法隆寺、中宮寺、法輪寺など聖徳太子ゆかりの名刹が集中する斑鳩は古から交通の要所だった。
聖徳太子が斑鳩に移り住んだ後、飛鳥宮へ通った筋違道や在原業平が河内姫のもとに通ったという業平道もあるし、当麻寺から葛城へ行ける当麻街道の追分でもあった。
江戸時代に入ると、大阪と奈良を最短距離で結ぶ奈良街道を利用して伊勢方面へむかう旅人が増えた。
現在も名阪国道(国道25号)が三重の関町と大阪が結んでいる。
しかし、斑鳩は今もなお太古のままの姿を残していることから、法隆寺を中心とした施設は世界遺産に登録された。
平成十七年一月九日、新年を迎えたある日、斑鳩の里を旅することになった。
斑鳩は矢田丘陵の南の裾野に広がる土地で、また、聖徳太子が飛鳥から移り住み、
仏教の興隆を図った地で、太子一族の終焉の地でもある。
本日の歩きは法隆寺の南大門前からである (右写真)
法隆寺の玄関にあたる南大門は、永享十年(1438)に再建されたものである。
門をくぐると左右に土壁の塀が続き、左側の唐門の先には西円院や寺務所がある。 少し歩く石段で、その先に
中門と廻廊に囲まれた先に三重塔が頭を出している。
中門と廻廊は飛鳥時代のもので、深く覆いかぶさった軒、その下にある組物や勾欄(こうらん)、
それを支えるエンタシスの柱は、飛鳥建築の粋を集めたもので、それが残っていることに感嘆した (右写真)
重厚な扉の左右に鎮座する力漲る金剛力士塑像は、奈良時代の作のようである。
中門を中心に東西にのびた廻廊の連子窓と金剛力士塑像は対照的な組み合わせで、
その中に建つ三重塔と金堂を壮麗に包みこんでいる。
これらをまとめて西院伽藍というようである。
金剛力士像をしばらく眺めてから、左手に移動すると弁天池と国宝の西室 三経院があった。
その奥の小高い丘には八角造りの西円堂がある。
奈良時代に橘夫人の発願によって行基菩薩が建立したと伝えられるが、
現在の建物は鎌倉時代の再建されたものである (右写真)
法隆寺の創建については、
本尊薬師如来の光背銘や法隆寺伽藍縁起井流記資材帳の縁起文から、
「 法隆寺は用明天皇が自らのご病気の平癒を祈り、寺院と仏像を造ることを誓願されたが、
その実現を見ぬまま崩御された。 推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いて、推古十五年(607)に本尊の薬師如来と寺を造ったのが法隆寺(斑鳩寺とも呼ぶ)である。 」
とパンフレットに書いてあったので、今から千三百年前のことだと思った。
受付で千円を支払い、伽藍の中に入ると、右側に金堂、左側に五重塔が並んで建っていた (右写真)
金堂には、聖徳太子の為に造られた金銅釈迦三尊像、父の用明天皇の為に造られた本尊の金銅薬師如来座像、そして、母の穴穂部間人皇后のために造られた金銅阿弥陀如来座像とそれを
守護するように、白鳳時代の四天王像が、邪鬼を背に立っているのが見えた。
左側にある五重塔は、飛鳥時代に建立された日本最古の五重塔で、高さは31.5mある。
その奥には仏教の学問を研鑽、法要を行う大講堂があったが、平安時代のものである (右写真)
大講堂は手前の鐘楼と共に、延長三年(925)に落雷に遭い焼失したが、正暦元年(990)に再建されたもので、本尊の薬師如来三尊像及び四天王像もこの時に造られたとあった。
また、鐘楼は平安時代だが、吊られている鐘は、白鳳時代のものである。 大講堂手前左側の経堂は、
奈良時代のもので、天文や地理を日本に伝えた百済の学者、観勒僧正座像(平安時代)を安置している。
西院伽藍を出ると、鏡池、そして、その奥に国宝の東家 聖霊院がある。
これは、鎌倉時代に聖徳太子信仰の高まったことから、平安時代末期作の聖徳太子の尊像を安置するため、
廻廊の外側にあった僧侶の住宅、東室を改造した建物である (右写真)
その右手にある綱封蔵、その北にある食堂も国宝に指定されている。 国宝がやたら多い。
その先にある建物が平成十年に完成した大宝蔵院。
