伏見街道を歩く

東海道の大津宿から山科の髭茶屋追分に出ると、東海道と別れて、奈良や伏見に行く道がある。  この道は伏見の手前で、宇治川に出るのは奈良街道であるが、伏見に至る街道は大津街道とか、伏見街道と呼 ばれた。 徳川幕府は、大阪城陥落により豊臣家が消滅すると、 太閤秀吉が高瀬川沿いに開いた京街道の伏見から大阪高麗橋と山科から伏見までの伏見街道に、伏見、 淀、枚方、守口の四つの宿場を造り、西国大名の参勤交代の道にした。 豊臣方が多かった西国大名が京都に寄る ことは皇室や公家に接する機会が生じるという懸念があることから、この道を整備したといわれる。 東海道五十三 次の延長ということから、東海道五十七次ともいわれたようである。  




山科追分から伏見宿
平成二十一年九月七日、江戸時代、大津街道とか、伏見街道と呼ばれた道を歩く。 
山科髭茶屋追分 伏見街道の起点は大津宿だが、大津宿から山科追分間は、東海道と中山道の旅で二度歩いているので、今回は京阪電 車京津線で追分駅まで来て、そこから歩いて山科髭茶屋追分に来た。 今回の旅はこの山科追分から始めよう。  山科追分は京都府と滋賀県、大津市と京都市の境界にもなっているが、三叉路にはそれを示す標識がある (右写真)
その前に、蓮如上人碑と 「 右ハ京みち、ひだりふしミみち 」 と、刻まれた道標があった。 
古い家 右側の狭い道は京に向かう東海道、左側の道は伏見道だが、現在は府道35号線、通称は奈良街道である。 左の 伏見道を歩き始めると、漆喰壁の家が多く残っていた (右写真)
道は少し曲がりながら、僅かに下っていく。 右側に常夜燈や道標があったので、立ち止り良くみると、このあたり の地名ではなく、どうやら庭師の家のようだった。 少し歩くと、シェルターをかぶった名神高速道路の高架橋が あるのでその下を潜ると、その先に信号交差点があっ
音羽病院 た。 交差点を直進すると、満福亭の看板がある家の前から右にカーブした。 そのまま道なりに 歩いて行くと、右側に音羽病院があり、病院正面前の道は三叉路になっている (右写真)
三叉路を左斜めに折れて進むと、 右側に僅かばかりの田があり、稲が植えられていたが、一昔前はこのあたりには田畑が広がっていたように思え た。 三百メートル歩くと、国道1号線に出た。 街道は国道の先にあるが、横断歩道はないので地下道を通り 反対側に出た。 
海鮮料理木やの看板がある細い道をあるくと、その先には田畑などの自然が残っていた。 
道標 少し歩くと山科川に架かる音羽橋を渡る。 その先五百メートル程歩くと、国道1号線の山科大塚交差点に出たの で、国道を地下道で横断し、その先に続く狭い府道を進むが、この道はバスも頻繁に走り、車の往来が激しい。  前方に東海道新幹線の陸橋が見えてきたが、手前左側の家の前に、 ひだりおおつみち  みぎうじみち の道標が 建っていた (右写真)
新幹線の陸橋を潜り少し行くと、右手のこんもりとした上に二本の木が茂っている。 囲いの中
皇塚 に入り、確認するとしめ縄が巻かれた木の切り株と皇塚という石碑が建っていた。  皇塚は
 「 山科区で一番古い六世紀前半頃と推定される古墳跡で、直径二十メート ル程の円墳だったが、形は残っていない。 桓武天皇の墓という伝承もあり、大塚、王塚、皇塚などとも呼ばれて いた。 付近の地名に大塚が付くのはこれに由来する。  」 というものである (右写真)
古墳といわれればその気もするが、桓武天皇の墓にしては小さすぎるだろう。 その先右側に
妙見宮碑 ファミリーマートがあった。 南大塚バス停がある交差点の左角には妙見宮の石碑が建って
いて、奥の大塚の妙見寺に通じる細い坂道があった (右写真)
大塚の妙見寺は、平安遷都のとき都の四方を守護する四つの妙見寺の一つとして建立された由緒ある寺で、妙見さ まは古く奈良時代から方角の神様として信仰を集め、江戸時代には妙見詣りが流行ったというが、今回は訪問はしな かった。 交差点を過ぎると、右側に愛宕山
宝迎寺 常夜燈が建っている。 この先、伏見宿までに幾つかの愛宕山常夜燈を見ることになる。 東海道の遠州から三河 にかけて、また、中山道でも美濃で多く見たのは秋葉山常夜燈だったが、この地方では山城、丹波国境の愛宕山の 山頂にある愛宕神社が、古くから火伏せ、防火に霊験のある神社として知られる。 その先にあるのは浄土宗の 宝迎寺である (右写真)
