西国街道は、江戸時代には山崎街道あるいは山崎道とも呼ばれていたようである。
東海道の大阪高麗橋経由よりも距離が短いので、
西国諸大名の参勤交代の道として多く利用されたといわれ、
東海道の脇街道の役割を担っていた。
現在は国道171号線がほぼ並行して続いている。
羅城門を出ると、山崎宿、芥川宿、郡山宿、瀬川宿、昆陽宿を経由して、西宮宿に入っていった。
平成二十二年八月二十九日の朝早く名古屋を出た。
京都駅から近鉄で東寺駅で下り、羅城門に向かって
歩いて行くと交叉点の先に見上げるように東寺の五重塔があった。
「 東寺は、
教王護国寺と呼ばれる真言宗の総本山で、世界遺産に登録されている。
この塔は慶長二十一年(1644)に再建されたものだが、国宝に指定されている。 」
九条通りを濠に沿って歩くと右側に東寺の南大門があり、朝のお参りを済ませた人が門から出てきた。
九条通り(国道171号線)を西に、久世橋方面へ向かう。
京阪国道口交叉点を過ぎたところの右に入ると、南大内小学校がある。
その先の右側に京都中央金庫があり、九条旧千本交叉点の手前に「羅城門跡」 と書かれた小さな石碑がある。
「
羅城門は都城の城壁のことで、平城京や平安京の時代、
都の中央を南北に貫いた朱雀大路の南端に構えられた大門のことである。
羅城門は、平安京の南の入口にあり、北にあった御所に通じる朱雀大通りに面していたが、
弘仁七年八月の大風で倒壊し、再建されたものの、天元三年七月の台風で、
再度倒壊してからは再建されなかった。
都の衰えとともに羅城門のあたりは荒廃し、
やがて夜ともなれば誰も近付かぬ荒れはてたところとなった。
室町時代に入ると、観世信光が、
「 羅城門に棲みついた鬼の茨木童子が、夜な夜な現れ、都の人々を恐れさしたので、
渡辺綱がこれを退治した 」 という、当時の伝説を基にして、謡曲「羅生門」を作った。
また、芥川龍之介は羅生門という小説を書いている。 」
羅城門は九間五層の重層門だったようであるが、今は滑り台がある小公園の中に、
明治時代に建てられた、「羅城門遺址」 と書かれた大きな石柱が建っているだけだった。
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道路に戻ると、左側に矢取地蔵堂があり、お堂の中には 「矢取り地蔵」 と呼ばれる、石造りの地蔵菩薩坐像が安置されていた。
また、小さいものだが、羅城門の復元模型も置かれていた。
「 この地蔵尊には、平安時代、東寺の空海と西寺の守敏が雨乞い合戦が行われたが、敗れた守敏が空海に矢を放ったところ、地蔵が背中に矢を受けたと伝えられ、 いつの頃か、矢取り地蔵と呼ばれるようになった、という話が残っている。 」
お堂の前の左側には、天保三年(1832)の愛宕山常夜燈、右側には道標が建っている。
「 嘉永七年(1854)の建立の道標には、「 右ハやなぎ谷観世音菩薩 」、 「 左やわた 八幡宮 往来安全 」 などと、彫られている。 」
山陽道(平安時代の主要官道の一つ)は羅城門が起点で、ここから南に進み、
鳥羽から久我に進み、桂川を渡った後、南西に直進する久我畷を通り、山崎に出ていた。
江戸時代の西国街道もここが起点であるので、小生の旅もここから始まる。
さらに進むと、唐橋堂ノ前町交叉点があり、右奥に進むと唐橋小学校があり、
その奥に鎌達稲荷神社が建っているが、羅城門跡より大きな、この大きな公園が
空海に負けた守敏がいた西寺があったところで、
「史蹟 西寺阯」 の碑が建っている。
「 西寺は羅城門を挟んで、東寺と対称の位置に造営されたが、正暦元年(990)に塔を除く大部分が、 天福元年(1233)には、塔も焼けて荒廃していった。 」
街道に戻り、九条通りである国道171号線を進む。
西国街道は、その先、
黒い漆喰造りの家の先にある九条御前交差点のところで、
国道と別れ、左側の細い道に入っていく。
分岐地点には道標がないので、気を付けないと、そのまま国道を歩いてしまいそうなところである。
その先、西大路通りと交叉する脇にある歩道橋には、 「西大路通西国街道」と書かれていたので、西国街道を歩いていることが確認できた。
交叉点を横断し、通りに入ると「吉祥院商店会」の看板があるが、
、一般的な商店街と違い、店が立ち並んでいるというような感じはしなかった。
西高瀬川に架かる小さな吉祥院橋を渡ると、
左側に屋根に煙出しがあり、白漆喰壁で格子が嵌った家が建っていた。
その先右側のJAのある道の角には愛宕山常夜燈が建っていた。
この先、愛宕山大権現と書かれた石柱を何ヶ所かで見ることになる。
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有限会社山辰のところから道は狭くなった。
その三叉路の左側にある家の前には、
「 旧西国街道 」 、「 東寺へ十八町 」 、 「 中の町あぜみち口 」の道標の他、
愛宕山常夜燈が建っていた。
その前には京のつけもの いしだと看板を掛けた店があった。
道なりに歩いて行くと、「吉祥院西ノ茶屋町」信号交叉点に出た。
左右の道は国道171号で、ここでは「葛野大路通り」の愛称がついている。
西国街道はこの交叉点を横断して、南西に続く道である。
右側に喫茶ORANGEがあり、その先の右側に日向(ひむき)地蔵尊があった。
「 お堂の中に祀られている地蔵像は、
明治の廃仏毀釈運動の際、村人が隠して保存したというものである。
お堂を守るように茂っていたのは樹齢百三十年という大きなモチノキで、
大乗妙典塔に隠れるように、愛宕山常夜燈も建っていた。 」
左側にある大乗妙典塔は安政五年に建立されたものである。
由緒石には、「
これも紛失しているのを探しだし、その下に一石一字を刻んだ石を埋めた。 」 、
と刻まれていた。
「西ノ茶屋町」 の石柱もあることから、かっては西国街道の茶屋があったのだろう。
右手に吉祥院球技場が見える車両一方通行の道を行くと、変則的交叉点に出る。
西国街道は南に向きを変える。
スポーツバックを持った少年たちが歩いていたが、球技場に訪れるためだったようである。
更に進むと、右側に老人ホーム・吉祥ホームふれあいセンター、
その先右は久世橋東詰公園である。
道なりに上っていくと、桂川に架かる久世橋に出た。
江戸時代には橋が架かっていなかったので、川越人夫の手を借りて、川を越えていたのだろう。
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現在は、桂川を国道171号が通る久世橋で渡る。
この橋には歩行者用のスペースが付いているので、安心して渡れる。
橋を渡ると久世橋西詰公園がある。
久世橋西詰にある上久世交叉点の手前で、橋の下の道に下りて、橋の下をくぐり反対側に出た。
堤防の上にあるのは府道123号線。
右手の堤防の下にあるのは遊船料理いづみやである。
その先の三叉路の真ん中には大正六年の道標があり、
