桜井付近は古代、大和朝廷の宮居があったという歴史を持つところである。
桜井にある阿倍文殊院は、安倍清明が生まれたところとして、文殊菩薩を本尊として、
日本三文殊に数えられている。
桜井の南東に位置する多武峰(とうのみね)にある
談山神社は、平安時代の権力者、藤原鎌足が葬られているところである。
秋の紅葉も名高い。
阿倍文殊院
平成二十年十一月十五日、妻を伴い、阿倍文殊院を訪れた。
妻と娘は陰陽道に興味を持ち、京都の清明神社などを既に訪れていたので、
小生が奈良に行くなら阿倍文殊院も訪問先に
加えてという注文があり、行くことになったのである。
阿倍文殊院は近鉄桜井駅の南方約一キロなので歩いて行けるが、
バス利用なら、駅前から奈良交通バス岡寺行きで、七分、阿倍文殊院前で下車。
そこから徒歩一分のところ。 駐車場もある。 小生は車で行った。
本堂の左手にある受付で七百円を支払い、お参りのため本堂に上がる(左下写真ー庫裏)
本堂は寛文五年(1665)に建てられた入母屋造り本瓦葺きの七間四面の建物で、
前方に礼堂がある(左中写真)
本堂の右には釈迦堂、左に大師堂、本坊、庫裏が並び、庭園を隔てて方丈客殿に連なっていた。
本殿には、本尊の文殊師利菩薩像、善財童子像、優填王像と須菩薩像が祀られているが、
これらは全て鎌倉時代の快慶仏師の手によるもので、国の重要文化財に指定されている。
文殊師利菩薩像が大きかったのには驚いた。
本堂を出ると、隣の小高いところに稲荷神社があったが、
上る石段の下に文殊院西古墳(右中写真)の案内板があった。
「 文殊院西古墳は、飛鳥時代に築造されたもので、
当時の創建者、安倍倉梯麻呂の古墳とも伝えられるものである。
良質の花こう岩を加工し、側壁も弓状態として壁面を調整、
左右の石和を揃え、玄室の天井は約十五メートルの一枚岩で、
その中央を薄く削上げて窮隆状に仕上げている。
現在は玄室内に願かけ不動が祀られていた。 」
境内の駐車場の先には「縁結びの神」と書かれた白山堂があったが、
室町時代の建築で国の重文である (右下写真)
小さな社殿は美しい曲線の唐破風をもった流造柿葺きの建物だった。
その他の建物は最近建てられたものに思えた。
清明堂も最近のもので、京都の清明神社の方がよいというのが妻の感想である。
これでお参りは終わった。
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(ご参考) 安倍文殊院の歴史
「 大化元年(645)に阿倍一族の本拠地だった阿部の地に、大化の改新で左大臣になった安倍倉梯麻呂
(あべのくらはしまろ)が一族の氏寺として創建した安倍寺が始まりである。
阿倍一族は倉梯麻呂の時が絶頂期で、寺の南西三百メートルの地に、
法隆寺式七堂伽藍配置の大寺院として五重塔を聳えさせる威風堂々とした姿で、
寺院を建立したのである。
創建当時の安倍寺は、国家鎮護と阿倍一族繁栄の祈祷が主だったが、平安時代に入り、
安倍晴明がこの寺で誕生し、彼により陰陽道が広められた。
彼の没後、魔除け災難除けの神として祀られるようになると、
一般庶民を含めた祈祷の色彩を深めた寺になっていった。
当時のことは大鏡に、「奈良十五大寺の一つ」として挙げられており、
寺坊四十九坊の存在も記録に残されている。
また、現在の寺院は安倍寺の別所として、平安時代末に建立されたものとある。
ところが、隣接する地にある多武峰妙楽寺(現在の談山神社)の宗徒(僧兵)の襲撃を受けて、
全山消失の憂き目にあった。 その後、本山の安倍寺は再建されることもなく、
鎌倉時代初期に別所寺院の現在地に統合されてしまったのである。
晴明没後、彼は文殊菩薩の化身という信仰が広まったことから、
約七メートルの文殊菩薩像が快慶仏師によって造られ、これ以降、文殊菩薩はこの寺の本尊として、
全国的に知られていく。 しかし、永禄六年(1563)に松永弾正の兵火で寺はほとんど残らず燃失した。 その時、本尊の文殊菩薩像と脇侍三体はかろうじて焼失を免れた。
寛文五年(1665)四月に、現在の本堂(文殊堂)と礼堂(能楽舞台)が再建された。
なお、創建当時の安倍寺跡はここから南西のところで、現在は国指定の史跡公園になっている。 」
多武峰への道
多武峰へは寺川に沿って続く狭い車道を南東に進むことになるが、この近くには艸墓古墳、メスリ古墳や上宮遺跡がある。
バスが来るとすれ違いに難儀する狭い道を進むと、約30分、右手に聖林寺がある。
寺の前から奈良盆地が望める。
「 左手に水瓶を持って立つ優美な乾漆造の聖観音像を祀る古寺である。
天平文化を絶頂期の量感豊かな仏像は、フェノロサが感激し、廃仏毀釈で寺が壊され、
仏像が壊されるのを嘆き、日本に重要文化財の保護運動を働きかけるきっかけとなった仏である。
