飛鳥時代に誕生した山陰道は、飛鳥と山陰道諸国の国府を結ぶ官道であり、
七道の中で小路とされた。
江戸時代になって誕生した山陰街道(丹波街道)は、古代の山陰道と異り、
京都から丹波を通過し、周防国に至る道になった。
現在の国道9号はほぼ古代の山陰道を継承しているが、路線は幾つか異なる。
国道9号は益田から先は萩を経由するルートではなく、
山口線に沿って津和野、山口を経由するルートとなっている。
これは江戸時代の街道に由来する。
なお、鉄道における山陰本線はほぼ日本海側に沿って敷設されており、
萩を経由するルートとなっている。
江戸時代の山陰街道は、
伯耆国に泊宿、長瀬宿、由良宿、八橋宿、赤崎宿、下市宿、御来屋宿、淀江宿、米子宿、
出雲国に入り、安来宿、出雲郷宿、松江宿、宍道宿、今市宿の宿場を設けていた。
淀江宿を過ぎると、国道9号は久ラング状に大きく曲がる。
市街地を抜かると間の前に二つの小高い山が見える。
左手は標高60mの飯山、右側が米子城があった湊山(標高90m)である。
米子城跡に向う。
「 戦国時代の終わり、伯耆西部と出雲東部を治める吉川広家が、
米子に築城を開始したが、関ヶ原で負けて岩国に移り、
翌年の慶長六年(1601)、中村一忠が伯耆国十七万五千石を与えられ入国し、
翌慶長七年1(1602)、築城中の米子城を完成した。
藩主の中村一忠は十一歳と幼少だったため、家老の横田村詮が城下町を造り藩政を勧めたが、
慶長十四年(1609年)、藩主中村一忠が急死して、中村家は断絶となる。
代わって、加藤貞泰が会見・汗入六万石の領主として入城するが、
元和三年(1617)に伊予大洲へ移封になり米子を去った。
その後、池田氏が治めることとなり、寛永九年(1632)以後は、
池田氏家老・荒尾氏が代々米子城主として城を預かり、政治を行なった。 」
米子城は標高九十米の湊山に天守を置き、 東側は飯山、北側には丸山、さらに南西は中海という天然の要衝を備え、 城山を内堀で囲み、その外に武家屋敷を配し、外堀を巡らせた平山城だった。
「
宍道湖に面していた城の南西は埋め立てられて、今は湊山公園となっていて、
作事小屋、厩舎、資材小屋、米蔵、番人詰所などか建ち並んでいた三の丸は
鳥取大学医学部付属病院や米子市営湊山球場の敷地になっている。
また、城主の御殿や台所、藩の役所が置かれていた二の丸には
小原家の表門長屋が移築されているが、湊山テニスコートになっている。
ここには一部石垣も残っている。 」
駐車場に車を置いて本丸方面の道標に沿って上ると左手に「内膳丸跡」がある。
「
城の北側、標高五十二米の丸山に本丸の守りを強化する目的で
中村一忠の家老、横田内膳正村詮が築いたことから内膳丸と呼ばれ、
二段に配置された一の段郭、二の段郭から構成され、二の段郭には角櫓、蔵が置かれていた。
二重櫓が数棟と武器庫が設置されたというが、空地の一部に敷石が露出するのがその痕跡だろう。
この郭から本丸へ向けて石垣を設け、西の防衛線が築かれていたというが、
本丸へ向けた石垣は崩落埋没し、入口で見た石垣のみが残っているのみである。 」
道標まで戻り、本丸に向って上っていくと石垣が見えてきた。
「
米子城は天守と副天守となる連立式天守で、
中村一忠が建てた独立式望楼型四重五階の天守と
吉川広家が建てた四重櫓の小天守があったという。
明治維新後、米子城は払い下げられ、建物は取り壊されたが、石垣は残っていた。 」
湊山の頂上には米子城の歴史を書いた案内板はあったが、 本丸の様子を説明する案内板はなかった。
「
江戸時代に発布された一国一城令の下、例外として存続を許された支城のなかで、
天守をそなえた城は全国でも稀で、その偉容を誇っていたが、今は広い平地になっていて、
一部に礎石があり、城があったことを示していた。
石垣や礎石などは城郭の形態をよくとどめていることや、
米子城に関する文献・絵図資料なども数多く残っていることから
