熊野街道は、紀州藩が五街道に準じる脇往還として整備した道で、和歌山から伊勢まで通じていた。
本来は藩内の連絡や治世に利用するために整備されたものだが、江戸後半になると、お伊勢参りが流行し、帰途、熊野へと寄るものが増え、大いに
賑わうようになった。 大正時代に、国道として整備されたが、今でも多くの石畳の道が残っている。
熊野街道は、紀伊街道ともいい、和歌山から伊勢まで通じる道で、紀州藩領だけを通る道である。
慶長八年(1603)、江戸幕府が開かれ、幕藩体制がひかれたが、元和五年(1619)、紀州藩は、浅野氏に代わり、家康の十男の徳川頼宣(よりのぶ)
が藩主となり、和歌山城に入り、伊勢国の南部を加えて、五十五万五千石を領することとなった。 御三家の一つ、紀州徳川家の誕生である
(右写真ー和歌山城)
白亜の天守閣は国宝に指定されていたが、和歌山の空襲により城の建物は全て焼失し、現在の天守は昭和三十三年に再建されたものである (右写真)
藩領は、高野山寺領を除く、紀伊国全域と伊勢国の南部という広大な面積で、現在の和歌山県と三重県半分近い。
幕府から尾張徳川家と同様、附け家老が派遣され、新宮に水野家、田辺に安藤家が配された。 また、伊勢の松阪と田丸には支城が置かれ、田丸城には
遠江の久野氏が城代として六万石で入り、松坂城は城代が管理をした。 この広範な領地を管理するために整備されたのが熊野街道である。
領内の伊勢市の田丸から
紀州新宮を経て、紀州藩の城下町の和歌山まで通じる紀州藩領だけを通っている道である。 この道は大正時代に入り、国道が開通するまで使用された。
古来より熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)は、皇族や貴族たちの崇拝を受けた場所であり、熊野に通じる道は参詣の道であった。
熊野への道は、伊勢から東紀州を通り、熊野に向かう東からのコースと、大阪、和歌山あるいは吉野からの西からのコースがあり、
細かく分けると三十数種類になると言われる。 これらの道を総称して、熊野古道
といい、世界遺産に指定されたので、脚光をあびている道である。 阪和線の山中峡駅の近くにある、和歌山藩の関所跡あたりから、○○王子という
熊野古道の社が海南市まで点々と続いている。 その途中にあるのが、紀伊三井寺である (右写真)
名草山の中腹にある西国三十三所の第二番札所の寺で、周囲に三つの井戸があったため、名付けられた。 山門の前に、結縁坂のいわれが
書かれていて、紀の国文左衛門が母を背負って、この坂を登り、観音様にお参りをしていたが、鼻緒が切れて困っている
時、玉津島神社の宮司の娘が通りかかり、鼻緒をすげた縁で結婚をし、宮司の出資によるみかん船で大儲けをした、とある (右写真ー紀伊三井寺山門)
平安時代から鎌倉時代にかけて、俗化した既成宗教に飽きたらなくなった皇族や貴族たちが、厳しい山岳信仰に救いを求め、延喜七年(907)、宇多法皇が
熊野御幸を行ったのをきっかけとし、天皇を退いた上皇たちは、競って熊野詣でを行うようになった。
熊野速玉大社に上皇達の御幸回数が書かれた石碑があったが、後白川上皇三十二回、後鳥羽上皇二十九回、鳥羽上皇二十二回と他の上皇に比し、
圧倒的に多い (右写真)
その後、熊野信仰は、武士階級、庶民へと広がっていき、全国各地に熊野神社が建てられ、江戸時代になると、熊野縁起絵巻を持って、御札を売り歩く
巫女集団も現れ、熊野詣は一般大衆のものになったのである。 皇族や貴族たちは、京都から川を下り、大阪
からの紀伊路である西熊野街道が利用した
が、海南市からほぼまっすぐ南下する低山を越えていくコースである。 江戸時代に紀州藩が整備した道は海に沿った道だったようで、現在の国道42号
線に沿って紀伊田辺まで続いていたと、思っている。 紀伊田辺から新宮までは、中辺路と大辺路があるが、紀州藩はどちらを整備したのか?
