伏 見 宿
伏見墨染郵便局の先には信号交差点があり、左右の道は、師団街道とも呼ばれるが、京町通である。 交差点の
右側にうまいもんデイカン、左側に三上食品があった (右写真)
伏見宿は、東の京町通りから西の高瀬川、北は墨染、南は宇治川に接する、東西一キロ、南北四キロ半の宿場町だっ
た。 京町通は道が狭いので、車が一方通行であるがそれでも車の通行は多い。 古い建物も残っている街道を南下
すると、左側に伏見税務署があった。
その先の交差点の右側の道路の入口に、 大正七年八月吉日 撞木町廊入口 と書かれた門柱が二本建っていたが、
二本の石柱以外はどこにでもある町の風景である (右写真)
今は静かな町であるが、江戸時代には、伏見でも賑やかな遊興街で、赤穂浪士大石内蔵助が吉良
方の目をあざむくために遊興したことで有名な遊廓があったところである。
伏見宿の誕生の歴史について触れる。 「 豊臣秀吉は大阪城の築城と平行して、聚楽第や伏見城を造り、そこに
居を構えたが、大名達にも伏見に屋敷を作らせたことから、伏見は城下
町として発展した。 秀吉の死後、徳川家康が居城し、商業港湾都市として整備して、淀川三十石船をはじめ水陸
交通の要衝として繁栄させた。 」 という。
撞木町の門柱を過ぎると、信号交差点に出るが、左右の道は竹田街道ともいわれる府道115号線である (右写真)
街道は信号交差点を横断し、最初の交差点で右折する。 狭い道には古い家が残っているが、すぐに白い蔵がある
三叉路突き当たってしまう。 左右の道は両替町通入りであるが、
左折してこの道に入り、南下していく。 京町通と両替町通は、徳川家康が銀貨を造らせる
ため、銀座を置いたところで、伏見の方が東京の銀座より古い。 前方の近鉄京都線のガードを潜ると、虫籠造りの
壁の家や小さな社が祀られている (右写真)
街道の面影が残っていると感じた道を歩いて行くと、その先の交差点の左奥にはゲベッケン菓子店がある。
左右の道は丹波橋通だが、街道は交差点を右折して、この通りを進む。
通りを少し歩くと、右側に本成寺がある。 「 本成寺は、本能寺の乱で焼け落ちた本能寺の再建に尽力した日逕
上人が慶長二年(1597)に現在の伏見区上板橋中ノ町に創建した寺である。 その後、寛永十三年(1636)に篤信者中村
隆運が伏見奉行の協力を得て、現在の地に移した。 」 と案内板にあった。
一番奥の本堂には創建当時の本尊が祀られている (右写真)
手前右手の地蔵堂には、小野篁作と伝えられる木造地蔵菩薩像一体が安置されている。
「 この地蔵像はもと伏見区三栖の大亀谷地蔵院にあったもので、その後、隆閑寺学堂を経て、明治三年(1870)に
当寺境内に移されたもので、昔から痰きり地蔵として信仰を集めている。 」 と案内板にはあった。 その脇には
妙榮水 と呼ばれる名水が湧き出ていたので、柄杓で水を飲み、タオルを濡らして首筋と顔を拭いた (右写真ー地蔵堂と妙榮水の案内板)
街道に戻ると、道の反対側には勝念寺があり、山門左側には、天明義民柴屋伊兵衛墓所
と書かれた石碑が建っていた。 天明義民とは、天明五年(1785)、時の伏見奉行小堀政方(こぼりまさみち)
の悪政により虐げられた住民の苦しみを救う為、天下の禁を破り幕府に直訴した七人を指す。 勝念寺の
石碑がある柴屋伊兵衛もその一人で、江戸幕府に直訴した後、京都奉行に投獄され、獄死している。 なお、寺に
は入れないようになっていた (右写真)
なお、ここから南東に千二百メートルのところにある御香宮神社には天明義民の文殊九助、
丸屋久兵衛、麹屋伝兵衛、
伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛を顕彰する碑が建っている。 彼らの幕府訴えにより、
伏見奉行の政方は罷免されたが、公にしたくない幕府の態度もあり、七人は江戸または京都の獄中で死亡している。
このあたりは石屋町。 勝念寺の先に古い家が連なっていたが、その先に信号交差点がある (右写真)
