今から千数百年前、三輪山の南麓を起点とし、巻向山、龍王山、高峰山、城山、
高円山の山裾をめぐって、北を目指す道があった。
"山の辺の道"と呼ばれる道である。
日本最古のこの道の付近は、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の三代にわたる天皇が宮を置いた政治と経済の中心地であった。
平成二十二年三月二十二日(秋分の日)、旅行社が企画した山の辺の道のフリーハイクに参加した。
名古屋駅前の出発時間が遅かったこともあり、
柳本バス停近くのコンビニ前でバスを降りたのは十一時半を過ぎていた。
柳本バス停から長岳寺まで
柳本バス停の左手に入ると、右手に四世紀前半の築造といわれる全長130mの前方後円墳の黒塚古墳がある。 平成十年に卑弥呼の鏡ともいわれる三角縁神獣鏡が三十三面も出土して話題になったことを記憶している。
黒塚古墳に寄らず、国道169号を北上すると、成願寺バス停があった(右写真)
事前に渡された地図には、長岳寺へ向かうコースが書かれていたが、大和神社へ向かった。
エッソGS前には、大和神社は五十メートル先を左折する標識があった。
成願寺バス停の先の大和神社前交叉点を左折すると、左手の耕作している農夫の先に
、フサギ塚古墳が見えた(右写真)
フサギ塚古墳は、全長110mの前方後方墳、後方部1辺60m、高さ9m、前方部高さ3mである。
さて、山の辺の道だが、記紀にも登場する古い道である。
往時のルートは定かではないようだが、奈良盆地の東南に位置する三輪山から東北部の春日山
まで、盆地の東端を山々の裾を縫うように通っている道というのが通説のようである。
道をそのまま進むと、正面に大和神社(おおやまとじんじゃ)の看板と鳥居、常夜燈がある三叉路に出た (右写真)
鳥居の左前に官幣大社の石柱が建ち、右側に神社の由来書があった。
「 大和神社は
大和一国の地主神である日本大国魂大神(やまとおおくにみたまのおおかみ)と八千
戈大神(やちほこのおおかみ)、御年大神(にとしのおおかみ)が祭神である。 第十代崇神天皇六年に
皇女渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)により当地に移されたのが当社の始まり。 奈良時代
には遣唐使の出発に際し、交通安全を祈願された。 」 とあった。
かなり長い参道を歩くと、二の鳥居の先の左側に、増御子神社(ますみこじんじゃ)があり、
天孫降臨の際に道案内をした猿田彦大神と天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀られていた (右写真)
案内板には、 「 文治三年(1187)には源頼朝が大和神社に太刀を奉納したといわれる。
祭神名にちなんだやまとの呼び名は、この地から奈良県全体に広がり、大和国という名になり、
やがて日本全体が倭(やまと)と呼ばれるようになった。
第二次世界大戦では戦艦大和の守護神として祀られたが、同艦の戦没者は祖霊堂に合祀されている。 」 とあった。
大和神社の社殿は、明治初期に再建されたもので、比較的新しいものだった (右写真)
この背景には、平安初期までは、天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、
朝廷の崇敬
を受けて隆盛したのに、平安遷都や藤原氏の隆盛により衰微し、中世には社領を全て失い、
江戸時代には神仏習合の寺になっていたのを明治政府の手により、官幣大社となり、新たに社殿が造営された、という事情がある。
道を引き返し、交叉点を越えるとコンビニがあるが、その脇の細い道を道なりに進む (右写真)
正面に柿の木畑がある三叉路に出たので、右折して、少し上りになる道を歩いて行く。
道の脇に車を停めて何かを摘んでいたので、覗きこむとつくしを摘んでいた。
久し振りにつくしを摘む人に出逢った。
小生も今住んでいる家に移転した当時は近くの田畑の畔につくしが出たので、幼い娘と摘みにいったが、