小生は、中辺路を通って、湯の峰温泉へ行った。 熊野街道は、小栗街道とも呼ばれる
が、室町時代、一世を風靡した小栗判官物語の主人公の小栗判官が照手姫の情愛により温泉の湯で蘇生した地である。 温泉街の中央付近につぼ湯が
あり、当時のものと伝えられている。
詳細は、 別のページ:照手姫伝説と熊野の古湯を探す旅
をご覧下さい。
一山越えたところに、熊野本宮大社があった。 駐車場から参道に入り、石段を登る。
入ると三つの社殿があり、それぞれ四神が祀られている (右写真)
本殿(證証殿)には、主神の家都美御子大神、即ち、素戔嗚尊が祀られている。 この神は、樹木を支配される神で、紀の国(木の国)の語源もここ
から起きている。 第十代崇神天皇の御代に、熊野連がこの地に社殿を建立して、祀ったと伝えられる。 上皇や女院の行幸は数百回に及んだが、
これと前後して、神仏習合により、御主神を阿弥陀
如来と尊び、日本一の霊験を信仰する人が、全国から熊野の深山高谷に押しかけ、「 蟻の熊野詣 」 と
形容されるほど賑わった。 「 伊勢に七度、熊野へ三度、どちらが欠けても参り 」 とうたわれた。 現在の建物は、享保弐年(1718)、徳川家斉の命に
より、紀州藩主、徳川治宝が建立したものであるが、熊野本宮大社はもとからここにあったのではないのである。 元宮跡を求めて、石段を下りた
(右写真)
本宮大社は、熊野川、音無川、岩田川の三つの川の合流点である大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる場所にあったのである。
道路を横ぎり、左に入る細い道を行くと、両側が田畑で、その中に一本の狭い道が続いていた。 彼岸花が咲いていたので、それをカメラに収めながら
歩く。 その先に、日本一といわれる大鳥居が建っていた (右写真)
鳥居をくぐり、樹木の下を歩いていくと、その間にぽっかり空いた空き地に出た。
ここが音無里の大斎原で、明治二十二年(1889)の大出水までは、本宮大社は、川に囲まれたこの中洲の地にあった。 一万坪以上の土地に、楼門や
五棟十二社の社殿や摂社の建物、神楽殿や能舞台、宝蔵、社務所などが立ち並び、現在の八倍もの規模を誇っていた、とある。 広い土地にあるのは
二つの小さな石祠だけだった (右写真)
先程お参りした社殿は、修復して主神の十二神を遷座し、祀ったものなので、残りの
神々は小さな石祠には押し込まれて祀られているような気がして痛々しい気がした。 熊野川に沿って国道168号をかけ下り、新宮市の千穂ヶ峰の
北東麓にある熊野速玉大社を訪れると、鮮やかな朱塗りの鳥居が目に飛び込んできた (右写真)
参道を進むと、右側に神宝館があり、国宝の古神宝類の一部が展示されているというので入ったが、神宝類は美術品でないので、もったいないが、
すぐにあきて出てしまった
(入場料500円) 神宝館正面、参道を挟んで向こう側に立つのは梛(なぎ)の大樹で、枝を大きく広げていた。 平安末期に熊野三山
造営奉行を務めた平重盛(清盛の嫡男)の手植えと伝えられるもので、樹齢千年と推測される。 梛としては日本最大ということで、国の天然記念物に指定
されている (右写真)
社殿は、明治十六年に打ち上げ花火が原因で焼失し、現在の建物は昭和四十二年に再建
されたもので、主神の熊野速玉大神と熊野夫須美大神と十二柱の神々を祀り、新宮十二社大権現として全国から崇敬を集めている (右写真)
速玉大社の由緒によると、「 最初は、熊野三所権現が降臨された千穂ヶ峰の東南端の神倉山に祀られていたが、景行天皇五十八年の御世に、神倉山の宮
からこの地に遷宮された。 このことから、神倉神社の旧宮に対して、新宮と号した 、と古書にある。 」
と、あり、熊野速玉大神は伊邪那岐神、熊野夫須美大神は伊邪那美神とされる。
日本書紀には、「 六月(水無月)の乙未(きのとひつじ)の朔(ついたち)丁巳(ひのとみのひ)に、軍
(みいくさ)、名草邑(なくさのむら)に至る。 則ち名草戸畔といふ者を誅す。 遂に狭野(さの)を越えて、熊野の
神邑(みわのむら)に到り、且ち天磐盾(あまのいはたて)に登る。 」 とあり、名草邑(紀伊三井寺のある名草山のある集落)
を経て、狭野(新宮市佐野)を越えて、熊野の神邑(現在の新宮市付近)に至り、天磐盾(神倉山)に
上った、としている。 太古から信仰されてきた神倉山の磐座に祀られてきた
自然神に、大和朝廷の信仰する伊邪那岐神、伊邪那美神などの神を加えて、新宮としてところに、大和王朝の力がここまで及んできたことを感じる。
