若狭街道は、若狭国小浜から都のあった京都や奈良に通じる道で、複数のルートがあったようである。
日本海の玄関であった小浜からいろいろな物資が運ばれたが、その中に海産物があり、江戸時代には鯖を一塩にし、鯖を背負い、京都まで
運ばれた。 これらの道を鯖の道と呼ぶようになったが、鯖街道の名は最近になってからである。
歴史の道
若狭は、朝鮮語ワカサ(往き来)が訛って宛字した地名である。 若狭地方は、白鳳以前から開け、若狭国造や角鹿
国造により管理されていたが、七世紀にその両者を併せて、若狭国になった。
歴史的に大和王朝との関係は深く、奈良時代には、御食国 (みけつくに)として、朝廷に海産物を納めており、
また、奈良の東大寺で実施されるお水取りは、東大寺が小浜に持っていた荘園に由来するといわれる。
京都の日本側の玄関である若狭とを結ぶ道は、古くから、塩をはじめさまざまな魚介類を運ぶため、二十以上の数に及ぶ多くの道がひらかれていた。
古来、若狭路は「 京は遠くても十八里 」といわれてきたが、約七十二キロの道のりで、古い道では小浜から名田庄村をへて美山町や京北町に
いたる周山街道もその一つである。 最短ルートは、小浜から遠敷川をさかのぼり、針畑峠を越えて、朽木村、久多から鞍馬街道に続く針畑越の道
であったようだ。 人の行き来が多かったのは、京都の出町柳から朽木宿を通り、熊川宿を経て小浜にいたる道で、この道は、若狭道とか鯖の道と
も呼ばれていた。 元亀元年(1570)四月、越前の朝倉氏を攻めた織田信長は浅井長政の裏切りによって撤退を余儀なくされた時、北国街道は浅井氏
の管理下にあるため、この地の豪族・朽木氏の管理下にあったこの道を騎馬で駆け抜けて京都へ帰り、窮地を脱した、といわれ、このことからこの
道は広く知られるようになった。 それから二十年後の天正十七年(1598)、小浜城主となった浅野長政が、若狭と近江の国境に位置した熊川宿を
軍事、交通上の要地として諸役免除として、町奉行を置き、宿場町としての発展の基礎を築いた。 その後も代々の城主がこの政策を受け継いた
こともあり、この街道の整備が進み、現在、鯖街道といえば多くの場合、このルートを指すのである。
室町時代から江戸時代にかけては、若狭の行商人たちは、小浜に水揚げされた鯖を一塩にし、牛馬や荷馬車で熊川宿まで運搬し、熊川宿からは
行商人たちが鯖を背負い、京都まで歩いて運び、夜明け前に小浜を出発した鯖は、夕方には京都に到着したといわれる。
若狭〜京都間をリレー方式で運搬した訳であるが、京都に着く頃に塩がほどよくなじむため、京の人々から若狭の一塩物として珍重されたのである。
京都の鯖すしはこれを抜きに語ることはできないだろう。
若狭街道が発達していく上で大きな役割を果たした宿場が朽木庄(滋賀県高島市朽木)と若狭
の熊川宿であるが、最初に朽木を訪れた。
朽木庄
安曇川(あどがわ)沿いにある国道367号線を進むと、右側に 朽木宿新本陣 という道の駅があり、道の反対にある
「鯖街道朽木宿」の木柱から狭い道に入っていく。 このあたりは、市場(いちば)と呼ばれ、若狭の海産物や琵琶湖の湖魚、
京の日用品などが集まる物流拠点として繁栄したところである (右写真ー鯖街道朽木宿の木柱)
道を歩いて行くと、道が左に曲がっていくところに、鍵曲(かいまがり)の案内板があり、
「 城下町に特有の構造で、折れ曲がる街路が土蔵のかぎの形に似ていることからそう呼ばれた。 」 、とあった(右写真)
朽木庄は、古来、朽木谷あるいは朽木郷、朽木杣とも呼ばれてきた。
地元には、奈良時代、朽木谷から朽木の杣(材木)を東大寺の建築用材として筏で搬出した記録が残っているといい、
