十津川街道は奈良県五条市から十津川村を経て熊野に至る道で、正式名称は西熊野街道である。
南北に連なる山地を縦貫しているため、道は獣道のようなもので、車は通行できず、陸の孤島化していた。
長い時間をかけて完成した国道168号線は、大雨や台風に襲われると崖崩れを起こし、
しばしば不通になるため、新宮五條道路を建設中だが、完成するのは
いつのことやら。
司馬遼太郎の 「 街道をゆく 十二巻 」 は、副題は十津川街道である。
「 十津川」と聞くと十津川警部とぱっと出るが、これは 西村京太郎の十津川警部の事件簿がテレビ化されたせいだが、主人公の十津川の名は、西村京太郎が警部の名前を考えて いた時、たまたま見ていた日本地図で奈良県十津川村(とつかわむら)が目に留まったためといい、警部の出身地は東京 となっている ( 十津川村 天誅殺人事件 より)
それはともかく、先日大学の同窓会で奈良市に住む友人に十津川村へ行くといったら、ずいぶん遠い大変なところに行くね、
といわれ、彼を始め、奈良の多くのひとが訪れたことのない辺鄙なところをいわれた。
司馬遼太郎が訪れたのは昭和五十二年頃だろう。
昭和五十二年十月から昭和五十三年一月にかけて、週刊朝日に
掲載されていたからである。
彼は大阪の自宅から富田林市を経由し、五條市(当時は町だった)に入っている。
この道は天誅組が通った千早峠を越える道であるので、彼は天誅組のことをくわしく書いている。
「 天誅組は五條に降りて、天領だった幕府の五條代官所を襲い、代官を殺して、
五條新政府樹立の宣言をした。 遼太郎の天誅組の記述の中で、注目されるのは、
天誅組が大和高取城を攻めるため、十津川へ急使を出し、加勢を求めたところ、
十津川郷はすぐに兵千人を繰り出したことである。
都から離れた辺鄙な十津川郷であるのに、太古から日本の歴史に残る有事になると、
なぜか十津川兵が登場するのである。
それはさておき、尊王攘夷の急進派中山忠光を中心に旗揚げした天誅組が、
五條仮政府として本陣を置いたのは桜井寺で、天誅組本陣跡の碑が建っている。 」
遼太郎は、五條について、江戸時代、大和における天領七万石の治所で、
ここには紀州街道が通り、奈良県では奈良に次ぐ二番目の大きさだったという。
江戸時代には隣の和歌山県橋本市と肩を並べ競っていたが、
彼が訪れた頃には食堂もないような寂れ方になっていた、とあり、昼飯をとるのに苦労している。
十津川街道は五條市から西吉野村、大塔村を経由して十津川村へ入っていくが、
今回の合併で西吉野村、大塔村は五條市に併合された。
旧西吉野村、現在は五條市賀名生
(あのう)地区は古は賀名生村で、賀名生梅林が有名である。
小生は、平成十七年(2005)三月十七日に梅林を撮りに訪れた。
その時、訪れたのが、南朝三帝ゆかりの「賀名生皇居跡」の看板がある家である (左下写真)
説明板
「 延元元年(1336)十二月、足利尊氏によって京都を追われた後醍醐天皇は、
吉野山へ向かうの途中、当時、穴生と呼ばれていた当地に寄られ、
郷士、堀孫太郎信増の邸宅に迎えられた。
また、正平三年(1348)には、後村上天皇が吉野山より難を逃れて、ここにきました。
正平六年(1361)十月、足利尊氏が南朝に帰順し、京都の多くの公卿や殿上人が
穴生に参候して北朝が否定されたので、翌年正月、後村上天皇は、 願いが叶って目出度い 、
との思し召しから、加名生(かなう)と名付けられ、京都に還幸されました。
その後も、堀邸宅は長慶天皇、後亀山天皇の皇居(行宮)となったと伝えられる。
後に加名生は畏れ多いと、賀名生に改められ、明治の初めになって、あのうに呼び方を統一され
ました。 」
この近くには、賀名生の里歴史民俗資料館があり、南朝関係の資料を展示している。 また、
周辺には、波宝神社、北畠親房の墓や黒木御所跡などの史跡がある。
賀名生梅林は食べる梅を収穫する為の梅林で、高低差のある山の斜面に広範囲に展開していた。
当日は、五條市内を抜けた頃から霧雨になったので、アップダウンのきつい山道を滑りながら、
梅林を撮影してきた (下の写真)
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司馬遼太郎は十津川という地名は遠つ川であろうと推理している。
