若狭街道は、若狭国小浜から都のあった京都や奈良に通じる道で、
複数のルートがあったようである。
日本海の玄関であった小浜から、いろいろな物資が運ばれたが、その中に海産物があり、江戸時代には鯖を一塩にし、鯖を背負い、京都まで運ばれた。
これらの道を 「鯖の道」 と呼ぶようになったが、 「鯖街道」 の名は最近になってからである。
◎ 熊川宿
朽木宿から、 国道367号を通り、熊川宿に向う。
道の両脇は、立派な檜並木である。
檜峠を越し、 今津町保坂 の三叉路で 左折して、 国道303号に入る。
寒風トンネルを抜けると、福井県に変わる。
左側に 道の駅「若狭熊川宿」があった (右写真)
車を置いて、道の駅の脇の狭い道を下って行くと、 左側に、
「重要伝統的建造物群保存地区 熊川宿 」 の説明板が建っている。
熊川宿は、 上ノ町・ 中ノ町 ・ 下ノ町に分かれ、 川に沿って
約千四百メートルの町並みが残っている。
説明板の先には、 「鯖街道 熊川宿」 の道標があり、「 小浜へ四里、京へ十五里、
今津四里半 」 と、記されている。
また、復元された熊川番所があった (右写真 − 鯖街道の道標と熊川番所)
熊川番所は、 小浜藩の管理で、 「 入り鉄砲出女 」 の統制が、
特に厳しく行われ、 出入りの物資にも課税が行われたところである。
上ノ町の集落を歩いて行くと、
右側に街道の往来に邪魔になったように思われる大きな岩があった。
道の反対側には、 藁屋根だったと思われる大きな家が建っていた (右写真)
「 熊川宿は、 鯖街道沿いで 最も繁栄した宿場町である といわれるが、
もともとは 戸数四十ほどの小さな寒村だった。 室町時代に、 戦略上の要地として、
足利将軍直属の沼田氏が、 山城を構え、 天正十七年(1589)、 豊臣秀吉の武将 ・ 浅野長政が、 小浜城主になり、 交通と軍事の要衝として、 熊川に対し 諸役免除の布告を発し、
この地の特別の発展を図った。 」
「 江戸時代初期から中期にかけて、 熊川宿の戸数は二百戸になったが、
明治時代に入ると、鉄道の発達により、街道を通る人が減り、 現在では百戸ほどに減った、
という。 」
左側に、 この地にあるのが不思議と思える、大きな病院があった。
河内川の橋を渡ると、 中ノ町に入り、左側に逸見家の屋敷が続いているのは、 逸見勘兵衛家の屋敷跡である (右写真)
旧逸見家は、 伊藤忠商事二代目社長になった伊藤竹之助氏の生家である。
その先の左奥にあるのは、宿場館 である (右写真)
「 昭和十五年に、 熊川村役場 として建築された建物である。
トスカーナ風の柱頭をもつ円柱が建ち、 寄棟瓦葺の二階屋根の中央には、
越屋根が付いている、中々立派な建物である。
平成九年に、 熊川宿 ・ 若狭街道の歴史を物語る拠点として、 歴史資料館 として
整備された。 」
その先には、漆喰壁の家が多く残っていた。
右側の 「まる志ん」 という店には、「 葛ぜんざい、 鯖ずし、 焼鯖ずし 」 の看板があったが、まだ開店していなかった。
道の左側にある用水は前川で、 その先のベンガラ色の屋敷は、 勢馬家 である (右写真)
説明板「「 旧問屋 菱屋」
「 街道が繁栄した頃は、 十数軒の問屋と脇問屋があり、
最盛期には 年間二十万駄の荷物の荷継場として、 その問屋場に 馬借、 背負人が群がった、という。 勢馬家は、 菱屋 という屋号で、 問屋を営むと同時に、
宿場役人として、藩の御用や宿場の自治に貢献した。 」
手前に、「看護老人ホーム 松寿苑」 の看板があり、 「熊川陣屋跡」 と書かれている。
熊川陣屋が設けられたのは、 慶長六年(1601) に、 小浜藩主となった、
京極高次の時のようである。