平安時代には荘園名に朽木荘があるなど、朽木庄には千年以上の歴史がある。
鎌倉時代に入ると、佐々木氏の庶流、朽木氏が承久の乱後、朽木庄の地頭職に補佐された。
その先には、市場の案内板があった (右写真)
朽木氏は室町時代末期の政治混乱期に入ると、歴史の表舞台に登場した。
逃れてきた室町幕府十二代将軍義晴や十三代将軍義藤を匿い、政務を補佐した。
織田信長が越前の朝倉義影を討つため、敦賀まで兵を進めたが、浅井長政の裏切りにより急遽京へと引き返すとき、
朽木氏の助けを借りて、難を免れた。
関ヶ原の戦いでは、朽木元綱は家康に内応し、所領を
安堵され、その子の時代に所領は三人に分割されたが、長男は、準大名格で当地を領有し、明治維新を迎えている。
江戸時代には朽木元綱の屋敷跡に朽木陣屋が置かれたが、現存はしていない。 案内板の先に、木造のモダンな建物があり、
丸八百貨店とあった (右写真)
国の重要建造物にしてされていて、現在は喫茶店として営業しているようだった。
その手前の左側に、煉瓦積みの立方体のものがあり、そこに説明板がある。
煉瓦積みのものは、立樋(たつどい)というもんで町の西方山腹の湧水から導水し、サイホンを利用したこの立樋から数件の
水仲間に供給している、とあった。 司馬遼太郎氏は、街道をゆく の中で、「 道路わきを堅固に石がこいされて 溝川が流れており、家並み
のつづくかぎり軒が低く … 」 と書いているが、
比良山系からの天然水が豊富で、江戸時代にも道の脇に用水が設けられて、生活用水と防火施設として利用されたようである (右写真)
室町時代の後期には、米や魚などを扱う商家が十七軒あり、街道の荷物を扱う問屋や馬借
(ばしゃく)もあった。 江戸時代に入ると、店の数も増え、日常に使う米、魚、豆腐や雑貨、饅頭、呉服に止まらず、医者、
風呂屋、宿屋、駕籠かきなど、市場というなにふさわしい充実ぶりだったようである。 左側の赤黒い建物の前に、旧商家・熊瀬家住宅の案内板
があった (右写真)
それによると、 「 熊瀬両家(仁右衛門家、伊右衛門家)は、酒造りや醤油造りを本業とする一方、藩の御用商人として、手広く商っていた。 」 と、ある。
その先の奥まったところに小さな
蛭子(えびす)神社があり、創建は不明であるが、市場の守り神として崇敬されてきた、とあった。 その先の民家の
一角に、鯖の道の石柱が建っていた。 その先には、地酒を扱う店もあったが、早い時間のため、閉まっていた。 少し歩くと、古びた建物が
あるが、壁に「 造り酒屋 松宮家(木屋)住宅跡 」の看板があった (右写真)
右側の茅葺屋根の家の先の旧郵便局はウオーレスの設計した建物である。 この三叉路を
直進し、北川を渡ると、陣屋跡に至るが、ここを左折し進む。 その先には新しい郵便局があった。
道は鍵の手のように曲がっていくが、その先の両側は農家だろうと思われる家が多い。 右側に旧圓満堂遺跡の案内板があった (右写真)
「 織田信長が浅井長政の離反により、朽木谷を通って京都へ逃れる際、当時の領主、朽木元綱は通行を認め、道案内役を務めた。
元綱より接待を命じられた長谷川茂政は圓満堂で
茶菓でもてなした。 その際、信長が着けていた革袴と銀箸を茂政に与えた 」 、と書かれていた。 その先の左側に、曹洞宗圓満寺の
石柱があったので、狭い道を登っていくと、お寺があったが、前述の圓満堂と関係があるのかは書かれていなかった。
高台にあるので、ここから市場町が一望できた (右写真)
坂道を下り、街道に戻り、さっききた道を引き返すと、先程見た熊瀬家住宅の反対側の用水の
向こうの民家の前に、造り酒屋 熊瀬本家(狛屋)住宅跡の木札が建っていた (右写真)