といっても、都から距離的には遠いところという訳で
はなく、「 吾妻鏡や保元物語にこの人馬不通の大山塊から十津川兵が出てくる。 つまり、ささやかながら、一種の兵力の貯蔵地として登場するようである。 」 と書き、
政変が起きると十津川が登場したとしている。
十津川村に入るには、天辻峠を越える必要がある。
十津川郷から見れば北方の関門にあたる峠は、
東西に尾根が走る九百九十三メートルの乗鞍岳の西方の鞍部にあたるが、
現在は鳩の首を過ぎたあたりからトンネルが掘られているので、
トンネルを抜けると阪本に抜けることができる。
このようになったのは最近のことで、それまでは林道がなかったため、
十津川の山々の樹木を運び出す手段がなく、林業は成り立たなかったと遼太郎は書いている。
「 ほんの最近まで、十津川では谷を渡るのに、
やえんと呼ばれる人力の空中索道を使用していた。
これは谷の上空で鉄線を張りわたし、辻駕籠のようなものをつるし、
人が一人そこに座って綱をたぐりながら進むもので、村では野猿という字をあてている。 」 という趣旨のことも書いているが、やえんは現在は観光用として残っている。
「 道路建設は明治末期から始まったが、
村道から県道に昇格したのが大正十二年のことで、
この時点で道路になったのは、わずか十五キロ向こうの旧西吉野村の城戸までだった。
県道になっても、峻険な谷壁が固すぎて、当時の土木技術や資力では克服できず、そのため、
工事は遅々として進まず、昭和十三年までに十津川村の一角、山崎という渓谷までだった。
戦後、二級国道に昇格し、昭和三十四年に、着工後半世紀以上かかって村の南端まで開通した。 」 と遼太郎は記している。
小生は、平成二十年(2008)に古稀の記念に十津川温泉に行こうと計画し、妻の賛同を得て、八月のお盆後すぐに、旅館を予約したのである。
旅行では、紅葉の奈良を見る計画も入っていたので、早い予約になったのである。 当然のことながら、いく道は十津川街道、国道168号線である。
ところが、出発の一週間前の十一月初旬に、宿から宿泊の確認とともに、山崩れで国道はかなりの部分で決壊し閉鎖されているという連絡を受けた。 代替道路が狭いため、時間制限の交互交通のため、かなり時間がかかるだろうといわれ、他の道路をとることが勧められた。
いたし方がない。 旅行当日は名古屋から伊勢道を経由、新宮に出て
、国道168号線に入り、北上することになった。
途中、熊野市の花の窟神社に寄り、神社を参拝した (左下写真)
その後、海岸に沿って進み、新宮から国道168号線に入り、熊野川を横目に眺めながら、北上を続けた (左中写真)
五條新宮道路に入ると、七色で、ここから十津川村である。
右手に二津野ダムが見えてくると桑畑だが、ダムに沿って
進み、橋を渡ると十津川温泉に出た (右中写真)
司馬遼太郎は、旧大塔村にある天辻峠を上ろうとするが、途中であきらめている。
遼太郎は、 「 太平記に後醍醐天皇の皇子、大塔宮(護良親王)が、
鎌倉方からの追捕避けるため、この村に逃げ込んだと書かれているが、いわれるという拠り
所は太平記にしかない。 」 として、大塔宮が逃げ込んできたという事実を疑問覗しているが、
「 当時の十二村荘が明治に入り、大塔村に改称した。 」 と、村名の誕生に触れている。
遼太郎が十津川で泊まったのは、人家が多い十津川温泉ではなく、
上湯川の上流にある上湯の神湯荘である。
遼太郎は、
その時の様子を 「 十津川谷はまったく夜になってしまった。
自動車の前照灯が、寸前の山壁をてらすだけで、なにも見えない。
照らされた山壁は、そのつどすばやく左に走り去ってゆく。
右が渓流で、闇の底を深くえぐっている
気配だけが感じられる。 途中、車をとめてもらって、渓流側に立ち、小用を足した。
やっと頭上に星空を見たが、壺の中から天を見あげるほどの面積しか見えなかった。 」
と記している。
十津川温泉の橋のところの標識に上湯温泉と書かれているのを見つけたが、今でも人里外れた寂しい場所である
(右下写真)
遼太郎は、対岸の山壁に見える橙色の一つの電灯を見つけて、
十津川郷をよく守ってきたという感慨に浸っている。
彼の守ってきたというものは自然からの脅威にではなく、
大政変があるごとに十津川郷は勝者に接触し、戦闘に参加する代償として、