何時の間にか見かけなくなっていた (右写真)
道を進むと交叉点には「東海歩道」の道標が建っていた。
左右の道が古代の山の辺の道である。 山辺の道の名称は、古事記の崇神天皇の条に、
「 御陵は山辺の道のまがりの岡の上にあり 」
とあることに由来するといわれる。
道標の左側には「天理・竹之内環濠集落1.0km」とある。
「 周辺に深い濠をめぐらして外敵から里を守る環濠集落は、
動乱の続く中世の時期に、農民たちが野武士の襲来に対抗し、
自衛のために築いたもので貴重な存在である。 」
道標の右側には「衾田陵・桜井0.7km」とあるので、右折して進むと、溜池が現れた。
池の傍らに西山塚古墳の案内板があるが、池の先に見える果樹園が古墳である (右写真)
「 西山塚古墳は全長114mの古墳時代後期の属する前方後円墳である。 前期古墳が大半
を占める大和古墳群の中で、後期の大型古墳はこの古墳だけである。 」
と案内板にはあった。
その先には民家が密集して建っているので、道標に従って進むと柿畑があり、
道の分かれ目に 大神宮常夜燈と猿田彦大神碑と「山の辺の道」の標柱が建っていた (右写真)
道標に従って進むと、五社神社があり、その前の道標には「衾田陵は左折」とあったので、
山の辺の道から離れて、入っていく。
道なりに進むと田畑が現れ、左手にこんもりとした森のようなものが現れた。
畔道のような細い道をそのまま行くと右手に小さな古墳が見え、更に進むと左手に
鳥居のようなものが見えたので、左折して細い道を進むと、
鳥居と宮内庁が建てた 「 継体天皇
皇后手白香皇女 衾田陵 」 という看板があり、柵に囲まれていた。
先程から森のように見えた小高い丘陵は衾田陵(ふすまだりょう)だったのである (右写真)
「 衾田陵は西殿塚古墳といい、四世紀前半の築造と思われ、
大和古墳群の中でも一番大きく、
全長220mの前方後円墳である。
これまで、継体天皇の皇后、手白香皇女(たしらかのひめみこ)が葬られた。 」
とされてきたが、
継体天皇の皇后になったのは六世紀の始めであるので、古墳が
築造された年代とは合わない。 そういえば、天理市教育委員会は、
「 衾田陵の築造は四世紀
前半とされるので、手白香皇女の生存年代が合わない。
それに対し、西山塚古墳は六世紀の築造なので、これが手白香皇女陵であるという説がある。 」 と、
前述の西山塚古墳の案内板に紹介していた。
科学的な調査法がない明治時代に指定されたのだから、やむをえないのかもしれない。
先程の見た小さな古墳は、燈籠山古墳のように思えた (右写真)
また、この近くには、四世紀初頭の造営と考えられる全長175mの東殿塚古墳もある。
五社神社前に戻り、もう一度、道標を見ると、「中山廃寺400m」とあるので、道標に従って進む。
道から入ったところでは白い木蓮が花をいっぱいつけて咲き誇っていた。
その先には墓地があり、燈籠山(とうろうやま)古墳の案内板が建っていた (右写真)
「 燈籠山古墳は全長110mの前方後円墳で、前方部は念仏寺の墓地になっている。
埴輪の特徴から古墳時代前期、四世紀前半の古墳と思われる。 」 とあり、先程見た柿の木が植わっていた
のは後部の円墳の部分だったことが分かった。
案内板の角を右に曲がると、本堂の屋根と鐘楼、
十三重石塔がコンクリートの塀越しに見えるのが念仏寺である (右写真)
「 行基上人が開いた中山廃寺の一坊だったと伝えられるが、焼失したのを十市城主、十市遠忠が、天文十九年(1550)に再興したが、宝永六年(1709)にまた焼失、その後再建されたとある寺院である。 」
念仏寺の前には石仏群が祀られていて、道標には「中山廃寺0.1km」とあった。
左が菜の花畑、右が柿畑の中を進み、森に入ると中山大塚古墳の案内板が現れ、左手の小高いところに神社の社殿が見えた (右写真)
案内板には、中山大塚古墳の築造時期は古墳時代初頭で、
全長132mの前方後円墳であること、前方部は大和神社の
