江戸時代、京都から北九州に向かう街道としては西国街道があったが、
阪神の港から出航するの船便は大量に物資が運べることから物流に利用されたばかりでなく、
一般旅行者も(風待ちや潮待ちで欠航はあったものの)歩かないで移動できるので、
多くの利用があった。
そういう意味では、瀬戸内の道は海上にあったといえよう。
本編では瀬戸内航路の歴史としまなみ海道を本拠とした海賊について書いてみたい。
縄文以降七世紀前半までは瀬戸内の往来は船によるのが主流だった。
大和朝廷の誕生により、奈良の都と全国を結ぶため、五畿七道の制度ができ、
そのため、駅家の開設と道の整備が行われた。
七道とは、山陽道大路、東山道中路、東海道中路、北陸道小路、南海道小路、西海道小路、
山陰道小路である。
山陽道は都から大宰府までであったが、隋や唐そして朝鮮との国交のため、
外国使節の通行や宿泊を想定し、大路の位置付けの道幅は約六〜九メートルの基幹道だった。
しかし、八世紀に入ると、山陽道の物流は輸送能力で勝る海上輸送に移行してしまった。
この時代の航路は、北九州の大宰府と畿内の難波津と結ぶ瀬戸内航路だったが、
朝鮮、中国への使節、遣隋使や遣唐使が目的地に向かう際に利用されたので、
朝廷は瀬戸内海一帯の港や船の整備に力を入れたからである。
山陽道に設けられた港は難波津(大阪府)、武庫の浦(淡路島)、明石の浦、藤江の浦(以上兵庫県)、多麻(玉)の浦(岡山県)、長井の浦、風速の浦(以上広島県)、
長門の浦、麻里布の浦、大島の瀬戸、熊毛の浦、佐波津(以上山口県)、
分間(下毛)の浦(大分県)、筑紫館(福岡県)だった。
天平年間(729〜748)には、行基上人により、ほぼ一日航程の間隔に、
室生泊、韓泊、魚住伯、大輪田泊、河尻泊の五泊港が開かれた。
小生は、広島県尾道市の小学校に短い期間であったが、在籍した。
終戦後だったので、
食糧事情が悪かったが、朝夕の向島の連絡船の賑わい、浜の匂い、
そして、商店街の魚売りに活気を感じて、楽しい思い出が残っている。
久しぶりに訪れ、家族と一緒にしまなみ海道を旅した。
尾道に多くの神社仏閣があるのは、港の繁栄で富を得た豪商達の寄進による造営である。
尾道は、平安時代の嘉応元年(1169)、備後大田荘(後、高野山領)公認の船津倉敷地、
荘園米の積み出し港となって以来、対明貿易船や北前船、内海航行船の寄港地として、
大いに賑わい、豪商を生んだ地である。
「 平安時代に入ると、荘園制の発達で、公租の運搬や荘園年貢の輸送が必要になり、大量輸送が出来る海運が利用された。
NHKの大河ドラマにもでてきたが、平清盛は、久安二(1146)、安芸守に就任し、
瀬戸内海の制海権を手にいれ、宋貿易により莫大な利益をあげた。
清盛は瀬戸内航路を整備し、音戸の瀬戸の開削や牛窓港と敷名の泊の整備などを行っている。 」
このように船の往来が激しくなると、積荷の略奪を狙った海賊が登場した。
「
史実に残る形で登場するのは、天平二年(730)というが、それ以前からいたように思われる。
漁業や農耕で生活していた人の中から、付近を航行する船を襲い、積み荷を強奪したり、
金品をゆすったりする人が現れた。
やがて、徒党を組むようになり、御互いに同族意識を持ち、
瀬戸や早瀬に面した島を根拠地にして通行する船を襲った。
彼等は、潮の流れが速いところを本拠にしていたが、
来島海峡はその中でも最も潮の変化が激しかった。 」
x | x | |||
藤原純友(ふじわらのすみとも)は、瀬戸内海を荒らしていた海賊の討伐を朝廷より命じられたのだが、承平六年(936)には自らが海賊の親玉となり、日振島(愛媛県宇和島市)で反乱を起こした。
「 天慶四年(941)、藤原国春の軍に破れ、九州大宰府に敗走、その後、日振島に脱出するも、伊予国警護の橘遠保により討ち取られた。 これを承平の乱というが、純友が反乱をおこすことができたのは、当時の海賊が強力な軍事的組織集団だったことの証明である。 」
