西近江路(七里半越)  

敦賀から疋田で塩津街道と別れ、国境を過ぎて、海津に至る道は西近江路であるが、海津の人達は七里半越というようである。  三十キロ程の道のりから付いた名であるが、これが古代の北陸街道である。  織田信長が、柴田勝家に命じて、関ヶ原からの北国街道を整備するまでは、越の国と京とを結ぶメインルートとになっていた。  何時のころか、湖東の北国街道を東近江路と呼び、湖西のこの道を西近江路と呼ぶようになった。



敦 賀
港町風景 西近江路(七里半越)の起点は、敦賀である。 聖武天皇の神亀四年(727)、渤海国が我が国朝貢の使者を派遣し、 その後、たびたび使者を送ってきたが、彼らが上陸したのが、敦賀港で、使節団を接待するため、気比の松原に松原客館が設けられた。  また、江戸前期に西廻り航路が開かれるまで、人の往来や東国の物産は全て若狭地方を経由した (右写真ー敦賀市港町風景)
敦賀で陸揚げされた蝦夷の海産物や東国の米や物産は、海津までこの道を利用して陸送され、 そこからまた船運で大津まで運ばれたのである。 明治時代には、シベリア鉄道経由でヨーロッパに行く
敦賀港駅構内 ルートも開設された。  敦賀港駅は、JR貨物の駅として、コンテイナー貨物を中心に嶺南地方の鉄道貨物輸送の拠点駅になっているが、 当時は旅客駅だったのである  (右写真ー敦賀港駅構内)
明治四十五年六月十五日、敦賀からウラジオストックへの客船航路が開設され、 新橋駅を二十一時に発ち、米原、敦賀を経由して、敦賀港駅に翌日十一時に着く列車が週三回、運行されていた。  太平洋戦争の動きの中で、昭和十五年にこの航路は運休し、敦賀から日本海を渡る海道は、終わり
気比神宮の二の鳥居 を告げた。 敦賀駅の北一キロほど、国道八号線に面して朱の大鳥居(国の重要文化財)があるのは、越前国の一宮の気比(けひ)神宮である。  廷喜式神名帳に、 越前国敦賀郡気比神社七座並名神大社とある古社で、奈良時代には愛発関や松原客館の管理を気比神宮司が務めた (右写真)
平安朝初期には、能登国の沿海地帯が気比神宮の御厨になるなど、絶大なる力を持っようになった。  南北朝時代に入ると、大宮司気比氏治が後醍醐天皇の南朝側につき、新田義貞が籠った金ヶ崎城
で参戦したが、敗戦し、一門ことごとく討ち死し、社領を大幅に滅ぜられた。 元亀元年(1570)、
気比神宮本殿 織田信長の越前攻めでは、大宮司、気比憲直は、国主の朝倉氏のため、一族、神兵社僧と天箇山の城に籠り戦ったが、 神宮寺坊は灰塵に帰し、社領は全て没収され、祭祀は廃絶するに至った。  慶長十九年(1614)、結城秀康が福井藩を創設すると、社殿を造営し、百石を寄進した。  その時建てられた本殿は国宝に指定されたが、昭和二十年の戦災で焼けてしまった。 
現在の本殿は昭和二十五年に再建されたものである (右写真)
気比神宮と敦賀北小学校との境付近に、気比宮古殿地の石碑があり、最近建てられた社があった。 
芭蕉の像と句碑 「 大宝弐年(702)、気比神宮が造営される前はこの地に、鎮座され、祭祀が行われてきた 」 、と書かれていたので、 気比宮古殿はここにあったのである。  松尾芭蕉が奥の細道の旅で、気比神宮を訪れているが、境内に芭蕉の銅像と句碑が建っていた (右写真)
芭蕉は、元禄弐年(1689)八月十四日(旧暦)の夕方、敦賀に着いた。  宿の主人より、気比神宮(作品では けいの明神)の夜参りを勧められ、出かけた。  芭蕉は、月が神前を照らす境内境内で、
  「  月清し  遊行のもてる  砂の上  」 という句を詠んだ。  翌日十五日は仲秋の名月にあたるが、生憎の雨で、 「  名月や  北国日和  定めなき  」 という句を詠んでいる。 

