那智勝浦町の補陀落寺の隣には、祭神に家都美御子大神、夫須美大神、速玉大神を祀る熊野三所大神社がある。 古は、熊野三所権現と称したが、
補陀落寺との神仏習合の形態が今に残り、本殿のすぐ前で参拝ができる数少ない神社である (右写真)
駐車場を左折すると、熊野古道伊勢路である。 伊勢路は、ここから熊野速玉大社を経由し、伊勢に至る道である。 代わりに国道42号を走り、新宮
を過ぎるとまもなく、
右手に白い砂浜が見えてくる。 七里御浜と呼ばれるもので、この浜は単に美しいだけでなく、古くから、熊野古道伊勢路の一部として使われてきた
(右写真の左側)
熊野市の花の窟(はなのいわや)から熊野本宮大社へ向かう本宮道に対し、七里御浜の浜伝いに歩くことから、浜街道と呼ばれていたが、
幾つかある川の河口が難所で、川を渡る際に波にさらわれ、命を落とした巡礼者も少なくなかった、ということである。
パーク七里御浜という道の駅があったので、昼飯休憩をとるが、ガスがかかっているので、海岸の風景は今一歩だった (右写真)
江戸時代の浜街道は、国道の左右に残る細い道のようである。 明治維新により、紀宝町から東は三重県になったが、今でも、行政区域を変更したい
という集落があるようである。 それはともかく、熊野市と多気町の間は山とリヤス式海岸の入り江が続く。
現在、伊勢から多気までは高速道路ができ、その先の国道もトンネルを掘って整備され
たので、走りやすくなったが、その前は、峠が続く道のため、移動には鉄道を使用する
という時代が続いたようである。
世界遺産に熊野古道が登録されてから、峠を越える日帰りツアーが増えた。
お調子者の小生は、
早速、出かけたのである。 熊野街道の一部、馬越峠を歩こうと訪れたのは2004年12月初旬であった。 当日は天候もよく気持ちよく歩くことが出来た。
馬越峠は三重県海山町(みやまちょう)と尾鷲市との境にある峠で、その間、三キロ弱のほとんどが石畳の道であった。 出発点は、海山町
の国道脇で、そこから尾鷲桧の美林の中、苔むした石畳道が約二キロにわたって、続いていた (右写真)
江戸時代の文政年間に、会津の農民、小林吉兵衛が書いた、伊勢参宮道中日記に、
「 馬越坂上下一里、道へ石を敷き候坂なり、上に茶屋あり、おわし町見える 」 とあるが、海抜325mの馬越峠からは尾鷲湾は見えなかった。
途中に、夜泣き地蔵と呼ばれる石仏が石の祠の中で、赤い帽子と赤い涎掛けをした、やや不気味格好で鎮座していた (右写真ー夜泣き地蔵)
馬越峠には、江戸時代には茶屋があり、明治時代まで続いたようだが、今はない。
茶屋跡の向かいに、可涼園桃乙(かりょうえんとういつ)の句碑が建っていた(右写真)
桃乙は、近江の国の人で、嘉永五年、熊野巡遊の旅で、当地に一年半ほど滞在し、地元の歌人の指導をしたとある。 句碑には、
「 夜は花の 上に音あり 山の水 」
と刻まれていた。 嘉永七年(1854)、弟子達が桃乙を偲んで建立したものである。 ここにある花とは桜のことで、当時、このあたりは山桜が
多く、この作は夜桜見物の時の
ものと言われている。 茶屋の主人、世古平兵衛が、享保八年(1723)、下野国高勝寺から尾鷲に伝来した岩船地蔵尊を海難予防の守り仏として茶屋前に
祀ったが、今はここになく、個人蔵のようである。 道中日記に、「 茶屋にてもちを売る。 左の峰に天狗石として大石あり 」 という記述があるので、
左側の山道を一時間登って行くと、三百六十度の展望がひらける天狗山があり、尾鷲湾と尾鷲市が眺望できた (右写真)
峠を下ると、嘉永七年(1854)建立のみかげ石に刻まれた桜不動が建っていた (右写真)