街道は交差点を左折し、南に向かうが、 このように曲がりくねって行くのは、宿場町特有の
鉤型の一種なのだろう。 右側の笠置屋駐車場と蔵が立ち並んでいるところを過ぎると指物町の表示があり、伏見
板橋小学校がある。 学校の先の左側に玄忠寺があった (右写真)
山門の左脇には、伏見義民小林勘次之碑が建っていた。 なお、境内にある顕彰碑には、 「 淀川奉行に
より淀川船の通行料が値上げされたため、
伏見町民が困っていることを知った薪炭商小林勘次は、江戸に出て幕府に直訴し、値下げの命を記した朱印状を受け
た。 元和四年(1618)四月二十六日、江戸から
伏見に帰る途中の東海道鞠子宿で勘次は急死。 勘次は暗殺されるの
を恐れ、朱印状は魚の腹に入れて別人に伏見へ持ち帰らせていた。 この結果、通行料は旧に復したので、伏見の町
民は勘次を徳とした。 」
、と記されている。 現在も役人の横暴や悪行に対し内部告発が新聞報道され、いつの世も同じことが続いている
。 玄忠寺の角の信号交差点を右折して、下板橋通を進む (右写真)
百メートル程歩くと、右側に京都市福祉事務所、その奥に京都市伏見区青少年活動センター
の看板がある信号交差点があるので、ここを左折して、南下すると、左側に御駕篭郵便局があり、その先の左側には
寺田屋の女将、お登勢の墓のある松林院がある (右写真)
民家のような家で、ここも入れそうになかった。 京都の寺は大きな寺は別として檀家以外には自由に入れそうに
ない寺が多い。 ここで秀吉没後の伏見に触れると、
「 伏見城は三十年後に徳川家康により、取り壊されて、二条城などへ移築され、大名屋敷も次々と取り壊され
ていったが、伏見の町並みと水運は残されたので、京都、大阪、大津の交通の要所となり、港町と宿場町、そして、
京への玄関口として再びよみがえったのである。 寛永十二年(1635)に参勤交代の制が実施されたことで、
西国
大名は全て伏見を経由することになり、四つの本陣が設置された。 また、街道と川運を結ぶ拠点として、
米問屋、材木問屋など各種の問屋が増えていき、伏見は二萬五千人が住む大都会になった。
」
松林院を過ぎると、右側に薩摩寺とも呼ばれる大黒寺がある (右写真)
「 円通山と号する真言宗単立の寺で、空海(弘法大師)の開基と伝えられる。 もとは長福寺といい、
豊臣秀吉が信奉したのを初め、武家の信仰も厚かった。 江戸時代のはじめ、この近くに薩摩藩邸が置かれ、
薩摩藩主、
島津家の守り本尊と同じ大黒天が祀られていたことから、元和元年(1615)、薩摩藩の祈願所と定められ、大黒天を
本尊として、寺名も大黒寺と改められた。 本尊秘仏大黒天は金張りの厨子に安置された
小さな像で、六十年に一度、甲子の年に開帳される。 」 と、京都市による案内板にあったが、
本堂前には、開運大黒天として、金属製の像が鎮座していた (右写真)
本堂の左側には、金運清水、薩摩義士碑と伏見義民の遺髪塔が建っている。
中央の大きな薩摩義士碑は大正十一年に建立されたものだが、宝暦三年に幕府より薩摩藩に下された木曽三川の治水
事業に、家老平田靱負を總奉行として取り組んだが、幕府の邪魔や多額の借財をして成功したが、工事の途中で殉
死者や病死者を出したことなどから、靱負は工事完成後、割腹自殺したことなどが書かれている (右写真)
墓地には、平田靱負の墓がある他、西郷隆盛が建てたという寺田屋騒動の犠牲者、有馬新七
など薩摩九烈士の墓碑や伏見義民文殊九助の墓がある。 右側の柳に隠れて見えない碑は伏見義民の遺髪塔と
いわれるもので、天明五年(1785)、伏見奉行小堀政方の暴政を幕府へ訴えるため、江戸
で寺社奉行松平伯耆守に籠訴を決行した伏見義民の文殊九助ら七名の遺髪を祀ったものだろうと思った (右写真)
大黒寺を出ると左側に喜運寺があり、その先の鳥居の脇の石柱には金礼宮とある。 金礼宮
は天平勝宝二年(750)創建と伝えられる伏見区で最も古い神社である。 神社に伝わる話は、
『 平城京より山城の国に遷都された桓武天皇が、伏見の里に神社を建立の為の勅使を使わしたら、金札