(注) 奥の細道には、この時のことを次のように記している。 
 『 十四日の夕暮、つるがの津に宿をもとむ。 その夜、月殊晴れたり。 「 あすの夜もかくあるべきにや 」  といへば、「 越路のならひ、猶明夜の陰晴はかり難し 」  と、あるじに酒すすめられて、けいの明神に夜参ス。 仲哀天皇の御廟也。 社頭神さびて、松の木間に月のもりいりたる。  おめへの白砂霜を敷るがごとし。 「 往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ヒ、泥渟 をかハかせて、参詣往来の煩なし。 古例今にたえず、神前に真砂を荷ひ給ふ。 これを遊行の砂持と申侍る 」 と、 亭主のかたりける。 
   月清し  遊行のもてる  砂の上       
十五日、亭主の詞にたがはず、雨降。 
   名月や  北国日和  定めなき                                               』

金崎宮石段 この後、気比神宮大宮司、気比氏が籠ったという金ヶ崎城址に向かった。 
金ヶ崎城は、敦賀の北東部、海抜八十六メートルの高さにあり、三方を敦賀湾に囲まれた山城だった。  駐車場に車を置き、少し歩くと石段があるので、上っていく (右写真)
足利尊氏と対立した後醍醐天皇は、延元元年(1336)十月、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、 同月十三日気比神宮大官司、気比氏治に迎えられて、金ヶ崎城に入った。  金ヶ崎城は、太平記に、「 彼の城の有様,三方は海に依って岸高く岩滑なり。巽の方に当れる山
尊良親王御陵墓見込地碑 一つ。 城より少し高くして 、寄手城中を目にもの下に直下すといえども、岸絶へ、地けわしく崖にして、近付け寄れぬれば・・・・ 」 とある堅固な城だったが、 越前守護の斯波高経(しばたかつね)と高師直の軍勢に囲まれ、 更に、翌年の延元弐年(1337)正月からは越前に派遣された足利の大軍に包囲され、三月六日、城は落城し、尊良親王は自刃、新田義貞の子、義顕や気比氏治ら、三百人が殉死した。  尊良親王が亡くなった場所に、尊良親王御陵墓見込地の石碑が建っていた (右写真)
金崎宮 恒良親王は京都に護送され、翌年に死亡。 新田義貞は、翌年の戦いで、無念の死を遂げた。 
なお、明治二十六年に、この古戦場跡に恒良親王と尊良親王を祀る金崎宮が創建された (右写真)
元亀元年(1570)、織田信長が越前に侵攻、朝倉氏を攻めたので、金ヶ崎城は隣の手筒山城と共に落城する。  しかし、近江の浅井氏が信長を裏切ったので、挟み撃ちによる全滅を恐れた織田軍は退却。  その時、金ヶ崎城に残り、しんがりを務めたのが秀吉である。  金ヶ崎城は朝倉氏の手に
金崎公園 戻ったが、元亀四年(1573)、織田軍は再び越前に侵攻したため、金ヶ崎城が再び落城し、朝倉氏の本拠の一乗谷も落ち、 朝倉氏は滅亡した。 
その跡が金崎公園であるが、今はそのことより桜の名所として知られている (右写真)
金崎宮の山麓にある金前寺の案内板には、「 天平八年(736)、泰澄大師が十一面観世音像を刻み、現在の金崎宮の地に、開創した寺で、 弘仁弐年(811)には弘法大師が逗留し、その頃は十二坊もある壮観さだった。  金ヶ崎城落城の時は当寺観音堂で、尊良親王と新田義顕が自害された。 
鐘塚 元亀元年の信長による天筒山攻めの兵火で寺は全焼したが、寛文弐年(1662)に現在地に観音堂を再建した。 」 とあるが、 芭蕉が敦賀にきた折、延元の戦いと沈鐘の話を聞き、
 「  月いずこ  鐘は沈む  うみのそこ  はせを  」 と、詠んでいるが、 鐘塚は芭蕉没後六十八年目に建立されたものである (右写真)
昭和三十二年には、高浜虚子や星野立子らが訪れたが、その時、高浜虚子は、
 「  句碑を訪う  おりから  月もなかりけり  」 という句を詠んでいる。 