十津川式の自治と無税の伝統を保証してもらってきた歴史のことである。
十津川郷は田畑がわずかしかなく、木材も切り出して売るすべがなかったので、
税をとるのはむずかしかったという事実はあるが、
九千人も住む十津川郷が免租地というのは異例なことである。
それを可能にしたのが、権力者側についた十津川郷民の存在と、遼太郎はいうのである。
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私達は、十三時過ぎには十津川温泉に着いてしまったので、旅館に入るのには早いので、
上流の谷瀬の吊り橋を見にいくことにした。
十津川温泉までの道は比較的広かったが、この先は走るに比例して道が狭まり、
平均すると1.5車線というところだった。
司馬遼太郎はこの吊り橋に立ち寄り、その様子を綴っている。
「 宇宮原あたりをすぎたとき、対岸の稜線に出ている白い雲が、
光体のように輝き始めた。 対岸はめずらしく緩斜面になっており、
布袋の腹のようにゆたかに河へ突き出て、よく耕されている。
河原の砂地もひろく、大きく天窓がひらかれたようにあかるい。 谷瀬という。
その谷瀬の在所にむかい、この本道から大きく吊橋が架かっている。
全長約三百メートルで、鉄線の吊橋としては日本最大のものらしい。 」 (左下写真)
「 橋畔にたてふだがあり、昭和二十九年に八百万円の工費で出来た
旨、書かれている。 この大吊橋の利用はむろん十津川郷ぜんたいというわけではない。
谷瀬とその奥のひとびとにかぎられるために、
そのあたりのひとびとが一戸あたり三十万円の負担金を出しあって架橋した。 」
司馬遼太郎が訪れた当時の十津川は観光とは縁がなかったので、
橋畔の案内板は自己負担のことのみが書かれていたのだろうが、
私が訪れた平成では、ここは十津川の観光名所になっていた。
吊橋を渡ると、ゆさゆさ揺れるのでそうそうに引き返した (左中写真)
遼太郎等は、この後、橋畔の茶屋の二階に入って休憩している。
小生達が訪れた時は、橋畔のお店は平日のせいか、やっていなかった。
谷瀬のつり橋から国道168号線を少し南下した先に、国王神社駐車場と書かれた看板があり、
国道から少し下ったところに国王神社がある。
説明板
「 ここ国王神社の境内に祀られている長慶天皇は、文中2年(1373)8月御位いを弟の後
亀山天皇に譲られ、同年10月まで紀伊国玉川の宮におられたが、賊徒の襲来を受け大和の天川村、
五色谷行在所へお移りになったところが、ここでも逆徒に襲われたので、
もはや運命もこれまでと同所の廻り岩で御自害なされた。
このとき近侍のものが、ご遺体を水葬に付したところ、数日経て御首が、
下流の十津川村上野地字河津の渕(現在地付近)へ流れ着き、毎夜水底より、
不思議な一条の光を発した。 これをみつけた村人が丁重にこのところへ葬り、玉石を安置して
お首塚と呼んだ。 以上が南帝陵の十津川村における伝説の概略である。
しかし、歴史上、天皇は弘和2年(1382)まで在位されていたことになっており、
大和誌によると神社が長慶天皇の勅願宮となっていることなどから
、日時が神社創建のときと混同されて伝えられたと思われる。
いずれにしろ村民が600年来長慶帝の在位を確信し、これを奉祀してきたことに、
十津川村の特殊性がある。 」 (右中写真)
遼太郎は、 「 神武天皇が十津川を渡った。
というのは、いまになれば十津川人のユーモラスな信仰であるが、ともかくもそこから十津川史が始まるという。
カムヤマイワレヒコというのが神武天皇だが、この人物についての記述は古事記
、日本書紀にしかない。 日向から瀬戸内海岸を東に進み、大阪湾に入って上陸し、
河内平野をわけ入り、やがて生駒山を越えて大和の国へ入ろうとしたが、土酋の長髄彦に阻まれ、
退却し、紀伊半島の先端に廻って上陸し、熊野の山々を越えて北上し、十津川(?)を経て、
大和盆地に入り、盆地の平定に成功したというのが神話のあらましだが、
古事記も日本書紀にも十津川という地名は出ていない。 」 と書いている。
又、 「 本来、実在性がとぼしい神武天皇がどこを通ろうが、
考証は無意味なのだが、明治から大正にかけての歴史、地理学者である吉田東伍博士は、
その大著 大日本地名辞典にも 、神武帝、大和打入の時、熊野より吉野に出で給ひしは、