「 右西国街道 左字築山・・・ 」 と刻まれていた。
右側の道(府道207号)に入り、坂を下ると右にカーブし、交叉点にでるがそのまま直進する。
このあたりも京都市で、南区久世大築町である。
道の左手には木下神社がある。
「
木花開耶姫命が祭神で、安産の神、火防の神として信仰されてきた神社である。
右の脇社には皇太神宮、左の脇社にはは春日大社と住吉大社を合祀している。 」
街道に戻り、進んでいくと、右側の京都久世郵便局の先に「嚴嶌神社」の標柱がある。
「
うっそうとした森の入口に鳥居があるので、
木立の中の参道を歩いていくと、社殿の前にでた。
嚴嶌神社には、宗像三神が祀られていた。 静かな境内には、スダジイなどの大樹があった。 」
街道に戻ると、その先に久世殿城(くぜとのしろ)交叉点がある。
交叉点の右側にマクドナルドがあったので立ち寄り、軽食とトイレ休憩をした。
交叉点で国道を横切り、最初の交叉点で右折すると、福田寺の山門と左に石仏が祀られていた
「
福田寺は、奈良時代の僧・行基が開祖という古い寺だが、今は古い建物は残っていない。
百人一首の 「 よもすがら もの思ふころは 明けやらぬ 閨(ねや)のひまさへ
つれなかりけり 」 を詠んだ俊恵法師もここの住職だった。 」
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先程の交叉点に戻る。 ここからのJR向日町駅までの西国街道のルートは少しややこしい。
交叉点のところに大きな木があり、立派な家がある。
この交叉点を直進(南に進む)するのが古いルートで、殿城公民館に出て、
左折して進むと民家の角に愛宕大権現と書かれた常夜燈がある。
その脇を進み、新幹線のガードを越えて、JR東海道線の下をくぐる西国地下歩道に出る。
その先で鉤型のようになっているが、その先の交叉点を進むと、
JR向日町駅のすぐ東の線路のところに出るが、行き止まりになっていた。
「
古地図では、駅のすぐ北側を横断しているように描かれているので、以前は通れたのだろうが、
残念である。
そういえば、交叉点の入口に「行き止まり」の表示があった。 」
しかたがないので、交叉点から北に向かい三百メートル弱歩くと、左側に生コンのサイロがあり、
その脇にJR東海道線の下をくぐる西国地下歩道があった。
トンネル内のプレートには「昭和四十二年竣工」 の表示があったが、
トンネルをくぐり向う側に出た。
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西国地下歩道をくぐると、向日市寺戸町瓜生である。
修理式・瓜生交叉点で左折して、
府道207号を線路に沿って南下する。
左に小公園があったので、トイレのついでに顔を洗い、タオルに水を含ませて首に巻いた。
今日は三十五度以上に気温が上がっているので、すでにペットボトルのお茶を二本飲んでいる。
少しいくと、左側にJR向日町駅がある。
駅前の薬屋の前に 「 浄土門根元地粟生光明寺道 」 の大きな道標が建っていた。
向日町駅前で、道は左に大きくカーブする。
その先信号交叉点があり、左側の寺戸川の橋のたもとに
「 愛称西国街道 」 という標識があった。
阪急京都線の踏切の手前の右側に愛宕山常夜燈が建っていた。
踏切を渡ると、右手に阪急京都線の東向日駅が見える。
西国街道はこの三叉路を左(直進)である。
道の右角に大きな太神宮常夜燈があるが、
これは天保十三年(1842)に築榊講という伊勢講の人たちが建てたものである。
ここにはバスを誘導する警備員が立っているが、向日競輪と関係があるのだろうか?
西国街道は三叉路で、府道と別れ、左側の車両一方通行の狭い道に入る。
三叉路の中央には、「 右 さんご寺 西山上人御廟道 」 と書かれた道標が建っていた。
この道は、昔ながらの街道情緒が残る道で、
石畳にカラー舗装と街道であることが分かるように工夫されていた。
その先の交差点の右側にはセブンイレブンがあるが、 ここは大原野へ至る道(府道207号大原野道)と交わるところで、 道の角に四本の道標が建っている。
「
右端の道標は大正九年に建立されたもので、
「 官幣中社大原野神社 右へ一里 」と刻まれている。
その隣から順に、
「 淳和天皇 桓武天皇皇后 御陵 」、「 左 ほうぼだい院観世音 」 、
「 右 灰方伺地蔵 」 の道標である。 」
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ここは向日市寺戸町梅ノ木で、
市が作った寺戸町梅ノ木の道標には、
「 昔、この辺り一帯が梅林であったため、この地名が付いた。
地元に伝わるご詠歌にも、 「 ありがたや だいいちさまの おすがたが うめのこがげにおわします 」 」 とあった。
梅ノ木道標のすぐ先の左側には長屋門の家があったが、 この先にも古い家が一部残っていた。
道をすすむと、左側に文化十二年(1815)建立の愛宕山常夜燈などが祀られていた。
その先には地蔵尊が祀られていて、野辺地区に入ると右側に西山高校、
左に入ったところに、野辺坂児童公園がある。
西山高校を過ぎると、右側に石仏が祀られているところがあり、
道の角に愛宕大権現の常夜燈がある。
この愛宕山常夜燈は大正十二年に建てられたものである。
西山高校の東側の住宅街を南西へ進んでいる訳だが、
小高い地形のため、こののあたりから上り坂になった。
その先の信号交叉点を右折すると、突き当たりは京都向日町競輪場である。
西国街道は交叉点を越え、狭い一方通行の道を南西に進むが、
交叉点に入ってすぐの右側に西国街道の道標が建っていた。
ここにあった自動販売機で、また、清涼飲料水を一本買った。
その近くに市が建てた 「 寺戸町東ノ段 」 の道標がある。
道標の文面
「 この付近は小高い地形になっており、段をなしているように見えたのでしょう。
西国街道を中心に、東側を東ノ段、西側を西ノ段と呼び習わし、地名として定着した。 」
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この東ノ段と呼ばれる上り坂の左側にあるのが安永五年(1776)建立の愛宕山常夜燈である。
梅ノ木からここまでの短い区間に、愛宕山常夜燈が三基あった訳で、
愛宕山の火防信仰の強かったことを感じた。
上りが急になったが、このあたりには右に屋根に煙出しのある白漆喰に家、
左に蔵のある虫籠模様の白漆喰の連子格子の家などがあった。
上りきると、府道67号線(西京高槻線)と合流した。
この交叉点の右角には、向日町道路元標が残っていた。
交叉点の対面にあるのは、京都府指定文化財の須田家住宅である。
「 須田家は、屋号を松葉屋といい、明治三十年代まで醤油の製造販売をしていた家で、 現在も残る建物は堂々とした建物なので、内部を見たかったが、非公開だった。 」