平成十八年に国史跡に指定された。 」
山頂からは西伯耆から出雲の平野部や日本海、中海、島根半島、中国山地が一望できた。
米子は江戸時代、鳥取池田家の支藩として城下町であるとともに、山陰街道の宿場町でもあった。
米子城跡を出て、内山町に入ると、河口神社がある。
神社の前の道を行くと、左側に旧廻船問屋の後藤家住宅がある。
「 江戸時代、本瓦(丸瓦)葺きの屋根、千本格子の木造平屋建ての建物で、
国の重要文化財に指定されている。
かっては多くの蔵が立ち並んでいたが、現在は一番蔵、二番蔵を残すのみである。 」
寺町には九つの寺がある。
( 福厳寺、瑞泉寺、安国寺、好善寺、好興寺、実成寺、法厳寺、心光寺、萬福寺 )
、
米子城築城時、城の備えとして、伯耆国の各地より、移築されたものである。
寺町から尾高町に入る。
加茂川沿いに土蔵群が連なっていた。
この土蔵群の表は米子本通りで、江戸時代には城下町の中心であった。
商店街に土蔵と千本格子の家は、大寺屋船越家で、江戸後期の建物である。
船越家は、日本刀草創の宗家・沢口伯耆守安綱の末裔と伝えられている。
米子城内膳丸跡 | 本丸石垣群(左上小天守、右上天守) | 米子城天守台跡と市街遠望 |
今日の宿は、皆生温泉である。
「
皆生温泉は弓ヶ浜の皆生海岸に面する東西一キロ、南北四百メートルの狭い土地に
大型ホテルなどの宿泊施設が建っていて、
「米子の奥座」、「山陰の熱海」とも呼ばれ、収容人員は約五千人で、山陰最大級である。
明治十七年(1884)頃、沖合百八十メートルの海面が泡だっているのが漁師により発見され、
明治三十三年(1900)、浅瀬に湧き出る熱湯を漁師が偶然発見した。
これが皆生温泉の始めである。
その後、米子の実業家有本松太郎が福生村から土地を買収し、
京都を模して街区整理を行い、米子電車軌道や皆生競馬場などを誘致し、
戦後は団体客を受け入れてきたことからホテルは大型化し、山陰随一の温泉歓楽街になった。
玉造温泉が鄙びた風情があるのに対し、熱海や道後温泉のような雰囲気なのはそうしたことによる。
第三紀の安山岩層の割れ目から湧出している塩化物泉だが、
冬季の日本海からの強風で海岸の侵食が激しく、当初の源泉は水没してしまい、
十一軒の旅館のうち七軒が水没するに至り、護岸工事が行われ、
防砂堤や防潮堤を造り、砂州を造成して侵食を食い止めている状態である。
湧出量も多く、源泉の温度は鳥取県内で最も高温である。 」
社内旅行や接待旅行が減少した今日、健康的な温泉へイメージ変化を図り、 弓ヶ浜に海水浴場を整備、昭和五十六年(1981)には日本で最初のトライアスロン が開催され、その発祥の地として毎年大会を開催している。
米子空港は鬼太郎空港という名になっているが、これは「げげげの鬼太郎」の作家、
水木しげるの生誕地が境港市にあることによる。
境港市に足を伸ばした。
鬼太郎通りには妖怪達がいて、水木しげる記念館があった。
防潮堤を造り侵食を食い止めている | 水木しげる記念館 | 水木しげる通り |
米子から安来に向うと、背後に伯耆大山(標高1729m)の姿が大きくある。
その姿がちいさくなると、安来市和田である。
国道9号の東小路交叉点を左に入ると、安来宿である。
「 安来の地名は、出雲国風土記にある須佐之男命(すさのおのみこと)が
この地に来て 「 吾が御心は安来けくなりぬ 」 と言ったという神話に由来する。
地名が文献上登場したのは天平六年(733)の出雲国風土記で、
「出雲国意宇郡安來郷」とでている。
この当時より安来の山中や船通山周辺を源とするオロチ河川群の周辺では
たたら吹き、たたら製鉄と呼ばれる古代製鉄法が盛んだったため
スサノオノミコトのヤマタノオロチ伝説が生まれたとされる。 」
左に曲がり、右に曲がる枡形になっている。
その先に安来中郵便局がある。
その先には古い町並みが残っている。