お旅所がおかれたために削平されていることなどが書かれていた。
その先には、最古の御社 大和神社御旅所の標柱と大和神社御旅所の由来という案内板が
あるが、御旅所とは毎年四月に開催される大和神社の春の大祭「ちゃんちゃん祭」で、
神が休憩されるところである。
左手にある鳥居のある社殿は歯定(はし)神社で、祭神は大巳貴神、少名彦名神である。
その隣にあるのが大和神社 御旅所座神社である (右写真)
なお、ちゃんちゃんとは祭の行列で打ち鳴らす金盥(かなだらい)の様な銅鑼の音に由来する。
神社前の空地の石にしめ縄があったが、説明はなかったがここがどうやら中山廃寺跡のようで
ある。 道の反対には、山の辺の道の道標があり、「桜井・長岳寺0.8km」とある。
石畳みの道の右側には公衆トイレがあり、その下に石仏群があった。
なお、この先も要所要所にトイレがあった。
石畳みを下ると右折して、一面が田圃であるところを歩く (右写真)
左手にはピンクと白の花が咲いているのが見え、誠にのどかな風情で、ハイクに来たのを忘れるところである。
右側には休憩施設があり、昼飯を食べている一団がいた。
その前に、万葉の歌人、柿本人麻呂が妻を亡くした際に詠んだ歌の石碑が建っていた(右写真)
「 衾道乎 引手乃山原 妹乎置而 山徑往者 生跡毛無 」
( ふすま道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし )
妻を火葬にした引手山はこの東にある小高い山である。
その先の三叉路で右折するとすぐに左折して、細い石畳み道に入った。
この道を進むと車道に出た。 右に行くと、小生がバスを降りたコンビニの北側にある信号交叉点
に出る道である。 左折して、長岳寺に向かう。
時計を見ると、十二時四十八分、到着して一時間二十分近く経過していた。
参加者は、コンビニから長岳寺へ直接向かったので、今より一時間以上前にここを通過している。
拝観料三百円を支払い、長岳寺へ入ると正面に楼門があった (右写真)
「 長岳寺は天長元年(824)、淳和天皇の勅願により、
弘法大師が大和神社の神宮寺として創建
された古刹で、楼門は、日本最古の鐘楼門であり、弘法大師当時創建当時の唯一の建物である。
また、楼門手前の左手にある地蔵院は寛永七年(1630)の建築で、室町時代の書院造りの様式を残しており、現在は庫裏として使用されている。 」 (右写真)
隣の地蔵堂本堂は寛永八年(1631)の建築で、延命殿ともいわれ、普賢延命菩薩を本尊とする
庫裏の持仏堂である。
楼門をくぐると、右手に庭がきれいな放生池があり、左側に天明三年(1783)に再建された本堂が建っていた (右写真)
「 本堂の中尊阿弥陀如来座像、脇侍の観音、勢至菩薩半跏像が当時の本尊は、
藤原時代の仁平元年(1151)の仏像で、玉眼を使用した仏像としては日本最古で、国の重文指定。 その他、多聞天と増長天像も藤原期のものでこれも重文である。 」
その先には鎌倉時代の十三重石塔があり、その先には地蔵尊が描かれている石仏碑がある。
「 長岳寺は盛時には塔中四十八ヶ坊、衆徒三百余名を数えたという寺であるが、
兵火と明治の廃仏希釈で衰えたが、千百八十余年間連綿と法燈を守り続けている。 」
脇の石段を上ると、左手に大師堂がある (右写真)
「 大師堂は正保二年(1645)の建築で、弘法大師像と藤原時代の不動明王を祀っている。 」
正面の拝堂の右奥にある石段を上っていくと、小さな石祠の中には石仏が祀られている。
石段を上ると左側に大きな石仏があったが、この石仏は鎌倉時代の弥勒大石棺仏である(右写真)
「 この石仏は古墳時代の石材を再利用したもので、二メートル近い如来形である。 」
山の上に続く道の両脇にある石仏は鎌倉時代から江戸時代にかけての石仏であるという。
石仏が途絶えたところで道に沿って山を下って行くと、長岳寺の墓地に出てしまった。