家の角に、平成九年に建てられた 「 江戸期古道名 」 と書かれた石碑があった。
「 石碑には、
「 右・西国街道 中・あたごみち 左・たんばみち 」 と、刻まれていた。
ここは昔からの交通の要所で、
西国街道が、愛宕へ至る物集女(もずめ)街道(府道西京高槻線)と、
丹波道とに別れる追分だったのである。 」
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西国街道は府道67号を南に向って歩いていく。
アーチに「向日町商店街」とあったが、アーチをくぐると、
街灯には「アストロ通り」と書かれていた。
江戸時代にはこのあたりに多くの旅籠があったようで、
日本地図を作った伊能忠敬もこの宿場に泊ったようである。
右側の京都銀行の先の三叉路の左側角に、
「 → 向日神社 元稲荷古墳 ← 長岡大極殿跡 」 の道標があった。
道の右側には向日神社の標柱と大きな鳥居があり、奥に向かって参道が伸びていた。
鳥居の左方には石柵で囲まれた一角があり、「 説法石之由来碑 」 と書かれた石柱が、
建っている。
石柱には 「 徳治二年五月、日像上人が此の石の上で法華経を詠み、説法をせしところ 」
、とある。
石の囲いの中の大きな岩が説法石だが、これについては以下のいわれがある。
「
日像上人は、日蓮宗の開祖・日蓮の孫弟子にあたる人物で、
今からおよそ六百九十年前の鎌倉時代の末期に、
日蓮宗を都で広めようと辻説法を行っていたが、天台宗の妨害に遭い、都を追われたが、
向日神社に立ち寄ったところ、二羽の白いハトが飛んできて、
日像の衣のすそをくわえて離さなかった。
これを契機に、当地で説法を始め、信者を増やしていったという。
説法石は、当初は参道の中程にあったが、廃仏希釈の際、取り外され、
後日、現在の場所に鎮座された。 」
向日神社の参道は、長くだらだらとした上り坂の石畳の道であるが、
途中に勝山稲荷神社があった。
黙々上っていくと、向日神社の拝殿が見えてきて、その奥に本殿があった。
向日神社は、向日大神とも呼ばれる、地元の鎮守である。
神社の歴史は古く、延喜式に記載された向神社(上ノ社)と火雷神社(下ノ社)が、
合併したものである。
向日神社の由緒書
「 社伝によると、創始は養老二年(718)である。
当社は延喜式神明帳に記載された、いわゆる式内社であり、
延喜式においては山城国乙訓郡向神社と称され、 後に同式の乙訓坐火雷神社を併祭して、
今日に至っている。
両社は、同じ向日山に鎮座されたので、 向神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。
当社の創立は、大歳神の御子・御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、
この地に永く鎮座して、 御田作りを奨励されたのに始まる。
向日山に鎮座されたことにより、御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。 」
本殿は応永二十五年(1418)に建てられたもので、国の重要文化財に指定されている。
東京の明治神宮の本殿は、この本殿をモデルとしたとされ、当社本殿の1.5倍の大きさである。
当社が建つ丘陵は名神高速道路建設の採土になったため、山が削られ、
向日神社と元稲荷古墳の周辺を残すのみになった。
街道に戻る。
道標にある 「長岡大極殿跡」 が気になっていたので、道標の指示した方に下って行く。
突き当たりの小公園を右折すると、住宅地の中に、ひっそりとした小公園があり、
これが長岡京の大極殿跡だった。
「
長岡京は、平安京ができる前の延暦三年(784)から十三年まで、奈良の平城京から移された都があったところである。
小生が訪れた時はなにもなかったが、今は「史跡長岡宮跡」の黒い石碑と「大極殿公園」の石碑
が建っている。
道路で南北に分けられた公園には、南側に大極殿、
北側に小極殿が整備・復元されているようである。 」
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街道に戻り、西国街道の旅を再開する。
向日神社の先の「向日町商店街」とあるアーチのあるところは五辻交叉点で、
その名の通り、五叉路になっている。
府道67号は右にカーブしていくが、西国街道は直進(左斜めの道)する。
狭い道を進むと、道の左側に石塔寺がある。
説明板
「 この寺は、鎌倉時代末期、日像上人が向日神社前にある法華題目の石塔婆の傍らに、
お堂を建て、石塔寺と称したのが創建と、伝えられている。
毎年、五月三日の花まつりには、鶏冠井(かいで)題目踊りが奉納される。
石塔寺で行われる鶏冠井題目踊は、京都府指定無形民俗文化財である。 」
電柱には、 「 愛称 西国街道 」 と、書かれた道路上にある標識があるので、
この道が西国街道であることが確認できた。
この辺りからゆるい下り坂になるが、その先の三叉路の左側に赤い祠がある。
祠に祀られているのは鈴吉大明神である。
この坂は島坂と呼ぶれる坂である。
紀貫之は、土佐日記で、帰京時にここに立ち寄り、
「 島坂にて、ひと饗(あるじ)したり 」 と書いている。
紀貫之は、山崎までは船で来て、山崎で京からの迎えを待って、
陸路で京に向かっている。 」
この坂を下りきったところの左側に、大正十三年建立の愛宕大神と刻まれた常夜燈があった。
周囲には工事用の材木が置かれて、雑然としていた。
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道なりに進むと、右からの府道67号と合流するが、目の前に阪急京都線のガードがある。
西国街道は、ガードをくぐったところに信号があり、道を横断すると右斜めの小道があるので、その道をいく。
小さな川に架かる橋の欄干には右側に 「西国街道」、左側に「小井川」 と書かれている。
橋を渡るとアスファルト舗装ではなく、ブロックで敷き詰められた舗装に変わった。
右側の電柱の脇には、 「 上植野町上植野町下川原 」 の標柱がある。
標柱の文面
「 言い伝えによれば、豊臣秀吉が小畑川の流路を西に移し、
道路を拡張整備すると同時に堤防を築いた。
この時出来た広い河川敷が、後世、農地化、宅地化され、それが地名に残ったとされている。 」
その傍には 「 愛宕御神前 正徳五年(1715) 」 と、書かれた常夜燈が建っていた。
右側に黒板塀に犬矢来、長屋門、そして、
連子格子で白漆喰壁に虫籠窓という家があり、庭木も立派である。
その先の右側に 「 喫茶中小路家住宅 」 という看板を出していたので、
中を覗くと、これまた、立派な古い家だった。
現在の主屋は、弘化五年(1848)に建てられたものである。
