西国街道は、江戸時代には山崎道といい、
京都山崎と西宮を結ぶ脇街道として、西国大名や旅人らが多く行き交ったという。
西宮には、日本三大厄除けといわれる、門戸厄神や商売の神として崇められる、
えびす様の神社の西宮神社があった。
ここは西国街道のゴールで、この先は山陽道として、西に続いている。
京都東寺から九里(約36km)歩き、昆陽へ到着。
西宮へは二里(約8q)の距離である。
岸井良衛の五街道細見によると、
西宮への行程は、寺本村、西昆陽と進む。
この南部は尼崎市で、江戸時代には棒杭が建っていて、「 これより南尼ヶ崎領 」
と表示されていたようである。
西昆陽を過ぎると、武庫川があり、武庫川で河辺郡から武庫郡へ変わる。
江戸時代の武庫川は広さニ丁、陸渡り浅し、とある。
川を渡ると、大市村・広田村・中村を経ると、西の宮へ到着である。
右側に昆陽寺の山門があり、右側に 「 本尊薬師如来 」 、 「 重要有形文化財昆陽寺 」 の石柱と、山門の説明板があった。
説明板「県指定文化財 昆陽寺山門」
「 昆陽寺は天平5年(733)、僧行基の開創と伝えられている。
その後、天正7年(1579) 織田信長の兵火にかかって、一山の堂塔を焼失したという。
山門は、旧西国街道に面して建っている。
上層周囲に縁をめぐらし、細部にみる絵様繰形の形式手法は江戸中期のものである。
内部戸口柱を通柱として、上層柱をも兼ねる構法は珍しく、
斗拱部(ときょうぶ)中備え間斗上の双斗肘木と、
妻飾虹梁下の大斗花肘木の意匠は前代のそれをよく残している。
江戸時代中期における豪壮な山門は、県下でも類例がなく、貴重な構造である。
平成4年11月 兵庫県教育委員会 」
山門前の大きな常夜燈は、「嘉永五壬子年十一月」 とあり、 嘉永五年(1852)に建てられたもので、 「 行基古跡西の宮通りぬけ道あり 」 と刻まれている。
「
僧・行基が、天平三年(731)、昆陽池を造った際、
傍らに貧民救済を目的とした小さな寺・昆陽施院(布施屋)を創建した。
天平五年、聖武天皇の勅願寺となって、伽藍が整備され、発展した。
天正七年(1579)の荒木村重と織田信長の戦で焼失したが、
その後、再興され、江戸時代には九つの塔頭を有していたという。
阪神淡路大震災で本堂の他、倒壊などの被害を受けたが、それぞれ再建されていた。 」
堂々とした山門をくぐると、広い敷地の中にある観音堂も県指定文化財になっている。
「
観音堂は、寛永年間に建立された寄棟造向拝付本瓦葺の建物で、
十一面観音を祀る。
平成七年の阪神淡路大震災で被災し、解体修理を実施されている。 」
昆陽寺は南に向って参道が伸びている。
国道171号を横切り、狭い道に入り南下し、少し行って右折する。
右側に小公園があり、その奥に閼伽井(あかい)の井戸がある。
「 閼伽井は、梵語で水、仏様に供える水を意味するが、
行基がこの水で病人を治したと伝えられている。
西国街道に面していたため旅人の休息の場として喜ばれていた。 」
昔は昆陽寺の参道がここから北に延びていたようである。
その先の昆陽里交叉点で国道171号に合流、
左右の道は尼宝線(県道42号)である。
交叉点を渡り、道の右側に移動した。
なお、その手前右側には、「妙見宮」と刻まれた線香立てと、
「 左 妙見 中山 」 と刻まれた道標があった。
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国道を少し歩くとスパーイズミヤの近くの右側に、「師直塚」 と書かれた石碑がある
「
足利尊氏の執事であった高師直(こうのもろなお)は、観応二年(1351)、
尊氏の弟・直義(ただよし)との打出浜(芦屋市)の戦いで敗れ、
京へ向かう途中、武庫川を過ぎたこの付近で、
上杉能憲(よしのり)勢に討たれ、一族は滅びた。
その後、師直らの塚が作られ、江戸時代には名所図会に載るほど有名であったが、
開発に邪魔と壊されてしまった。
ところが取り除いた関係者に災いが起きたので、
大正四年(1915)、旧山田村の有志が、その霊を鎮めるため、師直塚碑を建立した。
しかし、その後も、碑が移動する度に、関係者に災いが生じたので、
碑の引き取り先がなく、道路工事の際、昆陽寺住職による祈祷を受けた上、