安来宿の中心はJR安来駅近くの旧道にある大市場商店街である。
やすぎ回顧館一風亭は豪商として知られた鎌田本店の住居と店舗を兼ねた建物である。
百年前に建てられたもので、十一の部屋と三つの蔵、茶室、中庭がある。
「 安来は古代から続く踏鞴(たたら)の産地で、
江戸時代には日本全国の八割以上生産量を誇ったという。
それの積み出し港になったのが中海に面した安来港である。
戦国時代には尼子氏の物資輸送、海戦拠点ともなり、
中国地方の戦国両雄である尼子氏対毛利氏の激烈な戦いが繰り広げられた。
江戸時代に入ると日本の商品経済が発展し北前船による交易が盛んになり、
安来湊が重要港となり山陰地区の和鉄、和鋼を一手に取り扱う一大商都と成長した。
木戸川の木戸橋を渡る。
江戸時代はここが宿場の出入口で、それを守る木戸があった。
その先には安来一里塚の標柱があり、平地に松が植えられている。
往時は大きな松があったが、昭和五十六年に松くい虫にやられ、新たに植えたものという。
街道の右側に「南無経法蓮華経」と刻まれた髭題目がある。
伯太川(はくたがわ)に架かる安来大橋の欄干に、どじょうすくい踊りの像がある。
安来節は大正時代に渡部お糸により全国に広められたものである。
安来大橋の南西に戦国時代にはこの地を治めた尼子氏の月山富田城(がっさんとだじょう)があった。
安来大橋を渡ると、飯島町に入り、その先に出雲郷宿がある。
月山富田城へ訪れる。
「 月山富田城は、月山の一帯にあり、その規模と難攻不落の城として、 歴代の出雲国守護職の居城で、 戦国時代(1396年から1566年)には大名尼子氏の本城になり、 以後尼子氏とともに山陰の要衝の地となった。 」
登城口は、北麓の菅谷口(すがたにぐち)と御子守口(おこもりぐち)と塩谷口(しおだにぐち)からの三つのみで、これらの道は山腹の山中御殿口で合流する。
山中御殿からは七曲りと呼ばれる急峻な一本道で、左から右に郭が連なり、
山頂部の本丸まで続いていた。
「 敵は三つの道方向からしか攻められず、城の下段が落ちても、 中段の山中御殿で防ぎ、そこが落ちても主山の月山に登って防ぎ、 頂上には空掘を築き、守りを固め、一度も落城しなかったという。 」
広瀬地区の飯梨川のほとりに赤い楼門があり、右側に「富田城跡」の石碑が建っている。
巌倉寺の赤門を左に少し行ったところに、安来市歴史資料館と道の駅広瀬富田城がある。
駐車場から山に向うと下ったところに尼子興久の墓がある。
湿った挟間から山道を上っていくと千畳平(せんじょうなり)にでる。
「
北端には尼子神社と櫓跡があり、周囲に石垣が残る。
ここは御子守口の正面に位置し、太鼓壇に続く北側の郭で、
城兵集合の場として使われたといわれる。 」
千畳平の先にあるのが太鼓壇(たいこだん)で、 時と戦を知らせる大太鼓が置かれていたと伝えられ、 太鼓壇の跡地には山中幸盛の祈月像が建っている。
像の前の説明板の文面
「 山中鹿介幸盛は尼子氏の一門である山中氏の出身で、
病弱な兄に代わって家督を継承した。
毛利氏による富田城攻めの際に益田氏配下の武将である品川大膳との一騎打ちで名を馳せ、
尼子氏滅亡後は尼子勝久を奉じての尼子再興
戦で中心的な働きを行ない、一時は富田城を包囲した。
しかし、布部、山佐の戦いにおいて毛利軍に敗北した後は徐々に劣勢になり、
元亀二年(1571)頃に出雲国から撤退した。 その後は因幡方面で転戦した後、
織田信長の配下である羽柴秀吉の軍勢に加わり、
播磨国の上月城守備を命じられていたが、毛利軍の猛攻により落城。
主君勝久らは自害し、鹿介も捕えられた。
鹿介は備中松山城にいる毛利輝元下に護送されたが、
その途上松山城に程近い阿井の渡しにおいて暗殺された。 」
巌倉寺の赤門と富田城跡碑 | 尼子興久の墓 | 山中鹿介の祈月像 |
太鼓壇の北側を真直ぐ進むと戦没者慰霊碑が建っている。
ここは奥書院平(おくしょいんなり)で、奥書院があったと伝えられるところである。
