『 山陰道 (2) 宍道宿〜温泉津宿 』


江戸時代になって誕生した山陰街道(丹波街道)は、古代の山陰道と異り、 京都から丹波を通過し、周防国に至る道になった。 
出雲国には、安来宿、出雲郷宿、松江宿、宍道宿、今市宿の宿場があり、 石見国には温泉津宿、郷田宿、浜田宿、三郷宿、益田宿、津和野宿があった。
江戸時代後半になると、出雲講が盛んになり、全国から信者を集めた。 
また、出雲神社に通じる出雲街道(いずもかいどう)は、 播磨国姫路を始点として出雲国松江に至る街道で、 出雲往来、雲州街道などともいわれた。




宍道宿

旧玉湯町は平成の合併で松江市に編入され、松江市玉湯町○○となった。

「  旧玉湯町は、明治の町村合併で玉造村と湯町村が合併して玉湯村になって、その後、町に昇格した。 
玉造という地名は、この地の花仙山で良質の青瑪瑙が採掘され、 玉造を生業とする人々がいたことに由来する。 
発掘調査で出雲玉造史跡公園から当時生産していた工房跡が発見されている。 」

玉湯川の両脇に落ち付いた雰囲気の旅館が立ち並ぶ玉造温泉は、 奈良時代の開湯といわれる古い温泉地である。 

「  少彦名命が発見したと伝えられ、神の湯として「出雲国風土記」にも記されている。 
江戸時代には松江藩藩主の静養の地となり、湯之介と呼ばれる温泉を管理する役職も設けられた。  」

湯薬師広場がある交叉点の歩道脇に「元湯跡」のプレートがある。

「   玉造温泉は明治時代まではこの元湯付近が中心で、お茶屋(松江藩別荘)、共同浴場、社寺、 人家が集落をなしていた。 
湯之助が管理する元湯が右斜め後ろの銅板の位置へあり、 お湯は松をくりぬいた管で各所に配られていた、という。  」

近くに湯薬師のお堂があり、橋を渡った反対側には「湯閼伽の井」がある。 
元湯跡の先には「川辺の出湯跡」、その先に宮橋があり、左手には「玉作湯神社」がある。 

「  玉作湯神社は奈良時代の出雲国風土記や平安時代の延喜式にも記載されている古社で、 玉作りの神「櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)、国造りの神「大国主命」、 温泉の神「少彦名命」の三神が祀られている。 
三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、 櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)によりこの地で造られたと言われている。
玉作湯神社にはその櫛明玉命を祀っていて、多数の勾玉や管玉が社宝として保管されている。  そういうことから最近パワースポットとして若い人に人気のようである。 」

「元湯跡」のプレート
     湯薬師      玉作湯神社境内
「元湯跡」のプレート 湯薬師 玉作湯神社の境内


玉作湯神社の社殿に向う石段の右手に小道があり、 そこに「玉造要害山城跡50m」の標識が建っていた。 
玉造要害山城は玉作湯神社の背後の要害山に築かれた城である。 
道の脇の竹のしげみに、合併前の玉湯町が建てた「玉造要害山城」の説明板があった。

説明板
「 中世の山城、湯ノ城とも言う。 標高108mの半独立丘陵で、 山頂及び山腹に削平地が数段に渡って残り、 土塁、空堀、井戸跡などが見られる。  小規模だが保存は良好である。 
この城は天弘二年(1332)頃、湯守留守職諏訪部扶重が築いたといわれる。 
同世紀の中頃、出雲国守護代佐々木伊予守秀貞がさらに改修増築したとされる。 
その後は湯庄支配の本拠地として湯氏が代々居所したと思われるが、詳細は不明である。 
天文十一年(1542)には湯佐渡守家綱の名が記録に見え、その墓とされる祠が城域内に残っている。 」 

標識>
     玉作湯神社      要害山城跡
「玉造要害山城跡50m」の標識 玉作湯神社社殿 要害山城跡


旧玉湯町を過ぎると、旧宍道町に入る。 
こちらも平成の合併で松江市宍道町○○となった。 
宍道湖ふれあいパークを過ぎてしばらく行くと、 旧玉湯町と旧宍道町の境の辺りで一時的に歩道がなくなるが、道路改良工事が進められている。
旧宍道町に入って最初の駅である来待駅の周辺は「来待石」の産地だそうで、 ホームにそれをPRする小さな石庭があり、 駅の南西約一キロにはモニュメントミュージアム「来待ストーン」がある。