境内に井原西鶴の好色五人女の一人、おさんと茂兵衛の墓があると聞くが、長屋門風の山門
岩屋神社の鳥居 の入口が柵でふさがれていて、中に入ることは出来なかった。 このあたりには築地塀をめぐらせた民家も残って いる。 七百五十メートル程歩くと、バス停の先の道が狭くなった左側に岩屋神社の大きな鳥居が建っていた ので、寄り道をすることにした (右写真)
神社まで五百メートルと聞いていたの行くことにしたが、予想した以上に時間がかかった。 鳥居をくぐり参道を 歩いて行くと、その先の交差点の右側にコンビニがあったので、ペットボトル
岩屋
神社鳥居 に入ったお茶を買った。 道は上り坂だが、その先に名神高速道路のシェルター付きの陸橋があり、その下をくぐる と、正面に石段があり、左には車道があった。 石段を登り直進すると、両側に常夜燈があり、岩屋神社と書かれた 鳥居に前に出た (右写真)
岩屋神社は、 本殿背後の山腹に陰陽の巨岩を磐座として祀ったことが始まりとされる。 
社伝によると、 「  仁徳天皇三十一年(343)の発祥とされ、境内から奈良時代以前の土器が
拝殿 出土している。 宇多天皇の寛平年間(889〜898)に、陰巌に栲幡千千姫命、陽巌に天忍穂耳
命を祀り、岩前の小祠に饒速日命が祀られた。 これらはこの地を支配した物部氏系の大宅氏が、山科を開拓するに 当たり、祖神を祀ったものである。 」 
鳥居の先に石段を上り門をくぐると、奉納された提灯が付いた拝殿に出た (右写真)
社伝の続きには、 「 治承年間(1177〜1180)に園城寺僧徒によって、社殿が焼かれ旧記も
笠原寺 失われたが、弘長二年(1262)には再建された。 中世には東西上の岩屋三社と呼ばれた。 明治の神社の格付けでは 郷社となった。 」 とあった。 その奥の本殿でお参りを済ませ、左側にある奥の院と岩屋不動の石柱を見ながら 奥に進むと、神社合祀令で集められたと思える小さな社が幾つか祀られていた。 境内を抜け直進すると石段の 両側に、南無金剛大師遍照と書かれた赤い幟が翻っているのは、川崎大師京都別院の笠原寺である (右写真)
大宅一里塚跡 坂を下って、先程の岩屋神社の大きな鳥居のところまで戻り、街道の旅を続ける。  数百メートル歩くと、交差点の右角に京阪バス大宅甲の辻のバス停があり、高い榎の木が聳えるように立っている のが、日本橋から百十九里目の大宅(おおやけ)一里塚である (右写真)
この広場の奥には岩屋神社御旅所の大きな石碑があり、 バス停の左側には愛宕常夜燈が建っていた。  御旅所とは、祭礼の時神輿がしばらく留まるところである。 
その先の信号交差点を越え、名神高速のガードを潜る。  道は登り坂となるが、直進すると、
道路標識 前方に宇治六地蔵と 小野への分岐を示す道路標識が見えてくる (右写真)
標識の先の信号交差点を右折し、府道35号線に入る。 左にカーブすると、右手に山科警察署が見えるが、 道は右にカーブし、緩やかな下り坂を道なりに歩いて行く。 対向二車線 の道は狭く、歩行帯もないので、溝の蓋の上を歩いていくことになる。 約六百メートル進むと、右側に小野葛籠 尻町の広報板があり、そのそばに愛宕常夜燈が建っていた。 旧街道の雰囲気
高川の交差点 が残る道を進むと、左側にPANASONICの看板がある電気店があり、その先に交差点がある。  高川の交差点で、伏見街道はここを右折するのだが、交差点の奈良街道の標識を見て、奈良街道=小野との先入観 から、考えることもなく直進してしまった (右写真)
交差点の左右に流れる用水のような川が高川であるが、この時は川の存在も気付かなかった。  交差点を直進する道は旧奈良街道で、醍醐寺の前を通るので醍醐街道とも呼ばれて
随心院山門 いる。 坂を下ると、小野御霊町の信号交差点があり、道の向こうに大本山随心院門跡の看板があった。 交差点を 越えて少し歩くと、左側にさるすべりが満開の古民家風の蕎麦屋があり、その先左に入ったところに随心院の山門 があった (右写真)
 「 随心院は真言宗善通寺派の大本山で、仁海僧正が正歴二年(991)に創建、もとの名は曼荼羅寺といったが、 その後、同寺の塔頭として随心院を建立し、後堀河天皇より門跡寺院の
化粧井戸 宣旨を受けた。 」 という寺である。 このあたりの小野の地名は、古代に小野一族が栄えたところで、仁明天皇 の更衣だった小野小町も宮中を退いた後、この地で過ごしたとされる。 