平らなところを更に進むと、その先は両側が狭まったところにでたが、
建物が二棟建っていた。
ここは花ノ壇、別名は宗松寺平(そうじょうじなり)である。
「 大手道と搦手道の間、山中御殿平の正面、一段下に位置する場所で、 かつては多くの花が植えられていたことからこの名がついたといわれる。 」
尼子氏の最後についてふれると、
「 尼子氏は、石見大森銀山の支配をめぐり、大内氏、その後、毛利氏と対立する。
毛利元就は、弘治二年(1556年)以降、攻撃するも難攻不落の城にてこずり、
永禄六年(1563)、ついに月山富田城を包囲して、兵糧攻めに持ち込む事に成功する。
元就は大内氏に従って敗北を喫した前回の月山富田城攻めの戦訓を活かし、
無理な攻城はせず、兵糧攻めと尼子軍の内部崩壊を誘う離間策を巡らせた。
永禄九年(1566)十一月、尼子軍は長期にわたる籠城に武器食糧は欠乏し、戦意も喪失して、
尼子義久は元就からの和睦の申し入れを受け降伏、富田城は落城し、尼子氏は滅亡した。
富田城は、毛利氏の支城になったが、慶長五年(1600)に堀尾氏が城主となる。
しかし、慶長十六年(1611)、堀尾忠晴が松江城に移ったため、廃城となった。 」
先に向って進むと山中御殿平に出た。
説明板「山中御殿平(さんちゅうごてんなり)」
「 富田城御殿があったと伝えられる場所で、通称山中御殿と呼ばれている。
月山の中腹に位置する山中御殿は、
菅谷口、塩谷口、大手口という主要通路の最終地点ともなっており、
最後の砦になる三の丸、二の丸、本丸に通じる要の曲輪として造られた。
周囲は高さ5m程の石垣や門、櫓、堀などで厳重に巡らせることによって、
敵の侵入を防いでいた。 」
左手の石垣には多聞櫓跡の表示があり、 正面左の石垣前には「櫓跡」と「菅谷口門跡」の表示板があった。
「 大手道、搦手道、裏手道が合流する山中御殿平の入口には、 高さ五メートル、幅十五メートルの大手門があり、 押し寄せる敵を押し返したと伝わるが、崩落して現存しない。 」
本丸にたどりつくには、七曲がりの登城道を六百十メートル上らなければならず、
急斜面である。
従って、平時は上部の本丸は使用されず、山中御殿までで済ましていたようである。
山頂は平地になっていて、本丸、その下に二の丸、三の丸と連なっているが、
今は郭跡と石垣が残るだけである。
花ノ壇 | 山中御殿平 | 大手門跡と七曲道 |
安来市で全国的に有名になったのは月山富田城のある飯梨川の反対側にある足立美術館である。
「
足立全康氏は、大阪で起こした事業で財をなし、横山大観等の日本画を収蔵し、故郷に帰り、ここで美術館を開館したという人物である。
借景になる山を買い取ったり、人工的に滝を造ったりして日本庭園を作庭した。 」
館内に入ると白砂青松庭が目に入ってきた。 見事の一言である。
「
庭園は「枯山水庭」「白砂青松庭」「苔庭」「池庭」など六つに分かれていて、
面積は五万坪に及ぶという。
足立全康氏自らが、全国を歩いて庭石や松の木などを捜してきたといい、
窓を額縁に御立てた部屋もあり、見てもあきない庭になっている。 」
「 庭園もまた一幅の絵画である。 」 という全康の言葉通り、 絵画のように美しい庭園には言葉を失った。
窓を額縁に御立てた部屋 | 一枚ガラスからの庭園 | 白砂青松 |
横山大観、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂、上村松園ら、
近代日本画壇の巨匠たちの絵が展示されている。
北大路魯山人と河井寛次郎の陶芸の展示室、林義雄、鈴木寿雄らの童画、
平櫛田中の木彫などもあった。
安来市を抜けると東出雲町揖屋(いや)に入る。
東出雲町は平成の合併で松江市に編入され、松江市東出雲町という地名に変わったので、
現在は 松江市東出雲町揖屋である。
「
揖屋は古くから中海の漁獲物を原料とした、