全国でも七番目に大きい宍道湖沿いの道が続く。 
宍道東口交差点で宍道湖と別れ、左折して旧道に入る。  
宍道宿はJR宍道駅の左手にあった宿場で、東西一キロ程の古い街並みが残されている。 
その中心にあるのが八雲本陣(木幡家住宅)である。 

「 木幡家は、歴代松江藩主の領内巡視の折り、しばしば本陣宿を勤め、 明治以降も大正天皇や昭和天皇も訪れた旧家である。
地主の他、酒造業も営んできた家で、戦後は割烹旅館として営業、八雲本陣はその時の屋号である。
主屋は享保十八年(1733の建築で、出雲地方の代表的な民家として昭和四十四年に国の重要文化財に指定された。 
また、主屋に続く明治期の座敷群は商家の屋敷構えを構成する上質な接客施設として、 平成二十一年に重要文化財に追加指定された。
正面玄関を入り三和士と呼ばれる広い臼庭に立つと、 高く太い梁や麻綱を使って開閉する青海波文様の引窓が見える。 
また、右手の壁面には江戸時代の火消し道具の数々が当時のままに掛けられている。 
式台を上がると「ミセ」と呼ばれる部屋の奥に藩主を迎えた二間続きの居間があり、 書院の間と呼ばれている。 
部屋を仕切る襖士は鳥取藩の絵師であった土方稲嶺の猛虎図が描かれている。 
書院を出て奥に進むと松江藩の家老、朝日丹波の旧邸を移築した朝日丹波の間や 明治四十年、大正天皇行啓の折りに行在所として新築した飛雲閣がある。 」

宍道湖へ注ぐ小さな堀川を渡ると、追分になる。
ここが宍道宿の西の出口である。
左は旧出雲街道で、この先で国道54号に合流している。
山陰道は右の細い道である。




今市宿

旧宍道町を過ぎると旧斐川町で、現在は出雲市斐川町○○である。 
そこを過ぎると出雲市の中心部に入ってくる。  

「  今市宿は出雲市今市町にあり、かつては出雲平野西部の物資集散の中心地で、 市場を形成していたのである。 
ここは高瀬川の畔で、川に沿って発達してきた町で、 室町時代から市場町として発達してきた今市は現在でも出雲市の中心となっている。 」

今市宿の中心は現在のJR出雲市駅に近い代官町である。
駅に近いため、路地には多くの飲食店が軒を連ねている。
JR出雲市駅は出雲大社をイメージした立派な駅舎で、大正十三年に建てられたものである。 
駅前には、からくり時計があった。

「  明治四十三年の開業当初は出雲今市駅だったが、 昭和三十二年の町村合併で市が誕生した時に現在の名前になった。 
有名な出雲大社は、平成の大合併で、出雲市と出雲大社のある大社町が一つになった結果、 出雲市大社町○○になった。 
また、以前はJR大社線があり、大社駅もあったが、廃線となり駅舎のみが残っている。 」

出雲市は神々の国であり、多くの神社がある。 
駅の南方に流れる神田川をさかのぼり、支流の須佐川のほとりにある、 須佐神社(すさじんじゃ)に、車で向かう。
日本一のパワースポットとテレビや雑誌で紹介され、最近注目を集めている神社である。 

「  ヤマタノオロチ退治に登場する須佐之男命(すさのおのみこと)を主祭神とし、 妻の稲田比売命(いなたひめのみこと)、妻の両親の足摩槌命(あしなづちのみこと)と 手摩槌命(てなづちのみこと)を四神が祀られている。 
この地は日本神話に登場するヤマタノオロチを退治した須佐之男命との関わりが深く、 出雲国風土記の須佐郷の条には、須佐之男命が当地に来て最後の開拓をし、 「 この国は小さい国だがよい処である。  それで自分の名は岩木にはつけない、土地につけると大神が仰せられて大須佐田、 小須佐田を定められ、  自分の御魂を自ら鎮められた。 」 と記されている。 
中世には十三所大明神、大宮大明神、近世では須佐大宮と称したが、 明治四年(1871)に延喜式に記載された須佐神社に改称し、今日に至る。 」