この後、道の駅に戻り、かっての朽木氏の檀那寺だったという朽木の名刹、興聖寺(こうしょうじ)に向かった。 興聖寺は国道
367号を京側に戻り、右側の狭い道を入っていくと、山側にあった。 司馬遼太郎の 街道をゆく の中に、 「 むかしは近江における
曹洞宗の巨刹として、
さかえたらしいが、いまは本堂と庫裡それに鐘楼といったものがおもな建造物であるにすぎな
い。 」 と書かれている寺である。 この場所は、京都を追われた室町幕府の第十二代足利義晴と第十三代義輝が、朽木稙綱を頼って数年間滞在
した居館の跡である。 慶長十一年(1606)、朽木宣綱が亡き妻のために寺とし、秀隣寺と号したが、のちに朽木村野尻に移転し、その跡地に興聖寺
が建てられた。
興聖寺の本堂は文政十一年に焼失したので、現在の建物は安政四年(1857)に、朽木大綱の寄進で再建されたものである (右写真)
境内に国の名勝に指定されている旧秀隣寺庭園gaがあった。 この庭園は、享禄元年(1528)、朽木稙綱が将軍、足利義晴のために館を建てた際、
近隣の大名の協力を得て築造された、と伝えられ、眼下に安曇川(あどがわ)の清流を俯瞰し、背後に比良山系を借景として、
西側の築山に石を利用した滝をしつらえ、屈曲した汀線を持った池に仕上げている (右写真)
緑の苔の上に落ちた椿の赤が強く印象に残った。
熊川宿
この後、国道367号を熊川宿に向かって走らせたが、道の両脇は立派な檜並木である。 檜峠を越し、今津町保坂の三叉路で左折し、国道303
号に入る。 寒風トンネルを抜けると福井県に入り、左側に若狭熊川宿という道の駅があった (右写真)
車を置いて、道の駅の脇の狭い道を下って行くと、左側に、重要伝統的建造物群保存地区 熊川宿 の案内板があり、上ノ町、中ノ町、下ノ町に
分かれ、川に沿って約1、4キロの町並みが
残っている。 案内板の先には、鯖街道 熊川宿の道標があり、小浜へ四里、京へ十五里、今津四里半と書かれていた。 また、復元された熊川
番所があった。 熊川番所は小浜藩の管理で、「 入り鉄砲出女 」の統制が特に厳しく行われ、出入りの物資にも課税が行われたところである
(右写真-鯖街道の道標と熊川番所)
上ノ町の集落を歩いて行くと、右側に街道の往来に邪魔になったように思われる大きな岩が
あった。 道の反対側には、藁屋根だったと思われる大きな家が建っていた (右写真)
熊川宿は、鯖街道沿いで最も繁栄した宿場町であるといわれるが、もともとは戸数四十ほどの小さな寒村だったといわれる。 室町時代に、戦略上
の要地として、足利将軍直属の沼田氏が山城を構え、天正十七年(1589)、豊臣秀吉の武将、浅野長政が、 小浜城主になり、交通と軍事の要衝と
して、熊川に対し諸役免除の布告を発し、この地の特別の発展を図ったことはすでに
述べた通りである。 江戸時代初期から中期にかけて、熊川宿の戸数は二百戸になったが、明治時代に入り、街道を通る人が減り、現在では百戸
ほどに減った、という。 左側にこの地にあるのが不思議と思える大きな病院」があった。 河内川の橋を渡ると、中ノ町に入り、左側に逸見家の
屋敷が続いていた。 逸見勘兵衛家の屋敷跡だが、旧逸見家は伊藤忠商事二代目社長になった伊藤竹之助氏の生家である (右写真)
その先の左奥にあるのは、宿場館で、昭和十五年に熊川村役場として建築された建物であるが、トスカーナ風の柱頭をもつ円柱が建ち、寄棟瓦葺の
二階屋根の中央には越屋根が付いている中々立派な建物で、、平成九年に熊川宿、若狭街道の歴史を物語る拠点として歴史資料館として整備された、
とあった (右写真)
