき、黄金の鶏を埋め、村貧してはこれを掘って救えとか、
ほほえましい物語が秘められている。
昭和四十三年仲秋 伊丹大鹿土地改良区 」
そのまま道なりに進むと入江電友社の先の信号交叉点で、
大鹿東口バス停の五又路で別れた左からの道(西国街道)と合流した。
左側の道(西国街道)を京方面に少し戻ると、
最近建てられた大鹿会館(大鹿交流センター)がある。
また、その先の高い木がある駐車場には「旧西国街道」の看板が建てられている。
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大鹿会館の前には、道に面して、伊丹市により「大鹿」の石碑が造られていた。
「 山口県文書館所蔵「行程記」より、
大鹿村
江戸時代の摂津国河辺郡大鹿村は、西国街道に沿う農村で、
東方と西方に分かれていました。
村の中ほどに一里塚があり、
村の西には伊丹から中山・有馬に通じる街道が通っていました。
大鹿村では寛文年間(1661〜1672)から酒造りを始め、
元禄10年(1698)の酒造人は10人で、酒造高は冬酒3,000石、春酒1,000石でした。
同14年年刊の「摂陽群談」では、
「大鹿酒」の特徴を「凡そ此の辺の酒、山の伏流水で造るを以って、
甚香味成り」 と記しています。
農民も酒蔵の仕事や酒米踏み、酒に持つ運搬に従事し、
大いに潤ったといいます。 」
道に面した植込に、古い道標がある。
道標の四面に、それぞれ 「 すぐ中山ありま 」、 「 すぐ大坂 」 、「 すぐ西宮 」 、「 すぐ 京 」 と記されている。
すぐとは真っすぐという意味です。
これは西国街道と中山・有馬に続く有馬道の辻に建っていたものであるが、
その辻はここではないので、五差路が工事の際、取り除かれ、
大鹿会館を建設した時、ここに置かれたと思ったが、間違いだろうか?
街道を進むと、大鹿7丁目の信号交叉点に出た。
左右の道は右手の大鹿交差点に通じる県道332号である。
時計を見ると十三時だったので、交叉点の右手左側にある、
かつアンドかつ伊丹大鹿店で、昼飯をとった。
客は多くいたが、順調に食事ができ、三十分過ぎには出発できた。
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交叉点を越えると、道の右手は自衛隊の千僧駐屯地である。
敷地内のフェンス越しに軍用車が見えたが、
その手前の桜の木の幹には「国有財産」のラベルが貼られているのには驚いた。
道に「千僧」の石碑があり、交叉点を越えたところから、千僧(せんぞ)地区になる。
(注)岸井良衛の五街道細見の山陽道には、千僧ではなく、先祖村と表記されている。
石碑「千僧の旧地名」
「 千僧の地名の由来については、僧・行基が昆陽上池・下池などを築き、
新たに田を開墾した時の工事による犠牲者の「千僧供養」を行った地である事から、
付けられたという説がありますが、確かなことはわかりません。
千僧村は以前、昆陽井(こやゆ)・今池・籠池からの用水により、
田畑を灌漑していましたが、籠池は埋め立てられ、
陸上自衛隊千僧運動場となっています。
今池は千僧浄水場や市役所などの用地として埋めたてられましたが、
博物館・図書館・中央公民館の東に、その一部が残っています。
旧地名の由来については、「池ノ下」は今池の南に位置していることから、
また、「東ノ口」は西国街道が通る千僧村の東の出口にあたることから、
付けられたと思われます。
その他、多数の旧地名がありましたが、現在は広畑・千僧などの町名となりました。
(以下省略) 」
その先左側の奥まったところに、山門があるのは安楽院である。
「 安楽院は、行基が建てたといわれる畿内四十九院の一院で、
聖武天皇の勅願により和銅六年(713)に創建されたと、伝えられる。
往昔には七堂伽藍を擁する古刹だった。
戦国時代の荒木村重の乱の際、ここ千僧村ではこの寺だけが焼け残ったと伝えられる。
十八世紀の建造である薬医門形式の山門だけが古いもので、
塀は阪神淡路大震災で新しくなっている。 」
右側に新しい長屋門の家があり、その先の左側の家前に祠があった。
その先の左側には長屋門と蔵がある家があった。
その家の反対(右側)に千僧天神社の新しい鳥居があるが、 鳥居の脇に折れた鳥居の柱が残っていた。