随神門をくぐると右手に須佐神社の七不思議「塩井(しおのい)」がある。 

説明板
「 須佐之神がこの潮を汲み、この地を清められたという。 
この塩井は大社の稲佐の浜に続いており、湧出に間濁があるのは潮の干満と関係があるという。 
満潮の時は付近の地面に潮の花がふく。 わずかに塩味を感じる。 」  

その先にあるのは須佐神社の拝殿、幣殿、本殿である。 
本殿は天文二十三年(1554)建築の大社造りで、尼子晴久の造営とされ、 県の文化財に指定されている。 
本殿の高さは七間(12m)あり、真中の柱から右の片方だけ二間になっている。 
屋根は切妻とち葺きで、厚さ一センチ〜三センチの板を使用し、全体に段がついている。 
大社造りとは四方の柱の間に一本ずつの柱がある。   即ち、方二間で中央に真株がある。  中央と右中間の柱の間を壁でとじ、その奥を神座とする。  向って右方一間を出入口とし、階(きざはし)をつくる。 
入口が右に偏っているのは他に例がなく、神社と住居が分離しない原始の建築方法を伝えている。 
屋根は切妻とち葺きで、妻の方に入口がある。 」

社殿の後ろは鬱蒼とした森で、入っていくと左側にしめなわで巻かれている、 ご神木の樹齢約千三百年の大杉があった。 

説明板
「 昔、加賀藩から帆柱にと金八百両で所望されたが、須佐国造がこれをことわったと伝えられ、 幹間は二十尺(約六米)、根余り三十尺(約九米)、樹高百尺だったが、風雪の被害にあい、 今は七十尺(約二十一米)となっている。 」

大杉はこの地を守るかのように立っていて、  幹から大地へと這う見事な根には生命の源のような力強さを感じる。 
千三百年もの長い間、ここに立ち、栄枯盛衰の歴史を見てきた大杉!! 
天を仰ぐように見上げると、大杉の威厳に満ちた佇まいに圧倒されるとともに 悠久の時の重みが伝わってくるようである。 
神々の国出雲でも指折りのパワースポットの一つとされ、 大杉の皮がはがされるという被害が続き、大杉の周囲には柵が設けられている。

塩井
     幣殿と本殿      大杉
塩井 須佐神社幣殿と本殿 千三百年の大杉





出雲大社

JR出雲市駅から出雲大社に向う。
県道27号を北に進み、三京さくら通りの交叉点を左折して高瀬川沿いに進む。
高松バス停付近から県道162号になる。
新内藤川を渡り、荒茅入口バス停の交叉点で左折し、道は左にカーブすると、旧大社町に入る。
しばらく歩くと、荒木小学校前バス停があり、その先の三叉路を左の道に入るる。
道は右にカーブし、その先の右手が旧JR大社駅である。
その先に吉兆館前交叉点があり、県道162号を直進し、堀川を渡る。
道(神門通り)なりに進むと、右側に一畑電車大社線出雲大社駅があり、 道の突き当たりに出雲大社大鳥居がある。
出雲大社大鳥居は、高さ23m、柱の周囲6mという、日本一の大きさである。

出雲大社の木製鳥居をくぐると、松の参道と呼ばれる、松並木である。
参道を通り、出雲大社本殿に向う。

「  出雲大社は古くは杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれたが、 明治四年(1871)に出雲大社と改称、 正式名称は「いずもおおやしろ」だが、一般的には「いずもたいしゃ」といわれ、 祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)である。  」

鳥居を更に二つくぐると、四つ目の鳥居がある。
この銅鳥居は寛文六年(1666)六月に毛利輝元の孫、毛利綱広の寄進になるもので、 鳥居から四方にいけがぎで囲まれている内部が出雲神社の境内となる。 

出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。

古事記には、「  この国を統治していた大国主神は国譲りに応じる条件として、  「 我が住処を皇孫の住処の様に太く深い柱で、 千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう。 」と述べ、 これに従って、出雲の多芸志(たぎし)の浜に、天之御舎(あめのみあらか)を造った。 」 とある。 

日本書紀には 「 高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、 「 汝の住処となる天日隅宮(あめのひすみのみや)を千尋もある縄を使い、 柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう。 」 と述べたとあり、 崇神天皇六十年七月、天皇が 「 武日照命(天穂日命の子)が 天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい。 」 と言って、 献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、 飯入根が当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上した。 」とあり、 また、 「 斉明天皇五年(659)には、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。 」  とある。