境内には小町が住んでいたという屋敷跡に残る化粧井戸がある (右写真)
その他、薄暗い木立の中に小町塚、侍女の塚、そして深草少将の手紙を埋めたとされる文塚などがある。 また、梅園 があるので、梅の季節はよいのだろう。 
勧修寺橋 この後、伏見街道との分岐点を探しに引き返し、 前述の高川のある交差点を見つけた。 高川に沿って西方へ歩くと、外環小野交差点で、地下鉄小野駅がある。  交差点の近くにある 美々卯で少し早いが昼飯を食べた。 外環小野交差点を直進すると、しんたかがわはしがあり、その先二百メートル のところには、山科川にかかる勧修寺橋があった (右写真)
橋を渡り進むと、左側に二、三軒の古い家が残っていた。 
勧修寺道標群 その先は三叉路で、府道35号線の伏見街道は左折するが、道の正面の勧修寺の門前の小高いところに、愛宕常夜燈、道標 など大小四つの古い石碑が並んで建っている (右写真)
道を横切って近づくと、愛宕常夜燈には仁王堂町、その隣の道標は文化元子九月の銘があり、「 南 右大津 左京 道 北 すくふしみ道 」 と刻まれている。  その隣の小さい道標の内容は飛ばして、左の道標には  「 右 坂上田村 麿公墓 山科 左 深草小栗 」 とあった。 
八幡宮の鳥居 勧修寺前の府道を進み、最初の信号交差点を右折して坂道を上っていくと、左側に八幡宮の鳥居が建っているが、 吉利倶八幡宮(きりくはちまんぐう)とも呼ばれる神社である (右写真)
 「 八幡宮は小野の地の産土神で、平安時代の仁寿三年(853)の創建と伝えられ、江戸時代まで勧修寺の鎮守社だ った。 吉利倶八幡宮の名は、かって境内の老杉が倒れたため、材木にしようと裁断したところ、切断面に梵字の 吉利倶の三文字があったことに由来する。 」 
宮道神社 なお、元禄八年(1695)の建築とされる本殿はここから六百メートル先にあり、江戸時代中期の大型の切妻造平入本殿 の形式を伝えるものとして京都市の指定有形文化財に指定されている。  道の右側には宮道神社があった。 当社は、宇治郡を本拠とした宮道氏の祖神、日本武尊とその子、稚武王を祭神 として寛平十年(898)に創祀された神社である (右写真)
宇治郡司宮道弥益は、醍醐天皇の生母藤原胤子の祖父で、その邸を寺にしたのが勧修寺と
高速道路下の道 伝えられてきた。 坂を上っていくと、三叉路の勧修寺下ノ茶屋町交差点で、そのまま直進すると右側に名神高速 道路のシェルターが圧迫するように迫ってくる (右写真)
府道は高速道の左側に沿って進んでいくが、左側の風景は殺伐としたものである。 しばらく歩くと、左側に勧修寺 観光農園などのぶどう園があり、数は少ないかお客の姿が見られた。 そこから少し歩くと、道は高速道路と別れて 左にカーブしていく。 ここまでは山科区勧修寺南
京都ピアノ技術専門学校 大日で、ここからは伏見区深草馬谷町である。 この間の高速道路下の道は一キロ半位だったろうか?  道を下ると、左側に大岩神社自動車道入口の石柱が建っていた。 そのまま坂を下って行くと、三叉路の右側に 京都ピアノ技術専門学校の建物がある (右写真)
この建物の先に右に入る細い道があるが、これが旧京街道の伏見道である。 ここで府道と別れてこの道に入る。  このあたりは一昔前には農業が営まれていたところのようで、賃貸住宅
道標 が多く建てられていたが、今でも野菜を作っている畑が見られた。 その先には古い立派な家もあった。 道なりに 五百メートル程進むと、深草谷口町交差点であるが、手前の用水の橋を越えた右側に宇多天皇皇后御陵と仁明天 皇御陵の道標が建っていた (右写真)
また、霊場深草毘沙門天の道標もあったが、霊場深草毘沙門天とはこの北側の深草鞍ヶ谷町にある浄蓮華院のことで ある。 文政四年(1821)、比叡山の僧、尭覺(ぎょうかく)上人が有栖川
宮韻仁親王の命により、桓武天皇の菩提のために建立した寺院で、本尊の阿弥陀如来が
坂道 深草毘沙門天とも呼ばれていることによる。 交差点で先ほどの府道35号と合流するので、右折すると、その先に はJR奈良線のガードが見える。 伏見街道は百五十メートル先の左側に右にカーブしていく坂道に入る と、右側の家の軒下に銀平と書かれた家がある (右写真)
ナビには寿司銀平と登録されているが、脇看板の店名を示す板が外されていたので、廃業したのだろうか? 