平安時代に造られた宝物庫の綱封蔵のような役目をなす収納庫で、
白鳳時代の夢違観音像、飛鳥時代の推古天皇御持の仏殿といわれる玉虫厨子、白鳳時代の橘夫人厨子などが収納されていた (右写真)
法隆寺に伝わる飛鳥時代の百済観音像はわが国の仏教美術を代表する仏像として世界的に有名であるが、それが祀られているのが百済観音堂である。
御参りを済ませ外に出て南に向かうと、左側には北蔵、中蔵、南蔵があった。
参道に出ると左折し、夢殿へ向かう。
その先に建っている東大門は、三棟造りという珍しいもので、
奈良時代を代表する建造物として国宝に指定されている。
左側には重文の律学院、宗源寺、福園院、福生院と子寺が続いていた。 その先に重文の四脚門が建っているのが見えた (右写真)
推古天皇が推古天皇元年(593)に即位すると、
天皇の甥である厩戸皇子は、皇太子となり、
摂政として、蘇我馬子と共に天皇を補佐した。 同九年(601)に斑鳩宮を造営し、同十三年(605)に斑鳩宮に移り住んだといわれ、跡地にあるのが法隆寺東院伽藍である (右写真)
聖徳太子の死後、太子の王子、山背大兄王一族が住んでいたが、皇極天皇二年(643)に蘇我入鹿軍により斑鳩宮は焼き払われ、一族は法隆寺で自決に追い込まれている。
行信(ぎょうしん)僧都という高僧が聖徳太子の遺徳を偲んで、天平十一年(739)に斑鳩宮跡に建て
たのが上宮王院(じょうぐうおういん)である。 四脚門をくぐると、直ぐに廻廊があり、その中にあるのが八角円堂として、我が国最古の建物、夢殿である (右写真)
最初は仏殿と呼ばれたが、平安時代の頃から夢殿に変わっていったようで、
中央の厨子には、秘仏の国宝、救世観音観音像(飛鳥時代)を安置し、
周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、聖徳太子の孝養像(鎌倉時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)などが安置されている。
廻廊の周りには、礼堂や舎利殿、絵殿、その奥に国宝の伝法堂がある。
奈良時代に建立された伝法堂は、聖武天皇の夫人、橘古那可智の住宅を仏堂に改造したもので、三組の乾漆阿弥陀三尊像などが安置されている。
廻廊の外に出て、北に向かうと鐘楼がある (右写真)
その右側の廻廊の先に見えるのが伝法堂であるが、残念ながら入ることはできなかった。
鐘楼は鎌倉時代のもので、袴腰と呼ばれる形式の建物で、内部には中宮寺と陰刻された奈良時代の
梵鐘が吊されている。 その先で表門と塀で囲われているのは、本堂と太子殿と北書院であるが、中を見ることはできない。
右手には、中宮寺があった (右写真)
中宮寺の創建時期は法隆寺と同じ頃の七世紀前半の創建と推定されるが、創建の詳しい事情は不明のようである。
はっきりしているのは創建当初は今より四百メートルほど東の聖徳太子の母、
穴穂部間人皇女の御所だったというところにあったということ。
現在地に移転したのは門跡寺院となった十六世紀末頃だろうといわれているが、現在の建物は昭和四十三年の再建である。
本堂には国宝の弥勒菩薩(如意輪菩薩)像が祀られている。 また、聖徳太子没後、妃の橘大郎女が刺繍したと伝わる国宝の天寿国繍帳は奈良国立博物館に寄託され、寺にあるのは複製である。
法隆寺に戻ると、鏡池のほとりに 「 法隆寺の茶屋に憩ひて 柿食えば
鐘がなるなり 法隆寺 子規 」 という石柱があった (右写真)
山の辺の道の周囲には柿畑が多いし、吉野では柿の葉寿司が名物なので、柿はポピュラーな
果物なのだろう。
今の茶屋では出ることはないだろうが、子規の時代では茶屋でが食べられたのだろうと思った。 この後、竜田川に向かって歩く。
法隆寺参道を西に向かい、左折、右折しながら歩いていくと、坂を下った辺りの右側に大きな屋敷があった (右写真)
このあたりは西里と呼ばれる集落で、法隆寺を支えた大工集団の本拠地なので、長い築地塀で囲まれた屋敷は、宮大工の家ではないかと思ったが間違いだろうか?