「 中小路家の先祖は、菅原道真の一族で、太宰府へ左遷される道真に従ったのち、京へ戻り、 道真を祀る天満宮を、現在の長岡京市開田に造立したと伝えられ、 室町時代から戦国時代にかけては、乙訓西岡の土豪として活躍し、 本拠として開田城を築いた人の末裔といい、幕末には聖護院門跡領の庄屋を務めていた。 」
その先左側、白漆喰の虫籠窓の家も味わい深い。
この集落の道はそれほど長くはなかったが、古い家が多くて旧街道の情緒があった。
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集落が終わると府道203号、左からは府道67号が合流する一文橋交叉点に出た。
交叉点の右側を渡ると、木立の下に「西国街道」の石碑があったので、
西国街道を歩いていることが確認できた。
府道67号に入ると、小畑川に架かる橋の手前に、
大きな一文銭がのった石の下に、「一文橋」の標示がある。
その手前に一文橋の由来碑が建っていた。
由来碑文面
「
京と摂津西宮を結ぶ西国街道にかかるこの橋は、室町時代ごろに造られた、
有料の橋とも伝えられる。
大雨のたびに橋が流され、その架け替え費用のため、
通行人から一文を取り始めたのが、橋名の由来といわれる。 」
小畑川を渡ると、向日市から長岡京市になった。
太陽がじりじり照りつけるのには閉口する。
暑さにたまらなくなったので、小畑川に下りて、水面にタオルを浸して、
頭や首そして手を拭いたが、
手には知らない内に汗が乾いて塩分に変わっていたことを知った。
もう一度、タオルを川に付けて、濡れたタオルを首に付けて、街道に戻った。
一文橋から馬場一丁目までは府道67号線は小畑川の堤防上の道を進む。
ここには「西国街道」 の道路表示があった。
府道67号線の堤防道の下、右側に細い道があったので、
歩いていくと、新しそうなお地蔵さんが祀られていた。
その先で再び、府道67号線に合流したが、
左側に 「手打ちうどん そば 九十九 」 という看板の店があったので、
そこに入り和風冷麺を注文し、しばしの休憩と昼食をとった。
冷房が利いていて、トイレでタオルを濡らしたので、この先、頑張れるような気がした。
食事を終え、街道に戻ると馬場一丁目の交叉点に出た。
交叉点の右側には「弓場街道」の標識があった。
交叉点の向うにローソンがあったが、これは最近出来たように思われる。
ローソンの先左側にある駐車場の入口に、
「西国街道」の道標があり、 「 右 一文橋 京 」
、 「 左 調子八角 山崎道 」 とあった。
西国街道はここで府道67号とわかれ、左の細い道に入る。
ここには西国街道の説明板があった。
「 西国街道は京都の東寺を起点として摂津の西宮に通じる江戸時代の幹線道路です。
この街道は豊臣秀吉が朝鮮出兵に際して拡張整備したことから、
秀吉が作った道として知られ、江戸時代には西国街道ではなく、
唐道、唐海道 と絵図や古文書に書かれています。
東寺口から西へ桂川をわたって久世、向町、神足を経て山崎へ至る街道は、
乙訓地域に住む私たちにとってなじみ深い道です。
神足は東寺口から出発して二里(約8キロ)目にあり、一里ごとに置く一里塚があり、
旅人の目印になっていました。
また、江戸時代の初めには街道沿いに永井直清氏が、神足館(勝竜寺城)を十六年間構えており、
当時の絵図には武家屋敷とともに京口、茶屋口が描かれています。 」
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西国街道の狭い道は、府道67号線のすぐ東側に平行していて、
最近作られたと思える二色の淡いタイルのようなもので舗装されていた。
右側に民家の一角に、上ノ町 蛭児(えびす)社がある。
日本書紀では、 「 イザナギノミコトとイザナミノミコトの間に最初に生まれたのが、
意にそわない蛭児(ヒルコ)だったので、葦船にのせて流した。 」 とある。
それがエビス神として戻ってきたという話は、西宮神社で知ることになるが・・・
そのまま南下すると、神足(こうたり)商店街の表示が見えてきた。
左側の鈴木病院駐車場の先には、千本格子に白漆喰、虫籠窓、
煙出しのある古い造りの家があった。
右側に地蔵堂があったが、少し歩くと天神通り(府道210号)に出た。
交叉点の左上には「西国街道」の道路標識があり
、右側のCOCACOLAの自動販売機前の石柱に、
「犬の小便厳禁」 という板が下げられていたが、
犬は読めないので、飼い主のモラルは低いなあと思った。
このあたりは再開発で整備され、風景が変わってしまっているところで、
左手にJR長岡京市駅が見え、
対面の右側にアルモンドビル、左側にバンビオ2番館という大きなビルが建っている。
交叉点の右角と対面の道角の二ヵ所に、新しい大きな道標が建っている。
「 道標には、「 長岡京 延暦三年至る延暦十三年 桓武天皇王城ノ地ナリ 」 、 「 西国街道 右一文橋 左 調子八角 山崎 」 とと書かれていた。
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この右手八百メートル強のところに、長岡天満宮がある。
この時は立ち寄らなかったが、令和四年(2022)十一月十七日に訪れた。
天神通りを西に向うと、右手に阪急長岡天神駅が見えてきて、
踏切を渡ると、右側に 「天満宮」と書かれた常夜燈があった。
さらに進むと、長岡天満宮前交叉点に出た。
左右の道は県道10号で、正面に「長岡天満宮」の看板があり、
階段の上に大きな鳥居がある。
階段を上ると、参道が三つあり、参道の左右にあるのは八条ヶ池である。
説明板「八条ヶ池」
「 長岡天満宮の東側に南北に細長くのびるこの池は、
八条宮智仁親王にちなんだものです。
神社の由来書によると、江戸時代に当地一帯を領した親王が、
寛永十五年(1638)に境内の東側に池を開き、
翌年境内周辺に堀を掘ったといわれています。
以来、今日まで、農業用の溜め池として利水されてきました。
池のほぼ中央にのびる中堤には、樹齢170年のきりしまつつじが参道の両側に植えられています。
このきりしまつつじを守るために、平成三年より中堤の整備工事が行われました。
きりしまつつじ 市指定 天然記念物
以下、きりしまつつじの説明があるが、省略する。 」
左の参道からの八条ヶ池の左手に点在する建物は錦水亭である。
中堤の先には三つの太鼓橋が架かっていた。
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太鼓橋を渡ると、天満宮の境内である。
参道を進むと、「古今伝授の間ゆかりの地」の碑と「温故知新」の碑、
そして「開田御茶屋から古今伝授の間」という説明板が建っていた。
説明板「開田御茶屋から古今伝授の間」
「 慶長五年(1600)、八条宮家(のちに桂宮家と改称)の初代・智仁親王は、
細川幽斉(藤孝)から古今和歌集の解説に関する奥義の伝承を京都の自邸で受けました。 二代・智忠親王は、父の智仁親王が古今伝授をうけた建物を八条宮家の領地が
