「  熊野街道(熊野往還)  」

(  和歌山城 ・ 紀三井寺 ・ 熊野本宮大社  )


かうんたぁ。



熊野街道は、紀州藩が五街道に準じる脇往還として整備した道で、 和歌山から伊勢まで通じていた。 
本来は藩内の連絡や治世に利用するために整備されたものだが、江戸後半になると、 お伊勢参りが流行し、帰途、熊野へと寄るものが増え、大いに賑わうようになった。 
大正時代に、国道として整備されたが、今でも多くの石畳の道が残っている。


◎ 和歌山城

和歌山城

熊野街道は、紀伊街道ともいい、和歌山から伊勢まで通じる道で、紀州藩領だけを通る道である。
「   慶長八年(1603)、江戸幕府が開かれ、幕藩体制がひかれたが、元和五年(1619)、紀州藩は、 浅野氏に代わり、徳川家康の十男・徳川頼宣(よりのぶ) が藩主となり、和歌山城に入り、伊勢国の南部を加えて、五十五万五千石を領することとなった。 御三家の一つ、紀州徳川家の誕生である。 」   (右写真ー和歌山城)
和歌山城の白亜の天守閣は国宝に指定されていたが、和歌山空襲により、城の建物は全て焼失した。

和歌山城

現在の天守は昭和三十三年に再建されたものである (右写真)
「 藩領は、高野山寺領を除く、 紀伊国全域と伊勢国の南部という広大な面積で、現在の和歌山県と三重県半分近い。  幕府から尾張徳川家と同様、附け家老が派遣され、 新宮に水野家、 田辺に安藤家が配された。  また、伊勢の松阪と田丸には支城が置かれ、田丸城には遠江の久野氏が城代として、 六万石で入り、松坂城は城代が管理をした。  この広範な領地を管理するために整備されたのが熊野街道である。
領内の伊勢市田丸から、紀州新宮を経て、 紀州藩の城下町・和歌山まで通じる、紀州藩領だけを通っている道である。  」

熊野古道案内図

この道は大正時代に入り、国道が開通するまで使用された。 
古来より、熊野三山 (熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)  は、 皇族や貴族たちの崇拝を受けた場所であり、 熊野に通じる道は参詣の道であった。 
熊野への道は、伊勢から東紀州を通り、熊野に向かう東からのコース と、  大阪 ・ 和歌山 あるいは 吉野からの西からのコースがあり、 細かく分けると、 三十数種類になると言われる。 
これらの道を総称して、 熊野古道 といい、 世界遺産に指定されたので、脚光をあびている道である。 

◎ 紀伊三井寺

紀伊三井寺

阪和線の山中峡駅の近くにある、和歌山藩の関所跡あたりから、○○王子という熊野古道の社(やしろ)が海南市まで点々と続いている。 
その途中にあるのが、紀伊三井寺である (右写真)
「 名草山の中腹にある西国三十三所の第二番札所の寺である。
周囲に三つの井戸があるため、三井寺と名付けられた。  」

紀伊三井寺山門

山門の前に、「結縁坂」 のいわれが書かれている。
「 紀の国文左衛門が、母を背負って、 この坂を登り、観音様にお参りをしていたが、鼻緒が切れて困っていると、 玉津島神社の宮司の娘が通りかかり、鼻緒をすげた縁で、結婚をし、 宮司の出資によるみかん船で、大儲けをした。 」 (右写真ー紀伊三井寺山門)

「 平安時代から鎌倉時代にかけて、俗化した既成宗教に飽きたらなくなった皇族や貴族たちが、
厳しい山岳信仰に救いを求め、延喜七年(907)、宇多法皇が熊野御幸を行ったのをきっかけとし、
天皇を退いた上皇たちは、競って熊野詣を行うようになった。 」