伝承の内容は様々であるが、共通なのは天津神(または天皇)の命により、 国津神の大国主神の宮が建てられたということで、国家的な事業として行われたものということ。 
また、出雲王朝は国政には関わらず、国神として、また、出雲国造として生きる道を選んだ訳である。 
それ以降、出雲大社は 天照大神の第二御子の天穂日命(あめのほひのみこと) を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。 
その末裔は平成十四年(2002)、宮司に就任した第八十四代国造の千家尊祐であり、 出雲大社は現在も皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。

鳥居の右手に幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)の説明板があるが、 むずびの神像である。 

「  全国の神が集まって縁結びの相談をするという信仰が江戸時代になり広がり、 江戸中期以降の伊勢参りや善光寺参りのブームにものって、出雲講が各地に造られ、 出雲の縁結びの神様として全国的な信仰をあつめるようになった。  」

鳥居をくぐると正面に出雲大社独特のしめ縄を付けた細長い拝殿がある。 

「  室町時代に尼子経久が造営した拝殿は昭和二十八年(1953)の火災で燃失、 現在の建物は昭和三十四年(1959)に建てられたもので、大社造と切妻造を折衷した造りで、 屋根は銅製である。 
拝殿での拝礼は出雲大社独特の二拝四拍手一拝の作法でする。 」

銅鳥居
     幸魂奇魂      拝殿
須佐神社銅鳥居 幸魂奇魂(むずびの神像) 須佐神社拝殿


拝殿の先には八足門があり、右側は観祭楼と東廻廊、左側は西廻廊、四方は瑞垣で囲まれている。 
八足門は木彫りの彫刻が施されていて、 蛙股の「瑞獣」や流麗な「流水文」などの彫刻は左甚五郎の作と伝えられる。 
門の前右側には天皇陛下御下賜金、皇族の神餞料の木札があった。 

八足門からは楼門がわずかに見えるだけなので、 八足門の左手に廻り込み、瑞垣の先を見ると本殿、きざはし(階段)、楼門がなんとか見えた。 

「  本殿の左の千木がついた建物は本殿の玉垣の外にある筑紫社で、 神魂御子神社本殿(かみむすびみこのかみやしろ)である。 
大国主の妻で福岡の宗像三女神の一人、多紀理毘賣命を祀っている。 
本殿は楼門からぐるりと四方に玉垣で囲まれた中にあり、 楼門から十五段のきざはし(階段)を上ると、 千木がついた高い建物の本殿に至るという配置になっている。 
本殿は屋根は檜皮葺きで、高さは八丈(二十四メートル)、大社造りと呼ばれる様式で造られている。 
現在の本殿は延享元年(1744)の建立で、 柱はすべて円柱で、現在は礎石の上に立っているが、 近世までは根元を地下に埋めた掘立様式だった。 
屋根の横柱には千木と勝男木(かつおぎ)が三本乗せられている。 
本殿は古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているため、 大国主大神の御神座は正面の南ではなく西を向いている。 」

廻廊の左右にある長細い社殿は東十九社、西十九社で、 これは八百萬神(やおよろずのかみ)を祀る。 

「  旧暦十月に全国の神々が大国主大神の許に集まり、 人々の幸福、生成発展のため神議される神在祭が斉行される。 
そのため、神無月は出雲では神在月といわれ、旧暦十月十一日〜 十七日まで神在祭が斉行される。 
十九社はその際の神々の宿舎となる。 また、平素は全国八百万神の御遙拝所になる。 
西十九社の奥にあるのは氏社(うじのやしろ)である。 
奥の社が出雲国造家祖神の天穂日命、手前の社が十七代の祖で出雲氏初代の宮向宿彌を祀っている。 」

八足門
     本殿、きざはし、楼門      西十九社
八足門 出雲大社本殿、きざはし、楼門 西十九社


本殿瑞垣の真後ろの正面には八雲山を背にして出雲神社があった。 
素鵞社(そがのやしろ)と呼ばれる大国主命の父(または祖先)の素戔嗚尊を祀る社である。
本殿の東側、玉垣と瑞垣にある千木がついた二の社殿は  御向社(大神大后神社)と天前社(伊能知比賣神社)で、 御向社(みむかいのやしろ)には大国主の正后・須勢理毘賣命が、 天前社(あまさきのやしろ)には大国主が亡くなったときに蘇生を行った蚶貝比賣命、 蛤貝比賣命を祀られている。 
また、東十九社の奥には釜社(かまのやしろ)があり、素戔嗚尊の子の宇迦之魂神が祀られている。 