歩いて行くと田畑が広がる三叉路に出たが、正面に二十数体の石仏が祀られていた。
赤いよだれかけを着せられ、その前に花が活けられていたが、その中の一体の地蔵には瘡地蔵
(くさでんば)と書かれた標示板があり、
その隣の五輪塔のようなものの隣の一体には病気身代わり地蔵の標示板が建っていた。 その様子から今でも信仰を集めていると思った (右写真)
ここは藤ノ木古墳の入口である。 藤ノ木古墳は直径四十八メートル、高さ九メートルの円墳で
六世紀後半に築造されたとされる。
二度の発掘調査で、朱塗りの家形石棺からは二体の被葬者の人骨が見つかり、鳥や獅子のレリーフされた精巧な金具や馬具、武器、土器が出土したとあるが、
今は緑に覆われて、家形石棺の複製があるだけである。
南に向かって歩き、国道25号の手前の狭い道に右折して入ると古い家が残っていた (右写真)
この道は奈良街道あるいは大阪街道と呼ばれた道で、大阪と奈良を結ぶ街道として栄えた。
このあたり(龍田)は坂戸郷と呼ばれ、浪速、奈良、伊勢、当麻への追分(分岐点)として、
商家や旅籠が軒を並べ、西和地方の商業の中心地だったところである。
少し歩くと、右側に龍田神社の標石と大きな注連縄をつけた木製の鳥居が建っていた (右写真)
龍田神社の伝承によれば、
『 神社は崇神天皇の時代の創建で、聖徳太子が法隆寺を建る土地を探していたとき、
白髪の老人に化身した龍田大明神に逢い、 「 斑鳩の里こそが仏法興隆の
地である。 私はその守護神となろう 」 と言われたので、この地に法隆寺を建立し、
鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建した。 』 とある。
龍田神社の元々の名前は、龍田比古龍田比女神社で、延喜式神名帳にもこの名前で記載され、
小社に列している。
鳥居をくぐると、龍田社と書かれた新しそうな社殿があった (右写真)
当初は龍田比古神、龍田比女神の二神(龍田大明神)を祀っていたが、
その後、三郷町立野の
龍田大社より、天御柱命、國御柱命の二神を勧請したため、現在は天御柱命と國御柱命を主祭神とし、龍田比古神と龍田比女神を配祀としている。
明治の神仏分離令により法隆寺から分離され、龍田大社の摂社となったが、その後、独立した神社になったが、今でも龍田大社に対して新宮といわれる。
境内には赤い鳥居と十日えびすの幟が立っていた (右写真)
傍らに書かれた説明によると、 「 祭神は事代主之神で、後嵯峨天皇の寛元元年(1243)に
西宮戎神社より分祀された。 龍田は、その昔、盛んなる市場で龍田市といい、近郊の市人、
参詣人で賑わった。 又、祭祀には猿楽が奉納された。 」 とあった。
境内には楠大明神のご神体である樹齢千年の「楠の大樹」や樹齢千二百年とある「ソテツの巨樹」
があり、今も精力を保っていた。
また、大きな金剛流発祥の地の石碑も建っていた (右写真)
石碑に 「 金剛流は能楽シテ方の一流で、大和猿楽四座の一つ、
坂戸座を源流とする。
法隆寺周辺の郷村は、龍田市の経済力を背景に自治組織をつくり、祭礼では自ら猿楽を演じながら、
専門
集団の坂戸座を育てた 」 とあった。
神社の外の奈良街道の説明板には、 『 龍田は郡山に次ぐ
宿場町として栄え、その中心が龍田神社あたりだった。 その賑わいは 「 龍田前はかいでもきれいな宿場の女がスソではく 」 とまで歌われた。 』 とあった。
道の両脇には古い家が多く残っているが、木の防水桶と太い格子の家が妙に印象に残った (右写真)
ここは奈良街道と当麻(たいま)街道との追分である。 当麻街道は信仰の道として法隆寺と当麻寺
を結んでいた。 ここから南に小吉田、稲葉車瀬、神南を通っていくが、その時代の道標が今でも多く残っているようである。
当麻街道には入らず、そのまま西に向かうと、国道に出る手前の右側には大田酒造という暖簾をあげた漆喰壁の家があった (右写真)
「初時雨」というブランドを持つ造り酒屋で、はつしぼりの旗も立っていたので、
寄りたい気持はあったが、時間がないのであきらめた。
国道に出てそのまま歩くと、竜田川の石碑がある川に出た。