入っていくと、 松寿苑の手前の小川に古い水車があった。
その先も古い家が続くが、
左側に、 白石神社 の鳥居があり、「熊川城址」 の看板がある (右写真)
神社の参道を登って行くと、 常夜燈の向うに、小高い山がある。
その山上、百メートル先に、熊川城が、あったようである (右写真)
熊川城は 関東沼田氏の一族 ・ 沼田勘解由の居城 であった。
「 沼田氏は、 足利時代からこの地に居住した土豪であるが、
若狭記によると、 「 永禄十二年、 松宮玄蕃との争いで敗れ、近江に逃走。
松宮氏が、沼田氏が支配した、 遠敷郡新道・河内・熊川を領有することになった。
それ以降は、松宮氏がこの城を使っていたようで、
元亀元年(1570)、織田信長が 越前朝倉攻めの途中に、一夜を過ごしている。
天正十二年(1584)、 丹羽長秀により、 破却され、廃城になった。 」
左側の石段を登り、白石神社をお参りした。
石段を降りると、 隣に、蓮如上人ゆかりの寺 ・ 庵谷山得法寺 がある (右写真)
「 文明七年(1475)、 越前の吉崎御坊を退去して、
海路 若狭小浜へ向かわれたが、 大嵐に遭遇し、 船が転覆しそうになった時、 、
上人は 六字の名号 (南無阿弥陀佛) をお書きになり、 船首に掲げると、
風波はおさまり、 無事小浜に上陸された。
蓮如上人は、 小浜に滞在中、 熊川にお越しになり、 三日間。
この寺に逗留された。
その際、 寺に 六字の名号を授けたので、 この寺は、 天台宗から浄土真宗に変わった、 とある。
また、蓮如上人の「旧跡 八の房の梅)」 の案内もあった。
街道に戻ると、 漆喰壁の家の脇の路地に、 「御蔵道」 と書かれた、小さな石柱がある (右写真)
藩の蔵屋敷まで、米俵を運ぶ時、 この道を使ったので、 その名がついた といわれる、
「 藩の蔵屋敷は、 現在の松木神社の境内にあったが、 荷物は陸路の他、 北川を川船を使い、この路地を使って運びこんだ。 その際、 舟一艘の積荷は十二駄( 米俵三十六俵) で、
船頭・ 棹さしに、 舟を引く人五人で、 川を遡ってきた。 」 という。
道は右にカーブするが、左側に、 江戸時代の義民 ・ 松木庄左衛門を祀った、
昭和八年創建の 松木神社がある (右写真)
「 関ヶ原の合戦後、 若狭の領主になった京極氏は 、小浜城築城のために、
年貢の取立てで、領民を疲弊させ、 次の領主の酒井忠勝も、 苛政を続けた。 」
「 寛永十七年(1640)、若狭三郡の庄屋らが、 新道村の庄屋 ・ 松木庄左衛門を総代に選び、 領主に訴願することになり、 嘆願すること十数回、 九か年におよんだが、 藩の同意は得られず、 慶安元年(1648)には、 嘆願した庄屋たちが投獄された。 離反者のでる中、 運動を続けた庄左衛門は、 投獄五年目にして、 目的を貫徹することができが、 庄左衛門は 強訴の見せしめと 藩の武威を傷つけたとして、 慶安五年(1652) 、日笠川原で磔刑に処せられ、 二十八年の短い生涯を閉じた。 」 (右写真-松木神社社殿)
松木神社の道の反対側に、「旧問屋倉見屋」 の説明板がある。
「 荻原家は、 問屋のうちの一軒で、 屋号を くらみや といい、 本屋 ・ 土蔵、 それをつなぐ 「付属屋」
という、 問屋家の形式を残す建物である。
文化六年の建築で、 熊川で一番古い建物である。 」 と説明板にあった (右写真)
道を進むと、左に曲がり、 下ノ町になるが、 これといったものはないようなので、
道を引き返し、 道の駅に戻った。
◎ 若狭歴史民俗資料館
若狭街道を走ると、旧上中町 の中心部に出た。
現在は、三方町と合併して、 若狭町 という名になっているが、
この地(旧上中町)は 太古から開けたところだったようで、 若狭町上中庁舎の隣にある、