朝廷の命を受けた伊予在住の河野通信は、配下を率いて純友征伐に軍功をあげ、 群小海賊衆を統率し、瀬戸内海の海上支配権を握る。
「
治承四年(1180))、源頼朝が伊豆で挙兵するや、それに呼応して、
河野通清、通信父子が風早郡高縄山に兵を挙げた。
河野通清は、通信の留守中に西寂に攻められ殺されたが、
その子、通信は、海賊の村上頼冬の船と兵を用い、西寂と戦い、父の恨みを晴らした。
通信は屋島の戦いでは源氏軍に加わり、村上頼冬の船に兵三千名を乗せて、平氏を追撃し、
讃岐国塩飽荘まで追った。
平家の軍は、安芸の厳島に集結し、安芸の海賊衆や九州の松浦海賊の協力を得て、
厳島から彦島に本拠を移した。
源氏の義経軍は、河野氏率いる村上水軍の活躍で撃破し、小早船で壇ノ浦に追い込み、
平家を滅亡させたのである。 」
村上水軍博物館には当時活躍した小早船の模型が展示されている。
水軍は母艦に相当する安宅船(大型船)と関船(中型)と小早船(小型)から構成されていて、
小早船は敵船に攻め入る駆逐艦のような役割をもっていた。
大山祇(おおやまずみ)神社は、しまなみ海道が通る大三島(おおみしま)にあり、古来から武神、海上守護神(三島水軍守護神)として崇敬され、河野氏の庇護を受けて栄えた。
「
伊予国一の宮に定められ、官幣大社に列せられた四国唯一の大社である。
古来から、日本総鎮守・三島大明神、大三島宮と称し、歴代朝廷の尊崇、国民一般の崇敬篤く、
奈良時代までに全国津々浦々に分社ができた程隆盛を極めた。
祭神は大山積大神一座で、天照大神の兄に当る。
またの名を吾田国主事勝国勝長狭命と称する。
娘の吾田津姫(木花開邪姫命)は、天照大神の孫の瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の妻だったと云われる。
わが国建国の神であると同時に、和多志大神と称される地神の海神兼備の霊神である。 」
x | x | |||
大山祇神社の本殿は三間社流造り、屋根は檜皮葺き、外部は丹塗の社殿で、
天授四年(1378)に再建されたとあるが、はっきりしたことはわからない。
切妻造りの拝殿は、慶長七年(1602)の造営で、ともに国重要文化財に指定されている。
宝物館には、国宝の源義経奉納の赤絲威鎧大袖付や斉明天皇の禽獣葡萄鏡、 河野通信の紺絲威鎧兜大袖付など、多くの刀剣・甲冑が展示されていた。 館内撮影は禁止であった。
「
河野氏を始め源氏やその他の武将に篤く信奉され、多くの甲冑が奉納されてきた。
全国で国宝、重要文化財の指定を受けた武具類の八割が、この大三島に保存されているとあるから、驚き。
刀剣好きの娘はこれが見たくて旅行に参加したので丹念に見て回っていたが、
小生には刀の種類や価値が分からないので、奉納した人物の名前を目で追っていた。
護良親王、木曽義仲、平重盛、鎮西八郎為朝、武蔵坊弁慶、和田小太郎義盛、河野道時、河野道有、・・・・・・ 」
日本最古の大鎧は藤原純友の乱を鎮めた越智押領使好方の奉納である。
このように多くの刀剣があるのは武将や兵士が、出陣に際しての戦勝祈願や勝利の謝恩に、
この神社に詣でて、武具を寄進したからと、娘から教わった
小生の興味を引いたのは境内にあった宝しょう印塔三基である。
説明によると、河野水軍の将・河野通信の孫にあたる一遍上人が、
本殿再建の祈りをこめて建立奉納したもの、とある。
一遍上人が武家の出とは知らなかった。
河野通信は三島神紋流旗を奉納しているが、これも重要文化財である。
「
源義経を勝利を導いたのは河野通信が潮の変化を進言したことによるとされ、
戦功の恩賞として所領を安堵され、さらに伊予国守護職に準ずる伊予惣領職が与えられ、
河野水軍として瀬戸内を把握した。
河野氏の出目は、松山の北部、北条市(現在は松山市)であるが、
その後、道後の地に湯築城を築き、伊予の国を統治した。
しかし、河野氏は、氏族間のごたごたなどで、戦国大名にはなれず、
秀吉の四国征伐で滅ぼされた。 」
落城した湯築城跡が、松山市立子規記念博物館が建つ道後公園である。
x | x | |||