現在地に移された。 」
国道171号線を少し歩くと、尼崎市に入る。
二百メートル程先に西昆陽交叉点があり、国道はここで南へ大きくカーブする。
西国街道はここで国道と別れ、右斜めの道に入って行く。
この道は広く、車の通行も多かった。
この道を歩いていくと、交叉点の手前に西昆陽歩道橋があった。
右側階段の奥の方にはお堂があり、青面金剛像(庚申塔)が祀られていた。
この地は、現在は尼崎市西昆陽二丁目だが、以前は武庫村だった。
武庫村道路元標があるというので探したが、なかなか見付けられない。
場所が違うのではと周囲を探したがない。
右側階段の下の隅、道路のガードレールとの間にあるのを見付けた。
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街道を進むと、道が左にカーブするところに信号交叉点があり、
正面は武庫川ゴルフ場で、
その先には武庫川の堤防道が見える。
常松2丁目北交叉点を右折すると、堤防の上の道に出た。
この道は、車の通行が激しく、歩行は困難を極める。
少し歩いてから、西国街道の髭の渡しはもう少し手前では思い、
引き返すことにした。
堤防道の右前方に八階〜十階建ての茶色のマンションが見えるが、
このあたりが先程の信号交叉点があったあたりであろう。
これに見当をつけていくと、堤防の左側に階段があった。
階段を降りて行くと、右側に常夜燈とお堂があった。 お堂は行人堂である。、
その先に兵庫県尼崎土木事務所と尼崎市が建てた「西国街道 髭の渡し」の
説明板があった。
説明板「西国街道 髭の渡し」
「 この付近には江戸時代に武庫川を越える西国街道の渡し場がありました。
街道沿いの西昆陽村に髭をはやした老人が営む茶屋があったことから、
髭の渡しと名付けられたといわれています。
江戸幕府の命令によって、文化3年(1806)に作られた、山崎通分間延絵図を見ると、
武庫川の河原をはさんで、街道の道筋が両岸の堤のところで途切れていますが、
ここに渡しがありました。
渡し場の様子は描かれていませんが、
尼崎側の街道沿いに髭茶屋や立場(人足が休息する所)と、
注記された建物が描かれています。
この渡しでは、東から西への川越は常松村と西昆陽村の2カ村が月番で受け持ち、
西から東への川越は、段上村、上大市村、下大市村(いずれも現在は西宮市)の3カ村が月番で受け持っていました。
例年10月中旬から翌年春の彼岸までは、板橋が架けられ、
水量が増した時には人足の肩越えによる渡しが行われていましたが、
後には船での渡しが行われるようになりました。
参勤交代の大名や往来の旅人など数多くの人々に利用されてきたこの渡しは、
明治の終わりに下流に甲武橋が架けられ、
西国街道の新道(現国道171号線)ができるまで続きました。
兵庫県尼崎土木事務所 尼崎市 」
この川渡りは、川水が少ないときは歩行渡りや仮橋がかけられたりしたが、 増水時は人足、船渡し、連台による渡しが行われ、 船頭六人でも船渡しができない時は川留めになったという。
(注) 岸井良衛の五街道細見には茶屋に記載があり、
その内容が面白い。
「 此の茶屋に犬一疋居る。 往来の人通りかかれば犬迎へに来て、吠えつく。
旅人茶屋の前に行き菓子などを買ひて犬の居る上に投げれば飛びついて喰らふ。
それより人行けば犬吠えつかず。 」 とある。
武庫川の東岸から対岸を見ると報徳学園の校舎が見えた。
歴史のある渡しだったが、明治四十二年(1909)、この南方に甲武橋が架ったため渡しは廃止された。
武庫川の対岸に行くには、山陽新幹線の更に下流にある甲武橋を渡って回り込むしか方法がない。
堤の道は先程で懲りたので、河川敷の道を歩き、
山陽新幹線の橋梁の下をくぐると甲武橋が見えてきた。
河川敷では犬と散歩をする人やスポーツをする子供達がいた。
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髭の渡し跡と思えるところから、武庫川を下流に向かって約六百メートル歩くと、
甲武橋に出た。
甲武橋を渡ると、橋の中央付近で西宮市になった。
時計を見ると十五時三十二分である。
橋を渡りきると甲信橋交叉点があるが、ここで左折して堤防道路(県道114号)を歩く。