「 折れた鳥居には「元禄十七申丙三月吉日」とあり、
鳥居の両脇にある常夜燈も古いものである。
社殿も新しいので、平成の大地震の際、神社は倒壊し、建て替えられたと思ったが、
間違いだろうか? 」
社殿に掲げられた天神社略誌によると、
「 初めは大巳貴命を祀ったが、
後に猪名神社及び同境内神社等を合祀して、祭神は増えた。
和銅六年に、行基法師が熊野に詣で、一夕に見せし神を刻んで祀ったを猪名権現社と、
守り、称してきた。 」 とある。
西国街道に沿う千僧村には、二つの氏神があった。
東の氏神は、自衛隊千僧駐屯地内にあったが、今はない。
西の氏神がここ千僧天神社である。
境内に、「 記念碑 水音の羽音高く 今池消ゆ 」と、書かれた石碑があった。
石碑の文字の要点
「 行基が築いた今池を地区民は長い間農業用水などに利用し守ってきたが、
伊丹市の行政庁舎の建築地に譲渡することになり、
利益金の一部を会館と天神社、安楽院、西善寺に寄付した。 」
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その先の交叉点を越すと、兵庫県伊丹庁舎がある。
その奥に伊丹市役所、道の反対に市立博物館があり、
今池の一部が残っているようである。
兵庫県伊丹庁舎の先は伊丹警察署で、
伊丹警察署交差点があった。
交叉点を渡ると右側にコンビニがあったが、
ここからは伊丹市昆陽(こや)一丁目で、かつての昆陽宿である。
「 昆陽は、市役所や博物館がある千僧のすぐ西に位置している。
西国街道が東西に通り、有馬道が交差する宿場町として発展した。
地名の由来は、中臣氏がこの地を支配し、祖先の天児屋命の名を取って、
「児屋」と名付けたのが始まりである。
僧・行基が建てた寺が児屋寺と呼ばれ、後に、佳字を選んで、昆陽寺となったため、
昆陽に改められたとされる。
江戸時代に入ると、天領(江戸幕府領)になったが、
元禄七年(1694)〜文政六年(1823)間は武蔵国忍藩阿部氏の所領になっていた。
昆陽村は、東町・中町・辻町・大工町・市場町・佐藤町・小井ノ内で構成されていた。
昆陽村は、用水を昆陽池と昆陽井から得ていました。
武庫川から水を引く昆陽井は、取水口が西野にあり、
昆陽・千僧など、九つの村の田畑を潤していた。
昆陽池は、奈良時代の高僧・行基が造ったといわれている。
昆陽宿が誕生したのは、寛永年間(1624〜43)頃とされる。
宝暦年間(1751〜63)には十二疋の馬が常備され、馬借が運送業務を行っていた。
享保年間になり、凶作により商品の流通量が減少すると、
昆陽より早く駅所に指定された伊丹や、正規の駅所ではないが尼崎藩の公用を務めた尼崎
との間で、荷物の扱いを巡る争いが多くなった。
また、猪名川や武庫川の水運を使った通船が競争相手で、
これには近隣の宿駅が共同で反対を表明しました。 」
西国街道の狭い道を進むと、右側にある稲野小学校の手前の角を右に入ると、 二つの祠が祀られている。
「 右側の祠には「子安地蔵」と書かれている。
この祠には、大名行列の前を横切ったために切り殺された、子供の霊をまつった、
といわれる首切地蔵が祀られている。
左の祠に三基の石塔が入ったいたが、庚申塔のようである。
これは旧昆陽村の「東の庚申」と呼ばれるもので、
旧暦で六十日ごとに巡ってくる庚申(かのえさる)の日に眠ると、
人の体内にいる虫がその人の悪事を天帝に告げに行くと信じられており、
その日は庚申碑の前で夜明かしするという風習があったのである。
庚申塔はそれを記念して庚申講の人々が建立したものである。 」
街道に戻って少し進むと、稲野小学校の正門の右側に、西国街道顕彰碑があった。
「 西国街道の石柱の右側に、西国街道の地図(上部に)
下部に 「 京の都と西日本を結ぶ幹線道路であった西国街道は、
東寺の門前を起点とし、大坂府下を経て、下河原で伊丹市域に入ります。
猪名川を渡り、北村〜大鹿〜千僧〜昆陽〜寺本の各村を通過した道は、
武庫川を渡って、西宮神社からさらに西へと伸びていきます。
昆陽には大名が泊まる本陣がありました。
江戸時代には、大名行列をはじめ、商人や巡礼などが行き交い、
俳人の松尾芭蕉や地理学者の伊能忠敬らも、この道を通りました。
(以下省略) 」
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校門の左側には能因法師の歌碑と道標が建っていた。
