「   若狭街道(鯖街道)   」


かうんたぁ。



若狭街道は、若狭国小浜から都のあった京都や奈良に通じる道で、 複数のルートがあったようである。
日本海の玄関であった小浜から、いろいろな物資が運ばれたが、その中に海産物があり、江戸時代には鯖を一塩にし、鯖を背負い、京都まで運ばれた。 
これらの道を 「鯖の道」 と呼ぶようになったが、 「鯖街道」 の名は最近になってからである。


◎ 歴史の道

若狭は、 朝鮮語 ワカサ (往き来) が訛って、 宛字した地名である。 
若狭地方は、 白鳳時代以前から開け、 若狭国造や角鹿国造により 管理されていたが、 七世紀にその両者が併されて、若狭国になった。 
歴史的に 大和王朝との関係は深く、 奈良時代には、 御食国 (みけつくに)として、 朝廷に 海産物を納めており、   また、 奈良の東大寺で実施されるお水取りは、 東大寺が小浜に持っていた荘園に由来するといわれる。 
京都の日本側の玄関である若狭とを結ぶ道は、 古くから、 塩をはじめ、さまざまな魚介類を運ぶため、 二十以上の数に及ぶ、 多くの道がひらかれていた。 
古来、 若狭路は、「 京は遠くても十八里 」 といわれてきたが、  約七十二キロの道のりで、 古い道では、小浜から名田庄村を経て、 美山町や京北町に至る、 周山街道 もその一つである。 
最短ルートは、 小浜から遠敷川をさかのぼり、 針畑峠を越えて、 朽木村 ・ 久多から 鞍馬街道に続く、 針畑越の道である。 
人の行き来が多かったのは、 京都の出町柳から朽木宿を通り、 熊川宿を経て、 小浜にいたる道である。
この道は、 若狭道とか鯖の道とも 呼ばれていた。 
元亀元年(1570)四月、 越前の朝倉氏を攻めた織田信長は、 浅井長政の裏切りによって、 撤退を余儀なくされた時、 北国街道は浅井氏の管理下にあるため、 この地の豪族 ・ 朽木氏の管理下にあったこの道を騎馬で駆け抜けて、 京都へ帰り、 窮地を脱した、といわれ、 このことから、 この道は広く知られるようになった。 
それから二十年後の天正十七年(1598)、 小浜城主となった浅野長政が、 若狭と近江の国境に位置した熊川宿を、 軍事・交通上の要地として、 諸役免除として、 町奉行を置き、 宿場町としての発展の基礎を築いた。 
その後も、 代々の城主が この政策を受け継いたこともあり、 この街道の整備が進み、 現在、鯖街道といえば 多くの場合、 このルートを指すのである。
室町時代から江戸時代にかけて、若狭の行商人たちは、 小浜に水揚げされた鯖を一塩にし、 牛馬や荷馬車で熊川宿まで運搬し、 熊川宿からは 行商人たちが鯖を背負い、 京都まで歩いて運び、 夜明け前に小浜を出発した鯖は、 夕方には京都に到着したといわれる。
若狭〜京都間をリレー方式で運搬した訳であるが、  京都に着く頃に塩がほどよくなじむため、  京の人々から、若狭の一塩物として、珍重されたのである。 
京都の鯖すしは、 これを抜きに語ることはできないだろう。 


◎ 朽木宿

鯖街道朽木宿の木柱

若狭街道が発達していく上で、大きな役割を果たした宿場が、 朽木庄 (滋賀県高島市朽木) と、 若狭の熊川宿である。 最初に朽木を訪れた (右写真 ー 「鯖街道朽木宿」 の木柱 
安曇川(あどがわ)沿いにある国道367号線を進むと、 右側に 、 道の駅、「朽木宿新本陣 」 がある。
道の反対にある 「鯖街道朽木宿」 の木柱から、 狭い道に入っていく。 
このあたりは、 市場(いちば)と呼ばれ、 若狭の海産物や琵琶湖の湖魚、 京の日用品などが集まる物流拠点として、 繁栄したところである

鍵曲

道を歩いて行くと、道が左に曲がっていくところに、「鍵曲(かいまがり)」の説明板がある    (右写真)
説明板「鍵曲(かいまがり)」
「 城下町に特有の構造で、 折れ曲がる街路が土蔵のかぎの形に似ていることから、 そう呼ばれた。 」

朽木庄は、 古来、 朽木谷 あるいは 朽木郷、 朽木杣 とも呼ばれてきた。 
地元には、 奈良時代、 朽木谷から 朽木の杣 (材木) を東大寺の建築用材として、 筏で搬出した記録が残っているといい、 平安時代には 荘園名に 朽木荘 があるなど、 朽木庄は 千年以上の歴史がある。 

案内板

その先には、市場の案内板が建っている  (右写真)
「 鎌倉時代に入ると、 佐々木氏の庶流、 朽木氏が、 承久の乱後、 朽木庄の地頭職に補佐された。 
朽木氏は、 室町時代末期の政治混乱期に入ると、 歴史の表舞台に登場する。
応仁の乱で、京都から逃れてきた、室町幕府十二代将軍 ・ 義晴や、十三代将軍 ・ 義藤を匿い、政務を補佐した。  織田信長が、越前の朝倉義影を討つため、敦賀まで兵を進めたが、 浅井長政の裏切りにより、
急遽、京へと引き返すとき、 朽木氏の助けを借りて、難を免れた。 関ヶ原の戦いでは、 朽木元綱は、
家康に内応し、所領を安堵され、その子の時代に所領は三人に分割されたが、長男は、準大名格で、
当地を領有し、 明治維新を迎えている。 