堤防道路には、左側に歩道があったので、そのまま進むと山陽新幹線の架橋がある。
その下をくぐると、三叉路の甲武橋北交叉点で、その先の道には車が多く、
歩道がないので危険である。
河川敷に降りられるところを探して河川敷に降り、上流方向へ向かって歩いた。
甲武橋から六百メートル程のところの対岸に髭の渡しのマンションが見えたが、
ここには甲東文化財保存会による「髭の渡し」の説明板があった。
説明板「髭の渡し」
「 このあたりから対岸(常松の春日神社付近ともいわれる)迄の人の渡しである。
髭の渡しの名称は正式なものではなく、
一説には対岸の西昆陽村の髭を蓄えた老人が営む髭茶屋があり、
その老人渡しに多少関係していた事から、いつしか髭の渡しと称されるようになったと伝えられる。
川渡しの管理は西昆陽村、常松(尼崎側)段上、上大市、下大市(西宮側)五ヶ村が、
月番で受け待った。
渇水期は徒行渡りで、水量が少ない時は仮橋、増水時は仮橋が流されると罰せられたため、取り外し、チチクマ(人足の肩車)輦台などの方法で渡した。
諸大名、公用旅行者のほか、一般旅行者の増加に伴い、
五ヶ村の負担が増大したので、軽減のため、
文政八年(1825) 渡船使用許可願を役所に出し、後に許可されている。
渡し賃は渡しの方法によって異なったが、
大名、公用旅行者、武士、僧侶などは無料であった。
(以下省略) 」
この河岸は西宮市上大市である。
武庫川の土手を上がり、堤防道を少し北上すると、左に入る道があるが、
これが西国街道で、それを下ると報徳学園高校の校門前に出た。
この一角に甲東文化財保存会の一里塚の説明板が付けられていた。
説明板
「 東から髭の渡しを渡って少し西に行くとここ一里山になる。
慶長九年(1604)徳川家康は秀忠に命じ、
日本橋を起点とし五街道はじめ諸国の街道一里ごとに塚を築き、
榎か松を植えさせた。
同年の地図には一里塚が記されているが、
その場所はここより西の大市村と広田村との間である。
一里山の地名の根拠については不明である。
この付近の桜並木は昭和の始め、ここが宅地造成された際、植えられたものである。 」
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報徳学園の校舎の西端まで歩き、
ふと上を見ると電柱の高い位置に、「←旧西国街道」の道標(標識)が取り付けている。
この後も西宮市ではこの標識(標識)が電柱上に付いているので、
これが西国街道歩きの目印となる。
矢印に従い、左折して狭い道に入ると、正面に水道施設が見えてくる。
その手前左側に、甲東文化財保存会による 「西国街道(1)」 と書かれた説明板があり、これからのルートを案内してくれる。
説明板
「 京都東寺の西、羅城門を起点とする西国街道(京街道)は、
平安時代の延長年間(923-930)にできたといわれる。
髭の渡しを渡って段上村に入った旅人は、一里塚の木陰でひと休みし、
この付近にあった石橋を渡った。
古地図に裏堀石橋とある。
古老によると、そこには渾々と清水が湧き出ていたという。
この道は、さらに鯨池上水場から上大市五丁目と段上町八丁目の境の道を
南に下がり新幹線を越える。
そこに百間樋石橋があった。
道は阪神水道企業団甲東事業所の池で切られているが、西南へと続く。 」
西国街道は水道施設・鯨池上水場で、右折すると、交叉点にでる。
道なりにそのまま直進し、細い道を南西方向へ進むと、道は左にカーブし、
広い道に出る。
交叉点の南側にバス停があるが、歩いてきた道の対面に細い道が続き、
奥に山陽新幹線のガードが見える。
太い道にある柵を越え、太い道を斜めに横断して、対面の細い道に入る。
少し歩くと山陽新幹線のガードのところに出たので、ガードをくぐると、
橋桁の下に「←旧西国街道」の道標(標識)があった。
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ガードをくぐると、右手に南西へ向かう道が見えるので、右折して高架下の側道に入り、三叉路でその道に左斜めに入った。
入るとすぐ、左右に小さな川が流れているが、このあたりに百間樋石橋があったのだろうか?