亀井勝一郎は「古寺巡礼)で、その美を絶賛した。
本尊は石造の堂々とした丈六延命子安地蔵である。 」
ここから登り坂になるので、聖林寺前バス停からバスを利用すると、 右手の小高い山が多武峰である。 バスでは10分足らずで、談山神社前バス停に着いた。
談山神社
小生が始めて談山神社を訪れたのは平成十五年(2003)年十一月十三日である。
紅葉の名所と聞いていたので、他所に行った帰りに寄ったのである。
当日はくもりだったが、談山神社に着くと霧が立ち込めていて、少し妖しい雰囲気を感じた。
素晴らしい紅葉を期待していたが、公孫樹の黄色は別として、桜などの赤系はまだはやかった。
談山神社は多武峰の山中に鎮座し、祭神は藤原鎌足である。
「 七世紀後半、唐に留学していた鎌足の長男、僧定慧が、父の冥福を祈って
、木造の十三重塔を建て、不比等が神殿を創建したことに始まるといわれる。
現在の十三重塔は享禄五年(1532)に再建したものである。 」
司馬遼太郎は 「 朱塗・檜皮葺の色調といい、十三重のつりあいのうつくしさといい、 破調がもしくなるほどの典雅さである。 」 と、「街道を行く」で書いている。
「 平安時代に入り、多武峯は天台宗(叡山)の末寺の妙楽寺として、
仏僧によって護持されたが、
その僧兵勢力はすさまじく、安倍寺を焼失したり、興福寺としばしば争ったという。
明治の神仏分離により、寺が廃され、談山神社となった。
談山神社の名前は、大化の改新を聖徳太子と藤原鎌足が談合したことによる。
神社には珍しい木造十三重塔などの寺院建築があるのはそうした事情による。 」
本殿は何回か建て替えられているが、現在の建物は嘉永三年(1850)に造替られたものである。
司馬遼太郎は 「 皮葺の屋根に春日造りの朱塗の社殿の一部を見たとき、
記憶のなかの多武峯とさほどに違いないことに安堵した。
ただ、朱の色が、記憶の中の朱のほうがあざやかだった。
朱の漆が幾度も塗りかさねられているものと思ったが、
実際の朱はごくあっさりと塗られていて、風霜が剥げ白ませている。 むろん、このほうがよい。 」
と記している。
訪問した時、紅葉はまだ一部が朱色であったが、背景の吊灯籠と拝殿の赤がバランス良く、
映えていた。
小生が二度目に訪れたのは、翌年(2004)の四月だった。
この時は飛鳥石舞台の桜などを写しにいった帰りに寄ったものであるが、
境内の桜は見事に咲いていた(下写真)
多武峯の斜面にあるので、太陽の運行により、光が左右されるので、陰影が多く、
そのため、全体的にはうす暗くなるが、それを考慮して撮ったので、まあまあの写真になった。
ただ、桜の数が少ないので、豪華という訳にはいかないが・・・
桜を写した後、軒先に吊り灯篭がある拝殿に上り、外を眺めたり、内部は宝物館を兼ねているので、
展示物を見てまわった。
談山神社へ行って感じる、赤い春日造りと社殿と今や朱がはげて建つ十三重塔との妙な組み合わせは、単なる廃仏希釈の結果と思っていたが、司馬遼太郎の「街道をゆく二十四巻」から、
藤原鎌足を祀る際の道教の「観」の存在を知り、違う見方もあるのだと思ったのである(下記)。
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司馬遼太郎は、多武峰について、街道をゆく二十四(朝日新聞社)の 「 奈良散歩 歌・絵・多武峯の章 」で触れているので、紹介したい。
遼太郎にとっては、小学校の時、桜井駅から七、八キロ歩いて行った遠足の記憶が、 濃厚に残っていたようで、その時の記憶を 「 記憶の中では、暗い杉木立の道をのぼってゆくと、大和絵に出てくるようなまるい頂きがあり、山の色は群青色になっている。 中腹の樹林に天から舞い降りたような建物があって、樹間に見える赤がうつくしかった。 」 、と記している。
このあたりは奈良盆地のなかでも孤立しているので、「わざわざゆく以外、 容易に行けるものではない」、ということで、行きたいと思っていてもいけずにいたようである。
「 その後、歌人の前川佐美雄さんと会う約束した際、当地を指定して、
ようやく当地を訪れることができた。 このとき家内を同行した。
永年の約束が果たせただけでなく、私にとっても小学校の遠足以来のことで、
樹林のなかの石段の下に立ったときは、ほのかに昂ぶりを感じた。
石段の両側は、夏の楓だった。 そのあおあおとした華やぎを通して、
檜皮葺の屋根に春日造りの朱塗の社殿の一部を見たとき、
記憶のなかの多武峯とさほどに違いないことに安堵した。
ただ、朱の色が、記憶の中の朱のほうがあざやかだった。
朱の漆が幾度も塗りかさねられているものと思ったが、
実際の朱はごくあっさりと塗られていて、風霜が剥げ白ませている。 むろん、このほうがよい。 」