直径7〜8cm、長さは70cmもある豪快な「野焼きかまぼこ」が知られて、
昭和三十年頃まではここで出来た野焼きかまぼこを毎日百人程の人が、
岡山や広島まで売り歩いたといわれる。
なお、揖屋の揖の字は左右の手を胸の前で上下、左右にさせて礼をする意である。 」
古事記では、この地に黄泉へと通じる道の黄泉比良坂(よもつひらさか)があったとされ、
この世と黄泉の国の境である。
国道9号線平賀交叉点には「黄泉比良坂右折700m」の標識があるので、
指示通り進み、鉄道踏切を越えると駐車場がある。
ここには、「 黄泉良比坂 伊賦夜坂 今、出雲国伊賦夜坂と謂う故に其の謂はゆる黄泉良比坂は 」 という看板がある。
看板の文字
「
女優北川景子さんが主演を務めた映画「瞬」(またたき)」のロケ地である。
亡くなった恋人にもう一度会いたいと訪れる場所、生と死の境とされるこの坂で、
映画のラストシーンを飾る大事なシーンが撮影された。
「 神代の時代、伊邪那岐命(イザサキノミコト)は、
先立たれた最愛の妻・伊邪那美命(イザナミノミコト)にもう一度逢いたいと、
黄泉の国へと旅立ちます。
古事記ではこの黄泉の国(あの世)と現世(この世)との境が黄泉良比坂であり、
現在の松江市東出雲町にあるこの場所、伊賦夜坂(いふやさか)である、とされている。
昼間もひんやりとした冷気に包まれるこの神秘的なスポットとして、
「 逢いたい人にもう一度逢える場所 」 として
、ひっそり佇んでいる。 」
黄泉良比坂は、古事記に登場する坂で、伊邪那岐命が黄泉国から還ろうとした時、
追って来る悪霊邪鬼を桃子(もものみ)で撃退した坂で、大穴牟遅神(おおあなむじのかみ)、
後の大国主神が黄泉の国で、須佐之男神の課す様々な試練を克服し、
妻の須勢理昆売(すせりひめ)と共に還ろうとしたとき、
須佐之男神が追い至って、大国主神の名を与え、国造りを許したのもこの坂である。
その場所については、 「 故(かれ)其のいわいる黄泉良比坂は、
今の出雲国の伊賦夜坂と謂うなり 」 と記している。
昭和に建てられた石碑の西方の山道が、この伊賦夜坂といわれていて、
途中に塞(さえ)の神が祀られている。
日本書紀に、伊弉諾尊が伊賦夜坂で、 「 ここから入って来てはならぬ 」
と言って投げた杖から出現した神であると記されている。
「黄泉良比坂 伊賦夜坂」看板 | 伊賦夜坂 | 塞の神付近 |
国道9号線と交叉する旧道(県道191号)を行くと、 JR揖屋駅の手前に揖夜神社(いやじんじゃ)の石柱と鳥居があり、出雲街道の説明がある。
説明板
「 鳥居の前は出雲大社から姫路に至る約二百三十五キロの出雲街道が通り、
江戸時代には東出雲の行商人が中海でとれた海の幸、豊かな山の幸を天秤でかついて、
この街道を行き来していた。 」
揖夜神社は八重垣神社、熊野大社などと共に意宇六社の一つに数えられる神社で、 祭神が伊弉諾尊(イザサキノミコト)とともに、 国造りをした伊弉冉尊(イザナミノミコト)という女神であることから、 働く女性のパワースポットといわれる。
「 出雲国風土記には伊布夜(いふや)社と記される古社で、
日本書記の斉明天皇五年(659)の条に、
「 言屋(いふや)社 」 として出雲大社の創建にかかわった社として記され、
古事記では黄泉国の入口、黄泉良比坂は伊布夜坂と表現され、
黄泉の世界と関係の深い神社として、中央でも重視された神社だった。
平安時代末から南北朝時代まで、荘官として派遣されていた大宅氏が、
「別火」 と呼ばれた神職に就き、当社を支配。
室町時代以降は出雲国造の命を受けて、神魂神社の神職の秋上氏が神主を兼任していた。
江戸時代には井上氏が別火となり現在に至る。
現在も造営にあたっては出雲国造家から奉幣を受けるという。
武将の崇敬が篤く、大内義隆が太刀と神馬を寄進、尼子晴久が百貫の土地を寄進、