あった開田村の開田天満宮(のちの長岡天満宮)境内に移築します。
幽斉の居城勝龍寺城があった長岡の地に移されたこの建物は、
以後、「開田御茶屋」とよばれ、大切に伝えられてきました。
明治維新を迎え、開田村が桂家の領地でなくなると、
明治四年(1871)に開田御茶屋は解体され、ゆかりのある細川家に引き取られます。
そして、大正元年(1912)、茅葺屋根に変わり、熊本の水前寺成趣園に、
「古今伝授の間」として再建されました。
平成二十一年(2009)から翌年にかけて行われた古今伝授の間の解体修理では、
柱・欄間・花頭窓といった部材や間取りなどが、
長岡天満宮時代のものを受け継いていることが確認されています。
幽斉と智仁親王を結ぶ開田御茶屋が、
今もなお古今伝授の間として伝えられていることを受け、
「住みつづけたみどりと歴史のまち」 を実現するため、
長岡京市制施行四十周年記念の年に、ゆかりのある地であるここ長岡天満宮に、
この石碑を建立いたします。
平成二十四年十一月五日 長岡京市 」
上記の古今伝授の間は、日本100名城で熊本城を訪れた時、
水前寺公園にも足を伸ばし、見学してきた。
参道はその先で、左に左折し、左に常夜燈がある。
その先に鳥居があり、くぐって進むと、右側に鳥居の壊れたものが置かれている。
説明板「ニの鳥居」
「 長岡天満宮のニの鳥居は、平成30年(2018)9月近畿地方に、
甚大な被害をもたらした台風21号による倒木が、その笠木を直撃し、
倒壊しました。
補修も検討しましたが、技術的に困難と判断し、
このたび形を変えて残す事と致しました。
この倒壊した鳥居は、霊元天皇(第112代天皇、御在位寛文3年〜貞享4年)が、
上皇になられてからの元禄5年(1692)に、
当天満宮に寄進された二基のうちの一基であります。
因みに天明6年(1786)に刊行された「再板郡名所図会」に、
「洛西長岡天満宮」が紹介されており、寄進された二基の鳥居が描かれています。
なお、「一の鳥居」は、現在、府道柳谷道からの参道(山の道、長岡禅塾横)に
移設されています。 」
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ニの鳥居跡で右折して進むと、左に「 献 清廉潔白 至誠一貫 」、
右に「 献 文道大祖 風月本主 」 の大きな石柱が建っていて、
その先に石段が続いている。
石段を上ると、大きな鳥居があった。
その先は平らな土地になっていて、右手に駐車場があった。
当日は七五三のお参りの家族が訪れていた。
「 長岡天満宮の社地は、菅原道真の所領であったとされ、
在原業平らと共に、しばしば訪れ、詩歌管弦を楽しんだところと伝わる。
昌泰四年(901)、道真が太宰府へ左遷された時、当地に立ち寄り、
「 わが魂長くこの地にとどまるべし 」 と、名残りを惜しんだ。
菅原氏の一族とされる中小路宗則は、高槻まで付き従い、
別れた時に道真から自作の木像と念寺仏を託され、道真の死後、木像を祀ったのが、
当天満宮の創立とされる。
爾来、皇室の崇敬篤く、度々の寄進造営を受けた。
その後、荒廃していたが、明治に入り、中興の祖・中小路宗城が復興させた。
息子の宗康は、昭和16年に平安神宮の旧本殿、祝詞舎、透垣を拝領し、
現在の境内が完成する。 」
現在に本殿は、昭和十六年(1941)に、
京都の平安神宮の社殿を拝領移築したものである。
境内には、中小路宗城の像があった。
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天明六年(1786)の刊行の都名所図会に長岡八幡宮が紹介されている。
説明文
「 慶長六年(1601)、ここ旧開田村は、
八条宮家初代智仁親王の代に宮家の領地になり、社観の整備が進められます。
開田天満宮はやがて長岡天満宮とよばれ、
洛西きっての名勝として広く知られるようになりました。
よって、築造された大池(現在の八条ヶ池)に面して建ち並ぶ、
江戸時代中期の「歌仙御茶屋」(開田御茶屋)のようすをうかがうことができます。 」
神社の敷地は現在も二万余坪あり、庭園「錦景苑」は紅葉庭園とも呼ばれる。
期間限定で、夜間ライトアップさせるという。
訪れた時は紅葉シーズンで、境内の楓が錦模様になっていた。
帰りの参道からは八条ヶ池に架けられた水上橋を歩くことができる。
中国の西湖に浮かぶ島「三譚印月(さんたんいんげつ)」の廻廊をモチーフにしたものである。
以上で、長岡天満宮の参拝は終了した。
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交叉点には信号がないので、右手の長岡京駅前交叉点から対面に渡り、
この交叉点の対面の位置に戻り、西国街道の旅を続ける。
この道は色付けした舗装になっていた。
その先の交叉点から道は細くなるが、道の両脇には古そうな家が残っている。
交叉点の左右の道はガルシヤ通りと呼ばれ、
その先には、「 西国街道とガルシヤゆかりの地を歩く
お立ち寄りスポット 神足石仏群」 という看板、右側にあった。
この道の奥のもう一つの道から入ってところにあった。
少し行くと、右側に神足公民館があり、
その前に 「 JR神足駅 」 の駅名表示板があった。
JR長岡京駅は、今から二十年位までは「神足駅(こうたりえき)」 という駅名だったのである。
ここにはJRの職員寮があるので、かっての駅名をしのんで建てたものらしい。
また、大正天皇即位の大典記念碑もあった。
その先右側に国登録有形文化財の旧石田家住宅がある。
現在は甘味処になっているようで、その前には氷水の旗が立っていて、
子供連れが入ろうか迷っていた。
石田家住宅は、一階は連子格子、二階は狭い白壁に虫籠窓がある、
江戸時代末期の建築である 。
長岡京市教育委員会の説明板
「 旧石田家住宅は、店舗と住宅を兼ねた町家で、規模が大きく、
江戸時代末期の町屋建築の基準となるものとして、
平成十一年十二月二十日に国の登録有形文化財となりました。
西国街道に東面して建つ切妻造で、三面に庇を廻しています。
表構えに格子と出格子を並べ、大屋根下の白壁に二ヵ所の虫籠窓を開いています。
玄関を入ると、通り庭が奥に続き、煙出しや六寸角の大黒柱、繊細な細工を施した
座敷などが残されています。
町家独特の風情を持つこの住宅は、神足村旧家・岡本家一族の商家で、
江戸時代には、「紙屋」という屋号で、和紙などを商っていたようです。
長岡京市が平成十五年にお茶の小売業していた石田家から購入し、
神足ふれあい町家として整備したものです。
平成十九年三月 長岡京市教育委員会 」
その先、神足商店街のアーチをくぐると、三叉路で、
右側には 「元禄拾三庚辰夭」 と書かれた愛宕山常夜燈が二基あった。
その内、一基は阪神淡路大震災で被災し、再建されたものである。
その手前左側の角には、 「 式内神足神社 」 「 是ヨリ東三町 」 と刻まれた、 明治十五年建立の道標が建っている。
