世界遺産に熊野古道が登録されてから、峠を越える日帰りツアーが増えた。
お調子者の小生は、早速、出かけたのである。
熊野街道の一部、馬越峠を歩こうと訪れた当日は天候もよく、気持ちよく歩くことが出来た。
馬越峠は三重県海山町(みやまちょう)と尾鷲市との境にある峠で、その間、三キロ弱のほとんどが石畳の道である。
出発点は、海山町の国道脇で、そこから尾鷲桧の美林の中、
苔むした石畳道が約二キロにわたって、続いている (右写真)
江戸時代の文政年間に、会津の農民・小林吉兵衛が書いた、「伊勢参宮道中日記」 に、
「 馬越坂上下一里、 道へ石を敷き候坂なり、 上に茶屋あり、 おわし町見える 」
とあるが、海抜325mの馬越峠からは尾鷲湾は見えなかった。
途中に、「夜泣き地蔵」 と呼ばれる石仏が石の祠の中で、赤い帽子と赤い涎掛けをした、
やや不気味格好で鎮座していた (右写真 ー 夜泣き地蔵)
馬越峠には、江戸時代には茶屋があり、明治時代まで続いたようだが、今はない。
茶屋跡の向かいに、可涼園桃乙(かりょうえんとういつ)の句碑が建っている(右写真)
桃乙は、近江の国の人で、嘉永五年、熊野巡遊の旅で、当地に一年半ほど滞在し、地元の歌人の指導をした。 句碑には、
「 夜は花の 上に音あり 山の水 」
と刻まれていた。 嘉永七年(1854)、弟子達が桃乙を偲んで建立したものである。
ここにある花とは桜のことで、当時、このあたりは山桜が多く、この作は夜桜見物の時の
ものと言われている。 茶屋の主人・世古平兵衛が、享保八年(1723)、
下野国高勝寺から尾鷲に伝来した岩船地蔵尊を海難予防の守り仏として、
茶屋前に祀ったが、今はここになく、個人蔵のようである。
道中日記に、「 茶屋にてもちを売る。 左の峰に天狗石として大石あり 」
という記述があるので、
左側の山道を一時間登って行くと、三百六十度の展望がひらける天狗山があり、
尾鷲湾と尾鷲市が眺望できた (右写真)
峠を下ると、 嘉永七年(1854) 建立のみかげ石に刻まれた、桜不動が建っている (右写真)
馬越公園は桜の名所とあったが、それほど古い木はなかったので、
最近整備されたものと
思うか、どうだろう? 民家の見えるところまで来ると、
「 くつは虫 道に這出よ 馬古世坂 (桃 乙) 」 と書かれた、木の句碑がある。
少し下った道の左側には、野口雨情 の 尾鷲小唄(昭和十一年) の一節の、
「 鰤は港に 杉桧は山に 紀伊の尾わせは よいところ 」 という歌詞が
刻まれた石碑が建っている。
畑には、みかんがなり、まさに温暖の地であることを感じた。
坂を下ると、墓碑と、「三界萬霊」 と刻まれた経塚が建っていた。
尾鷲は宝永二十四年(1707)に発生した地震による津波で多くの被害を出したが、
溺死した犠牲者の数が多い。 経塚(津波供養塔)は、それを供養するため建立されたものである (右写真)
更に下った左側には、お堂の中に石仏群が安置されていた。
坂を下りきった一角に、庚申様を祭るお堂と徳本上人名号碑が建っていた。
徳本上人名号碑は中山道の美濃路で見かけたので、こんなところにもと思ったが、
徳本上人は、和歌山県日高町生まれで、 行脚の途次、当地の念仏寺に滞在して、
念仏を広めていたのである。
その時の徳を偲んで、文化十三年(1619)に、地元民の手で建立されたのである (右写真)
そのまま真っ直ぐに行くと、大きな通りにでた。
左側の魚屋は、包丁で魚を捌き、外の金網に置き、干物を作って売っていた。
それが人気のようで、売れた場所は空いていた。
右に歩いて行くと、尾鷲神社と金剛寺があった。
尾鷲神社は、大宝年間に創建されたと伝えられる神社だが、
宝永の津波ですべてを失ったので、はっきりしたことは分からないようである (右写真-尾鷲神社社殿)
境内にある樹齢千二百年といわれる大クスノキが歴史の証人である、と思った
先程の魚屋に戻り、道の反対の狭い道に入るのが、熊野街道である。
熊野街道は、紀州藩の道なので、五街道のように、
問屋や本陣というような幕府が設置した
設備はないが、この先に、和歌山藩を設けた問屋場跡や、
道中日記を著した小林吉兵衛が泊まった、旅籠大和屋跡には表示があった。
左側の馬越屋は、築九十年以上で、 昔は遊郭だったようであるが、
ボランティアの運営する休憩所になっていた (右写真)
(注)2006年に老朽化のため、建物は壊され、新築した建物は、9月に再オープンしているようであるが、これで古いものが一つ消えた。
訪問日 平成十五年(2003)十二月初旬日
(ご参考) 紀州藩一里塚
峠を越える途中で、一里塚跡を見た。
紀州藩が一里塚を整備したようで、地元の史料によると、
一里塚の設置については、「尾鷲組大庄屋文書」 の中の
「 享保元年 御国巡衆御越ニ付御状留 申八月 」 という簿冊に、
巡見使に対しての想定問答の書き付けがあり、そこに
「 一 道法壱里塚は、五年已前御改出来候壱里塚を用ひ 」 という記録がある。
このことから、享保元年(1717) の 五年前の正徳二年(1712) には、
既に整備されたことがわかる。
その後、時々、藩は一里塚の検分や整備をさせてはいるが、
江戸時代の後半には荒廃していったようある。
(ご参考) 将軍吉宗と町奉行大岡忠相について
大岡忠相は旗本の出で、伊勢国山田奉行に就いたことがあった。
山田奉行は幕府が置いた遠国奉行の一つで、四年間つとめた。
伊勢神宮領は、宮川を挟み、紀州領と接していたが、境界をめぐり、争いが多かったが、
奉行は御三家の紀州徳川家と争うことを避け、穏便にことを収めようとした。
大岡忠相は紀州藩に対し、言うべきことは主張したという。
当時の藩主は吉宗で、将軍になった吉宗は彼を南町奉行に抜擢し、その後、寺社奉行にし、
大名にとりたてた。