「 能因法師歌碑には、
「 能因法師 芦のやの こやわたりに 日が暮れぬ いづち行くらむ 駒にまかせて 鳥越憲三郎 」
と刻まれていた。
道標は、この西にある、有馬道と交わる四つ辻から移設されたものである。
道標の四面に 「 すぐ 西之宮 」、 「 すぐ中山小濱 」、
「 すぐ京都 」 、「 すぐ尼ヶ崎 大坂 」 と書かれている。 」
更に進むとAutoStudioPlusがある昆陽4丁目交叉点に出た。
ここが、有馬道と交わる四つ辻である。
右手に昆陽交叉点があり、県道142号(有馬道)を北西に進むと、
昆陽北郵便局があり、道の反対の北側に、昆陽池と貯水池がある。
岸井良衛の五街道細見には、
「 此の昆陽池は昔菩薩の掘給ふ池と云ひ、往還より見えず、廻り七十五丁 」
と記されている。
奈良時代に行基菩薩が掘った昆陽池であるが、埋め立てられた北側には、
運動グランドと、住友電工社宅・こやの里特別支援学校などが建っている。
昆陽4丁目交叉点から先も、西国街道は、相変わらず狭い道である。
一方通行ではないので、広い道の愛知県に住むものとしては戸惑ってしまう。
ここからは道の右側が昆陽5丁目、左側は6丁目である。
右側に駐車場があり、左を見ると道脇に市が建てた、西国街道の道標があった。
その奥は小さな公園で、長勢児童遊園である。
道標の文面
「 ここは伊丹市昆陽六丁目 長勢橋(ちょくせいばし)
元治元年(1864)の蛤御門の変で、敗走した長州勢が、
ここで踏みとどまって戦ったといわれています。
「長勢橋」の碑は南側の長勢児童遊園地内に立てられています。 」
「 ← 大鹿桜ケ丘(桜ケ丘8) 1.2km
西国街道顕彰碑 0.2km
西大神社(にしてんじんしゃ) 0.5km →
昆陽寺(こやでら) 1.0km 」
伊丹猪名野ライオンズクラブ
伊丹市文化財保存協会 」
長勢橋の小さな石碑は、その先の公園の角にあったが、道路や公園に川の跡などは
見つからなかった。
昆陽宿の本陣は、江戸時代の初期は佐藤源三郎、
幕末には川端家・松村家に代わったとされる。
伊能忠敬が、文化五年(1808)に街道測量の途中、泊まったという川端本陣はこの先の右側あたりにあったはずだが、その場所を確認することはできなかった。
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昆陽7丁目に入ると、
右側のビルの前に児童公園がある。
ビルは住友電工の駐車場のように思えた。
道路に面した用水の奥に「旧西国街道」の石碑があった。
公園に入ると、「昆陽・昆陽野」という題の説明板があった。
平成十年九月、昆陽自治会が建立したものである。
昆陽村の歴史や文学との関わりなどを仔細に記したものだった。
公園の入口の左手、道路に面して祠があり、
そこには昆陽村の「西の庚申」が祀られている。
「
西国街道の宿場町・昆陽村には、稲野小学校の先に東の庚申があり、
北にも北の庚申が祀られている。
庚申は中国の道教に由来する信仰で、災いや疫病を防ぐと考えられて、
村の出入口に置かれた。
旅人の安全を守る道祖神などと同一視され、青面金剛(しょうめんこんごう)とも、
同類である。 」
児童公園の先は住友電工の敷地で、その前に、左側の石柱に「昆陽宿」、 右側の石柱に「西国街道」と刻まれ、中央に 「西国街道」と書かれたパネルの石碑がある。
「西国街道」と書かれたパネルの文字
「 京の都と西日本を結ぶ西国街道は、京都・東寺の門前を起点とし、
大阪府下を経て、 下河原で伊丹市域に入ります。
猪名川を渡り、北村〜大鹿〜千僧〜昆陽〜寺本の各村を通過し、武庫川を渡って、
西宮神社にいたり、さらに西へと伸びています。
江戸時代、京都から西宮にいたる街道には、
淀川右岸に沿った大坂回りの道筋が本街道とされていました。
しかし、距離的には短く、洪水などの災害も少ない西国街道は、
急ぎの旅や大名の参勤交代通行路として、よく利用されました。
江戸時代中期には、参勤交代の忙しさに悲鳴をあげた街道沿いの宿駅から、
大名の通行差し止めが訴えられたこともありました。
差し止めはなされませんでしたが、西国の大名が京都〜西宮間で、
西国街道を利用する場合は、人足や馬の手当てができないことを承知のうえで通るように、というお触れが幕府から出ています。