左側に数軒ある家を過ぎる、と左右は田畑になり、
左手にはコンクリート製の壁のようなものが見えたが、
そのまま道なりに進むと山陽新幹線の橋桁が接近してきた。
南側に甲東ポンプ場の金網があり、その先で、車道に出た。
左折して金網に沿って進むと、上大市5丁目信号交叉点があり、
右側に右折の標示があった。
交叉点で右折すると、道の右側には用水が流れていて、
その奥には阪神水道企業団甲東事業所の建物があった。
交叉点を左折すると、右側に用水が流れている狭い道があり、 この左折する角には、甲東文化財保存会が設置した 西国街道(2) の説明板があった。
説明板
「 西国街道もここ上大市四丁目13から県道中津浜線を横切り、
下大市西町の厄神明王の道標までは開発のため大きく変化しているが、
多少昔の面影を偲ぶことができる。
古地図を見ると、山手には段上の集落、西廣寺、若宮八幡が、
南の浜手には上大市、下大市の氏神である八幡神社の森が描かれ、
また永福寺の東北には戌亥石橋が描かれている。 」
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用水路に沿った道を進むと、県道中津浜線(県道337号)が南北に通じる信号交叉点に出た。
西国街道はこの交叉点は斜めはすかいに横断して、自転車屋の左の狭い道に入る。
この先は先程の説明板に開発のため大きく変化している、とあったところである。
左側の家前に「下大市東町32」の住宅表示があり、道の先には大きな木がある。
右側は下大市西町、左側は下大市東町で、道は両町の境になっている。
その先には「尼崎信用金庫」の看板がある交叉点である。
交叉点を越えた右側の駐車場の角に、「日本三躰 厄神明王道」 の道標と甲山観音道標が建っていて、「両名刹への道標」という説明板がある。
説明板「両名刹への道標」
「 甲山観音と門戸厄神への道標で、むかし、別々の場所にあったものを、
後年、この場所に移したものである。
この碑の前をほぼ東西に走る道は、約千三百年前の平安時代に作られた、
後に西国街道と呼ばれるようになった道で、
この二つの碑は、信者や巡礼などの参詣者たちを、
それぞれの寺院へあざなう道しるべとして立てられていたものである。
左の道標は、一七四〇年頃の建立で、当時篤志家として知られた、
大坂新町の折屋徳兵衛夫妻の寄進によるものである。
甲東文化財保存会 」
右側の大きな、「日本三躰 厄神明王「道」 の道標には、
「是より西宮江 三十丁 」、 「 すぐ尼嵜 大阪 左 伊丹 池田 京 道 」 などと刻まれている。
厄神明王とは、西宮市門戸西町にある高野山真言宗別格本山の門戸厄神東光寺(もんどやくじん とうこうじ)のことである。
左側の甲山観音道標には、 「 すぐか婦と山観音 是より 十五丁 」 などと刻まれている。
また、甲山観音とは、甲山大師とも呼ばれる、西宮市甲山山麓にある神呪寺(かんのうじ)のことだろう。
道標二基の奥に、駐車場の金網を背にして、甲東文化財保存会の説明板があった。
説明板「西国街道(3)」
「 百間樋川石橋を渡り、戌亥石橋を渡って、川沿いにここ百合戸石橋に来る。
昭和四十六年(1971)の道路工事で川は暗渠の中を流れるようになり、
往古の橋もなくなってしまった。
この近くに三つもの道標のあることでわかるように、
甲山大師、厄神明王にお詣りする道が、
また尼崎、大坂に通ずる道と脇道がここに集まっている。 」
上記から、交通の要路だったことがわかる。
なお、ここから少し南東の方向の三叉路に、 「 すぐ高木今津道 」、
「 左尼ヶ嵜大阪道 」 、「 右厄神明王道 」 と刻まれた道標がある。
「 甲山大師はここから北西1.5km程離れた甲山の麓にある、
神呪寺のことである。
神呪寺(かんのんじ)は、真言宗御室派別格本山である。
通称は甲山大師(かぶとやまだいし)で、新西国三十三箇所第21番札所である。
本尊は如意輪菩薩。 」
街道に戻ると、西国街道は南西に向かって続く。
歩道部分は赤褐色のカラー舗装になっていた。
二百五十メートル程歩くと、阪急今津線の踏切があり、左手に門戸厄神駅が見えた 。
踏切前で見ていると、遮断機が下りてきて、電車が通り過ぎていった。