そのまま進むと、長岳寺の駐車場で、案内板には長岳寺は左折とあったが、長岳寺には戻らず、坂を下ると、左側に天理市トレイルセンターがあった。
長岳寺から相撲神社
天理市トレイルセンターは市内で出土した土器などを展示していて、無料休憩所にもなっているが、
時間のゆとりがないので、センターには寄らないで進む (右写真)
トレイルセンターの外周を左にぐるーと回るように進むと、前方に森のようなものが見えてきた。
トレイルセンターの駐車場近くの三叉路に道標があり、「崇神天皇陵0.3km、景行天皇陵1.7km、
大神神社5.8km」 とある。
道標の通り歩くと、右側の公民館の前に天満宮と書かれた常夜燈が建っていた。
その先で右折して細い道に入ると、前方には鬱蒼とした森とその手前に堤のようなものが見えてきた。 これは崇神天皇陵(すじんてんのうりょう)である。
堤道へ上ると、目の前に濠があった(右写真)
「 崇神天皇陵は「山辺道勾岡上陵」と呼ばれる全長240mの前方後円墳である。
大和王朝を確立したといわれる崇神天皇の墓というが、古墳時代前期に築かれたとみられる。
濠は江戸時代末期に整備されて、当初の形式とは変わっている。 」
右方に歩いて行くと、宮内庁の看板や遥拝所があるところに出られるが、
そのまま左折して濠を見ながら歩くと、途中に濠はなくなり、歩道も一段下がって、柵に沿って続いていた。
道の左側には「歴史的風土特別保存地区」の石碑と案内板があった。
道が右にカーブすると、左側に二つの濠があるが、その間に挟まれているのが櫛山古墳 (右写真)
案内板によると、
「 櫛山古墳は、全長160mの双方中円墳という変わった形の古墳である。
古墳時代前期(四世紀)後半の築造で、三角縁神獣鏡を多数出土した黒塚古墳とともに、
柳本古墳群を代表する古墳である。 」 とあり、
双方中円墳は全国でも僅かということだった。
崇神天皇陵と接して建てられているので、崇神天皇と関係のある人の墓なのだろう。
それにしても、崇神天皇陵は大きく、右手に続いていた (右写真)
この後、田畑が展開するところを歩いていくが、道の脇には歌碑が建っていた。
大和の集落という看板があり、
「 集落は奈良時代の条里制にもとづいて配置されてきた。
この山辺の道沿いの古い集落も条里制に対応しています。 」 とあった。
右手に家が続いていて、その先、遠方には山並みが見えたが、どこの山だろうか? (右写真)
看板があるところには民家はなかったが、少し歩くと民家があり、
民家の間を抜けると、三叉路に出た。
左折して行くと卑弥呼庵という旧家の座敷を開放した喫茶店があるが、景行天皇陵へは右折する。
この道は車が通れる舗装道路である。 しかし、すぐに左折して未舗装の道に入っていった。
田舎道を歩いていくと、渋谷公民館があり、それを過ぎると左側に少し小高いところに、「景行天皇陵ろ号陪塚」の看板が建っていた (右写真)
「 陪塚とは、埋葬された首長の親族、臣下を埋葬したものである。 」
景行天皇(けいこうてんのう)は、古事記や日本書紀に記される第十二代の天皇で、日本武尊
(やまとたけるのみこと)の父である。
古事記によれば、「 景行天皇は奥方と子供が多く、記録に残る男子は二十一王、
記録に残らない男子は五十九王、あわせて八十王。 」 とあるが、
それ以外は熊襲征伐の記述がある程度で、その存在は疑問という説もある。
それはともかく、その先の右手にあるのが、景行天皇陵である (右写真)
「 景行天皇陵は、全長300mという壮大な古墳で、周囲に1kmの濠が巡らされて
いる。 日本武尊の父である景行天皇の墳墓、山辺道上陵とされている。 」
その先の道標には、「桜井・桧原神社2.5km」とあり、その上の方には売店があり、
あまさけなどを売っているようだった (右写真)
時計を見ると十三時二十九分で、帰りのバスの出発時間まで一時間半しかない。
桧原神社からバス駐車場までどのくらいの距離か分からないが、
ペースをあげないといけないなあと思った。
その先の角、「額田女王歌」と書かれた石碑のところを左折する。