大山祇神社の神域の中央にある樹齢三千年を越えるといわれる楠の大木は御神木で、
御祭神の大山積神を当地に勧請された小千命(おちのみこと)が植えたと伝えられるもので、
神武天皇東征前のこととといわれる。
雨が降らないため、守護より能因法師が派遣されたとき、法師は
「 天の川 苗代水にせきくだせ 天降ります 神ならば神 」
と詠み、御幣に書き付けて楠に祈請したところ、三日三晩降り続いた、と伝えられている。
海賊衆の村上氏が根拠地にしていたのは、しまなみ海道である芸予諸島であった。
「 これらの島は尾道(広島)と今治(愛媛)とを結ぶ線上に連なり、 瀬戸内を航行する船は、どこかの海峡で、彼等の目に触れることになる。 」
十四世紀の南北朝の争いの時、南朝方に味方した村上義弘が、戦国時代に入ると、
その強力な海の武力を背景に、瀬戸内の広い海域を支配し、
国内の軍事や政治を左右する存在になった。 俗に、三島村上氏と呼ばれる。
村上氏は、三家に分かれ、来島、能島、因島を本拠地としたが、互いに強い同族意識をもっていた。
しかし、戦国時代になると、三家はそれぞれ違う動きをする。
「
来島海峡にある来島城を本拠にした来島村上氏は、守護大名の河野氏と結びつく。
因島村上氏は、大内氏、のちの毛利氏の有力な水軍となった。
宮窪に本拠を置く能島村上氏は独立性が高く、特に村上武吉は大に従わず、
独自の姿勢を貫き通した。 」
海賊は村上氏だけではない。 大内氏には宇賀島海賊がいるし、九州にもいた。
能島村上氏の一族、村上義有は上関に城を築したが、
ここはもともと大内氏の宇賀島海海賊の勢力範囲だった。
「
天文二十年(1551)、大内義長が、室町幕府に納める米二千石を船に積んで、
大内側の宇賀島海賊に護衛させて上関を通過した。
もちろん帆別銭も払わず、上関を攻撃して行った。
村上義有はすぐ能島にある村上本陣へ知らせた。
蒲刈瀬戸で待ちうけた能島村上軍は、船もろとも米を奪ってしまった。 」
瀬戸内海の覇権をめぐり宇賀島海賊と村上海賊が勢力争いを演じた。
「
弘治元年(1555)、毛利元就と陶晴賢の厳島合戦の時、村上武吉は宇賀島をはじめ、
周防海賊衆を壊滅させようと、毛利方水軍の総大将として、僅か二十三歳で出陣し大勝した。
この結果、能島村上氏は、西は九州東は塩飽諸島と瀬戸内西部を完全に押さえ、海上交通を掌握し、地方の有力大名に肩を並べる、海の大名として勢力を張った。 」
この頃が村上水軍の絶頂期である。
豊臣秀吉が全国統一を果たすと、太閤検地と刀刈りを実施。
大名並の力を持つ村上海賊は邪魔の存在なので、海賊禁止令(1588年)が出された。
「
慶長五年(1600)、関ヶ原の戦で敗退した毛利輝元は周防と長門二ヶ国に減封されたので、
能島海賊の村上武吉も輝元に従って周防国に下り、大島和田の地で三年後に没した。
その後の村上氏は毛利藩の船奉行として明治を迎えた。 」
x | x | |||
江戸時代に入ると、江戸に通じる五街道を中心に街道の整備が行われた。
「
山陽道は東海道の延長にあったので、四十二の宿場が設けられた。
現在の国道2号は山陽道を踏襲したものだが、異なる道筋が多い。
西国大名は利用したようだが、旅人や物資運搬は海運が主役だった。 」
江戸時代に入ると、瀬戸内海運は黄金期を迎えた。
「 河村瑞賢が、寛文十二年(1672)に、西廻り航路を開発し、 日本海側の佐渡小木、能登福浦、但馬柴山、石見温泉津、瀬戸内海側の下関、 大坂、太平洋に面した志摩畔乗(安乗)、伊勢方座、紀伊大島等を寄港地とした。 」
さらに、江戸中期には大坂と蝦夷を結ぶ北前船が登場する。
それ以降、沿岸の港に立ち寄らず、瀬戸内海の中央を抜けていく沖乗り航路と、
瀬戸内だけを運行する地乗り航路に分かれ、役割分担を図っていった。
「 地乗り航路は、鞆から弓削島、岩城島、木ノ江、御手洗等の芸予諸島の中央を貫いて、 津和地、上関で合流するルートをとるものである。 」
このように物流で主流を占めていたが、庶民と船とのかかわりはどうだったのだろうか?