三叉路を左折し、東海道本線のガードをくぐると、府道211号で、
東神足交叉点を左折すると、神足神社と勝竜寺城の土塁跡がある。
また、右折すると、勝竜寺城跡、勝竜寺、そして、恵解山古墳がある。
(注)勝竜寺城跡、勝竜寺、そして、恵解山古墳には後日、訪問した。
巻末に掲載している。
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対面の酒屋の自動販売機で、五本目のボトルを買ったが、
お茶ばかりでは飽きるので、健康飲料にした。
酒屋の左側には享和元年(1802)の建立の道標があった。
正面に 「 右 山ざき 左 よど 」 、両面に 「 左 京 あたご 」 「 右 京 阿たご 」 と刻まれていた。、
これは山崎と淀との追分であることを示す道標である。
西国街道は右に曲がって行き、片泓交叉点で府道67号と合流する。
府道67号を歩き、犬川に架かる小さな犬川橋を渡る。
西国街道は橋を渡るとすぐ府道と別れて、左斜めの狭い道に入って行く。
分岐点には最近作られた黒い指さし道標があり、
「 与市兵衛の墓0.2km 」 などと書かれていた。
少し歩くと、右側に与市兵衛の墓と呼ばれる 「 南無阿弥陀佛 」 の石碑が建っていて、説明板がある。
説明板「与市兵衛の墓」
「 この辺り(友岡二丁目)は、かって横山峠と呼ばれていた。
江戸時代に作られた人形浄瑠璃や歌舞伎芝居の仮名手本忠臣蔵( 五段目「山崎街道」の場 ) によって知られるゆかりの地である。
元禄十五年(1702)の吉良上野介討ち入りを前に、もと赤穂藩士である萱野三平の義父
与市兵衛が、三平を赤穂浪士の一員に入れるため、娘のお軽を祇園に身売りした。
その鐘を持って郷里(摂津国池田萱野村)に帰らんとし、ここを通りかかった時、
斧定九郎なる浪人に殺されたと言われている。
この墓は後世、この与市兵衛の死を傷んで供養塔として建てられたものである。
長岡京市観光協会 」
向かい側の道の左側には緑が丘地蔵堂が建っていた。
ここから少し上り坂になる。
その先道なりに左に曲がると、立命館西公園に突き当たる。
西国街道は、この三叉路で右斜めに曲がっていく。
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道なりに進むと、左側の民家の角に「友岡町地蔵尊」の標板があり、
奥の小さな祠に石仏が祀られていた。
その先右側の古い民家の角には、「西国街道」と書かれた道標があった。
友岡三丁目の右側には、「 右 やなき谷 左よど 」、
「 右ハ阿たこ すく やなぎ谷 左山さき 」、 「 すく よど 」 と書かれた、
道標がある。
ここは西国街道と淀や柳谷観音とを結ぶ追分である。
山科追分から京街道を歩いてきた大名行列は淀関所から淀姫川を舟渡しで渡り、
淀姫・小畑村・久賀井・上野を経て、丁子(現在の地名調子)に出ていた。
そのまま進むと調子八角交叉点の手前で、府道204号に出る。
このサントリー通りと名が付いている道(奥海印寺納所線)が、現在は淀へ通じている。
西国街道は、調子八角交叉点で、府道67号線と合流する。
交叉点の周囲は京都縦貫自動車道長岡京第2高架橋の工事中で、
塀に囲まれていた。
調子八角交叉点にあるポールに 「 新西国街道 」 と記されていた。
この後は、「新西国街道」 とある府道67号を 大阪府島本町まで歩いていくことになる。
国道478号の下を通り、三百メートル南下したところに小泉川があり、
小泉橋の手前には「大山崎町」の標識がある。
ここからは大山崎町である。
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令和四年(2022)十一月十七日に訪れた。
西国街道の神足2丁目14の三叉路を左折し、東海道本線のガードをくぐると、府道211号に出る。
東に二百五十メートル行くと東神足交叉点がある。
交叉点を左折すると、右側に神足神社の入口に、「式内神足神社」の木柱と
「← ようこそ! ここが勝龍寺城の入口 勝龍寺城土塁・空掘跡」 の看板がある。
中に入ると右側に勝龍寺城の土塁と空掘が復元されている。
説明板「土塁の構造」
「 土塁は側面を急斜面にすることで、城内から攻めようとする敵が、
容易によじ登れないように造られています。
発掘調査の成果から、土塁頂部の幅3.4m、裾部の幅約7.5m、高さ約6m
であったことがわかっています。
また、土塁の断面を観察すると、黒い土と黄色い土が交互に積み上げられた下層と、
黄色い礫層(れきそう)を厚く積み上げた上層に分けられます。
そのため、空掘を掘って出る土を数回に分けて、
計画的に積み上げていることがわかります。
なお、交互に積み上げた土塁の様子をブロック積で表現しています。
平成27年3月 長岡京市 」
「西国街道とガルシャゆかりの地をゆく」の説明板がある。
「 歴史・文化
戦国大名細川氏の居城で、明智光秀の娘・玉(のちの細川ガルシャ)が嫁いだ
勝龍寺城跡や京都と大阪を結ぶ西国街道は古くから交通の要衝として栄え、
数々の歴史文化を残されています。
ルート
@JR長岡京駅西口→A神足ふれあい町屋→B伝与市兵衛の墓→C恵解山古墳→
D中山修一記念館→E勝竜寺→F勝竜寺城公園→G神足神社・勝竜寺城土塁跡→
HJR長岡京駅東口
G神足神社・勝竜寺城土塁跡
延暦15年(796) 創建と伝えられる古社。
第55代文徳天皇の斉衛元年(854)には、国の官社にあげられています。
また、勝竜寺城土塁跡の一部を公園として整備しました。 」
土塁に入ると、空掘が見えた。
説明板「土塁下層の堀」
「 発掘調査により、現存する土塁の下から東西方向の堀がみつかりました。
その堀は、幅約4.5m、深さ1.5mの大きさで、断面が逆台形のいわゆる
箱堀でしす。 埋土の状況から南北方向の土塁をつくる直前まで機能していたことが
わかっています。
堀の位置や方向は、現存する空掘にも踏襲されているようです。
この堀は、細川藤孝以前に当地を拠点とした土豪神足氏の城館の可能性が高いと、
考えられます。
平成27年3月 長岡京市 」
土塁跡の奥に進むと、神足神社の社殿が左側にあったので、お参りをした。
説明板「神足神社」
「 旧神足村の産土神。 式内社で、「延喜式」にのる乙訓十九座の一つで、
「神足神社」とみえる。
また、文徳天皇の斉衛元年(854)に、国の官社にあげられている。
祭神は、舎人親王(天武天皇の子)であるといわれている。
当社には、「桓武天皇の夢」として、次のような伝説が残っている。
田村(神足村の旧名)の池に、天から神が降り立ち、
宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられた夢を見られたと言う。
天皇は目覚められ、田村にこの神を祭る社を建てさせ、太刀と絹を秘蔵させた。