拝殿まで戻ると左手にお札授与所があり、お守りなどを求める人々でごったかえしていた。  小生もゲット!! 
大社を左に出ると社務所があり、その前の植え込みに大国主大神と因幡の白兎の銅像があった。 
小川の橋を渡ると右手に大きな神楽殿(かぐらでん)があった。 

「  神楽殿は明治十二年の出雲大社教創始の際に本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来する。 
正面破風下に張られた大注連縄は日本一で、長さは十三・五メートル、 周囲九メートル、重さは四・四トンというものである。 
神楽殿では婚礼なども執り行われている。 」

出雲神社      大国主大神と白兎の像      神楽殿
素鵞社(そがのやしろ) 大国主大神と白兎の像 神楽殿





稲佐の浜・日御碕

神楽殿を抜け、祖霊社の前を通り、山根通り(国道431号)を進む。
この一帯は杵築(きづき)地方で、出雲大社も杵築大社と呼ばれていた。
大正十四年(1925)に、大社町になった。
山根通りは、日本海の稲佐の浜へ通じる道である。
出雲大社と稲佐の浜との中間地点に阿国の墓の表示を見付けた。 
入口に「歌舞伎の始祖阿国)<と書かれた常夜燈があり、 山根の太鼓原の石段を上ると出雲市が建てた「出雲阿国の墓」の説明板がある。 

説明板
「 日本を代表する芸能歌舞伎の始祖として知られる出雲阿国は、 大社町の鍛冶職中村三右衛門の子で、 出雲大社の巫女であったと伝えられる。 
天正の頃、出雲大社本殿の修復勧進のため、京都に入り、世にいう歌舞伎踊りを創始した。 
豊臣秀吉、徳川家康の御前でも、この歌舞伎踊りを披露するほどに名を上げ、 世に「天下一阿国」として知られた。 
また、阿国と名護屋山三との熱愛ぶりも今の世にも語り継がれている。 」 

平成三年に建立された「ABCミュージカル阿国公演成功記念」、 「をどり座阿国公演記念の碑」の石碑が並ん建っている。 
出雲阿国の墓は出雲阿国の生家である中村家の墓の隣にあった。 」

稲佐の浜へ寄り道する。
出雲神話ゆかりの地を求めて、稲佐の浜に向った。 
稲佐の浜は出雲大社の西の方へ一キロ程行ったところにある海岸で、 国譲り、国引きの神話の舞台となったといわれるところで、 旧暦十月の神在月には全国の八百万の神々をお迎えする浜でもある。 

「 高天原の使者・天鳥船神(あまのとりふね)と建御雷(たけみかづち)神が、 この浜の砂浜に剣を逆さに立て、その上に胡坐をかいて、談判を開始した。
大国主命の子・建御名方(たけみなかた)神はこの談判に負けて、国を譲ることになる。
これは記紀の話で、出雲風土記にはこの話は出てこない。
出雲風土記には、この浜は園の長浜といい、国引きの綱が長い浜になった、とある。 」

稲佐の浜にある丸い島は、地元で「べんてんさん」と呼ばれて親しまれている弁天島である。

「  かつては稲佐湾のはるか沖にあったため、沖ノ御前、沖ノ島と呼ばれていて、 昭和六十年頃までは島の前まで波が打ち寄せていたが、 近年急に砂浜が広がり、現在では島の後まで歩いて行けるようになった。 」

ここから五十メートル程入った山手の民家の庭先に屏風を立てた様な岩・屏風岩がある。 

「  高天原からの使者として派遣された武甕槌神(たけみかづちのかみ)が この岩陰で大国主大神(オオクニヌシノカミ)とが国譲りの話合いをされたと伝えられるところである。 」

稲佐の浜
     弁天島      出雲阿国の墓
稲佐の浜 弁天島 出雲阿国の墓


ここを北上すると出雲風土記に見える日御碕の浦があるので、車を走らせた。 
日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)は島根半島の両端の出雲市日御碕に鎮座する神社である。 