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時計を見ると、十六時半過ぎ、日暮れには一時間半しかないだろう。
門戸厄神東光寺(もんどやくじん とうこうじ)は、
門戸厄神駅の西北700mのところにあり、隣は関西学院聖和キャンバスの隣である。
時間がないため、参拝はあきらめた。
「 門戸厄神東光寺(もんどやくじん とうこうじ)は、
西宮市門戸西町にある高野山真言宗の別格本山である。
当寺では 空海が厄除祈願のため三体刻んだとされる愛染明王と、
不動明王が一体となった厄神明王像を安置していて、厄除け大師として、
古来から有名である。
嵯峨天皇の41歳の厄年(天長七年ー西暦829年)に、
天皇は愛染明王と不動明王が一体となった厄神明王となり、
あらゆる厄を打ち払うという、霊感を得て、空海に祈願を命じた。
空海は、厄神明王像(両頭愛染明王像)を三体刻み、高野山の天野大社、
山城国の岩清水八幡宮、そして、門戸東光寺へ勧請した。
現在残っているのは東光寺のみという。
毎年1月18日・19日に厄除大祭が、2月3日に星祭が行われ、
厄除大祭には、何万人もの参拝者で賑わう、という。 」
西国街道は踏切を横断し、県道337号を横切って直進する。
一方通行の出口側の道で、右側に用水のような川が流れている。
ここは西宮市門戸荘である。
その先、交叉点に出ても道なりに直進し、左にマンションのあるところの
手前にある、門戸橋を渡ると、門戸岡田町に入った。
門戸厄神駅からここまでは住宅地で、古い建物も神社や仏閣などはなかった。
右側にLaforet HATA の建物のある三叉路の左側の電柱に、
「 神戸女学院 → 」 の案内看板と、その下に 「 やくじんさん筋 → 」
の標識がある。
門戸厄神へは駅からの方が近いと思った。
「 急いでいたので、確認できなかったが、
このあたりに厄神道標があった筈である。
この道標は、有馬道の起点に立つ指向手形付き道標で、
文久二年(1862)の建立である。
日本三躰 厄神明王社と刻まれた道標には、 「 京都、伊丹 池田道 」 、
「 中山荒神 三田 有馬道 」 と 「 西宮兵庫 」 が示されている。
小生の事前調査では、この道標は門戸岡田町4の畑寝具店前とあったので、それを探しながら歩いたのだが、その店はなくなり、Laforet HATAに変わっていたということか? 」
西宮丸橋郵便局の先の交叉点は、左右に津門川に架かる橋が架かっている。
すぐ先に信号交叉点があり、交叉点の手前右上に、「旧西国街道」の標識があった。
「
ここは西宮市愛宕山である。 交叉点を越えた右側に、愛宕山岡田山案内図があり、
交叉点の先には一方通行の進入禁止の標識があった。 」
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一方通行の道を直進すると、すぐに大きな道がある信号交叉点にでた。
対面の道は、これまた、進入禁止の標識がある一方通行の道だが、
車が一台通るのがやっとという狭い道である。
西国街道は、その道を進んで行くと、広田町に入り、
左側の赤いポストのあるのむらやの脇の電柱に「旧西国街道」の標識があった。
ここは愛宕山と能登町と広田町の境で、道が複雑入り組んでいる。
正面の道を道なりに進み、三叉路を左にカーブし、次の三叉路を左折して、
突き当りのY字路を左に取ると、御手洗川が流れる、
左側への一方通行になっている道に出た。
右側の家の先には「一方通行」と「旧西国街道」の標識が建っていた。
「旧西国街道」の標識はここから西国街道であることを示すもので、
この先では見られない。
この道を左折して御手洗川に架かる橋を渡る。
現在、西国街道が残っているのは、この橋までで、
ここから西宮神社前の旧国道2号までは残っていない。
甲東文化財保存会の説明板 「西国街道(5)
「 西国街道は、ここから広田村に入り、四十谷川石橋を経て、
豊乗寺の北を通る川土手をのぼり、御手洗川を渡って、
広田神社の馬場先に至っていた。 」
広田神社はここから北西にあるが、馬場先はどこにあたるのだろうか?