以後、この社は、「神足神社」と、田村は「神足村」と呼ばれるようになった、
と言われている。
長岡市京市観光協会 (社)京都府観光連盟 」
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東神足交叉点に戻り、今度は南に向うと、
神足郵便局の先の右側に、勝竜寺城の水堀が見えてきた。
水堀の先で、右折する角に、案内板があった。
案内板
「 乙訓景観十景
令和元年京都府地域交響プロジェクトおよび京都市西京区地域力サポート事業として、
旧乙訓郡域の後世代に継続して残したい自然景観歴史的文化景観、
ならびに生態景観からなる乙訓景観十景を選定しました。
今後ともこの地域の誇りとする景観の保全と活用を期待します。
勝竜寺城公園
織田信長の命により、細川氏の勝竜寺城に嫁いだ細川ガルシャ。
歴史とロマンが詰まった勝竜寺城公園は四季折々の姿をみせる美しい公園として
多くの人に愛されています。
令和元年十二月 乙訓地名詩編纂チーム乙訓 長岡京市公園緑地課 」
その先の城への入口には、「明智光秀公三女玉お輿入れの城」の石柱があり、 その隣に「勝龍寺城跡」の説明板がある。
説明板「勝龍寺城跡」
「 勝竜寺城は、京都盆地の南西部に位置し、西国街道と久我畷の陸上交通を抑え、
淀川水系にもほど近い、交通の要衝に立地します。
文明二年(1470) 西軍畠山義就が勝龍寺を陣城としたように、
応仁・文明の乱中には寺院としての「勝龍寺」が、
たびたび臨時的な砦として利用されるようになり、
次第に恒常的な城郭として整備されたようです。
元亀二年(1571)には、織田信長の意向を受け、
細川藤孝によって大きく改造されました。
藤孝在城期の勝龍寺城は、
西岡の有力国人神足氏の神足城(神足神社付近)を取り込むかたちで築かれました。
小畑川・犬川に挟まれた神足・勝竜寺の集落を含む、
いわゆる惣構の城郭として評価されています。
昭和63年(1988)の発掘調査によって、主郭部で石垣が築造されていたこと、
建物の多くに礎石が用いられていたこと、瓦葺きであったことが判明し、
その後の城郭の基準となる諸要素を備えた、
先駆的な城郭の一つとして注目されています。
天正二年(1574)、藤孝は、天守と思われる建物で、
三条西実澄(のちの実枝)から古今伝授の切紙を受け、
同6年(1578)には藤孝の子息・忠興と明智光秀の娘玉(細川ガルシヤ)の婚礼が
、獲り行われるなど、文化的な交流の場ともなっています。
同10年(1582) 羽柴秀吉との山崎合戦で退却した明智光秀が、
最後に籠った城として知られています。
令和元年(2019)11月 長岡京市 」
その右手の地面には「日本の歴史公園百選」の石碑があり、
勝竜寺城公園は平成十九年に選ばれたとあった。
橋を渡り、中に入って行くと、左に曲がる枡形になっていた。
右側に「本丸跡」の説明板があった。
「 元亀二年(1571)、織田信長の命を受けた細川藤孝は、
それまであった勝竜寺城を、京都防衛の軍事拠点として、大規模に改修しました。
昭和63年(1988)の発掘調査で、「瓦・礎石建物(殿主)・石垣」 という当時の
最新技術を取り入れた城であったことが判明しました。
本丸は東西約120m、南北約80mの長方形で、周囲は高さ4〜5mの土塁で囲まれ、
外側には堀巡らせています。
堀は幅10m〜15m・深さ約3mで、本丸側の堀裾には石垣を築いていました。
石垣の下には、沈み込みを防ぐ木の土台が据えられていました。
石垣の築造には自然石のほか、石仏や五輪塔なども使われていました。
瓦も大量に出土し、軒丸瓦・軒平瓦の一部は、明智光秀の坂本城(滋賀県大津市)や
佐々成政の小丸城(福井県越前市)の瓦と同じ木型で作られた可能性が高いものでした。
これは織田家の家臣の城に支配した瓦造り工人が派遣されたことによるとみられます。
令和元年11月 長岡京市 」
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枡形の正面には古い石垣の上に多聞櫓が築かれ、
その前に「勝竜寺城公園」 の石碑が建っていた。
左側の石段を上り、門をくぐって中に入ると、模擬櫓の二階建て管理棟がある。
中に入ると、瓦や一石五輪塔などの出土遺物を展示され、勝龍寺城は
「瓦・石垣・天主」を備えた近世城郭の原点として、紹介されていた。
本丸跡は日本庭園になっていて、その中に細川忠興・玉(ガルシャ)像があった。
桜が紅葉して素晴らしい佇まいの中に、「東辺土塁の石垣と井戸」の説明板がある。
説明板
「 本丸東辺土塁の中央部では、内側斜面に築かれた石垣が見つかっています。
このほかに、土塁上では幅約四メートルの二列の石垣が確認されました。
この石垣は北東の隅櫓につながる長屋風の建物の基礎構造である可能性が考えられます。
斜面の一部は内側に張出し、ここには井戸が作られていました。
また、土塁の裾部付近には、南北に並ぶ小型の礎石列が見つかっています。 」
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この北東には復元された隅櫓があった。
説明板「北東隅櫓の石垣と階段」
「 本丸の北東隅櫓では、石垣で補強された高さ四メートルの土塁が見つかっています。
石垣は、七段の階段になっており、階段を上がると、少し西に回り込んで、
土塁の頂上まで行けるようになっていました。
頂上には約四メートル四の平坦部があり、
ここは城の外を監視・攻撃するための櫓が存在したようです。 」
ここから見た紅葉はきれいだった。
下に降りて進むと、北の入口の脇に石造物が並べられている。
説明板「勝龍寺城の石造物」
「 勝龍寺城からは、石垣などに転用された、
信仰に関連する石造物が数多く見つかっています。
このような例は他の城にも見られ、石材不足を補うため、
または城を守護するためと、言われています。
出土した石造物は五輪塔や一石五輪塔、宝きょう印塔、層塔、板碑、
石仏などがあります。
石仏の大半は大日如来とみられ、地蔵菩薩も確認されています。
また、一石五輪塔や板碑には年号を刻んだものがあり、
古いものでは大永二年(1522)、
新しいものでは永禄十二年(1569)のものがあります。 」
その左手には「西辺土塁」の説明板があった。
説明板「西辺土塁」
「 本丸の西辺に構築された土塁です。
この土塁の南側は本丸内で一番高く、
また本来は、もう少し南の方へ張り出していました。
「殿主(でんしゅ)」 と呼ばれた、いわゆる天守は、これらの立地的な条件から、
この土塁上にあった可能性が指摘されています。
発掘調査では、その石垣の一部とみられる人頭大の石と裏込めの石が見つかりました。 」
明智光秀は、豊臣秀吉との山崎の合戦で敗れると、勝龍寺城に入ったが、
北口から逃れて、山科で討たれたといわれる。
往時の遺構としては、北門に当時の石垣の一部が残るとあるが、これだろうか?