出雲風土記には 「 御前浜(みさきのはま)広さ百二十歩あり。 百姓(おおみたから)の家あり。  百姓の日御碕の海子(あま)が採集する鮑は名品なり 」 とあるが、その地が日御碕である。

駐車場の脇には祖霊社があり、その先を進むと大きな鳥居があった。 
参道を進むと目を見張るほど赤い大きな楼門と廻廊があった。 
楼門の中には大きな狛犬が左右に分れて安置されているが、木製はめずらしいと思った。 

説明板「日御碕神社の由来」
「 古来、両本社総称して日御碕大神宮と称する。 
日沈の宮(ひしずみのみや)は、神代の昔、素盞嗚尊の御子神天葦根命又 (天冬衣命と申す宮司家の遠祖) 現在地に程近い経島(ふみしま)に天照大御神の御神託を受け祀り給うと伝えられる。 
また、日出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り、日の本の昼を守り、 出雲国日御碕の清江の浜に日沈の宮を建て、日御碕大神宮と称して、日の本の夜を護らむ。 
天平七年乙亥の勅に輝く日の大神の御霊顕が仰がれる如く、 古来、日御碕は夕日に餞け鎮める霊域とされ、 また、素盞嗚尊は出雲の国土開発の始めとされた大神と称えられ、 日御碕の隠ヶ丘は素尊の神の神魂の鎮めた霊地と崇められた。 
神の宮は素尊の神魂鎮まる霊地と崇められた。 
神の宮は素尊の神の神魂の鎮める日本総本宮として日沈の宮と共に 出雲の国の大霊験所として皇室を始め普く天下の尊崇を受け、現在に至っている。 」  

楼門の先にあるのは、「下の宮」 とされる日沈の宮(ひしずみのみや)の拝殿と本殿である。 

「  下宮(日沈の宮)の祭神は前述の通り、天照大御神で、 今から千百年前の天暦二年(948)に村上天皇の勅令により、 現在地に移されたという。 」

赤い大きな楼門
     木製の狛犬      日沈の宮(下の宮)拝殿
赤い大きな楼門と廻廊 木製の狛犬 日沈の宮(下の宮)の拝殿


上の宮(神の宮)には楼門脇の廻廊からも行けるが、 下宮(日沈の宮)の本殿脇にある急な石段を上ると、目の前にあった。 

「  上の宮(神の宮)の祭神は素盞嗚尊で、 今から二千五百年以前の安寧天皇十三年に勅令により現在地移された、とある。 
下の宮もこの上の宮の社殿は西日本に例を見ない総権現造で、 徳川第三代将軍・徳川家光の命令により、 幕府直轄で工事が行われ、着工以来十年の歳月をかけ、寛永二十一年に竣工したものである。 」

下を見ると下の宮の本殿の奥に細長い社殿ともう一つの社殿が見える。 
これらは門客人社というもの。 

近くに出雲日御碕灯台があるので、見にいった。 

「  灯台は日御碕の突端に立ち、日本一の灯塔の高さを誇る石造灯台で、現在も現役である。 
昼間は見学できるというので、中に入り急で狭い階段をふうふういいながら登った。 
晴れると出雲神話の舞台である稲佐の浜や三瓶山が見渡せる。
下を見るとウミネコ繁殖地の経島(ふみしま)があり、潮が玉散る岩場が見えた。 
冬は時化って潮被りとなる地でもあった。 大きなレンズを確認して下に降りた。 」

上の宮の拝殿      日御碕灯台      日御碕
上の宮(神の宮)の拝殿 日御碕灯台 日御碕





山陰道

山陰道は、出雲阿国の墓の先で、左折する。
この一帯は大社町杵築西で、狭い道沿いに、背の低い町屋がひしめいている。
杵築南は、古くから門前町として発達してきた町である。
国道431号沿いで、古くからの旅館が今も営業している。
国道を南下すると、神戸川に架かる境橋を渡り、大島交叉点に出る。
国道9号に入り、西に進む。
神西沖町交叉点を過ぎると、道は南に向き、南下する。
日本海側に沿って南下を続け、多伎町に入る。
道は日本海に沿って南西に進み、田儀を過ぎると、山側に入る。
この先、左手にある三瓶山は、国引きの神話の綱を結び付けた杭があったという話が残る。
三瓶山の麓を抜けると、旧石見国の大田市になる。