広田神社の参道入口はこの道を左に進むと信号交叉点があり、それを越えたところにあるのだが、時間がないので寄ることはできなかった。
橋を渡り、道なりに行くと西宮中央運動公園に突き当たった。
グランドの中の道を通り、西宮市中央体育館前に出て、
国道171号のある青木交叉点に出る。
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国道171号を歩き、次の室川町交叉点で左折して、市役所前線を南下する。
十七時三十分を過ぎたので、太陽は今にも沈みそうである。
室川町に入ると、その先に阪急神戸線の高架橋がある。
高架橋をくぐると、中前田町で、
その先に左右に山手幹線が通る、中前田町南交叉点がある。
このあたりは西宮市の官庁街で、交叉点を横断すると、
右側に兵庫県西宮庁舎があり、交叉点を過ぎると
目の前にJR東海道本線の線路が聳えている。
線路をくぐる道は地面より低くなっているので、
大雨が降ると水没する危険がありそうな気がした。
ガードをくぐると、
国道2号線が通る西宮市役所前交叉点に出た。
交叉点の左側には西宮市役所第二庁舎があった。
国道2号は東西に通じるメイン道路で、車の通行量は多いため、
直進する道はしばらく待たされた。
交叉点を歩き、国道の駅側を見ると車が連なっていた。
交叉点を越えると道の両側は並木で、緑は多い。
右側は西宮市役所とアミティ・ベイコムホール、
左は海清寺と駐車場で、その奥に道の両側は六湛寺公園である。
「 海清寺は南北朝時代の創建と伝えられる臨済宗の寺で、境内にある楠の巨木は樹齢六百年と言われ、県の天然記念物に指定されている。 」
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右手に阪神電車の西宮駅があるので、表示板がある。
高架をくぐってそのまま進む。
信号交叉点を越えると小さな橋を渡り、 国道43号の石在所交叉点の手前に銅像がある小公園がある。
その前の道は旧国道で、ここからの道は西国街道である。
右折すると「新橋」と書かれた、小さな橋があり、
一直線の道が続いているのが見えた。
橋を渡ると、道の両脇には飲食店とバーやスナックなどが多い。
その先の信号交叉点の先には「プレイタウン1番街」の大きな看板がある。
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その先の通りには、えべっさんロードの標示がある。
「西宮神社御神燈」と書かれた提灯が、店の前のポールの下に吊り下げられていた。
新橋から六百メートル位歩くと、車道に突き当たった。
道の向うに西宮神社の大練塀が見えた。
一方通行出口のところに「旧国道」の標識があった。
横断歩道を歩き、西宮神社の入口に着いた。
国道側を見ると、右側に大練塀と、
「当所 八馬氏」の丸い石柱があり、
その右の大きな石柱には「えべっさん筋」と刻まれている。
えべっさん筋は、神社の前に通る南北の道である。
左の道脇には西宮神社の常夜燈があった。
ニ宮神社の大きな説明板があった。
「 ニ宮神社は、福の神様として崇敬されているえびす様を
おまつりする全国の総本社として広く信仰されています。
えびす様は、神戸和田岬の沖に出現され、鳴尾の漁師がおまつりしていましたが、
西の方に宮地があるとの神託でこの地におこしになったと伝えられています。
その年代は明らかでありませんが、平安時代後期には、
すでに文献に見ることができます。
古くより漁業の神として信仰されてきましたが、
門前に市が立ち、西宮の町の発展と共に商売繁盛の神様として、
又、人形操りなどの芸能や七福神信仰を通じて、
さらに津々浦々へと広がっていきました。
