小 関 越(三井寺観音道)  

京都 山科と滋賀 大津を結ぶ街道の一つに、小関越え(おぜきこえ)がある。 かつての東海道が、山科から大津の札の辻 まで逢坂山を通っていたが、山科から逢坂山の北部を通り、三井寺に抜ける道があり、東海道と北国街道を結ぶ最短距離 として利用されていた。 逢坂山の関所を大関と呼んでいたのに対し、その裏道にあたるこの峠越えの関所を小関と呼んで いたことから、この道を小関越へとか小関越道と呼んでいたようである。 また、京から西国札所の三井寺への最短でも あることから、三井寺観音道とも呼ばれる。 




山科駅前
交差点 今日の出発地はJRの山科駅である。 少し歩くと、山科駅前交差点があり、その左右の道が旧東海道である。 平成二十 年四月、この道を歩き、京都三条大橋に入り、東海道の旅は終えた。 その時、気になった道標を見つけたが、そのまま 三条大橋にゴールしたが、その後も山科で見た道標が奥歯に挟まったように気になっていた (右写真-山科駅前交差点)
中山道と東海道を歩き終えたので、これからどうしようかと思ったが、東海道や中山道には
マンション
エスタシオ それを結ぶ脇街道が多くあるので、それを探しながら歩こうと思い、これまでに幾つか実行してきた。 山科駅前交差点を 左折し、少し行くと左側のマンションの前に東海道の道標と車石が置かれている。 以前は、和菓子店をだったが、 今はマンションに変わっている  (右写真)
エスタシオというイタリア風の名前が付いているが、その一角に道標と車石が置かれ、案内板が付いているのは、嬉しく 思った。 その先には諸羽神社の鳥居がある。 昨日は京都で大学
山科地蔵堂
学生寮の新年会があり、冬の京都は寒いので敬遠していたが、山科を思い出し、ついでに歩こうと出席したのである。 その 先には円光寺の道標があり、右側に六角堂のお堂がある。 徳林庵の六角堂で、堂内には、京都六地蔵の一つ、山科地蔵 が安置されている  (右写真)
お堂の前の手洗い場の石には丸で通という文字が刻まれているが、これが日通のマークになったといわれる。 手押しポン プの下には、京都 大阪 名古屋 金沢 奥州 宰領中 と刻まれて
三井寺観音道
道標 いて、輸送関係者の寄進であることが分かる。 また、人康 親王と蝉丸の石碑が祀られていた。  旧三條四宮交差点を左折して行くと、京阪京津線の四宮駅がある。 そこを過ぎると、大津市になる。 道 の左側のマンションの隣に、大きな道標と常夜燈が建っていた  (右写真)
この道標の正面には三井寺観音道、右側面には、願諸来者入重玄門、左側面には、小関越と書かれている。 東海道を歩いて この道標に出逢った時、三井寺観音は西国三十三ヶ所の一つ、園城寺ともいわれる三井寺と推察できたが、小関越とはなに か、と気になったのである。 
道標と常夜燈
帰宅してから調べると、 古代に関所があった逢坂が大関なのに対し、裏道にあった関所は小関と呼ばれたことから、 この峠越えの名前が誕生した。 また、峠を越すと三井寺に出るので、巡礼の人々の利用が多かったことも 分かった。 東海道の大津宿からも行けるが、この道を利用すると、北国街道も近道になる。 早速、道標の脇の狭い道に 入る  (右写真)
昨日は寒かったが快晴に恵まれ、夜まで飲んでホテルで寝たが、朝起きると、どんよりとした
京津線の踏切
曇り空で、午後から雨との予報である。 当初の計画では、毘沙門堂から疎水を歩くことも考えていたが、山中で雨や雪に 遭うことを避けたいので、取りやめ、ここに直行したのである。   その先には小さなお堂があり、民家を抜けると、畑に出て、京津線の踏切を越える  (右写真)