「 大田は、延喜式には石見国最初の駅と記され、古くから水陸の要地であった。
石見銀山の繁栄と共に、山陰道、雲州・備後街道の追分として、更に海運の湊として、 市場町として栄えた。
石見銀山の入口である。 」

大田市駅前交叉点で、国道9号と別れ、左折して、JR大田市駅前に出る。
大田市内を抜け、県道46号で、石見銀山がある大森に向う。



石見銀山

奉行所が置かれた大森地区は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、 また、石見銀山とともに世界遺産に登録されている。 

「  石見銀山は北斗妙見大菩薩の託宣により、銀を発見したと伝えられる。 
大永六年(1526)、博多の商人、神谷寿貞が領主大内義興の支援のもと、 銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出し、 掘り出した銀の鉱石を大田市の鞆ヶ浦や沖泊に運び、博多湊などで売買された。 
享禄三年(1530)、当地域の領主小笠原長隆が銀山を奪ったが、三年後大内氏が奪回に成功。 
大内氏は要害山の山頂に山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。 
銀山の権益をめぐり、戦いが続き、 天文六年(1537)、出雲の尼子経久が石見に侵攻し、銀山を奪った。 
二年後に大内氏が奪還したものの、その二年後に尼子氏が石見小笠原氏を使って再び銀山を占領。
大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。 
大内義隆の死後、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、 最終的には毛利氏が勝利を収め、石見銀山を完全に手中に収め、山吹城に吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門を配置した。 
天正十二年(1584)、毛利氏が豊臣秀吉に服属することになると、 銀山は毛・豊両者の共同管理になった。 
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、石見の江の川以東を中心とする地域を 天領(幕府直轄領)とし、 翌慶長六年(1601)、初代銀山奉行として大久保長安を任命し、 銀山開発の費用や資材(燃料など)を賄うため、 周辺の郷村には直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置された。
産出した灰吹銀は大田市の鞆ヶ浦や沖泊から船で搬出していたが、 冬の日本海は季節風が強く航行に支障が多いため、 大久保長安は大森から尾道まで中国山地を越え瀬戸内海へ至る陸路の街道(銀山街道)を整備し、 尾道から京都伏見の銀座へ輸送するように変更した。 
長安の後任の竹村丹後守は大森に奉行所を置き、山吹城などの城は廃城になった。 
石見銀山の経営は大森集落で行われ、代官を始めそれを司る役人が勤務していた。 
銀山の最盛期は江戸初期までで、その後が銅山として続いたが、明治以降に廃山になった。」

石見銀山トンネルを抜けると、世界遺産センターがある。
世界遺産センターでは、石見銀山の採掘法や歴史などを知ることが出来た。

「  要害山は石見銀山公園の奥にあり、最初は露天掘りで勧められていたが、 その後は岩盤に穴をあけて堀り進む方法になった。 
坑道は間歩と呼ばれ、最終的には七百を越える数といい、 世界遺産センターに展示されている鉱山町のパロラマは当時の姿をとらえている。 
天文二年(1533)、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き、 海外渡来の銀精錬法の灰吹法を導入した結果、 効率的に銀が得られるようになり、この方法は全国の鉱山に伝えられた。 
灰吹銀を譲葉状に打ち伸ばし加工された石州丁銀および徳川幕府による慶長丁銀は 基本通貨として広く国内(主に西日本、東日本の高額貨幣は金)で流通したばかりでなく、 明やポルトガル、オランダなどとの交易で銀が輸出された。 
今は堀口跡の間歩が残っているだけである。」 

世界遺産センターから県道46号を少し戻り、県道31号に入り、その先を左に入ると、 大田市大森町である。
徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利後、石見銀山の周囲を天領にし、大森に代官所を置いた。
明治に入り代官所は廃止されたが、跡地に明治三十五年(1902)、邇摩郡役所の建物が建てられた。
現在は石見銀山資料館になっている。 
正門の長屋門は文化十二年(1815)に建てられたもので、当時の姿をとどめている。 

鉱山町      銀貨のレプリカ      石見銀山資料館
鉱山町レプリカ銀貨のレプリカ代官所跡(石見銀山資料館)


