『 西国街道を歩く A 山崎宿〜桜井(現島本駅) 』


西国街道は、江戸時代には山崎道ともいい、京都山崎と西宮を結ぶ脇街道として、 西国大名や旅人らが多く行き交っていた。
大山崎は中世では油座で繁栄したところであり、離宮八幡宮はそれを現代に伝えている。 
島本には後鳥羽上皇ゆかりの水無瀬神宮がある。




山崎宿(現大山崎町)から桜井(現島本駅)

大山崎町に入って頃から、空は曇ってきて、夕立があるのではと思ったが、 その分日差しがやわらいて歩きやすくなった。 
小泉橋からは大山崎町である。

岸井良衛氏の新修五街道細見には、小泉川には一間素橋が架かり、 橋を渡ると 「 是より西南は殺生禁断の処と云う棒杭立てり。 」とある。
この後、五位・溝口・岩神を経由し、山崎宿とある。
地図で辿ると、上記の地名はなく、松原交叉点を越えた右手に、五位川公園を、 岩崎運動広場テニスコートを見つけたが、岩神でないので、当時の地名はすでになくなった、 と思う。
府道61号は丹波街道になっているが、これを南下する

小泉橋を過ぎると右側に 三浦芳次郎氏碑がある。 

「 三浦氏は明治時代の人で、 乙訓一帯の特産品である筍の販売拡張に貢献した人物である。 」

その先、くぼがわという小さな川に架かる橋を渡る。
「和銅寛」 という蔵のある家の手前に、 「 お願い 対向車見たらここで待って 」 という、立看板があった。
ここは一車線少しという道巾の上、東海道本線のガードがあるので、 相互通行になっている。  

東海道本線のガードをくぐったところで、一列で歩く団体を見た。 
大山崎町の史跡を見るツアーなのか、 小生のように西国街道を歩いているのか確認できなかったが、 あっという間にすれ違ってしまった。 
JRのガードをくぐると、地名は円明寺茶屋前となった。

名神高速道路のガードをくぐると、 右側に消防署、左側に大山崎町役場があった。 
ここは二車線あったが、大山崎小学校交叉点を過ぎたところで、 再び、狭い道になった。 
松原交叉点を過ぎると、右側に真宗大谷派の聞法寺があったが 、車がくると石段に避難しなければならない。

府道10号はここから大阪府島本町までは、道幅が狭いが、 その割に車の通行量が多いのは地元の生活道路になっているからだろう。 
それにしても、突っ込んでくる車がいるので、こわい。 歩くのに勇気がいる。 

その先の右側には「安養寺」 の看板があり、鳥居と常夜燈が建っていた。

「 鳥居には「観音寺」と記されいる。
常夜燈には 「 聖天宮 」 、「 寛政九丁巳歳(1797) 」 とあり、 江戸堀米市場の建立である。 」

岸井良衛氏の新修五街道細見には、岩神に浄土安養院・法華妙泉寺・禅宗地蔵院がある、と 記されている。
安養院は聞法寺の西のJRの線路の西にあり、現在の地名は白味才である。
それはともかく、鳥居をくぐり、JRと阪急電車のガードをくぐり、聖天宮第二鳥居をくぐり、 石段を上って行くと、天王山の中腹くらいに観音寺がある。
聖天宮はその鎮守社である。 

「  聖天宮は、商売繁盛を願う商人の信仰を集めてきたところで、 大坂の豪商住友家が元禄十年(1697)に寄進した銅製の大燈籠が建っていた。 」

くぼがわに架かる橋 x 蔵のある家・和銅寛 x 開法寺 x 観音寺の鳥居
くぼがわに架かる橋
金属工芸・和銅寛
開法寺
観音寺(聖天宮)の鳥居


街道に戻ると、道はここから二車線になっていて、右側だけだが、 歩道もあったので、安心して歩ける。 
少し歩くと、右側に大山崎町歴史資料館があったが、以前家族で訪れていたので、 今回はパスする。 
そこからしばらく歩くと、阪急の大山崎駅があるガードがあり、 そこを過ぎると右側に妙喜庵石碑があった。
石碑には、「 宗鑑隠棲地 豊太閤陣営 千利休名席 妙喜庵 」 と書かれていた。 