一月九日から十一日の十日えびすには百万人に及ぶ参拝者で賑わいますが、
本えびすの十日午前零時に神門を閉じて、神職は忌籠を厳修します。
そして、午前六時の表大門の開門とともに走り参りを行う風習があり、
福男が選ばれます。
九月二十一日から二十三日の西宮まつりでは、例祭、渡御祭が斉行され、
古式に則り海路神戸和田岬へ産宮参りが行われます。
三連春日造という本邦唯一の構造を持つ本殿は、昭和二十年に戦禍にあいましたが、
昭和三十六年に復元再建されました。
豊臣秀頼公の寄進と伝えられる表大門とその左右に連なる大練塀は、
国の重要文化財に、えびすの森は兵庫県の天然記念物に指定されています。 」
西宮神社は、最初は漁民が信仰する神だったのが、時代を経るにつれ、
関西の商業の発展と比例して、勢力を伸ばしていったと思われる。
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大練塀には説明板があったが、文字が雨などで崩れて判読不能であった。
国に重要文化財に指定されている。
鳥居の先にある赤い門は表大門(東大門)である。
安土桃山時代の慶長九年に豊臣秀頼の寄進により、再建されたもので、
国の重要文化財に指定されている。
表大門の脇に、「西宮神社の由緒」と書かれた板があった。
「 全国えびす神社の総本社として古くから崇敬され、
平安時代には高倉上皇の御幣帛を賜ったと伝えられている。
特に中世以降えびす様を福の神と崇める信仰が盛んになり、
当地で発祥した人形繰りや謡曲狂言などの芸能を通じて
全国津々浦々にまでご神徳が広まっていった。
一月九、十、十一日の十日えびすには百万人以上の参拝者があり、
阪神間に於ける最大の祭典として著名である。
西宮神社 」
西宮神社の境内は広いので、うす暗くなる前に、拝殿前に着こうと脚を速めた。
拝殿に到着して御参りしたのは十七時四十五分で、
写真を撮るのは難しくなる時間の前だった。
「
西宮神社の本殿は三連春日造りという本邦唯一の構造を持つもので、
昭和二十年の戦禍にあったのを、昭和三十一年に復元再建されたものである。
第一社にはえびす大神、第二社には天照大神と大国主大神、
第三社には須佐之男大神を祀っている。 」
今回の旅の無事を喜び、家族の健康を祈念して、賽銭をあげ、
柏手を打って御参りをした。
この後、阪神電車の西宮駅に行き。急行に乗った。
その先で止まった甲子園駅で、阪神フアンが乗り込んできたが、
阪神のユニフォームスタイルのおばちゃんが多いのには驚いた。
当日は巨人との優勝を決める決戦で負けたので、意気があがらないようだった。
この時点では巨人と阪神に優勝の可能性があったのだが、
それまでに試合数をこなした中日がリーグ優勝となり、漁夫の利を得たのだが、
阪神フアンの凄さを感じながら、新大阪経由で名古屋に帰っていったのである。
今年の夏は暑く、連日三十七度前後を記録している中で始めた西国街道の旅で、
腹をいためたりして、これまでの街道の旅と違う経験をしたが、
終わってみると大変楽しい旅だった。
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これで伏見から大阪高麗橋の「京街道」と、今回の「西国街道」という二つの街道を歩いたのであるが、これで感じるのは小生が育った関東と違い、
都市毎に特色があるということである。
関東でも地域毎に特色があるが、橋を渡り隣の町に入ってもそれ程の違いはない。
ところが、関西の都市は、都市毎に家の大きさや住民の所得や宗教に違いがあり、
住民は自分のカラーに合わせて住む場所を決めているのでは思った。
これは旅人である小生の思い違いかもしれないが、・・・
旅をした日 平成22年(2010)9月19日(日)