道は曲がっているが、道なりに歩く。 左からの三叉路、右からの三叉路があるが、直進すると右上に藤尾学校の校舎が見 える。 校舎の先で右折し、坂を上っていくと、小学校の塀の外に
牛車が石の
上を通る 車石と説明板があった。 逢坂山は、大量の荷物の輸送があったので、牛車が使用されたが、急坂なので難儀していた。  車石は牛車が通りやすいように、花崗岩に浅い溝を刻んで、車の轍の間隔に敷き並べた石のことである。 大津の札の辻から 京都三条大橋までの三里に、一万両の工事費がかかった。 藤尾部分は工事費四百二十六両、敷石二千枚、人足延六千人余、 とあった  (右写真ー牛車が荷車を曳いて車石の上を通る様子)
変則交差点
この看板は藤尾の歴史を生徒に伝えたいとあるが、実際はここを通るハイカーに見てもらいたいと設置したのは間違いない だろう。  そのまま進むと、正面に壁のように現れたのは国道161号で、その上に見えるのは逢坂山と長等山だろうか? 正面の一方通 行は国道161号の入口なので、入らないで、左折して狭い道に入るが、このあたりは茶戸町6丁目  (右写真)
国道と平行して進むと、下り坂になり、右手に赤い鳥居が見えてくる。 徳丸稲荷大明神という
JRの線路
が見える 小さな社である。 そのまま歩いて行くと、JR東海道本線の逢坂山トンネルと湖西線の長等山トンネルの上で、下を見ると 湖西線の特急電車が走り抜けて行くところだった  (右写真)
その先の三叉路は左からの道が合流してくるが、これが当初歩く計画だった疏水からのハイキング道である。 少し歩くと、 道の左側にロウソンとドラックアサノの看板があるが、その先と左手には住宅地が広がっているように思えた。 この 三叉路は直進の狭い道を行くと、行く手に
寂光寺 川が流れていて、小さな橋が架っていた。 地元の人に確認し、橋の手前の細い道に入り、川に沿って歩いて行くと、寂光寺 という寺が右側にあった (右写真)
風が冷たく、温度が下がってきた感じがしたので、マフラーをかぶろうと思って バックの中を探すか見つ からない。 昨晩飲みまわっていた時、どこかに置き忘れてきてしまったようである。 代わりにタオルを首に巻いた。   突然、高架橋が姿を現したが、国道161号の西大津バイパスのもののようである。  橋の下をくぐると、その先は三叉路になっていて、突き当たりに
普門寺 普門寺というお寺がある。 園城寺(三井寺)の支坊がこの寺の起こりであるが、開基の大友氏が智証大師円珍に園城 寺の修復のため、園城寺の全ての寺領(この寺も含む)を寄進された。 この寺は、貞観十五年(873)、円珍により、園城寺の 支院として、藤尾寺として再興された。 文明三年(1472)、僧了然により、普門寺として再興された (右写真-普門寺)
その後、宗旨を度々変えた寺院で、現在は浄土真宗本願寺派に所属している。 三叉路は
山道 右の山道に入って行く。 樹木が生い茂った山道にふさわしい道で、車はやっと通れるかと思える道幅で、傾斜はけっこう きつく、歩いているうち身体が温ったまってきた (右写真)
道は左そして右にカーブすると、車道に出てしまった。 タオルを首から外し、本格的に登ろうと思った時なので、拍子抜け である。 車道はもっと高いところを通るのかも知れないが、小生はこれで小関越えを終えた。 分岐点に、藤尾奥町 小関 越えの道 分岐点と書いた道標が
地蔵尊喜一堂 あり、ルートマップと行程の所要時間が書かれてあった。 これによると、車道は国道161号、西大津バイパスの藤尾ICを出 て、ここから大津方面へ出られる。 坂を下るとすぐ、右側に地蔵尊喜一堂と書かれた建物があり、一人の老人が休んでいた  (右写真)
自転車にはちりとりがあったので、このお堂に掃除にきたのだろうか? 道の反対には湧水があった。 お堂の中を見たか ったが、老人が占拠している形なのであきらめ、坂を下り始めた。 