大森集落を歩く。
熊谷家は、 幕府に上納するための公儀灰吹銀を天秤で掛け改め、勘定を行う掛屋として任命された家柄で、 重要文化財に指定されている主屋は寛政十二年(1800)の大火後の享和元年(1801)の建築で、 幕府巡見使や町役人としての用向き、御用達などの商用や日常生活にあてられた。 

三宅家の建物は代官所の銀山方役所に勤務する銀山付地役人田辺氏の居宅だった。 

「  寛政十二年(1800)の大火以降の建築と思われるが、 通りに面して門、塀や露地門を構えて前庭を配置し、 大手口の上手に式台を設けるなど武家屋敷の形態を保っている。 」

柳原家は代官所の同心を勤めた武家である。 

「  主屋入口および土間が左手にあり、中央に式台付玄関が配置され、座敷に続いている。 
田の字型四間形式の間取りで一部二階が設けられている。 
この二階は表から見ることが出来ない造りで、大森の武家住宅に共通する形式である。 
主屋の裏には漆喰塗籠の土蔵が一棟ある。 」

江戸時代石見銀山付御料百五十余村は支配上六組に分けられていた。 
十八世紀の中頃には大森には六軒の郷宿が設けられ、公用で出かける村役人等の指定宿として、 また代官所から村方への法令伝達等の御用を請け負っていた。

金森家は文化七年(1810)まで波積組の郷宿を務めていた泉屋の遺宅である。 
建物は外壁が漆喰で塗込め、軒瓦には家紋を入れるなど堂々たる風格を備えている。 

灰吹法は鉛を昇華させるため、鉱山労働者は早死で、三十歳まで生きると御祝いされたといい、 亡くなった人を供養するため、大森には多くの寺院が建てられたという。 
その一つが羅漢寺で、多くの羅漢像が岩肌に彫られている。 

熊谷家住宅      三宅家住宅      羅漢寺
熊谷家住宅 三宅家住宅 羅漢寺





温泉津宿(ゆのつしゅく)

龍源寺間歩の前を通ると、温泉津、沖泊(おきとまり)へ抜ける街道が残る。
途中の降路坂は、ごろごろした峠道で、中国自然歩道に指定されている。

「  室町時代に石見銀山で発掘が本格化すると、その搬出港である温泉津は繁栄を始める。 
石見銀山を手にいれた毛利元就は温泉津を直轄領にし、 毛利水軍御三家の一つ・内藤内蔵丞を奉行に任命し、 元亀元年(1590)に温泉津港口に鶴の丸城を築かせた。 
関ヶ原役後、毛利が石見から撤退すると内藤家はそのまま温泉津に土着し、 代々年寄りや庄屋を務め、その間、廻船問屋、酒造業、郵便局等の経営にも携わってきたという。 
中国明の古地図に有奴市(うぬつ)と記された温泉津(ゆのつ)港は、沖泊と共に 石見銀の積み出しや石見銀山で必要な物資の供給基地として、銀山で働く人々の暮らしを支え、 多い時には三十軒もの廻船問屋が軒を連ねたという。 
日本海に面した沖泊は海の底が深く、 湾の入り口の櫛島が季節風を防ぐため大量の銀を積み出すには最適な港で、 今も船を係留するための鼻ぐり岩が数多く見られ、往時を偲ばせている。 」

内藤家住宅は石見銀山にまつわる重要な建築物であり、 温泉津大火(1747の)後建てられた当地に残る最も古い住宅史跡である。 
町の中央に医王山温光寺薬師堂がある。 
この辺りは往古から温泉が地表に流れ出ていたといい、  伊藤家初代重佐が民の病苦を救うため、温泉場を開発し薬師堂を建てた。 

「  石見銀山の採掘者らは酷使した身体を癒すために訪れるようになったので、 毛利元就は重佐を湯主に任じた。 
石見銀山の採掘者らが温泉津の町を築く一方、温泉が採掘者達を癒していたのである。 
  江戸時代に入り、天領になると代官が温泉を大事に保護し、 北前船の就航により、東北や九州の人々も入湯した。 
広島に原爆が投下され、被爆者がこの温泉で湯治したと聞いた。 」

温泉津は背後の岩を大きく切り出して、家や寺院が建てられているところである。 
銀の積出港だった温泉津地区の町並みは港町、 温泉町として平成十六年(2004)に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 

内藤家住宅      温泉津港      元湯
内藤家住宅 温泉津港 元湯


旅した日   平成28年(2016)10月27日〜28日



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