若狭町歴史文化館 (上中公民館) では、 古墳時代に築かれた上、
中古墳群の出土品の紹介をしている。
また、 その先の東小浜駅近くには、 福井県立若狭歴史民俗資料館 がある (右写真)
この上中地域は、北川を下ると、朝鮮や九州の玄関であった若狭湾で、また、南下をすれば、
近江を経て、 大和へ至る最短ルートに位置する、 交通の要衝であった。
館内には、 若狭地方の古墳の分布図 が掲示されている (右図)
上記のことがこの地域に重要な古墳が造られた大きな理由であろう。
若狭地方最初の前方後円墳は、 五世紀初めに、脇袋 に造られた、
全長百メートルの「上ノ塚古墳」で、
若狭地方最大の古墳として、 国の史跡に指定されている。
その後、造られた、 脇袋の西塚、 中塚の古墳も 前方後円墳で、 いずれも、 平地に造られ、
表面には 葺き石、 埴輪を備えて、 盾形の周濠をめぐられている。
五世紀中頃に造られた、 向山1号墳の石室は、本州で一番古い横穴式石室である。
六世紀初めに造られたのは、 天徳寺古墳群 に属する、十善の森古墳である。
日笠古墳群の上船塚古墳は、 六世紀前半に造られた、
全長七十七メートルの三段築成前方後円墳で、 小浜に向かう国道27号の右側にあったが、
旧形態は欠けているように思えた (右写真)
下船塚古墳も その近くにあり、 ほぼ同規模のようであるが、
これよりも遅く、六世紀中期である。
六世紀中期を過ぎると、前方後円墳に代わり、円墳に、巨大な石材を使った、
横穴式石室の丸山塚古墳や、大谷古墳が造られた。 これらの古墳は
若狭をしきった王族のものだろうが、
これだけの数と規模は、 大和政権との関わりの強さをうかがうことができる。
(若狭町歴史文化館でいただいた資料による)
◎ 天徳寺 ・ 瓜割の滝
国道303号は、 三宅交差点の三叉路で、 国道27号に代わるが、 小浜方面は左折し、
上中駅前を通り、 天徳寺の信号を過ぎると、 左側に、「瓜割の滝」の表示がある。
狭い道を登って行くと、 名水公園の駐車場がある。
駐車場から、「馬頭観音道」 の石碑を見ながら、小さな石橋を渡ると、
右手に天徳寺がある (右写真)
天徳寺は、養老七年(723)、泰澄大師の開基と伝えられる、真言宗の寺である。
平安時代には村上天皇の勅願寺となり、その年の年号の天徳から名付けられた、という寺である。
弘法大師が、 堂屋を建立したと伝えられ、 裏山には、弘法大師が佐渡の石工に刻ませた、
と伝わる、八十八体の石仏が並んで建っている。
境内を覗くと、本堂の前の苔むした庭が美しかった (右写真)
天徳寺を過ぎて、小川に沿った歩道を歩くと、小さな滝があり、鳥居がある。
鳥居の先の岩間から、清水が湧き出ていて、両脇にしめ縄が祭られていた (
右写真 ー 瓜割の滝)
「 名水百選 瓜割の滝 ー 泰澄大師の昔から、
神泉と尊ばれた 瓜割の清水は、 五穀成熟 諸病退散 の効あり、 また、
水中の石には 珍しい紅藻類が生育している。
山あいから湧き出る清泉で、 一年を通して水温が変わらず、
夏でも水につけておいた瓜が割れるほど冷たいことから、 その名前がつけられた。 」 と、鳥居の脇の説明板にある。
(注) 令和八年(2026)に放送された、 出川哲朗 の 「充電させていただけませんか」 で、
「滝というには小さすぎる。」 というコメントがあったが、その通りと思った。
滝というより、湧水地という表現の方が正しいのだが、霊水ということから、
滝と表現されているのだろう。
駐車場の一角に、 水汲み場があり、多くの人が、水をペットボトルに入れていた。
小生も、水を汲んで、 自宅に持ち帰ったが、 評判に違わぬ良い水だった。