ハイキングコース 道幅は大型車でもすれ違いできるほどの広さがあり、車はびゅんびゅん飛ばして通り過ぎる。  坂を下りてまもなく、右にカーブするところに、ハイキングコース入口の道標が あり、それによると三井寺まで1.2kmとある。 これが三井寺観音道だと思い、この道に入った (右写真)
車道を下って行くと、長等神社の入口に出ることは知っていたが、先程の老人が三井寺に行くのなら、その先で左に入ると 近道だよ、と言っていたのが決め手になった。 道は下らず上りに
赤い切れを巻いた
木 なった。 また、数日前に降った雪のせいか、地面は どろどろにぬかるんでいて、気をつけないとすべりそうになる。 足を下ろす場所に注意しながら、歩を進めていく。  地面にブルドーザーの跡のようなものが見える。 そうしているうち、道は方角違いの方へ向かっているところに出た。  道を間違えたか、と不安になった時、赤い切れを巻いた木を発見した (右写真)
木の下にはブッシュ(下草)が生えているが、小道のように思えた。 山登りで見かける案内
地蔵尊喜一堂 標識と理解して、その中に入っていった。 ところどころに倒木が転がっているが、それを跨ぎ下っていく。 下りなので、 ずるずると滑り、転ぶと汚れるので、慎重に歩くと、突然ぱっと視野が広がった。 下に三井寺霊園の駐車場が見えた。  この道がハイキングコースのルートかは自信はなかったが、とりあえず三井寺の境内に入ったことは間違いない  (右写真)
  管理事務所の前を通り進むと、左側に三尾影向石の看板があり、 「 貞観元年、智証大師
三尾影向石 が入寺に際し、長等山の地主神の三尾明神(白尾、赤尾、黒尾)が此処に会合し、大師を迎え、大師の護法を約された。  この奥の琴尾谷に三尾明神の磐座がある。 」 と、あった。 三井寺のホームページには、井桁に組んだ切石の中に 三尾影向石と呼ばれる一磐石がある、とあるのだが、磐石のようなものはないように思えたが・・・   (右写真)
苔が生えているのがそれか? この辺りが琴尾谷のようであるが、天人が舞い降り、琴や笛を
覚勝院 奏で舞戯、歌詠し神を慰めたといわれる谷や清流はないようである。 その先の道を上っていくと、建物が見えたが、確認 しないまま進む。 そのまま行くと、舗装された道に出たが、これがハイキングコースのルートかも知れない、と思った。  この道を下ると、左手に覚勝院という坊があり、その前におせん地蔵を祀ったお堂があった (右写真)
坂を下ると、三井寺の中央部に出た。 この後、三井寺の境内を回ったが、その様子は巻末
の三井寺をご覧ください。 

三尾神社 観音堂でお参りをして、石段を降りて進むと、水観寺があり、その先に三井寺駐車場側の拝観料徴収所があった が、そこで長等神社への道を聞くと、三尾(みお)神社の中を通りぬけて行けばよい、と教えられた。  お礼を言って、右に向かうと神社があった  (右写真)
三尾神社の由来によると、  「 三尾神社は、古に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が長等山の地主神として当地に降臨したのが始まりと され、神様がいつも赤、白、黒三本の腰帯を垂らしていた
常夜燈の兎 のが三つの尾を曳くように見えたところから、三尾と名づけられ、三尾明神とも呼ばれた。 
三尾明神は太古、卯の年、卯の月、卯の日、卯の刻、卯の方より出現されたという言い伝えがあり、 昔から兎が神様のお使いとされている。 」 と、ある。 
入口の両脇にある常夜燈には兎があり、また、神紋も真向きのうさぎである (右写真)
神社は、江戸時代までは三井寺に属していたが、明治元年(1868)の神仏分 離令により、出雲