その先を右側に入っていくとJR山崎駅に出た。
駅の右手に石碑にあった妙喜庵があった。

「  建物の中にある茶室「待庵」 は、千利休がつくった茶室のなかで、 唯一現存するものとして、国宝に指定されている。
事前予約制なので、ぷらっと訪れたので、入ることはできなかった。 」

街道に戻ると、そのすぐ先、右側のへいに囲まれた門の両脇に、 「離宮八幡」 と書かれた提灯がかかっていた。

離宮八幡宮の歴史
「 離宮八幡宮は、平安時代のはじめに、僧の行数が、 嵯峨天皇の河陽離宮離宮に、宇佐八幡神を祀ったのが始まりとされる。 
貞観二年(860)、奈良大安寺の僧・行教が、九州の宇佐神宮に参詣した折、  「 われ都の近くに移座し国家を鎮護せん 」 と神託し、 当地にきたところ、霊光が見えたので掘ると、岩間から湧き水が出たので、 ここに神を祀り、岩清水八幡宮とした。 
ここは、嵯峨天皇の離宮である河陽宮の跡地だったため、 後に岩清水八幡宮の社号を離宮八幡宮に改称した。 
平安時代末に、神人(じにん)が、荏胡麻(えごま)油の量産技術を確立し、 中世になると生産者たちは八幡宮を本所として油座を組織し、 全国の油専売権を握り、販売を独占し、大山崎に繁栄をもたらした。 
祭神は応神天皇、姫三神、酒解大神である。 」 

門をくぐって入って行くと、沢山の鳥居の先、右側に、石柱で囲まれた、 「河陽宮故趾」の石碑が建っている。
神社の社殿の前にある「油祖神」の銅像や「本邦製油発祥地」の石碑は、歴史を物語っているように思えた。
司馬遼太郎の歴史小説 「 国盗物語 」にも登場する。 

境内にある 「 従是北 八幡宮御神領 大山崎総荘 」 (側面に「守護不入之所」とある)標柱と、  「 従是西 八幡宮御神領守護不入之所 」 と書かれた標柱は、 神領を示すものである。 

「  神領は守護ですら入れない強大な権力を持っていた。 
また、かしき石は、土佐日記にも登場する相応寺の三重塔の心礎で、 後世、手水鉢にされたものである。 」

もっと詳しく知るには大山崎町歴史資料館に行かれるといい。 

・長岡京遷都をした頃、山崎津という港が造られ、水運が栄えたこと。 
・紀貫之は、土佐から京への帰路、上陸した山崎で滞在して京からの迎えを待ち、 陸路で京に向かったこと。 
・信貴山縁起絵巻の山崎長者はこの地の金持ちで、 空飛ぶ托鉢で山崎長者の蔵ごと信貴山に持っていかれたこと。 
・油売りが時間をかけて悠長に売る様子から、 「 油を売る 」 という言葉ができたこと、などを説明してもらえる。 

妙喜庵石碑 x 妙喜庵 x 離宮八幡宮 x 河陽宮故趾碑
妙喜庵石碑
妙喜庵
離宮八幡宮
河陽宮故趾碑


新修五街道再見によると、高槻市にある芥川宿まで二里(約8q)の距離である。
道筋は、大山崎・東大寺村・広瀬村・桜井村・高内村・梶原村・・・ とあり、 地図を見ると、かなり地名が残っていた。
離宮八幡宮を出ると、右側の曲がり角に、 「 右西国道 」 と刻まれた元禄五年(1692)の道標が建っていた。
右に曲がり、すぐに左に曲がると、左角の小高いところに、 明治四年建立の 「 従是東山城國 」 と刻まれた標石が建っていた。 
また、「京都府大山崎町」と 「大阪府島本町」 の道路標識が脊中あわせに建っていた 。