江戸時代後期の天保十一年、北九州の筑紫国上底井野村(現中間市)の商家のおかみ・小田宅子が、 伊勢参りの旅に出たことを記した東路日記によると、 北九州から兵庫県までほとんどの行程を船便に頼っている。
東路日記による、彼女達の旅を辿ってみる。
「 遠賀川を川舟で下り、海のある芦屋に出て、船に乗り換え下関の赤間関に出た。
ここで金比羅社や壇ノ浦を訪ねた後、船で出ようとするが、船は風待ちにあい、
八日間いたが船は出発できない。
彼女等はしびれをきらして、三田尻まで陸路をとった。
途中、長門二の宮である忌宮神社をお参りし、吉田に泊り、翌日、厚狭郡浅市を経て、船木に宿泊。
山口大神宮にお参りしたりしながら、湯田温泉に二泊している。
翌日、鯖山の禅昌寺と宮市の松崎天満宮(防府市)へ詣り、中関の三田尻近くの港、
富海(とのみ)に出た。
富海から船に乗り、室積に着いたが、翌日は雨で船は出ず、やもなく町中の宿屋に泊まり、
次の日、船で上関に着いた。
翌日は岩国の錦帯橋を見て、岩国新湊から安芸の宮島まで船に乗っている。 」
この先も播州赤穂まで、大部分は船便であり、播州赤穂からは陸路をとり、 浪速(大阪)に入っている。
姥ざかり花の旅笠(東路日記)を書いた田辺聖子さんによると、
「 瀬戸内ではほとんどの旅人が船を利用していた。 」 とあり、
書中でも、房子達と乗り合わた人達が常陸からの宮島詣の一行だったり、
商談で浪速に向かう商人などの様子が描かれている。
「
当時の船は、千石船(150トン)と呼ばれる大型船でも
一枚帆に追い風をはらみながら航行する構造で、強い季節風や暴風雨を避けなければならず、
順風を捕らえて走行するため、風待ちがあった。
また、潮の流れも利用して航行していたので、
上げ潮や下げ潮を待つための潮待ちも行われたのである。
そのため、風待ちや潮待ちの港があったのである。 」
尾道は物資の集散地で、尾道港には東西二つの荷揚げ地があり、 物資の上げ下ろしで活躍した沖仕達がいた。
「
彼等は石をさし上げて力比べを行った。
力比べに用いられたのが力石で、持ち上げた人名が刻まれている。
力石は市内二ヶ所、観光案内所と西国寺で見ることができる。 」
明治二十年ぐらいまでは江戸時代の航路が維持されていたが、山陽鉄道や蒸気船の登場により、 帆船時代の寄港地は徐々に衰退していった。
「 旅客の輸送は鉄道に替わったが、昭和三十年代までは神戸から松山、 別府の関西汽船による航路は、新婚旅行客の憧れといわれて、多くの人が利用したものである。 そうした思い出をお持ちになる人もおられるのではないか?! 」
交通手段の発達により、九州と近畿を結ぶルートはいろいろあるが、
物流では船舶の利用が今でも多いのである。
x | x | |||
旅した日 平成17年(2005)3月