天正十一年(1583) 毛利元秋が社殿を造営、堀尾吉晴は元和元年(1615) 社殿を再建、
京極忠高は寛永十四年(1637)社殿の修復を行っている。
松平氏になってからは社殿の営繕は松江藩作事方が行ったという。 」
鳥居の先には神門(随神門)があり、その先には狛犬や背の高い常夜燈があった。
その先の左側に社務所があり、その先の右手に天満宮、恵比須社、その奥に荒神社がある。
揖夜神社の拝殿と本殿は左側にあり、本殿の右側には大きな社殿の三穂津姫神社、
左側には小さな祠の韓国伊太氏神社が祀られていた。
拝殿と本殿は大社造りであるが、神座は出雲大社とは反対で、
左から右に向かっているのが特徴である。
神門(随神門) | 揖夜神社拝殿 | 韓国伊太氏神社、 (奥)揖夜神社本殿 |
JR山陰線の揖屋駅前のロータリーに、歌舞伎の名女形・女寅(めとら)はんの像がある。
旧道はその先に三菱農機の前身・佐藤造機の創始者・佐藤忠次郎記念館がある。
その先に出雲街道追分の道標がある。
右側に大内神社がある。
「 大内義隆の養子・大内晴持がここで死んだのを祀った神社である。
天文十一年(1542)、大内氏が毛利氏に味方をして、出雲を統治していた尼子氏攻略に出向いたが、反撃に遭い、総崩れになり、落ち延びてきた若大将の大内晴持が、ここで落命した。 」
JRの踏切を渡ると、出雲郷宿(あたがえしゅく)に入る。
出雲郷公民館があるが、このあたりが宿場があったところである。
古い建物はなく、新しい建物が多い。
出雲郷宿のはずれに、阿太加夜神社(あだかやじんじゃ)がある。
「 出雲風土記にでてくる神社で、祭神は阿太加夜怒志多伎吉日女である。
出雲郷(あたがえ)の地名は、ここからのようである。 」
民家の前に、「出雲郷」の道標があり、「右 松江マデ 二里七丁 」、
「左 安来マデ 三里四丁 」 とある。
意宇川(いうかわ)に架かる出雲郷橋を渡ると、松江市東松江になる。
「 意宇川は、
出雲風土記の国引物語の八束水臣津命(やつかみずおみつぬのみこと)がこの上流で、
「 今は国引きおえつ 」 と杖を突き、 「 意宇(おえ)!! 」 と云ったことによる。
意宇(おえ)!!とは、仕事が終り、休憩に入る時の発した言葉である。 」
橋を渡ると、右側に「安国寺」の石碑がある。
そのまま進むと、大門交叉点で、国道9号に合流する。
国道を進み、竹矢バス停で右折すると、左側に安国寺がある。
「 安国寺は、足利尊氏、直義が暦応元年(1338)から、 十年かけて全国に設けた寺院の一つである。 」
竹矢交叉点の手前から八幡町になる。
竹矢交叉点の先の右手に的場池があり、左手には武内神社(平浜八幡宮)がある。
「 武内神社は平浜八幡宮といい、八幡の地名はこれによるものと思われる。
神社は武内宿禰を祀る神社で、
鎌倉時代に、京都岩清水八幡宮から分霊されたもので神社である。 」
ここでかなり離れているが、神魂神社(かもすじんじゃ)と八重垣神社に行った。
「
大庭の竹矢交叉点を左折し、県道247号を進み、中竹矢交叉点を越えると、
右側に出雲国分寺跡がある。
県道247号を西に進むと、出雲国山代郡遺跡群正倉跡があり、
その南方に八雲立つ風土記の丘がある。
また、その東に意宇川が蛇行していて、東手に雲国庁跡がある。
ここは意宇(おう)平野の一角で、意宇平野は古代から栄えていた所で、古代では出雲国の中心地だった。
県下最大の規模を持つ山代二子塚はじめ代表的な古墳はこの付近に集中している。 」
意宇平野この一角にあるのは神魂神社(かもすじんじゃ)である。
急な石段を上りきると現れるのは神魂神社の拝殿である。
神魂神社は伊弉冉尊(イザナミノミコト)を主祭神、
伊弉諾尊(イザサキノミコト)を副祭神とする神社である。
近くの熊野大社、八重垣神社、六所神社などとともに、意宇六社の一つに数えられ、
大庭(おおば)の大宮さんと親しまれている。
神社の由来に、
「 当社は出雲国造の大祖・天穂日命(あめのほひのみこと)がこの地に天降られ、