旅行社から受け取った地図に、 「 この辺りはのどかな道でおすすめの場所 」 と書かれているところである。
里山の良さが実感できるところで、のんびりと春の道を歩いていきたいが、
時間の制約があってはそういう訳にはいかない。
その先は右折して進んだ (右写真)
そこから五分程歩くと、「桜井・桧原神社1.9km」の道標が出てきたが、
ここを左折すると三叉路である。
この道は舗装された車道で、右折して進むと、巻向駅にいけるが、山の辺の道は左折である。
ここは山の辺の道ハイクで一番賑わっていたところで、右側の陶芸品の店や無人販売所にはおばん達が群がっていたが、それを無視しながら進んだ (右写真)
なお、この道にはかわいい巫女をイラストにした「歴史街道 山の辺の道 桜井市 」のタイルが
埋められていた。
その先の交叉点で山の辺の道は右折するのだが、その先の巻向山の麓に兵主神社があるので、
立ち寄ることにし、そのまま直進した。
すると、交叉点を過ぎた先、右側に「景行天皇纏向日代宮跡(まきむくひろみやあと)」の大きな石柱と
左側には穴師坐兵主神社が建てた案内板とその脇には常夜燈と小さな祠があった (右写真)
案内板には、「 紀元730年第十二代景行天皇・大足彦忍代別命
(おおたらしひこをしろわけ)が即位後、この地に宮を設け、大和朝廷による全国統一を進められた。 (以下略) 」 と書かれていた。
纏向日代宮とは思いながら進むと、道の左側に、「 古代の都市のようす(纏向遺跡) 初期ヤマト
王朝発祥地という桜井市が建てた案内板がある。
左手から下にかけて、古代の都市国家があったと推定し、その想像図が描かれていた (右写真)
「 纒向遺跡は、巻向小学校の上にある纒向勝山古墳やその下にある矢塚古墳と
石塚古墳は早くから知られていたが、
その後の調査により、この一帯は三世紀の国内最大級の集落があり、
また、邪馬台国畿内説の最有力候補地とされるようになった。
発掘された土器などから、祭祀を中心とした建物群ではともいわれ、初期ヤマト王権発祥の地と
いえる、と地元では見ているようである。 発掘された陶器は関東、東海、四国、九州の各地からの
もので、全国から人が集められていた、と推測され、発掘は今も続いている。 」
さらに進むと、鳥居があり、兵主神社の領域に入った。
少しうす暗い林の中を歩いて上って行くと、奥まったところに兵主神社はあった (右写真)
「 兵主神社は、右側の若御魂神社、中央の兵主神社、そして、
左側の大兵主神社の三つの社殿で構成された神社である。
これらの三つの神社は創建時には別々のところにあった。
若御魂神社は延喜式神名帳には式内大社となっている神社で、中央の兵主神社は、今より二千年
前の崇神天皇六年の創建と伝えられ、穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)として、名神大社に列せられている。
また、大兵主神社は穴師大兵主神社として、延喜式神名帳に式内小社となっているが、
これらの三つの神社は応仁の乱の室町時代に合祀されたといわれる。 」
現兵主神社は穴師大兵主神社のあった場所に建っている (右写真)
先程の纏向日代宮の伝承といい、神社の歴史が古いのには驚いた。
神社から引き返す途中に三叉路があり、左側の道に入るとすぐの右側に小さな社殿があるので、
入っていくと、
傍らの看板に「国技発祥の地 天覧角力開祖 相撲神社」とあった (右写真)
「 今を去る二千年前、垂仁天皇七年に大兵主神社の境内のかたやけしに於いて、
野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(けはや)による天覧相撲が行われたのがこの神社の場所。 」 とあった。
日本書紀には、「 蹴速を打ち負かした後、蹴速の当地が与えられ、
この地にとどまり、大和王朝に仕えた。 」 とある。
参考までに、日本書紀の記述を下記する。