龍田大橋の手前の道標には、左折すると「龍田城跡」説明板、川を渡って左折すると「三室山」、
県立竜田公園とあったので、
左折して川のへりを歩くと、赤い橋が見えてきた。
この整備されたところが「県立竜田公園」で、約二キロの細長い公園である (右写真)
竜田川で思い出されるのは百人一首にある在原業平が詠んだ 「 千早ふる 神代も聞かず 立田川 からくれなゐに 水くくるとは 」 の句。
正月のかるたをとる時、母から落語の話、
「 相撲力士の立田川が、花魁の千早と神代におからを所望したのに断られたので、入水自殺してしまった。 」 という意味だよ、と説明されて育った。
竜田川は古今集や拾遺集などに紅葉の名所として歌枕になり、詠われているのを知ったのは、中学校に入ってからである。
その先の小高いところ(堂山)は室町時代の竜田氏の居城跡である (右写真)
「 一乗院方衆徒の竜田氏は、天正年間まで居城したが、戦いに敗れて没落。
慶長六年、片桐
且元が摂津茨木より二万八千石で入封して、竜田城跡に陣屋を築いたが、子孫に恵まれず、数代で血筋が絶えた。 」
この後、道を引き返し、国道からまた奈良街道に入り、龍田神社を左折して神社の北側を右折して東に進むと、民家の塀に「業平道」の説明板があった (右写真)
「 この道は平安の歌人で、伊勢物語の主人公として百人一首で有名な在原業平(825-880)が天理市櫟本から大和郡山市安堵町、平群町を経て、河内の高安まで、河内姫のもとに通ったとされる
道である。 」 とあった。
道を進んでいくと、法隆寺 i センターに出たが、
ここでは斑鳩の里のジオラマなどを見ることができる。
この後、法隆寺前から夢殿前の道に戻り、北に向かうと土塀の脇に、
「従是五町北法輪寺」の道標と「左松尾道」の道標が建っていた (右写真)
「いかるがそば」の看板の先の三叉路を右折して進むと、左側の小山のところに、
「中宮寺宮墓と慈雲院陵」の説明板が建っていた。
更に北に進むと、法輪寺の塔が見えてきた。
法輪寺の創建は、聖徳太子の皇子、山背大兄王が、
聖徳太子の病気平癒を祈って建立されたとされる。
もとは法隆寺式伽藍だったと伝わり、七堂伽藍を備えていたが、創建時の建物は残っていない。
遠くから見えた法輪寺の三重塔は、昭和十九年に焼失したものを作家の幸田文さんらの手により、昭和五十年(1975)に再建したものである (右写真)
再建の際、宮大工、故西岡常一氏が、補強のために鉄材を使用することに反対して、
「 ヒノキが泣く ヒノキには鉄よりも長い命がある。 」 と主張して話は有名である。
法輪寺を出ると、東に向かい、田畑のある小道を歩くと、車道と交差する道の先に「法起寺」と書かれた標札が掲げられた山門があるので、中に入ると池の先に三重塔が建っていた (右写真)
法起寺は岡本寺とか、池の畔にあることから池後寺とも呼ばれた。 聖徳太子が法華経を講説された岡本宮を山背大兄王が寺院にしたと伝えられる寺である。
三重塔は、慶雲三年(706)に創建
された高さ二十四メートルの三重塔で、現存する最古の三重塔だという。
創建当初は「法起寺式伽藍様式」といわれる、右側に三重塔、左側に金堂、
中央正面奥に講堂という風に伽藍が建っていたが、寺運は衰微し江戸時代の
始めには三重塔を残すのみだったという。
寄棟錣葺の講堂(本堂)は元禄七年(1694)に再建されたものである (右写真)
本堂の御本尊、十一面観音は十世紀後半の作の像高3.5メートル木造立像であるが、現在は
収蔵庫に安置されている。 金堂跡にあるのは、文久三年(1863)に当寺住僧順光の発願により建立された定形造の聖天堂である。
この後、法輪寺まで戻り南下したが、このあたりは聖徳太子が飛鳥宮へ通うため、黒馬にまたがり通ったところという (右写真)
片野池で右折すると菅原道真を祀る斑鳩神社があるが、この神社はこの辺りの鎮守社であると
共に、法隆寺の鬼門を守護する法隆寺鎮守四社の一つだった。
また、松尾寺への参道でもあったようである。
今回の旅はここで終わったが、時間を有効に使えた旅だったと思った。
それにしても底冷えする一日ではあったが・・・
(訪 問) 平成17年1月9日