熊野信仰を広めたのは、山伏や熊野比丘尼の存在で、彼らを各地に送り、熊野権現の神徳を説いたが、その際に、配ばられたのが、八た烏の印が押された
熊野牛王符である (右写真)
この過程で、全国に五千以上の熊野神社の子社が誕生した。 新宮は古い土地で、秦の始皇帝の命を受け、永遠の命の果物を求めて中国より渡来したと言われる
徐福の墓があり、国道から見えるところに、神武天皇東征上陸の地の看板が小山にあった(右写真)
国道42号で、那智大社に向かう。 熊野那智大社の社伝によると、 「 神武天皇が熊野灘から那智の海岸に上陸されたとき、那智の山に光が輝くのを見て、
那智の大瀧を
見つけ、これを神として祀り、八咫烏の導きによって無事大和へ入ることができた。 」とあるが、日本書紀にはその記述はない。 熊野那智大社に至る坂
の中腹の右手に、那智大滝の石碑があり、飛滝神社の鳥居があり、参道を下りて行くと、那智の滝の前の鳥居があるところから参拝できる。
ここは、那智大社の前身の社があったところで、現在は熊野那智大社別宮飛滝権現となり、御神体は那智の滝である (右写真)
熊野那智大社の社伝では、
「 熊野の民は神武天皇御東征以前からすでに神として奉祀されていたとも伝えられている。 」 とあり、古代の原始信仰の中で、熊野の民が
那智の滝を神として崇めていたことを否定していない。 社伝には、「 神武天皇が那智の滝を大巳貴命(国づくりの神)の御霊代として祀ったのが、那智山信仰
の起こり。 」 とある。 坂を登ると左側に、那智大社があった (右写真)
那智大社が現在地に移転したのは、仁徳天皇の五年(317)と伝えられ、新しい社殿には、主神の夫須美神(伊弉冉尊)を含め、国づくりに御縁の深い十二柱の神を
祀り、
その際、大瀧を別宮飛瀧大神として残した、と社伝にある。 平安時代、平重盛が造営奉行となって社殿を改めたが、織田信長の焼討に遭い、焼失。
豊臣秀吉が 社殿を再興し、享保時代に徳川将軍吉宗により、大改修が行われた。 社殿の前に、神武天皇東征の
道案内をした八咫烏が石に姿を変えたという烏石があった (右写真)
また、白河上皇お手植えの枝垂れ桜や平重盛が植えたという樹齢八百六十年の樟の木が
茂っていた。 熊野には、役小角を始租とする修験道がおこり、神仏習合の信仰が行なわれるようになった。 その名残りと思えるのが、随神門の仁王像である
(右写真)
明治までは神仏習合で、那智大社と右隣の青岸渡寺は一体のものであったが、明治の廃仏棄釈で、他の二社の仏堂が壊された際、那智大社の如意輪堂は奇跡的に
残り、青岸渡寺と名を変えたのである。 青岸渡寺は西国三十三ヶ所の第一番札所であるが、その
生い立ちは確かではない。 伝えられるところでは、「 仁徳天皇の御世(4世紀)、
印度天竺の僧、裸形上人が那智大滝において修行を積み、その暁に瀧壷で八寸の観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初
。 」 とある。 その後、二百年を過ぎた推古天皇の頃、大和の生佛上人が一丈の如意輪観世音を彫み、その中に裸形上人の
八寸の観音菩薩を納め、お堂が建立した、と伝えられる (右写真)
境内からは、霧が懸ってもやぁとしていたが、三重塔の先に那智の滝が見えた。
坂を下って行くと、国道の手前の左側に、補陀落(ふだらく)寺があった (右写真)
平安時代に入ると、観音信仰と浄土信仰が国内に広がったが、その中で、観世音菩薩が住んでいるとされる補陀落山は熊野の那智山に擬せられ、浄土は熊野の沖
にあるといわれるようになった。 鎌倉時代に入ると、熊野の沖にあるといわれる浄土を目指して、生きながらに小さな出口のない船で 浜の宮から船出をした
のである。 これを補陀落
渡海というが、実際は餓死であった (右写真-渡海船の復元したもの)
寺の住職は六十一歳の十一月になると、観音浄土をめざし生きながら海に出て往生を
願う渡海上人の習わしがあったが、極楽往生を願う庶民が渡海船の出船にお金がかけられるようになり、周囲から追い詰められて、出発したが、途中で船から
逃れらようと
して、殺される事態が起きた。 こうしたことをきっかけとして、室町時代には生きたまま入水自殺することはなくなった、という。 裏山は、勝山城址で、
その一角に補陀落渡海で亡くなった人の供養碑があった。 境内に、浜の宮王子社跡の木柱が建つが、神武天皇頓宮跡で、駐車場角の振分石は中辺路と伊勢路
の分岐点だった。
この日は、勝浦温泉に泊まり、のんびり湯に浸かった。
その様子は私のホームページ: 「和歌山県の温泉」 を
ご覧ください。
平成19年10月