ここは山城国と摂津国の境だったところである。
現在は京都府と大阪府との県境である。
標石の右手に、関大明神社が祀られていた。

傍らの石柱の文面
「 この神社は、関を守る関守神あるいは辻神を祀ったのが始めではないかと思われる。 
関所は当時の交通の要であり、時には朝廷が兵を派遣し守らせる重要なところだった。 
しかし、平安時代が始まるころに関は廃止されたらしく、 その跡地には「関戸院」 という施設が置かれ、 藤原道長や平家一族などの貴族や官人の宿泊に利用されたようである。  現在の本殿は室町時代に建てられたと思われる。 」  

すぐ先右側の立派な門構えの家の前に、芭蕉の小さな句碑があった。

  「 ありがたき 姿おがまむ 杜若 」 と刻まれていた。

芭蕉が、関大明神社の北側にあった山崎宗鑑の屋敷跡を訪ねて、 宗鑑を尊敬して詠んだ句とのことである。

歩いていくと、左側に関戸町地蔵尊堂があり、 その前に 「 ← 水無瀬川 500m 水無瀬神宮 1.3km 」 という道標があった。
水無瀬神宮に興味をもったので、立ち寄ることにした。

「  水無瀬神宮は後鳥羽上皇の離宮があったところで、 隠岐に流されるとき残した置き文をもとに、水無瀬家が菩提を弔ってきたところと 聞いていた。 」

西国街道は、東海道本線の踏切に接するようにして進むと、 踏切の線路の右手向こうにサントリー山崎工場が見え、 変則四差路で左にカーブし、南西に向かっていく。
東大寺1丁目に入ると水無瀬川を渡ると、右側に島本一小学校がある。
ここからも水無瀬神宮へ行くことができるが、この道標の道の方が近いので、 この道を行き、帰りは島本一小学校へ出ることにする。

従是東山城國石柱と道路標識 x 関大明神社 x 芭蕉の小さな句碑 x 水無瀬神宮道標
従是東山城國石柱と標識
関大明神社
芭蕉の小さな句碑
水無瀬神宮道標


道標の指示で進むと大阪染工の工場前に道標があり、右折が西国街道、直進が水無瀬川、 水無瀬神宮とある。
直進して阪急とJR新幹線のガードを越えると、 桂川の看板がある堤の前の車道(国道171号)に出た。

ここを右折すると、小さな川が流れているが、この川が水無瀬川のようである。
期待したようなきれいな川ではなかった。 
道を間違えたのではないかと、川を渡った先で右折して、 JRのガードを越えた道に出て、左折して進む。 
しばらく歩くと、右側に自動販売機があったので、 六本目のボトルを購入しようとしていると、 若者がきたので、水無瀬神宮を聞くと 「 その先を右折すると少し先の右手にある。 」 と教えてもらえた。 

指示された通りに行くと、右側の駐車場のようなところに、 「水無瀬神宮」の看板があった。 
これはこれでよかったが、この道標で曲がらないでそのまましばらく歩いた方がよい。 

右側の細い道を入ると木立の中に拝殿があり、 その左側の奥まったところに客澱があった。

「  客澱は、国の重要文化財に指定されているが、 桃山末期に豊臣秀吉が家臣の福島正則に命じて造営し、寄進したと伝えるものである。 」

  左側の茅葺の建物は後水尾天皇が愛好された、茶室・燈心亭で、 これもまた、国の重要文化財である。 

神門は、桃山時代の薬医門造で、 石川五右衛門が祀られた名刀を盗みに入ろうとして様子を伺っていたが、 神威により門内へも入れず、仕方なく立ち去ったときに残した手形の跡がある、 と伝えられる。
環境庁が定めた全国名水百選として、大阪府でただ一つ選ばれた、 名水「 離宮の水 」 が湧出ているため、ポリタンクを持参した人の行列ができていた。 