これで、勝龍寺城の見学は終わった。
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勝龍寺城を出て、先程の道を南下すると、右手に勝龍寺があった。
入口に「洛西観音霊場第十四番札所 真言宗 恵解山 勝龍寺」の石柱があり、
その奥に本堂がある。
本堂の前説明板
「 真言三宝宗の末寺。 洛西観音霊場第十四番札所。
本尊は、十一面観音で、鎌倉時代作の国の重要文化財である。
また、同時代作の十一面観音像、聖観音像、持国天像、
多聞天像は市指定文化財となっている。
寺伝によれば、
大同元年(806)に帰朝した空海が唐長安で学んだ青龍寺の名をとって開基。
応和二年(962) 大干ばつ、大飢饉の際、千観和上の雨ごいの効験によって、
勝龍寺と改名したという。
また、元応元年(1319)に鋳造された鐘が大阪府能勢町の真如寺に残り、
大阪府の指定文化財となっている。
同寺は、この鐘が鋳造された十七年後の延元元年(1336)六月と、
山崎合戦の天正十年(1582)の二度の兵火によって焼け落ちたと言う。
なお、現在ある鐘は三度目に鋳造されたものである。
長岡京市観光協会 (社)京都府観光連盟 」
勝龍寺は、嵯峨天皇の時代には、観音堂を始め、九十九坊があったというが、
今は本堂があるだけの質素な寺院であった。
本堂の左手にある梵鐘には三代目とあった。
説明板
「 初代の梵鐘は、豊臣秀頼、徳川家康の大坂の陣(1615)の際に持ち去られ、
戦いが終り、源八堤(旧淀川・造幣局の上手)に捨てゝあるのを能勢の伊予守頼次氏が
発見、記念として持ち帰り、地元の布留神社に奉納する。
其の後、転々として現在は大阪府豊能町の真如寺に現存し、
その梵鐘には梵字、漢字にて、真言陀羅尼が二十八種、並びに
元応元年巳未年五月十日 山城国乙訓郡神足郷勝龍寺洪鋳○
と刻まれており、大阪府の指定文化財となっている。
二代目梵鐘は明和三年(1766)三月二十八日に鋳造され、「勝龍寺の鐘」として
永く地元の人方々に親しまれた梵鐘も、第二次世界大戦末期、昭和二十年春に
供出する。
先住職入山の後、初代梵鐘の現存することを聞き、真如寺に赴き現存を確認し、
後日返還を求め久しく奔走するも実現せず、昭和五十二年(1977)五月、
檀信徒の浄財により、この三代目を鋳造する。
なお、大晦日には除夜の鐘として信者各位にも打って頂いております。 」
ぼけ封じ近畿十楽観音霊場第3霊場で、ぼけ封じ観世音菩薩が祀られていた。
隣には春日神社があった。
神仏習合の名残りで、勝竜寺地区の氏神である。
説明板
「 春日神社は、勝竜寺地区の氏神で、祭神は天津児屋根尊、姫大神、
武みか槌命、斉主命です。
勝龍寺に隣接する元禄十三年(1700)銘の石鳥居をくぐると、
覆屋をもつ一間社流造・柿葺きの本殿があります。
明治初期の社伝によると、承安四年(1174)、関白九条兼実の建立で、
天正十年(1582) の山崎合戦に際して焼失したのち、
慶長九年(1604)に再建されたといいます。
江戸時代には「春日大明神」とも呼ばれ、
勝龍寺の子坊であった専勝坊と玉林坊によって、管理されていました。
弘化二年(1845)ごろには覆屋と本殿、瓦葺きの拝殿が再建され、
このうち本殿のみが再建当時の姿を今に伝えています。
現在は、宮総代を中心に地元の方々が社を管理し、
毎年5月2日の例祭や、年に2度のオセンド(お千度)など、神事を行っています。
令和3年3月 長岡京市観光協会 (社)京都府観光連盟 」
勝龍寺は、室町時代には守護大名が地域拠点として使用していたようで、
その後、勝竜寺城が築城され、その役割を終えたが、
天正十年(1582) の山崎合戦で焼失したと伝わる。
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この後、恵解山古墳へ向かう。
恵解山古墳への道標があるので、住宅街の中をそれに従って歩いていくと、
犬川に出た。
橋を渡ると三叉路を右折する。 恵解山通りを歩くと、左側は長岡八小学校である。 少し歩くと、左側に「←勝龍寺城0.5km JR長岡京駅1.4q 」 の道標があった。
更に進むと、道の左側に、「山崎合戦の古戦場 国史跡 恵解山古墳(明智光秀本陣跡) の看板があるところに出た。
その先には復元された埴輪が並べられているところがある。
「 恵解山古墳(いげのやまこふん)は、五世紀前半に築かれた前方後円墳で、
国の史跡に指定されている。
全長120m、後円部径60m、高さ8m、前方部幅55m、高さ6.5mで、幅30mの周濠を持つ。
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下に降り、古墳に近づいていくと、
四角に区切られた中に円筒埴輪が並べられている。
ここにある埴輪は複製品であるが、
発掘調査では蓋(きぬがさ)、家形、水鳥などの形象埴輪が出土している。
説明石「西造り出し」
「 ここは、前方部西側に取りつく、東西約85mの四角い施設で、
特別な葬儀が行われた場所とみられます。
造り出し上部は、埴輪で囲まれていました。
その東辺の埴輪列は、北よりで食い違って、
そこから中に入る仕組みになっていました。
造り出しの取り付き部分には、そこを島に見立てた入江状の表現があり、
当時の死生観を知るうえで興味深いものです。 」
階段を上り、前方部にいってみる。
一番上の周囲に埴輪が並べられ、
階段を上った右側には「交通と恵解山古墳・山崎合戦」の説明板があった。
「 交通と恵解山古墳
恵解山古墳は、西側から続く標高約16mの低い台地の縁に築かれています。
この古墳より東には、桂川右岸に広がる平野があり、
南に緩やかに下りながら、幅を狭めています。
桂川、木津川、宇治川の三つの川が合流して、淀川になる地点にも近い位置です。
京都から大阪平野に流れ込むこれらの川は、古代の水上交通上重要であり、
この重要地点を押さえていた自らの権力の強さを、
往来する人たちに知らしめ、見せつけていた事でしょう。
山崎合戦と恵解山古墳
織田信長が明智光秀に倒された本能寺の変の直後、
羽柴(豊臣)秀吉と光秀が激突した山崎合戦は、あまりにも有名ですが、
恵解山古墳も、この戦いの舞台ともなった可能性があります。
発掘調査で、当時の土器片とともに火縄銃の鉛弾が出土しています。
また、後円部にある現在の墓地が棚田状に三段になっていることや、
前方部に大きな盛り込みがあることも、
光秀方が恵解山古墳に陣を置いたさいの造作である可能性があります。 」
左方に行くと、長方形の細長い区画があり、 その前に「武器埋納施設」の説明石があった。
説明石「武器埋納施設」
「 ここには、多量の鉄製武器類が木の箱状の入れ物に納められていました。
その大きさは、長さ6.5m以上、幅約80cmです。
箱の底には刀が、その上に剣と槍が、さらにその上に短刀と大量の矢が束められて、
整然と置かれていました。
約700点もの鉄製品は、葬られた人の権力の高さを物語っています。 」
その先は行くことができないようになっていて、
後円部と前方部の一部が墓地になっていた。
昭和五十五年(1980)に、墓地が他の墳丘部分に拡張されることになり、
事前調査が行われた。
この部分は後円部で、以前より墓地になっていたようで、内部主体は失われているが、竪穴式石棺と推測されている。
以上で、恵解山古墳の見学は終了した。
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旅をした日 (西国街道) 平成22年(2010)8月29日
(長岡天満宮・勝龍寺城、恵解山古墳) 令和四年(2022)11月17日