社殿 や伊勢系に属する神社はすべて分離させられ、新羅明神、鬼子母神といった異国に起源
する神々だけが三井寺に残った。 この神社も長等神社や早尾社などと一緒に分離させられ、明治九年に前述の琴尾谷から ここへ移転している。 神社のこまいぬも兎かと、社殿の中をのぞいたが、木製の神祗官と石製の獅子のこまいぬが 鎮座していた  (右写真)
社殿は、室町時代応永年間に、足利第四代将軍義持が復興させたもので、慶長年間には、
両願寺 豊臣秀吉が修理を加えている。  三尾神社を出て西に進むと、右側に両願寺があり、三井寺南別所と書かれた道標の脇に、 かたたげんべゑ  くびのてらと彫られている  (右写真)
これは、 「 蓮如上人が、親鸞の木像を三井寺に預けて旅に出て、数年後に、その木像を 返してもらおうとしたら、人間の生首を二つ持ってこいとの難題。 これを聞いた堅田の漁師 源右衛門は、息子源兵衛の首を切って三井寺へ行き、自分の首と合わせて生首二つだから
長等神社 返せと要求、驚いた三井寺はすぐに返した。 」 という故事にもとずく。  その先の長等神社は、天智天皇が大津宮の鎮護のため、長等山岩倉に、須佐之男神を祭ったのが 起源で、天安弐年(858)、比叡山の僧、円珍が、大山咋命を合祀し、新たに建立し、天喜弐年 (1054)、庶民参詣のため、山の上から現在地に移った、という歴史をもつ。 神社の朱色の楼門は明治三十八年(1905)の完成 だが、中世の様式が生かされ、見事の一言につきる  (右写真)
神社の前を過ぎると、右手に日赤看護学校、通りには古い家が残っていた。 その先の三叉路
小関越道標など には、小関越道標と蓮如上人御旧跡 等正寺矢印道標が建っていて、等正寺の道標には、かたたげんべゑ くびのてら と、 彫られている  (右写真)
この角は、小関越を下ってきて、三井寺へ向かう分岐点にあたるが、江戸中期に建立された、高さ九十五センチの小関越道 標には、三面に 「 左り三井寺 是より半丁 」 「 右小関越 三条五條いまくま 京道 」 「 右三井寺 」 と あり、西国三十三ヶ所観音巡礼札所の三井寺
等正寺 と京都今熊野観音寺とを結ぶ巡礼道になっていたことを示すものである。 
小生は小関越の先から観音道に入ってしまった ので、この道を歩かなかったが、そのまま歩けばここに来た訳である。 この三叉路を右折して坂道を上っていくと、 左側に先程の蓮如上人御旧跡 道標にある別所山等正寺があった  (右写真)
等正寺には源兵衛の首が安置されている、というが、前述の両願寺にもあるというので、首は
いくつあったのか、少し不思議な話である。 坂を下ると、 交差点の右手に長等公園、両国寺
札の辻 があるが、狭い道を直進すると、三叉路に出る。 この左右の道が旧北国街道である。 ここは右折し、次は左折し狭い道 に入ると、右側に寺院が並んで建っていた。 西友の裏側を通って進むと、大津日赤からきた道が合流し、広くなった。  そのまま進むと、京町1交差点に出た。 交差点手前の右側に、大津市道路元標の石碑と札の辻の表示があった  (右写真)
江戸時代、ここに大津宿の高札場があり、北国街道と東海道の追分になっていた。 従って、
札の辻 敦賀に向かう北国街道はここが起点である。 また、東海道は直進するのが江戸で、右折するのが京道である。 道路 には京阪三条から浜大津まで運行する電車が走っていた  (右写真)
それからぽつりぽつりの雨が落ちてきたので、これはまずいとJR大津駅に向かう。 12時53分、無事駅に着き、この 旅は終わった。 今日は、JR山科駅からのスタートだったので、七キロ程の距離と思うが、三井寺の境内をくまなく歩いた ので、八キロ強というところか? 