桂川の看板がある車道 x 「水無瀬神宮」の看板 x 水無瀬神宮客澱 x 水無瀬神宮神門
桂川の看板がある車道
「水無瀬神宮」の看板
水無瀬神宮客澱
水無瀬神宮神門


神門を出て、西に向って歩いて行くと、島本一小の北側の府道に出る。
この三叉路に、 「 官幣大社 水無瀬神宮 」と書かれた、社号標があった。
ここで左折して、府道に入り、西に向って再び、歩い始めた。 
道は右にカーブし、広瀬一丁目には阿弥陀院があった。

道なりに進むと、小さな橋があり、若山神社への案内があった。
立体交差のガード下を進み、道標に従って、狭い道を直進すると JRの線路に接近する三叉路の右側に最近建てられた道標と古い石標があった。

「  古い石の道標には 「 右柳谷 左西ノ宮 そうし寺 道」、  「 右京 伏見 山崎 道 」 などと書かれているが、 慶応三年(1867)に建てられたものである。 」

少し歩くと右側に駐輪場があり、その先は木立の中の公園になっていた。
その一角に 「桜井駅址」 の石柱が建っていた。
公園の中に 「 国史跡桜井駅跡(楠木正成伝承地)」 と書かれた大きな説明板がある。

「  京から西国に向かう道筋に設置された駅の一つに、 摂津国嶋上郡大原駅 が、 続日本記に示されており、これが桜井駅のことを指すと考えられている。 
桜井駅の実態についてはよくわかったいない。 
延元元年(1336)、足利尊氏の軍を迎え撃つため京都を出立する楠木正成(まさしげ)が、この地で息子正行(まさつら)に遺訓を残して、 河内へ引き返させたことが、太平記に記され、 桜井駅は楠木正成・正行父子決別の場となったことで、この地を有名した。 」

戦前の軍国主義の時代には、「 忠臣・楠木正成・正行父子の桜井の別れ 」  として教科書にも載せられて、  「 青葉茂れる桜井の・・・ 」 という歌が歌われたことをおぼえている。 

近くに旗立松の説明板がある。小屋がある。

「 旗立松は枝を拡げた老松のもとで、 楠木父子が決別したと伝えられるものだが、松は明治三十年に枯れてしまった。 」

 大きな 「 楠木公父子訣別之所」 の碑がある

「 題字は陸軍大将乃木希典によるもので、大正二年の建立である。
その他、「明治天皇御製碑」があり、 これには、明治天皇が明治三十一年に詠まれた歌が刻まれている。
表の書は東郷平八郎元帥によるもので、昭和六年に建立された。 
その他にもいろいろな石碑や像もあった。 」

公園を出ると、信号交叉点があり、右手にJR島本駅があった。 
このあたりは、先程の公園を含めて、区画整理が行われたように思われ、 駅の建物なども一新していた。 
今日は京都の東寺から歩いてきたが、時計を見ると十六時三十分を過ぎていた。 
西国街道は交叉点を直進するが、高槻まではかなりあるので、 今日はここで終えることにした。

島本駅から京都駅に出て、新幹線でに乗り換えて、名古屋へ出て、自宅に帰った。
向日町駅周辺と長岡京跡、そして、水無瀬宮の三ヶ所で、無駄な時間があったなあと思う。

阿弥陀院 x 新旧の道標 x 桜井駅址碑と公園 x 大きな石碑と説明板
阿弥陀院
新旧の道標
桜井駅址の石柱
楠木公父子訣別之所碑


旅をした日 平成22年(2010)8月29日
 



西国街道 目次                                      B 島本町〜高槻市芥川宿






かうんたぁ。