実に十津川を経由したまへり、と断定している。 」 と書き、
証拠は乏しいが、他のコースを考えるよりは自然だろうと結論している。
新宮川(十津川)をせき止めてできた風屋ダムもこの高津集落を過ぎた野尻あたりで終る。
その後、橋とトンネルが幾つか現れるが、それを過ぎると温泉地温泉がある湯之谷で、
そこを過ぎると右側に道の駅十津川があった (右下写真)
遼太郎達は、ここでは昭和五十一年に竣工したクリーム色の新庁舎を訪れて村長と会っている。
道の駅はその近くにあり、一角には足湯があった。
そこから少し入ったところに日帰り温泉として利用できる滝の湯というのがあるのだが、
行ってみると改修中で利用できなかった。
その代わりに、道の駅で教わった湯泉地温泉の泉湯に行き、一風呂あびた後で、
宿泊する旅館にむかった。
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司馬遼太郎は 「 幕末に十津川郷から御所の警護に郷民が大挙して上洛し、
文久三年に十津川屋敷ができた。
また、蛤御門の変では、十津川郷士二百名が門の番を務めた。
新政府は十津川全戸を士族に列したが、
暮らしは変わらず、山仕事と狩猟、筏流しに多少の耕作と、変わりがなかった。 、
政府からお金で、郷校の文武館が建設されたことだけが政府の報償だった。 」 と記している。
私が泊まった旅館は、吉乃屋だったが、十津川では大きい部類の旅館で、泊まったよかったと思った (左下写真)
その近くに「庵の湯」という日帰り湯があったので、旅館の下駄を借りて、歩いていったが、
飲用の湯もあり、けっこう楽しめた (左中写真)
遼太郎は、幕末、新撰組に追われて、十津川に逃げ込んだ人達をかなりくわしく書いている。
十津川郷は面積が広い上に集落が三十以上に分れているので、
かくれるのに都合がよかったようである。 また、十津川郷民は穏健な性格で、
追跡側に引き渡すというようなこともしなかった、という。
泊まった翌日は、うす曇りで、やや寒い日であったが、
旅館から見た二津野ダムはところどころに紅葉が見られ、きれいだった (右中写真)
帰りは国道168号を北上し、高滝で右に入る国道426号をいくことにした。
そのまま、北上して五條に抜ける選択肢もあったが、交互交通の時間に間に合わないと、
数時間待たなければならないので、この道を選んだ。
旅館の御主人はあまり勧めなかったが、前日通ってきた人が紅葉がきれいと言っていたから、
行く気になったのである。
途中までは、数戸の家がある集落があるが、それもすぐに終り、
後は山裾を縫って続く山岳道路で、対向車がこないことを祈りながら、山の峠を越え、
下北山村へ向かった。
このような山深いところにも、集落がある訳で、十津川郷に逃げ込むという歴史は頷けた。
途中には、滝が幾つかあったので、車を止めて撮影した (右下写真)
「 明治二十二年八月に大豪雨があり、 一夜にして地形が変わるという大惨事になった。 その時、前田正之という十津川人が 北海道移住という発想を得て、北海道庁長官だった永山武四郎に話すと、すぐに了解されて、 十月から十一月にかけて移住が行われ、 家が流された戸数とほぼ見合う六百戸、人数は二千六百九十一人が北海道に渡り、 現在の新十津川村を誕生させた。 」
国道426号を走っていると、さもありなんという気になる地形だった。
司馬遼太郎が十津川で最後に訪れたのは玉置神社である。 この神社は国道426号に入る手前の高滝から右の林道に入って行き、
その後、参道を五百メートル上るのだが、かっては神仏混淆の玉置三所権現と呼ばれ、
江戸期には七坊十五ヶ寺という多くの建物があったという。
平安期には花山院、白川院、後白川院などが熊野から十津川にきて、玉置山に上ったという。
この神社は、修験道の根本道場の吉野金峯山と関係がある施設の一つだったはずで、
ここを訪れた修験者から都の情報が齎されたと遼太郎は推測している。
私にとっては、苦労しながら訪れた十津川村だったが、
司馬遼太郎の「街道をゆく」によって、歴史的に
このように多くの逸話を生んでいたことを知ったのは収穫だった。
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旅した日 平成20年(2008)11月14日〜15日