若狭国分寺
小浜に向かって進むと、右側に若狭国分寺跡の案内があったので、入っていった。 国分寺は、天平十三年(741)、聖武天皇の勅願に
よって全国に建立されたもので、若狭国分寺は遠敷川と松永川によって東西に囲まれ、南に国道によって区切られた
三角形の地形に位置している。 国分寺の寺域は二町(230メートル)四方と推定され、伽藍は、南大門、中門、金堂、講堂が南から北に向かって
配置され、中門の東に塔を置くという形をとっていた (右写真ー中門跡)
塔の南西に、鬱蒼とした樹が生える小山があり、鳥居の先の石段を登って行くと、若狭姫神社の小さな社殿が
あった。 この小山は国分寺古墳と呼ばれる、直径五十メートルの円墳で、国分寺の社域に古墳があるのは、珍しいと思った (右写真)
若狭国分寺は、十世紀中頃までは存在していたようであるが、火災に遭い焼失していまった。 その後、国分寺の名で再建されたが、戦国時代に
焼失してしまっている。 現在の寺は、曹洞宗
の寺で、釈迦堂と薬師堂そして鐘楼が建っているだけである。 釈迦堂は、慶長十六年(1611)に、
旧金堂跡に建立されたが、その後倒壊し、宝永弐年(1705)に再建されたもので、釈迦堂には、像高約三メートルの木造釈迦如来坐像(大仏)が、
また、薬師堂には鎌倉時代の木造薬師如来坐像(重要文化財)が祀られている (右写真ー釈迦堂)
国分寺を散策するのは、無料であるが、仏様を拝むには400円が必要だった。
(注) 若狭国の国府、国分寺、国分尼寺について、
もっと詳しくお知りになりたい方は、友人のページ「国府物語」
を紹介しますので、ご覧ください。
若狭彦神社(上宮、下宮)
福井県立若狭歴史民俗資料館で、若狭彦神社、若狭姫神社と神宮寺に立ち寄ることを勧められたので、東小浜駅口交差点を
左折し、少し進むと若狭姫神社があった (右写真)
若狭姫神社は、養老五年(721)、若狭彦神社より若狭姫大神(豊玉姫命)を分祀し創建された神社で、若狭国の二宮とされるが、現在は、
若狭彦神社を上社、若狭姫神社を下社として、二社で若狭国一宮・若狭彦神社と称しているようである。 なお、延喜式神名帳では、若狭比古神社
二座 として、名神大社に列している。 鳥居をくぐると、随神門があり、その前には、文化六年(1825)に、若狭小浜の廻船問屋(北前船)の古河
屋が奉納した石燈籠が建っていた。 門をくぐると、大杉が見えるが、これが、社殿垣内にある千年杉で、歴史の古さを感じられた
(右写真)
この他にも、境内には、多くの巨木が茂っている。 当社は、海彦、山彦の神話に登場する山彦と結婚した豊玉姫命を祀り、若狭姫大神あるいは
郡の名前から遠敷(おにゅう)大明神を名乗り、
安産育児に霊験があらたかな神社と多くの参拝客を集めてきた。 境内には、子種石とよばれる陰陽石、乳神様とよばれる大銀杏などがあった。
境内に、水の国、若狭総鎮守、遠敷大明神霊水(桂の井)の案内柱がある井戸があった (右写真)
「 白石地区にある神宮寺は、神仏習合時代には若狭彦神社の別当寺だった。 二月堂記に登場する当神社は、東大寺修二会のお水取りを約し、
それ故、堂の右裏手には、古来、遠敷社が奉社されている。 」 と、案内にあった。 若狭姫神社を出て、少し走ると、右手に若狭彦神社が
あった。 若狭彦神社は、最初は遠敷郡下根来村白石の地に、和銅七年(714)に創建され、元正天皇の霊亀元年(715)に、現在地へ遷座された神社
である。 祭神は、若狭彦大神で、山彦の彦火火出見尊を祀っている。 前述した通り、若狭彦神社と若狭姫神社は一宮と二宮として別れていた
が、何時の時からか分からないが、一緒になり、現在は若狭彦神社上社になっている。 それにしても、若狭姫神社と違い、森閑として、人の
姿はない (右写真)
若狭彦神社は、古来、上社が祭祀の中心だったが、室町時代頃から下社に移り、現在では、祭事のほとんどが、下社である若狭姫神社で行われて
いて、神職も下社にのみ常駐しているようである。 参道の常夜燈の先の二本の大杉は神社の二の鳥居と考えられる、と案内にあった。
その先の神門をくぐると、若狭彦神社の社殿があった (右写真)
若狭彦神社は、畳や敷物業の神とされ、インテリア関係者の信仰も集めるとさせるが、この静寂な神社からは想像できなかった。
若狭神宮寺
続いて、若狭神宮寺に向かう。 この道は、上根来に通じ、前述した針畑峠越えの鯖街道である。
程なく、若狭神宮寺の駐車場に到着 (右写真は本堂から入口方面を見たもの)
神宮寺は、和銅七年(714)、泰澄大師の弟子による創建と伝えられるが、