と、記憶と余り違いなかったことを述べておられる。
これは昭和四十年〜五十年のことのようである。
遼太郎の三回目の多武峯訪問は昭和五十九年のことで、
この年の冬は異例の寒さだったようである。
三月一日の東大寺二月堂のお水取りの行が始まった日に奈良に泊まり、翌日多武峯へ訪れているが、その際の感想は書かれていない。
その代わりに、多武峯に関わる宗教が書かれている。
「 多武峯の名はすでに日本書紀の斉明紀二年(656)に記述されている。
文字のないむかし、土地の者が、この山を「たむ」という音でよんでいたのだろう。
日本書紀は「田身嶺」という漢字をあてた。
万葉集ではちがう。 巻九に多武と当てている。
のち、「談武」などとも当てられた。
斉明紀二年の記述には、妖しさがただよう。
この田身嶺(多武峯)に、冠のような垣(石垣か、木の垣か不明)をめぐらした、というのである。
山城は山の中腹に鉢巻をまいたように石垣をめぐらすものであったが、
この垣とはそういう軍事施設だったのか、
あるいは宗教的意味をもつ垣だったか、よくわからない。
さらに、当時、この山上に槻の木が二本はえていた。 おそらく神木だったのだろう。
斉明女帝はその槻のほとりに観(かん)を建てた、という。
観とは、中国では、上代もいまでも道教寺院を指す。
道教の観を建てたのか、とおどろかされるのだが、
しかしこの簡単すぎる記述からは判定しずらい。
要するに、たむという山は、斉明記以前から、土地では神異を感じさせる山だったのであろう。
それがやがて藤原氏の祖の鎌足(614〜69)が葬られ、その廟所になった。
鎌足は葬られたが、当時はなまみの人間を神社の祭神にする例は、
当時の神道思想には乏しかった。
まして、鎌足を仏にして建物を寺に仕立てるという思想もなかった。
さいわい、多武峯には鎌足の生前、観ができていた。
ただ、上代日本は、中国の土俗信仰である道教を、思想の破片として自然に入れてはいたが、
体系的には受容しなかった。
このため、多武峯には観の建物のような高殿はあったにせよ、
道教僧である道士は存在しなかったと想像する。
多武峯は観か、神社か、寺か、というあいまいさが千数百年つづく。 」
鎌足を祀る多武峯は、七世紀後半、唐に留学していた鎌足の長男、僧定慧が、父の冥福を祈って 、木造の十三重塔を建て、不比等が神殿を創建したことに始まるといわれる。 現在の十三重塔は享禄五年(1532)に再建したものである。
遼太郎は 「 朱塗・檜皮葺の色調といい、十三重のつりあいのうつくしさといい、 破調がもしくなるほどの典雅さである。 」 という。 また、 「 本殿についても、同様なことがいえる。 藤原氏は華麗を好み、その氏神をまつる奈良の春日大社の社殿(春日造)も、 桃色に息づく少女のようなはなやぎをもっている。 この多武峯は、春日造である上、桃山様式が加わっていっそう華麗になった。 」 と評している。
遼太郎の続きである。
「 多武峯の祭神が、談峰権現という名になるのは、ようやく平安期になってからで、九二六年である。 権現とは、仏が仮に日本の神として現れるという意味で、 十世紀の日本に成立した神仏習合のいわば結晶というべき思想だった。 このため、多武峯は天台宗(叡山)の末として、仏僧によって護持された。 多武峯の僧のことを、とくに、社僧と呼ぶことが多い。 」
と、平安時代に寺院になったことが書かれている。
司馬遼太郎は談山神社の誕生に関して次のように書いている。
「 明治の太政官政権の勇み足の最大のものは、廃仏希釈だった。
慶応四年(1868)旧暦三月十七日、全国の社僧に対し、復飾(髪をのばし、俗体に還ること)を命じた。
多武峯の社僧たちも、明治二年(1869)、還俗させられた。
神仏判然令によって同七年、仏教色を除かれ、談山神社という殺風景な名になった。
俗人になった僧たちは、半ば官命によって妻帯させられ、苗字を称し、
その寺院を屋敷にして住んだ。
そのうち代表的な家の一つだった六条氏(旧子院の華上院)などは、
三等郵便局をいとなんだ。 」
と続けている。
司馬遼太郎は、この後、日本の郵便局の全国ネットは、
三等郵便局制度を導入したことによって確立したといい、
旧幕時代の庄屋や在郷の名家の当主に准官吏の礼遇を与え、
屋敷にいたまま業務させることで一夜にして三等郵便局が誕生したといっている。
現在話題になっている特定郵便局とはその時誕生した三等郵便局のことである。
司馬遼太郎は、六条氏の孫の画家六条篤の話や井上博道の写真集などに話がそれて、
この章は終わっている。
(安倍文殊院) 平成20年(2008)11月15日
(談山神社) 平成15年(2003)11月13日
( 同上 再訪) 平成16年(2004) 4 月