『 七年の秋七月の己巳の朔乙亥に、左右奏して言さく、「 当麻邑に勇み悍き士有り。 当摩蹴速と曰ふ。
其の為人、力強くして能く角を毀き鉤を申ぶ。 恆に衆中に語りて曰はく、『 四方に求めむに、豈我が力に比ぶ
者有らむや。 何して強力者に遇ひて、死生を期はずして、頓に争力せむ 』 といふ 」とまうす。 天皇聞しめ
して、群卿に詔して曰はく、 「 朕聞けり、当摩蹴速は、天下の力士なりと。 若し此に比ぶ人有らむや 」 との
たまふ。 一の臣進みて言さく、 「臣聞る、出雲国に勇士有り。 野見宿禰と曰ふ。 試に是の人を召して、蹴速に
当せむと欲ふ 」 とまうす。 即日に、倭直の祖長尾市を遣して、野見宿禰を喚す。 是に、野見宿禰、出雲より
至れり。 則ち当麻蹴速と野見宿祢と角力らしむ。 二人相対ひて立つ。 各足を挙げて相蹴む。 則ち当摩蹴速が
脇骨を蹴み折く。 亦其の腰を蹈み折きて殺しつ。 故、当摩蹴速の地を奪りて、悉に野見宿禰に賜ふ。 是以其の
邑に腰折田有る縁なり。 野見宿禰は乃ち留り仕へまつる。 』
相撲神社から大社神社大鳥居
相撲神社の左側の道を進むと、山の辺の道に出たので、左折して進むと、その先で下り坂である。
下には民家が数軒、その先には田畑が広がっているのが見えた (右写真)
坂道を下って道なりに歩くと、左側に小さな社、その先には山辺道と書かれた石柱が建っていた。
また、 「 ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音高くもあらしかも疾き 実篤 」 という石碑があった。
これは、万葉集の柿本人麻呂の歌を武者小路実篤が揮ごうしたもののようだった。
民家の間を抜けると、二車線の県道50号に出たので、左折して山に向かって歩く。
両脇には民家があるが、この辺りは箸中集落である (右写真)
このあたりには古そうに思える家があった。 右側に常夜燈もあり、二つの祠には石仏が祀られていた。
道脇には、「 巻向の山辺とよみて 行く水のみなわのごとし 世の人われは 」 という柿本人麻呂の歌が刻まれた歌碑などがあり、
赤いボケが満開できれいである。
時計を見ると十四時七分。 残りは五十分程なので、大変あわてた。
こんな悠長にしている場合ではないと、ここからは前にいる人を追い越しながら進む。
巻向川を越えると、三輪山の麓になるが、ここで県道と別れて山裾の道を右に進んでいく。
「 大和は国のまほろば 」とある案内板を通り過ぎると、右側の塀に囲まれたところに
「三気大神
神社」という看板があった (右写真)
道から離れて右手の狭い道を行ったと、右側に中を覗くようなところはあったが、三気大神神社とは
何か分からないまま終わった。
更に進むと、「大神神社摂社 桧原神社」と「皇大神宮聖蹟倭笠縫邑」の看板がある神社の境内に出たが、「(元伊勢)桧原神社と豊鍬入姫宮の御由来」と書かれた案内板が建っていた (右写真)
「 桧原神社は天照大神を、末社の豊鍬入姫宮は崇神天皇の皇女、
豊鍬入姫宮を祀っている。
第十代の崇神天皇の御代までは、皇祖天照大御神は宮中にてお祀りされていたが、
崇神天皇の
六年に、皇女、豊鍬入姫宮(初代斎王)の手に託され宮中を離れ、この倭笠縫邑
(やまどのかさぬい
むら)に於いて、磯城神籬(しきひもろぎ)を立ててお祀りされることになった。
その後、天照大神が伊勢へ御還幸されたが、引き続きお祀りしてきたことから、
この地を元伊勢と呼んでいる。 」 とあった。
石段を上ると、松の下には赤く塗られた柵と結界を示すしめ縄で
囲まれた遥拝所、その先には三ッ鳥居があった (右写真)
桧原神社には神殿も拝殿もなく、三輪鳥居といわれる独特の鳥居が立つのみで、御神体もかって
は三輪山だったが、現在は山中の磐座である。
三ッ鳥居の左側にある社殿は昭和六十一年に鎮座した豊鍬入姫宮
(とよすきいりひめのみや)である (右写真)
中山道や伊勢街道で、天照大神が伊勢へ御還幸されまでの倭姫命(豊鍬入姫宮)の痕跡を確認しながら