その先には、漆喰壁の家が多く残っていた。 右側のまる志んという店には、葛ぜんざい、鯖
ずし、焼鯖ずしの看板があったが、まだ開店していなかった。
道の左側にある用水は前川で、その先のベンガラ色の屋敷は勢馬家である (右写真)
旧問屋菱屋という案内板には、「 街道が繁栄した頃は、
十数軒の問屋と脇問屋があり、最盛期には年間二十万駄の荷物の荷継場として、その問屋場に馬借、背負人が群がった、という。
勢馬家は、菱屋という屋号で問屋を営むと同時に、宿場役人として、藩の御用や宿場の自治に
貢献した。 」とある。 手前に看護老人ホーム松寿苑の看板があり、熊川陣屋跡と書かれていた。 入っていくと、松寿苑の手前の小川に古い
水車があった。 熊川陣屋が設けられたのは、慶長六年(1601)に、小浜藩主となった京極高次の時のようである。 その先も古い家が続くが、
左側に白石神社の鳥居があり、熊川城址の看板があった (右写真)
神社の参道を登って行くと、常夜燈の向うに小高い山があり、その山上百メートル先に関東沼田
氏の一族、沼田勘解由の居城だった熊川城があったようである (右写真)
沼田氏は足利時代からこの地に居住した土豪であるが、若狭記によると、 「 永禄十二年、松宮玄蕃との争いで敗れ、近江に逃走。 松宮氏が
沼田氏が支配した遠敷郡新道、河内、熊川を領有することになった。 」 と記されている。 それ以降は松宮氏がこの城を使っていたようで、
元亀元年(1570)、織田信長が越前朝倉攻めの途中に一夜を過ごしている。 その後、
天正十二年(1584)、丹羽長秀により破却され廃城になった、と思われる。 左側の石段を登り、白石神社をお参りした。 石段を降りると、隣に
庵谷山得法寺という寺があった (右写真)
蓮如上人ゆかりの寺で、文明七年(1475)、越前の吉崎御坊を退去して、海路若狭小浜へ向かわれたが、大嵐に遭遇し、船が転覆しそうになった時、
上人は六字の名号(南無阿弥陀佛)をお書きになり、船首に掲げると、風波はおさまり、無事小浜に上陸された。 上人は小浜に滞在
中、熊川にお越しになり、三日間この寺に逗留されたが、その際、寺に六字の名号を授けたので、この寺は天台宗から浄土真宗に変わった、とある。
また、蓮如上人の旧跡八の房の梅の案内もあった。 街道に戻ると、漆喰壁の家の脇の路地に、御蔵道と書かれた小さな石柱があったが、藩の
蔵屋敷まで米俵を運ぶ時、この道を使ったので、その名がついた (右写真)
「 藩の蔵屋敷は、現在の松木神社の境内にあったが、荷物は陸路の他、北川を川船を使い
、この路地を使って運びこんだ。 その際、舟一艘の積荷は十二駄(米俵三十六俵)で、船頭、棹さしに舟を引く人五人で、川を遡ってきた。 」
という。 道は右にカーブするが、左側に江戸時代の義民、松木庄左衛門を祀った昭和八年の創建という松木神社がある (右写真)
関ヶ原の合戦後、若狭の領主になった京極氏は、小浜城築城のために年貢の取立てで領民を疲弊させ、次の領主の酒井忠勝も苛政を続けた。
寛永十七年(1640)、若狭三郡の庄屋らが
新道村の庄屋、松木庄左衛門を総代に選び、領主に訴願することになり、嘆願すること十数回、九か年におよんだが、藩の同意は得られず、慶安
元年(1648)には、嘆願した庄屋たちが投獄された。 離反者のでる中、運動を続けた庄左衛門は投獄五年目にして、目的を貫徹することができが、
庄左衛門は強訴の見せしめと藩の武威を傷つけたとして、慶安五年(1652)、
日笠川原で磔刑に処せられ、二十八年の短い生涯を閉じたのである (右写真-松木神社社殿)