寺伝では、 「 若狭彦命(遠敷明神)の直孫が、山上に長尾明神を祀り、その下に神願寺を創建し、翌年勅願寺となったことに始まる。
鎌倉時代、若狭鎮守の若狭彦神社と若狭姫
神社の別当となり、神宮寺
と改称した。 」 とされる。 本堂は、天文三年(1533)に、朝倉義景によって再建された単層入母屋造檜皮葺で、
室町末期の代表的建造物として国の重要文化財に指定される (右写真)
本堂には、左に薬師如来などの仏像、右側には白石鵜之瀬明神や和加佐彦比古などの神が祀られていて、神仏混淆の時代の姿が残っている。
寺の北にある仁王門も重要文化財である。
神宮寺は、三月二日のお水送りで知られる。 これは、奈良の東大寺二月堂に香水を送る神事
である。 本堂の先にある清楚な建物の中には閼伽(あか)井戸があった。 しめ縄が張られた岩の下から、水がこんこんと湧き出て、周りに
流れていたので、柄杓で一口飲んだ (右写真)
東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)は、天平勝宝四年(752)、東大寺開山の良弁僧正の高弟、実忠和尚により始められたと伝えられる行事で、
以来一度も途絶えることなく続けられ、平成二十年(2008)で千二百回以上を数える。 若狭には、これにまつわる話が残る。 「 天平の昔、
若狭の神宮寺から東大寺に行かれたインド僧、実忠和尚が、大仏開眼供養を指導の後、二月堂を創建し、
修二会を始められた。 二月初日(旧歴)に全国の神を招待され、全ての神が参列されたのに、若狭の遠敷明神だけが来ず、ようやく、二月十二日の
夜中過ぎに参列された。 若狭の神は、川漁に時を忘れて遅参されたので、そのお詫びをかねて、若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水
を送る約束をされた。 それが有名なお水取りである (右写真-護摩壇)
奈良東大寺二月堂の若狭井と名付けられた井戸は、その時、地中から白と黒の鵜が飛び出てその穴から泉が湧き出たもので、その水を汲む行事が
お水取りである、という。
神宮寺の神事は、若狭の泉からお水取りに使う水を奈良に送る行事で、境内には行事で使う護摩壇があった。
境内のスダジイ(椎の木)は、
樹齢五百年を超すもので、小浜市の天然記念物であるが、根は四方八方に生え、生命のたくましさを実感した (右写真)
(ご参考) 若狭神宮寺の由来
若狭神宮寺でいただいた資料によると、
「 この地方を拓き、国造りをした祖先が、遠敷明神(若狭彦命)で、その発祥の地が根来の白石で、都へ近道の起点に良地を選び、
遠敷明神の直孫和朝臣赤磨公が八世紀初め山岳信仰で、紀元前銅鐸をもった先住のナガ族の王を金鈴に表し、地主の長尾明神と
して山上に祀り、その下に神願寺を創建され、翌年勅願寺となったその秋には、紀元一世紀頃唐服を着て白馬に乗り影向し、すで
に根来白石に祀られていた遠敷明神を神願寺に迎え神仏両道の道場にされた。 これが若狭神宮寺の起源で、鎌倉時代初期に若狭
彦神社の別当寺となり、神宮寺と改称した。 」 と、ある。
小浜城
小浜城は、雲浜城とも呼ばれた。 関ヶ原の戦いで、東軍についた大津城主、京極高次は、徳川家康より若狭小浜の地が与えられ、小浜藩主に
なった。 京極高次は、慶長六年(1601)に小浜湾と南川と北川に囲まれた要害の地に城を築き始めた。 その子、忠高に至る三十三年間に城の大半を造った
が、寛永十一年(1634)、出雲松江に転封になり、酒井忠勝が藩主になり、寛永十五年(1638)に三層の天守閣を築いた (右写真-小浜城址)
その後、酒井家は明治維新まで、十四代二百六十年の長きにわたり、城主を勤めた。
城は、海岸城の平城で、東西百五十六間(284m)、南北百四十五間(264m)、外濠を除いた敷地面積は、一万八千九百三十七坪だったというが、
明治四年の火災で、城の大半は焼失、更に河川拡張のため、旧城地が削られて、往昔の面影は残っていない。 城跡には、小浜神社が建っていた。
明治八年(1875)、旧藩の家臣達により、小浜神社が創建され、初代藩主、酒井忠勝と、城の境内に祀られていた天御中主大神を祭神としている
(右写真)
天守閣があったところに上ると、その先に海や二つの川が見えたが、その前には沢山の家が
隙間なく建っていた。 これらの家の敷地はかっての城跡だろうと思う。
右写真は、小浜城天守閣跡より、小浜湾を望んだものである。
なお、若狭おばまマップに小さく載っている程度であるが、鯖街道起点のプレートは市内いずみ町にあり、鯖街道資料館も近くにある。 以上で鯖街道は終わりとしよう。
平成20年04月