歩いたので、元伊勢の地を訪れることができたのはうれしかった。
鳥居をくぐって直進すると、卑弥呼の墓ではといわれる箸墓古墳へ通じる。
山の辺の道は左折して進む。 右側に石塔と石仏群があるが、その先左側に玄賓庵(げんびんあん)がある (右写真)
「 玄賓庵は、平安時代初期に興福寺の高僧、玄びん僧都が隠れ住んでいた所といわれる。
かつては山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にあったが、明治初年の神仏分離により、
現在地に移された。
堂内に木造不動明王坐像や玄賓僧都を祀っている。 世阿弥の謡曲・三輪の舞台としても有名である。 」
玄賓庵から山の辺の道を南へ向うと、左側の山手に赤い鳥居が見えるが、参道の向こうには岩坪池とその奥に上池があり、三輪山を背景にして八大竜王弁財天が祀られているが、時間はないのでパス。
更に二百メートル進むと、歴史街道 桜井市茅原ですと書かれた道標があり、「狭井神社0.3km」
とあった。
また、神武天皇聖蹟の表示もあった。 その先の小さな川に狭井川の表示が
あり、左側に狭井神社の石標が見えてきた (右写真)
なお、写真の赤い鳥居は参道左側の池の中に祀られているのは市杵嶋姫神社のものである。
狭井神社は大神神社の摂社で、大神荒魂大神(おおみわのあらみたまおおかみ)を祀っているが、
創建の時期は定かではなく、中世以降社殿が荒廃し、
廃絶寸前だったのを復興させたといわれる。
狭井神社の拝殿は池の脇の道を進んだ奥の方にある (右写真)
拝殿の奥には狭井の御神水と呼ばれる薬井の霊水があり、万病にきくと参拝者が絶えない。
この先の三叉路を右折して南に向かうと、右手の奥に久延彦(くえひこ)神社がある。 神社のパンフレットには、「
祭神の久延毘古命(くえびこのみこと)は、古事記に
「 足はあるかねど天下の事を、
尽(ことごと)に知れる神 」 とある知恵に優れた神で、山田の曽富騰(そほど)と申し、いわゆる山田の案山子である。 」 と、あった。
更に南へ行くと、左に石段の上に若宮社がある (右写真)
「 大神神社の祭神、大物主命の子孫の大直禰子命small>(おおたたねこのみこと)が祀られているので、大直禰子神社という。
若宮は奈良時代神仏習合し、大神寺、のちに、大御輪寺となったが、明治の廃仏希釈で廃寺となり、
鎌倉時代の再建とされる入母屋造の本堂(国重文指定)
が本殿となって残った。 本尊の十一面観音像(国宝)は聖林寺に移されて安置されている。 」
そのまま進むと、大神神社の二の鳥居の前に出た (右写真)
時計を見ると十四時四十四分なので、大神神社にお参りするのは無理である。
既に初詣ツアーで拝殿に上って御参りしているので、今回は時間があればと思っていたので、そのままバスのあるところに向かう。
参道の出店の中をくぐって進むと車道に出たが、三連休の最終日とあって、
車が渋滞している。 JR桜井線の踏切を越えると、左手に三輪恵比須神社がある。
その先の三叉路を左にとると、一の鳥居があり、その先にはおんばら祭で有名な綱越神社がある。
直進すると、車道の正面に大鳥居がある (右写真)
「 大鳥居とあるだけに大きく、高さ三十二メートル、柱間二十三メートルもあって、近くからはカメラに収まらなかった。 」
旅行社のバスはこの下の駐車場にいた。 時計を見ると、十四時五十一分で、かろうじてセーフと
思った。
ところが、時間にここまで来られないという乗客から連絡が入り、三十分以上待たされることになったので、
駐車場の隣の白玉屋栄寿に名物みむろ最中を買いにいったが、あいにく休業だったので、トイレだげで車に戻り、ひたすら待った (右写真)
三十分の時間があれば、山の辺の道を更に進み、金屋石仏を見て、この道の起点である海石榴市(つばいち)までいけたのにと思った。
当日は、高速道路も大渋滞で、帰宅したのは予定より二時間以上も遅くなったが、満足の旅だった。
旅をした日 平成22年(2010)3月22日(秋分の日)