御幸回数碑

熊野速玉大社に、上皇達の御幸回数が書かれた石碑が建っている。
後白川上皇が三十二回、後鳥羽上皇が二十九回、鳥羽上皇が二十二回と、他の上皇に比し、 圧倒的に多い (右写真ー 御幸回数碑)
「 熊野信仰は、 その後、 武士階級・庶民へと、広がっていき、 全国各地に熊野神社が建てられた。
江戸時代になると、熊野縁起絵巻を持って、 御札を売り歩く巫女集団が現れ、 熊野詣は一般大衆のものになった。   」

御幸碑

皇族や貴族たちは、京都から川を下り、大阪からの紀伊路である西熊野街道が利用した。
海南市からほぼまっすぐ南下する、低山を越えていくコースである。 
江戸時代に、紀州藩が整備した道は、 海に沿った道だったようである。
現在の国道42号線に沿って、紀伊田辺まで続いていたと、思っている。 
紀伊田辺から新宮までは、中辺路と大辺路があるが、 紀州藩はどちらを整備したのだろうか? 

◎ 熊野本宮大社

湯の峰温泉

小生は、中辺路を通って、湯の峰温泉へ行った (右写真)
温泉街の中央付近に、「 つぼ湯 」 があり、小栗判官が蘇生した当時のものと伝えられている。 
「 熊野街道は、 「小栗街道」 とも、 呼ばれる。
室町時代、一世を風靡した、「小栗判官物語」 の主人公 ・ 小栗判官が、 照手姫の情愛により、
温泉の湯で、 蘇生した地である。 」

熊野本宮石段

一山越えたところに、熊野本宮大社がある。 
駐車場から参道に入り、石段を登る (右写真)
「 上皇や女院の行幸は数百回に及んだ。  これと前後して、 神仏習合により、 御主神を 阿弥陀如来 と尊び、 日本一の霊験を信仰する人が、 全国から熊野の深山高谷に押しかけ、 「 蟻の熊野詣 」 と形容されるほど賑わった。  「 伊勢に七度、熊野へ三度、どちらが欠けても片参り 」 とうたわれた。 」

熊野本宮大社

登りきった先に、三つの社殿があり、四神が祀られている (右写真)
「 本殿(證証殿)には、主神の家都美御子大神、 即ち、 素戔嗚尊が祀られている。 
この神は、樹木を支配される神で、 紀の国 (木の国) の語源もここから起きている。 
第十代崇神天皇の御代に、 熊野連がこの地に社殿を建立して、 祀ったと伝えられる。 」

現在の建物は、 享保弐年(1718)、 徳川家斉の命により、 紀州藩主 ・ 徳川治宝が、 建立したものである。  

大鳥居

熊野本宮大社は、明治の大水の後、現在地に遷宮された、とある。
遷宮前の元宮跡に訪れるため、 御参りを済ませると、石段を降り、道路を横ぎり、左に入る細い道を行く。 
両側が田畑で、その中に一本の狭い道が続いている。  彼岸花が咲いていたので、それをカメラに収めながら歩く。  その先に、日本一といわれる大鳥居が建っている (右写真)
鳥居をくぐり、樹木の下を歩いていくと、その間に ぽっかり空いた空き地に出た。

大斎原

「 古来からの本宮大社は、 熊野川と音無川と田川 という、 三つの川の合流点 ・ 音無里の大斎原 (おおゆのはら)という土地の中洲に建っていた。  一万坪以上の土地に、楼門や五棟十二社の社殿や摂社の建物、神楽殿や能舞台・宝蔵・  社務所などが立ち並び、 現在の八倍もの規模を誇っていた (右写真 − 大斎原)
ところが、明治二十二年(1889)の大出水により、現本宮の四つの社殿以外は水に流され、 破壊された。」

現在、広い土地にあるのは、 二つの小さな石祠だけである。 
先程お参りした社殿は、残った上四殿を修復して、主神の四神を遷座し、祀ったもので、
残りの神々は小さな石祠には押し込まれて祀られている。 少し痛々しい気がした。



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