古い家 坂を上り、道なりに進むが、連子格子で虫籠壁の家の入口に、衡破除の石柱が建っていたが、これは何か? この あたりには古い家が残っていて、街道の雰囲気がした (右写真)
入口から二百五十メートル程歩くと、T字路につきあったので、少し不安はあったが、右折した。 少し歩くと、 直進する狭い道と左折する車が通れるやや広い道の三叉路に出た。 ここにも道標のような類はないので、 道なりに左折して歩く。 左側の先にうっそうとした木立が
東寺町バス停がある三叉路 見えたので何かと思いながら歩いていくと、天理教山国大教会の前に出た。 反対側にはJR奈良線が通っている 。 斜め右に入りJR奈良線を跨ぐ陸橋を越えると、右折と直進の三叉路である。 左側に東寺町 バス停がある直進の道を選び、線路沿いに進む (右写真)
二百五十メート程歩いた交差点の左手にはJR藤森駅とJR藤森駅駐輪場の看板が見えた。 
伏見街道は、その反対で交差点を右折して長い坂道を下っていくと若い男女が上ってきた。 
藤森神社 若い人が多いなあと思っていたら、右側に京都教育大学の看板があった。 その先には藤森神社の標柱と常夜燈、 そして、正徳元年(1711)の銘のある石造鳥居が建っている (右写真)
 「 藤森神社は、神功皇后が、軍旗や武具をこの地に埋めて、祭祀を行ったのが起源で、平安京を開いた 桓武天皇も弓兵政所とした、と伝えられることから、昔から武家の間に武神として崇められてきた神社である。  そうしたことから、 大名行列が神社前を通るときは槍を横に倒して歩いたといわれる。 」 とあった。 
宇治金時 坂道が終わり、藤ノ森小学校の前を過ぎると、信号のあるT字路になるが、伏見街道はここを左折する。 当日の 気温は九月なのに32℃にもなっていて、日射病予防に帽子の下に濡れたタオルを置き、顔が太陽から降り注ぐ のを防止したが、あったいう間に乾いてしまう状態である。 左側にある茶店の脇に宇治金時のメニューがあった ので、奥の方に入って行き、庭を眺めながら、800円の宇治金時を食べた (右写真)
宇治茶の専門店とあり、大納言は固めで砂糖の味はせず、抹茶の味が濃厚だった。 
琵琶湖疎水 氷で冷えたというより、小生しかいない冷房の効いた部屋で身体がクールダウンしたので、生き返った。 店を出て 街道歩きを再開する。 百五十メートル程あるくと、墨染交差点である。 道が狭いので車が混雑していた。  交差点を右折して、墨染通を進み、京阪本線墨染駅の踏切を渡るとその先には、黒染橋が架かる琵琶湖疎水が 流れていた (右写真)
琵琶湖疎水は、京都の蹴上発電所から南下して伏見に至り宇治川に注いでいる。
墨染橋を渡り終えると、左側に墨染寺がある。 桜寺とも呼ばれる日蓮宗の寺院で、平安
墨染寺 時代の歌人、上野岑雄が、関白、藤原基経が亡くなったのを哀しんで、古今和歌集の中で、
 「 深草の 野辺の桜 し 心有れば 今年計りは 墨染に咲け 」 と詠んだところ、本堂前の桜が、薄墨色に咲くようになったので、  墨染寺と呼ぶようになった、と伝えられる (右写真)
墨染桜は、春になると小さく可憐な薄墨色(墨染色は喪に服する時の色)の花を咲かせるとあった。 街道の右側に ある伏見墨染郵便局前を進むと、右から左への一方通行のある交差点で出るが、ここが伏見宿の入口である。  




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かうんたぁ。