馬越公園は桜の名所とあったが、それほど古い木はなかったので、最近整備されたものと思うか、どうだろう? 民家の見えるところまで来ると、
「 くつは虫 道に這出よ 馬古世坂 (桃 乙) 」 と書かれた木の句碑があった。
少し下った道の左側には、野口雨情の尾鷲小唄(昭和十一年)の一節の、
「 鰤は港に 杉桧は山に 紀伊の尾わせは よいところ 」 という歌詞が刻まれた石碑が建っていた。 畑には、みかんがなり、まさに温暖の地
であることを感じ
た。 坂を下ると、墓碑と三界萬霊と刻まれた経塚が建っていた。 尾鷲は宝永二十四年(1707)に発生した地震による津波で
多くの被害を出したが、溺死した犠牲者の数が多い。 経塚(津波供養塔)は、それを供養するため建立されたものである (右写真)
更に下った左側には、お堂の中に石仏群が安置されていた。 坂を下りきった一角に、庚申様を祭るお堂と徳本上人名号碑が建っていた。 徳本上人名号碑は
中山道の美濃路
で見かけたので、こんなところにもと思ったが、実は、徳本上人は和歌山県日高町生まれで、行脚の途次、当地の念仏寺
に滞在して、念仏を広めていたのである。
その時の徳を偲んで文化十三年(1619)に地元民の手で建立されたものである (右写真)
そのまま真っ直ぐに行くと、大きな通りにでた。 左側の魚屋は、包丁で魚を捌き、外の金網に置き、干物を作って売っていた。 それが人気のようで、
売れた場所は空いていた。 右に歩いて行くと、尾鷲神社と金剛寺があった。
尾鷲神社は、大宝年間に創建されたと伝えられる神社だが、宝永の津波ですべてを失ったので、はっきりしたことは分からないようである。 境内にある
樹齢千二百年といわれる大クスノキが歴史の証人である、と思った (右写真-尾鷲神社社殿)
先程の魚屋に戻り、道の反対の狭い道に入るのが、熊野街道である。 熊野街道は、紀州藩の道なので、五街道のように問屋や本陣というような幕府が設置
した設備はない。
この先には、和歌山藩を設けた問屋場の跡や道中日記を著した小林吉兵衛が泊まった、旅籠大和屋の跡には案内の表示だけがあった。
左側にある馬越屋は、築九十年以上で昔は遊郭だったようであるが、ボランティアの運営する休憩所である (右写真)
(注)2006年に老朽化のため、建物は壊され、新築した建物で、9月に再オープンしているようであるが、これで古いものが一つ消えた。
(ご参考) 一里塚
峠を越える途中で、一里塚跡を見たが、紀州藩が一里塚を整備したようで、地元の史料によると、
『 一里塚の設置については、尾鷲組大庄屋文書の中の 「 享保元年 御国巡衆御越ニ付御状留 申八月 」 という簿冊に巡見使に対しての想定問答の
書き付けがあり、そこに 「 一 道法壱里塚は五年已前御改出来候壱里塚を用ひ 」 という記録がある。 このことから、享保元年(1717)の五年前の
正徳二年(1712)には既に整備されたことがわかる。 その後、時々、藩は一里塚の検分や整備をさせてはいるが、江戸時代の後半には荒廃していったようある。
』 とある。 最後に、将軍吉宗と町奉行大岡忠相について述べる。 大岡忠相は旗本の出で、伊勢国山田奉行に就いたことがあった。 山田奉行は幕府が
置いた遠国奉行の一つで、四年間つとめた。 伊勢神宮領は、宮川を挟み、紀州領と接していたが、境界をめぐり、争いが多かったが、奉行は御三家の紀州
徳川家と争うことを避け、穏便にことを収めようとした。 大岡忠相は紀州藩に対し、言うべきことは主張したという。 当時の藩主は吉宗で、将軍になった
吉宗は彼を南町奉行に抜擢し、その後、寺社奉行にし、大名にとりたてたのである。
(訪 問) 平成15年12月
(補 稿) 平成19年10月