( ご参考 ) 司馬遼太郎の 「 街道をゆく 四 北国街道と脇街道 」 
司馬遼太郎は上記の中の 「 記号としての客 」 と 「 気比の松原 」 の章で、敦賀のことを触れているが、 「 記号としての客 」 の章では泊った宿にがっかりしている様子。  「 気比の松原 」 の章では、渤海使節にわずかに触れたが、敦賀の歴史の中心と思える気比神宮や金ヶ崎城は無視され、 敦賀の住民にとっては迷惑だったと思える水戸天狗党の終焉にほとんどのページを使っている。 
「 水戸天狗党の幹部には、水戸徳川家の老臣、武田耕雲斎、田丸稲之衛門、山国兵頭、藤田東湖の子、藤田小四郎などがいて、 尊王攘夷を掲げて、元治元年(1864)に筑波山で挙兵したが、配下の千余人の統率が整っているとはいえず、 筑波山のあたりの農家は軒なみに荒らされたため、幕府はやがて追討軍を出し、各地で小競合を演じた。  そのころ、京都には水戸徳川家の出身である一橋慶喜がいたので、慶喜にすがろうと京都へ向かったが、 慶喜自身が彼らに対する追討総督になり、越前新保まできた彼らの嘆願をしりぞけた。  かれらは、降伏し、敦賀のニシン蔵に入れられたが、その仕打ちは陰湿で、江戸からきた田沼玄蕃頭意尊の手で、 三百五十二人が首をはねられて、五つの穴に蹴りこまれたと紹介している。 
松原町の松原神社には武田耕雲斎ら、この時の処刑者の霊が祀られていて、司馬遼太郎は雨の降る中、訪れている。 
 
海 津
司馬遼太郎は、旅の初めに海津を訪れている。 
西近江路(七里半越)は、現在の国道161号で、敦賀を出ると疋田交叉点で塩津街道と別れる。  国境の手前の山中には古代の北陸街道の愛発(あらち)の関が置かれていた。  この関は伊勢の鈴鹿、美濃の不破の関と共に古代三関のひとつであるが、 天平宝字八年(768)に、太政大臣になった恵美押勝(藤原仲麻呂)が政権回復のために挙兵し、 息子辛加知が国守している越前へ走ろうとしたが、その途中、官軍により、この関が閉じられていて、失敗した、という歴史がある。  そこを過ぎると、マキノで下ったいくと、海津に至る。 
司馬遼太郎は、琵琶湖北岸にある海津からタクシーで北上して、敦賀に出たのであるが、 海津の印象について、 「 海津の村は、いかにも宿場めいた家並が街道に沿っている。  その前方の山なみに雪が光っていて、昼間というのに人通りはほとんどなく、 北の涯の町にまぎれこんでしまったのではないかという感じである。 」 と記している。  小生は桜のある時にか、訪れたことはないが、平時には遼太郎と同じ印象をもったかもしれない。  遼太郎らは、今でも賑わいのある港を想像していたようだが、 明治時代には琵琶湖汽船が運航していた賑わいはいつの頃か、消えてしまい、 また、見えると期待した竹生島は海津大崎の岬のはしで、さいぎられて見ることができなかった。 
彼らが訪れた時代に比べ、琵琶湖西岸は、湖西線や湖西道路が出来たことで、賑やかになったが、 今津や海津辺りは、まだまだ昔ながらの町並みが残っている。  海津は、琵琶湖から敦賀に抜ける七里半越の起点であり、畿内と日本海との物資の中継点として、 古代から江戸末期までは大いに栄えていたが、明治に入り、 太平洋航路の発達により、日本海航路が廃れたことから、七里半越の荷物はなくなり、海津町の繁栄も遠い過去 のものになってしまった。 

塩 津
常夜燈 司馬遼太郎は、 「 琵琶湖は、その北端において三つの湾をもっている。  それぞれの湾に湖港があり、塩津、大浦、海津がそれである。 どの港も、古代から江戸末期まで栄え、いまはまったく機能をうしない、 海津などはもう漁港という姿でさえなくなっているようである。 」 と書いているが、 今でも、塩津の町には、廻船問屋、造り酒屋、旅籠だった建物や常夜灯が残り、宿場町の雰囲気を伝えている (右写真ー国道8号線塩津交差点近くの常夜燈) 
塩津街道は、現在の国道8号線で、疋田交叉点で西近江路(七里半越)と分かれ、沓掛から塩津の町に出て、塩津浜に至る道だった。  また、塩津浜は平安時代から江戸時代までのびわ湖の湖上交通の要衝で、 この街道で運ばれた物資は、米、青菜、紅花、たばこ、にしん、ぶり、昆布、わかめ、干鰯、
鉄、鉛、銅など。 塩津浜から丸子船でびわ湖を渡り、大津へ運ばれたが、 街道には馬や大八車が
盛んに往来し、上り千頭、下り千頭と言われるほどのにぎわいだった、という。  街道を車で走ったが、
そうした雰囲気は影をひそめてしまっていた。 

平成20年4月


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かうんたぁ。