丸八百貨店

江戸時代には、 朽木元綱の屋敷跡に、朽木陣屋が置かれたが、 現存はしていない。 
案内板の先に、 「丸八百貨店」 の看板のある、木造のモダンな建物が建っている (右写真)
この建物は、国の重要建造物に指定されている。
現在は、 喫茶店として、営業しているようである。 
その手前の左側に、 煉瓦積みの立方体のものがある。 

用水

煉瓦積みのものは、立樋(たつどい)と呼ばれるものである  (右写真)
「 町の西方、山腹の湧水から導水し、 サイホンを利用したこの立樋から、  数軒の水仲間に、 水を供給
している。 」
 と、 説明板とあった。 
司馬遼太郎氏は、 「街道をゆく」  の中で、 「 道路わきを堅固に石がこいされて  溝川が流れており、
家並みのつづくかぎり 軒が低く  ・ ・ ・  」
  と書いているが、 比良山系からの天然水が豊富で、 
江戸時代にも、 道の脇に用水が設けられて、   生活用水と防火施設として利用されたようである。

旧商家・熊瀬家住宅

左側の赤黒い建物の前に、「旧商家 ・ 熊瀬家住宅」の説明板が建っている (右写真)
「 熊瀬両家(仁右衛門家、伊右衛門家)は、 酒造りや醤油造りを本業とする一方、  藩の御用商人として、 手広く商っていた。 」   (説明板の文面)
室町時代の後期の朽木宿は  米や魚などを扱う商家が十七軒あり、 街道の荷物を扱う問屋や馬借(ばしゃくもあった。  江戸時代に入ると、店の数も増え、日常に使う米・魚・豆腐や。 雑貨・饅頭・呉服に止まらず、  医者・風呂屋・宿屋・駕籠かき など、「市場」 という名にふさわしい、 充実ぶりだったようである。 

造り酒屋 松宮家(木屋)住宅跡

その先の奥まったところに小さな 蛭子(えびす)神社があり、説明板に 「 創建は不明であるが、 市場の守り神として崇敬されてきた。 」 とある。  その先の民家の一角に、「鯖の道」 の石柱が建っていた。 
その先には、地酒を扱う店もあったが、早い時間のため、閉まっていた。
少し歩くと、古びた建物があり、  壁に 「 造り酒屋 松宮家 (木屋) 住宅跡 」 の看板があった  (右写真)
右側の茅葺屋根の家の先の旧郵便局は、 ウオーレスの設計した建物である。
この三叉路を直進し、 北川を渡ると、 陣屋跡 に至るが、 ここを左折し進んだ。  

旧圓満堂遺跡の案内板

その先には新しい郵便局がある。  道は鍵の手のように曲がっていく。   その先の両側は、農家だろうと思われる家が多い。  右側に 「旧圓満堂遺跡」 の説明板が建っている (右写真)
「 織田信長が、 浅井長政の離反により、 朽木谷を通って、京都へ逃れる際、 当時の領主 ・ 朽木元綱は、通行を認め、、道案内役を務めた。   元綱より接待を命じられた、長谷川茂政は圓満堂で茶菓でもてなした。  その際、信長が着けていた革袴と銀箸を茂政に与えた。  」 、と書かれていた。 

市場町の全景

その先の左側に、 「曹洞宗圓満寺」 の石柱が建っている。
狭い道を登っていくと、お寺があった。
前述の圓満堂と関係があるのかは書かれていなかった。 
高台にあるので、ここから市場町が一望できた (右写真)
坂道を下り、街道に戻り、さっききた道を引き返す。

 熊瀬本家(狛屋)住宅跡

先程見た、 熊瀬家住宅の反対側の用水の向こうの民家の前に、  「造り酒屋 熊瀬本家 (狛屋) 住宅跡」 の木札が建っている (右写真)
この後、道の駅に戻り、 かっての 朽木氏の檀那寺 だったという、  朽木の名刹 ・ 興聖寺(こうしょうじ)に向かう。  司馬遼太郎が、「街道をゆく」 の中で、  「 むかしは近江における曹洞宗の巨刹として、 さかえたらしいが、  いまは本堂と 庫裡 それに 鐘楼 といったものがおもな建造物であるにすぎない。 」
 と、書いている寺である。 

興聖寺

興聖寺は、 国道367号を京側に戻り、 右側の狭い道を入っていくと、 山側にあった (右写真 ー 本堂)
 「 ここは、 京都を追われた室町幕府の第十二代足利義晴と、 第十三代義輝が、 朽木稙綱を頼って、 数年間 滞在した居館の跡である。   慶長十一年(1606)、朽木宣綱が、亡き妻のために 寺とし、 秀隣寺 と号したが、  のちに、朽木村野尻に移転し、 その跡地に、興聖寺が建てられた。 」
興聖寺の本堂は、 文政十一年に焼失したので、 現在の建物は、朽木大綱の寄進で、 安政四年(1857)に再建されたものである。



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