松木神社の道の反対側に、旧問屋倉見屋の案内板がある。 「 荻原家は問屋のうちの一軒で、屋号をくらみやといい、本屋、土蔵、それをつなぐ
付属屋という問屋家の形式を残す建物である。 文化六年の建築で、熊川で一番古い建物である。 」 と案内にあった (右写真)
道を進むと、左に曲がり、下ノ町になるが、これといったものはないようなので、道を引き返し、道の駅まで戻った。
若狭歴史民俗資料館
若狭街道を走ると、旧上中町の中心部に出た。 現在は三方町と合併して、若狭町という名になっているが、この地は太古から開けたところだったようで、若狭町上中庁舎の隣にある
若狭町歴史文化館(上中公民館)では、古墳時代に築かれた上中古墳群の出土品の紹介をしていた。 また、その先の東小浜駅近くには、
福井県立若狭歴史民俗資料館がある (右写真)
この上中地域は、北川を下ると、朝鮮や九州の玄関であった若狭湾で、また、南下をすれば、
近江を経て、大和へ至る最短ルートに位置する交通の要衝であった。 こうしたことがこの地域に重要な古墳が造られた大きな理由であろう
(右図参照)
若狭地方最初の前方後円墳は、五世紀初めに脇袋に造られた全長百メートルの上ノ塚古墳で、若狭地方最大の古墳(国指定史跡)である。
その後、造られた脇袋の西塚、中塚の古墳も前方後円墳で、いずれも、平地に造られ、表面には葺き石、埴輪を備えて、盾形の周濠をめぐられて
いる。 五世紀中頃に造られた向山1号墳の石室は、本州で一番古い横穴式石室である。 六世紀初めに造られたのは、天徳寺古墳群に属する
十善の森古墳である。 日笠古墳群の上船塚古墳は、
六世紀前半に造られた全長七十七メートルの三段築成前方後円墳で、小浜に向かう国道27号の右側にあったが、
旧形態は欠けているように思えた (右写真)
ある。 下船塚古墳もその近くにあり、ほぼ同規模のようであるが、これよりも遅く、六世紀中期である。
六世紀中期を過ぎると、前方後円墳に代わり、円墳に巨大な石材を使った横穴式石室の丸山塚古墳や大谷古墳が造られた。 これらの古墳は
若狭をしきった王族のものだろうが、
これだけの数と規模は大和政権との関わりの強さをうかがうことができる、と若狭町歴史文化館でいただいた資料にあった。 話を変える。
国道303号は、三宅交差点の三叉路で、国道27号に代わるが、小浜方面は左折し、上中駅前を通り、天徳寺の信号を過ぎると、左側に瓜割の
滝の表示がある。 狭い道を登って行くと、名水公園の駐車場があった。
駐車場から馬頭観音道の石碑を見ながら小さな石橋を渡ると、右手に天徳寺があった (右写真)
天徳寺は、真言宗の寺で、養老七年(723)、泰澄大師の開基と伝えられ、平安時代には村上
天皇の勅願寺となり、その年の年号の天徳から名付けられた、という寺である。 弘法大師が堂屋を建立したと伝えられ、裏山には、弘法大師が
佐渡の石工に刻ませたと伝わる
八十八体の石仏が並んで建っている。 境内を覗くと、本堂の前の苔むした庭が美しかった (右写真)
天徳寺を過ぎて、小川に沿った歩道を歩くと、小さな滝があり、その先に鳥居があり、傍らの
案内板には、「 名水百選 瓜割の滝 泰澄大師の昔から神泉と尊ばれた瓜割の清水は、五穀
成熟諸病退散の効あり、また、水中の石には珍しい紅藻類が生育している。 」 とあった。
鳥居の先の岩間から清水が湧き出ていて、両脇にしめ縄が祭られていた。 山あいから湧き出る清泉で、一年を通して水温が変わらず、夏でも
水につけておいた瓜が割れるほど冷たいことから、その名前がつけられた、という (右写真)
駐車場の一角に水汲み場があり、多くの人が水をペットボトルに入れていた。 小生も、水を
くんで自宅に持ち帰ったが、評判に違わぬ良い水だった。