が降ったので、勅使がとり上げると、 「 伊勢大神宮の流れを絶やさぬため、天津太玉神を祀るように 」
という御神託が金文字で書かれていた。 神社では金札を御神体として祀り、御祭神は天津太玉神と天照大神
とした。 』
本殿の前には、しめ縄がかけられた大きなクロガネモチの木があった (右写真)
京都市指定天然記念物に指定されているが、樹齢はさだかではないと案内板にはあった。
その先の交差点を越えて進むと、左側に伏見区役所があり、信号交差点になっている。 左右の毛利橋通を横断した
先の道幅は狭くなっている (右写真)
狭くなった先の左右は区画整理もされていないので、左右の持ち主がマンションや貸しビルを建てて歯食いのような
状態で、大手筋北駐車場は、空いている土地を一時的に駐車場として活用している感がした。 前方上ほ方に大きな
円盤のようなものが見えてきたので近づくと、
その下にSOLOR ZONE とあり、大手筋と書かれていた。 左右の道は大手筋通であるが、アーケードのある商店街で、
伏見区で一番賑やかなところに思えた (右写真)
なお、大手筋通を東に進むと、天明義民七人の顕彰碑がある
御香宮神社に至る。 御香宮神社の先には伏見城があったので、伏見城の大手筋ということから、名前が付いたと
思われる。 街道は大手筋通を横断して進み、その次の交差点の左右は魚屋通であるが、ここも
直進する。 次の浅山眼科の看板がある交差点で右折して、油掛通を進む。 この通りは、車は一方通行であるが、歩道
がしっかり整備されていて歩きやすかった。 のんびりとした雰囲気が漂う通りを歩いていくと、左側の門の下に
カッパカントリーの看板があった (右写真)
カッパカントリでは、黄桜酒造が清水昆に描かせていたカッパをテーマに、コマーシャル映画の上映や世界の河童に
関する資料を展示している。 また、記念館があるので、時間があれば
寄ればよいだろう。 黄桜
に寄ったついでにこの南東にある月桂冠大倉酒造記念館に向かう。 ここは寛永十四年(1637)に、大倉
酒造の創業者、大倉治右衛門が、笠置の里(現相楽郡笠置町)から伏見に出てきて、酒造りを始めたところである
(右写真)
伏見は、江戸時代には伏水と書かれたほど伏流水に恵まれ、酒造りの町として発展し、兵庫県の灘とともに醸造業が
盛んである。 また、ここは旅人の往来する街道筋に面し、舟着場の
京橋と目と鼻の先の南浜の馬借前であり、地の
利もよかった。
「 羽柴秀吉は、伏見城をつくるため、淀川を巨椋池から切り離し、城山の真下へ
迂回させ、その一部を町の中に引き入れ、城の外堀とするなど河川の大改修を行った。 明治の終わり頃までは、
米、薪炭、樽材などの原材料から酒樽までの全てが濠川を上下する船で運ばれていた。 そうしたことから、
現在も、ほとんどの酒蔵は、この濠川(ほりかわ)に接して建てられている。 」 (右写真ー大倉酒造)
大倉酒造のあたりには、食事処もあり、のんびり歩くのに適しているところである。
街道に戻り、西に向かうと、南北に細い道がある交差点に出る。 交差点の南側にある細い道には龍馬通りと名付け
られていた。 既に訪れているので、今回は寄らずに進むと、右側に西岸寺という寺があり、油掛という地名の
由来になった油掛地蔵尊を安置されている (右写真)
「 山崎の油商人がこの地蔵さんの前で、油桶をひっくりかえしたので茫然としたが、残った油を地蔵さん
に掛けて帰ったところ大金持ちになった。 」 という話が残る地蔵尊である。
地蔵堂は、鳥羽伏見の戦いで類焼し、明治二十七年に再建され、昭和五十三年に建て替えられた。 境内の柵の中
に、文化二年(1805)に建立された芭蕉の句碑があった (右写真)
「 我衣(わがきぬ)に ふしみの桃の 雫とせよ 」 と書かれていたが、芭蕉が、貞享二年(1685)に当寺の
任口(宝誉)上人の高徳を慕っておとずれた際、出会いの喜びを当時の伏見の名物、桃にことよせて詠んだもので
ある。 油掛通は、江戸時代から京と大阪へ行き交う