京都に戻って食事をとっていると、雨が本格的降りだしたので、判断は正しかったと思った。 

三 井 寺
金堂 おせん地蔵を祀ったお堂前の坂を下り、三井寺の中央部に出ると、金堂があった (右写真)
三井寺は、壬申の乱で敗れ自害した大友皇子の霊を祀るため、その子の大友与多王が創建したのが始まりで、天台宗の智証 大師円珍により再興されたが、延暦寺の分派であることから、度々比叡山の宗徒によって焼き討ちされた。 文禄四年(1595) には、豊臣秀吉により、寺領の没収(欠所)を命じられ、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、堂宇も移築させられた。 
金堂 慶長三年(1598)、秀吉は三井寺の再興を許したが、既に金堂は比叡山に移されており、現在も延暦寺転法輪堂(釈迦堂)とし て、残っている。 現在の金堂は、慶長四年(1599)に秀吉の正室、北政所によって再建されたもので、正面七間、側面七間の 入母屋造、桧皮葺(国宝に指定)で、本尊弥勒菩薩が安置されている。 その近くに、三井の晩鐘の鐘楼がある (右写真)
鐘楼は、桁行二間、梁間一間、切妻造、桧皮葺で、桃山時代の建築として、国の重文に指定
三井の晩鐘 されている。 鐘楼に架かる鐘は、近江八景の三井の晩鐘として、親しまれてきた (右写真)
また、環境庁による 残したい日本の 音風景100選 にも選ばれている。 この鐘は、弁慶の引摺り鐘の後継として、慶長七年(1602)、長吏准三宮道澄によって鋳造 されたもので、総高二メートル八センチ、身高一メートル五十五センチ、重さは六百貫(2,250kg)で、鐘の上部に乳という百 八の突起がついている。 これは煩悩を払うという意味がある、という。 
弁慶の引き摺り鐘 弁慶の引き摺り鐘は、金堂裏の霊鐘堂の中にあった。 このお堂には、この鐘の他、弁慶の汁鍋も所蔵していた。 弁慶の 引き摺り鐘は、奈良時代前期の古い無銘の鐘であるが、俵藤太秀郷が、百足退治のお礼に竜神から貰い、当寺に寄進された、と 伝えられる (右写真)
また、比叡山と三井寺の争いの際、弁慶が奪って比叡山に引き摺り上げたが、鐘が「イノー」 (帰りたいよう)と鳴ったので、弁慶が谷底へ捨てた。 鐘の表面に見られる擦り傷やひびは
閼伽井屋 弁慶が引き摺り上げた時できた、と伝えられる。 また、むかし、武蔵坊弁慶をはじめ、多くの僧兵が、汁を作り、飲んだ と伝えられる汁鍋は極めて大きいものだった。 金堂の西側奥に、建物に接して建つのは、慶長五年(1600)に 建てられた閼伽井屋(あかいや)である (右写真)
この建物は、正面三間、側面二間、向唐破風造、 桧皮葺で、国の重要文化財である。 内部を覗くと、岩がいくつかあり、下から水が湧き出しているのが分かる。 この井戸 は、天智、
一切経蔵 天武、持統天皇の産湯に使われたことから、園城寺が三井寺という名になった、といわれている。 建物の壁をよく見ると、 彩色や壁画がわずかに残っていた。 霊鐘堂の右側にある六角形の建物は、一切経を安置するためのお堂で、一切経蔵で ある (右写真)
建物は、室町時代の建築で、正面三間、側面三間の裳こし付きの宝形造、桧皮葺で、お堂の内部には、一切経を納め る回転式の大きな八角輪蔵が備えられている。 山口市にあった、
三重塔 大内氏の菩提寺、国清寺にあったものを 毛利輝元が慶長七年(1602)に移築し、寄進したもので、国の重要文化財に指定 されている。 その先に見える三重塔は、大津市教育委員会が建てた案内板に、 「 この三重塔は、大和国(奈良県) の比曽寺(現世尊寺)の東塔を慶長六年(1601)に移したもので、大和地方の中世の塔の風格を持つ南北朝時代頃の建築とされ る。 塔は三間三重の塔婆の形式で、本瓦敷きの屋根を持ち、各重の落ちも大きく、初重に縁(えん)を付けている。  二重、三重に菱格子を用いているのは珍しい。 」 と、あった (右写真)
潅頂堂 なお、一重目の須弥壇には、木造の釈迦三尊像が安置されている。 その先には潅頂堂がある。 潅頂堂の内部は 前室と後室に分けられ、伝法潅頂を行う設備である (右写真)