忠臣蔵で知られる浅野内匠頭や、長崎出島のオランダ人一行、全国の測量を行った
伊能忠敬、幕末には長州の奇兵隊、等々、さまざまな目的で、
この街道を往来しました。
歴史街道
昆陽宿(こやしゅく)
江戸時代の昆陽村は西国街道の宿場でした。
村内は、東町・中町・辻町・大工町・市場町・佐藤町・小井之内の7町からなり、
人馬継問屋には、御用通行の役人や旅人の荷物の継ぎ立てを行う人馬が用意されていました。
天保14年(1842)の史料(宿村大概帳)には、家数174軒・人口913人・本陣が1軒(佐藤町)・旅籠7軒・人馬継立問屋1ヵ所(市場町)
であったことが記されています。
当時、宿駅の人足を利用する場合、
旅行者は各宿駅で、荷物の積み替えを行い、これを「継ぎ立て」と称しました。
馬継問屋には、御用通行の旅人のために、25人の人足と25匹の馬が備えられ、
西は西宮宿、東は瀬川・半丁宿までの継ぎ立てを行いました。
西宮宿までは馬80文、人足39文と決められていましたが、
商人や一般の旅人の賃銭は、馬方と利用者の相互で取り決められ、
御用通行の場合より高額でした。
宿駅の人々の負担によって成り立っていたこのような制度は、
住民に大きな経済的負担を強いることが多かったため、幕府の許可のもとに、
年月を限って御定め賃銭の割増しが行われることもありました。
長い年月にわたり、御用取り継ぎを担ってきた昆陽宿は、
明治5年(1872)8月、江戸時代の宿駅制度が廃止されるとともに、
その任務を終えました。 」
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西国街道は、その先の交叉点で右にカーブする。
すると、国道171号に合流し、ここには寺本公団前バス停があり、
道の向うには、「商売繁盛 西天神社 →」 の看板が見えた。
国道を南西に進むと、信号交叉点があり、伊丹市が建てた西国街道の道標がある。
道標の文面
「 ここは伊丹市昆陽8丁目 西天神社前
西天神社は東天神社(昆陽四丁目)とともに昆陽村の氏神として親しまれました。
また、近くにある昆陽寺は行基上人によって開かれた寺院で、
山門・観音堂が県指定文化財になっています。
← 長勢橋(昆陽5) 0・5km
西国街道顕彰碑(昆陽1) 0.7km
昆陽寺(寺本2) 0.4km →
閼伽井(あかい)の井戸(寺本1) 0.6km
伊丹猪名野ライオンズクラブ
伊丹市文化財保存協会 」
交叉点を右側に渡るには横断歩道橋でしか渡れない。
交叉点左側の「伊丹市寺本」と書かれた陸橋で向う側に渡る。
横断歩道橋を渡り終えると、先程見た西天神社の看板前に行く
そこには「西天神社」の石柱が建っていた。
奥を見ると、西天神社の鳥居と常夜燈があり、その先に参道が続いている。
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西国街道は道を斜め前方に入って行くのだが、
看板に釣られて道の北側にある西天神社に参拝することにした。
鳥居をくぐって百五十メートル程行くと、鳥居の向うに社殿があったが、
社殿も狛犬なども新しかった。
参道を戻り、入口の御神燈を見ると「寛延寅午年二月吉日 改修平成二十年十月吉日」
とあった。
西天神社は、阪神淡路大震災で大きな被害を受けたようで、古いものはなかった。
残念な気持ちを持ちながら後にし、参道の入口から西国街道に向かった。
西国街道も、寺本団地で行く手は阻まれていて、すぐに国道に出た。
国道脇の歩道を歩き、アルピス寺本バス停の先で右折すると、団地の入口がある。
ここを左折し、三叉路で直進すると左側に伊丹寺本郵便局がある。
この旧道は五十メートル位か残らないが、
右側に享保九年(1724)建立の青面金剛を祀る祠があった。
また、その脇には石造物(石仏?)が祀られていた。
この先、百メートル程歩くと、また国道に出たので、国道を進むと二十五メートル程先の右側に入る道があり、昆陽寺が見えた。
ここは伊丹市寺本なので、昆陽宿は先程の道祖神である青面金剛のあたりが、
西の出口だったのだろうと、思った。
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旅をした日 平成22年(2010)9月19日(日)