旅人や物資の集散地として賑わった通りである。 日本最初の電車(チンチン電車)が、明治二十八年(1895)に博覧会へ
の客輸送用として運転されたところである。 その先の交差点の右角に駿河屋本店があるが、左隅に
電気鉄道事業発祥の地の記念碑が建っている (右写真)
この交差点を左折して、約百メートル行くと、濠川に架かる京橋がある。 濠川は江戸時代には高瀬川に注ぎ、淀川
に通じていた。 現在は流れが変えられて、宇治川に注いた後、淀川
に合流している。 傍らの案内板には、 「 淀川の水運は、古くから京や大阪を結び、琵琶湖経由で東海、
北陸と繋がる交通の大動脈だった。 京市内と伏見との間に角倉了以(すみのくらりょうい)が開削した高瀬川が
開通すると、このあたりは旅人や貨物を運ぶ川舟の湊として、淀川を上下する貨客の三十石船、高瀬川を往来する
高瀬舟、宇治川を下ってくる柴船など昼夜なく賑わった。 」 というようなことが書かれている。 橋の
下の川の両脇には柳が植えられ、遊歩道のある公園である (右写真)
案内板には、 「 明治初年、京都・大阪間に鉄道が開通すると、次第にさびれ今は往時の盛観は見られ
ない
が、ここから東約五十メートルのところにある旅館寺田屋がわずかに船宿の名残をとどめている。 」
とあったが、寺田屋は、橋の手前、ガソリンスタンドの左の道に入ると左側にある (右写真)
寺田屋は今でも旅館として営業しているが、文久二年(1862)四月二十三日、薩摩藩の討幕急進派がここで決起を企て
た寺田屋騒動の舞台として有名。 事件のあらましは、こうである。
「 薩摩藩の急進派である有馬新七以下三十五名が寺田屋一階に、関白九条尚忠と京都所司代の殺害を計画
して集結した。 そのことを知った薩摩藩は、藩士を説得に向かわせたが、説得に失敗し、両者乱闘 となり、
有馬新七ら七名が斬られ、二人が重傷をおい翌日切腹した。 」 という事件である。
事件の舞台になった一階の奥の部屋は残っていて、庭には、寺田屋騒動の記念碑が建っていた。 また、寺田屋は
坂本龍馬の定宿でもあった。 慶応二年(1866)一月二十一日、龍馬と長州藩の三吉慎蔵が
いることを知った伏見奉行所は見廻組にも応援を頼み、二階の龍馬の部屋(右写真)を襲ったが、許嫁のお龍の機転により、
龍馬はかろうじて脱出することができた。 街道に戻る。 伏見宿は西国大名が参勤交代の際、必ず
通るところで、その中心は、
現在の京橋付近だったようである。 京橋北詰には高札場、南詰には
幕府公認の過書船(かしょぶね)番所や船高札場などがあり、本陣は四軒、脇本陣は二軒、旅籠が
三十九軒あったという。 川の公園に降りて、川に沿って進むと、復元された川舟が繋がれていた (右写真)
伏見から大阪高麗橋までの京街道を旅する人は歩く人もいたが、多くの人はこのような舟のお世話になり、旅を
続けたのである。 京橋を渡ると、右側に京都市伏見土木事務所があり、
建物の一角に、 右京道、左宇治、左北山
役行者・・・と書かれた道標があり、道路に面した花壇の脇には、観月橋の橋柱が建っていた (右写真)
島津、毛利などの西国大名は伏見で宿泊する屋敷を持っていた。 ここは長州藩伏見藩邸跡である。 その先を
歩いて行くと、頭上に中書島の標識が現れ、道は三つに分かれている。 左は京阪本線中書島駅へ行く道で、
直進すると伏見港公園がある。
右側の道を歩くと、街道らしい雰囲気の家並みがあった (右写真)
この先 二百五十メートル進むと、左奥に
三栖神社があるが、この辺りまでが伏見宿だったのではないだろうか? 京阪電車の中書島駅から帰ることにして、
駅前に行くと、日本最古の市電中書島駅の看板が建っていて、 「 京都電気鉄道の手によって、塩小路
東洞院〜油掛町に明治二十八年二月一日に日本初の路面電車が開通した。 その後、塩小路高倉〜中書島の7.1
kmに延長され、狭軌から
広軌に変わったが、昭和四十五年三月一日で廃止された。 」 とあった。
伏見は、日本の歴史を変える出来事が多くあったのだな、と感じた旅だった。
平成21年(2009) 9月