隣にあるのが、長日護摩堂で、この二つの建物の奥に大師堂がある。 これ等を併せて、唐堂と呼んでいるようだった。  四脚門を出ると、階段の下に、常夜燈がずーらと並んでいた。 産道に出て右折すると、右側には勧学院の美しい石垣が 続いているが、その手前の中央部に
村雲橋 小さな橋が架かっている。 案内板によると、「 昔、智証大師がこの橋を渡ろうとされた時、西の空をご覧になって 大変驚かれた。 大師が入唐の際に学ばれた長安の青竜寺が焼けていると感じたのである。 すぐに真言を唱え、 橋上から閼伽水をお撒きになると、橋の下から村雲が湧き起り、西に飛び去った。 翌年、青竜寺からは鎮火の礼状が届い といい、以来、この橋を村雲橋と呼ぶようになった。  」 と、あった (右写真)
勧学院客殿 勧学院客殿は、慶長五年(1600)に建てられたもので、室町時代の書院造りと して貴重なものとして国宝に指定されているが、非公開なので門の外から覗き込むだけで終わった (右写真)
道が突き当ったところに微妙寺がある。 お堂に上がる階段前に、 「 重要文化財 十一面観世音菩薩 本日は特別に 御開扉します 」 という看板があった。 東海道名所図会に、 「  (微妙寺は)関山の北、尾蔵寺の西にあり。  三井五別所・・。 むかしは九十六房あり。 今わずかに五房存す。 
微妙寺 本尊寿一面観音。 また薬師仏を安ず。 (尾蔵寺は)近松寺の北にあり。 三井五別所・・。 いにしえは尾蔵寺に 八十坊あり。 今わずかに五房存す。 本尊十一面観音を安ず。 」 
とある。」 とあり、江戸時代の微妙寺 などのあった南坊は、現在の長等公園あたりにあったようである (右写真-微妙寺)
特別公開の十一面観音は、湖国十一面観音霊場第一番札所のご本尊となっている。 平安時代(九世紀)の作で、ヒノキの 一木造、像の高さは像高三尺にも満たない小さな像であるが、 
毘沙門堂 全体はふっくらした肉付けが豊かな観音様だった。 微妙寺の建物は安永五年(1776)の建設とあったが、尾蔵寺の本尊 だったこの観音がいつからこの寺に安置されているのかは書いてなかった。 左(東)に向かって進むと、右手に赤い建物、 毘沙門堂があった (右写真)
尾蔵寺の南勝坊境内に元和二年(1616)に建立され、明治以降、三尾神社の下に移築されていたが、 戦後の修理の後、現在地に移転した、とある。 正面一間、側面二間の宝形造、桧皮
二つの建物 葺で、これもまた、重要文化財だった。 この寺にはどれだけの数の文化財があるのだろうか? その先の観音堂の石段 を上っていくと、左側に二つの建物が見えた (右写真)
  左側のは観月舞台というもので、古より観月の名所として知られてきた三井寺に、嘉永三年(1849)に建設された、正面 一間、側間一間の入母屋造、桧皮葺の建物で、眼下に大津の町並みが広がり、琵琶湖の景観を望むことができる。  隣の宝形造の建物は、百体の観音像を
三井寺観音堂 安置する百体堂である。 堂内の正面部分に如意輪観音と西国礼所三十三観音を、 右側に坂東三十三ヶ所、左には秩父三十四ヶ所の観音像を安置していた。 この建物は宝暦三年(1753)の建築とあるが、 これをお参りすれば、三つの礼所を巡礼した御利益がある、ということだろう。 それはともかく、道の反対側にあるのが、 三井寺観音堂である (右写真)
観音堂は、礼堂、合の間、正堂からなり、元禄二年(1689)に建立されたものであるが、西国
水観寺 三十三ヶ所観音霊場の第十四番礼所として、篤く信仰されている。 お参りの後、さっき上った石段を下り、微妙寺から 来た道の合流点を直進し下ると、左手に水観寺があった (右写真)
この寺は明尊大僧正によって創建された園城寺の五別所寺(近松寺、微妙寺、尾蔵寺、常在寺、水観寺) の一つである。  水観寺は、長久元年(1040)の創建だが、現在の本堂は、明暦元年(1655)の再建されたもので、昭和六十三年(1988)に現在地 に移築された、とあり、この寺も南院から移転されたものである。 西国薬師霊場第四十八番の札所のようである。 
以上の他に、駐車場に仁王門と釈迦堂があるが、以前に訪れたので、訪れなかったが、歩き
疲れる位、見所満載だった。    

旅をした日     平成21年1月18日




街道をゆく目次へ                                京への道


かうんたぁ。