出雲の守護神として創建以来、天穂日命の子孫が、出雲国造として二十五代まで奉仕され、
大社移住後も、神火相続式、古伝新嘗祭奉仕のため参向されている。 」 とあるが、
何故か延喜式に記載されておらず、出雲国風土記にも出てこない。
出雲国造家とゆかりが深く、古くは国造家の私斎場的性格だったためかとも思われる。
本殿は室町時代初期正平元年(1346)の建立の大社造である。
「
その大きさは三間四方、高さ四丈あり、出雲大社本殿とは規模を異にするが、
床が高く、木太く、とくに前面と後方の中央にある宇豆柱(うずばしら)と呼ばれる柱が壁から
著しく張り出していることは、大社造の古式に則っているとされ、最古の大社造として
昭和二十七年三月国宝に指定されている。
本殿内陣は狩野山楽、土佐光起の筆と伝えられる極彩色の壁画九面にて囲まれ、
天床は九つの瑞雲が五色に彩られている。
一見白木造りのようだが、往古は彩色されていたといわれ、
屋根裏あたりにかすかに痕跡を留める。」
巨大な自然石を積み上げた石段といい、
古代出雲の神々の里らしいたたずまいを見せる神社で、霊気が漂う気がした。
拝殿の右手に社務所、その先には多くの末社が小さな社を並べている。
「
本殿の左手には二つの大きな社があるが、
右側のは貴布祢(きふね)神社と稲荷神社が一緒に祀られている。
この社殿は桃山時代の建築様式を伝える二間社流れづくりで、
国の重要文化財に指定されている。
流れづくりそのものも出雲地方では珍しいが、
一般的な流れづくりは前側の柱間が一間か三間の奇数であるのに対し、
この社殿は二社を同時に収容するためか、二間に仕切っている。 」
古い鉄釜は出雲国造の祖神である天穂日命が高天原から降臨された時、
乗って来られたと伝えられ、十二月十三日に御釜神事(おかましんじ)が行われる。
古代このあたりが鉄の産地であったことを示す遺物の一つである。
「
松江に住み日本に帰化した小泉八雲は、明治二十四年四月五日に西田千太郎と訪れて、
杵築の国造へ火鑽を授ける習慣、天穂日命が臨降時に使用したという鉄の大釜、
伊弉諾尊、伊弉冉尊の神鳥とされるセキレイの伝承について記している。 」
神魂神社鳥居と常夜燈 | (手前)神魂神社拝殿 (奥)本殿 | 貴布祢神社・稲荷神社の社殿 |
この後、松江市佐草町に鎮座する八重垣神社(やえがきじんじゃ)を訪れた。
八重垣神社は意宇六社の一つで、縁結びの神社として有名である。
大鳥居の道の反対には、大きな夫婦椿蓮理玉椿があり、
鳥居をくぐると立派な随神門がある。
「八重垣神社由来」という大きな説明板があった。
説明板「八重垣神社由来」
「 八重垣神社は八岐大蛇退治ゆかりの神社です。
縁結びで名高いこの神社の鏡の池は、
稲田姫が飲料水を得、また、姿を写されたところと云われています。
「 早く出雲八重垣に、縁を結が 願いたい 」 という歌は。出雲において最も古い民謡で、御祭神も八岐大蛇を退治し、高天原第一の英雄・素戔鳴尊と国の乙女の花とうたわれた・
稲田姫の御夫婦がおまつりしてあります。
素戔鳴尊が八岐大蛇を御退治になる際、斐の川上から七里を離れた佐久佐女の森(奥の院)が
安全な場所であるとしてえらび、大杉を中心に八重垣を造って、姫をお隠しなさいました。
そして大蛇を退治して、「 八重立つ 出雲八重垣妻込みに 八重垣渡る その八重垣を 」 という喜びの歌い、
両親の許しを得て、「 いざさらば いざさらば 連れて帰らむ 佐草の郷に 」 という、出雲神楽にもある通り
この佐草の地に宮造りをして御夫婦の宮居とされ、縁結びの道をひらき、
掠奪結婚から正式結婚の範を示し、
出雲の縁結びの大神として、又家庭和合、子孫繁栄、安産災難除、和歌の祖神として、
古来、朝廷、国司、藩主の崇敬が厚く、御神徳高い神国出雲の古社であり、名社であります。 」
「 八重立つ出雲八重垣妻込みに八重垣渡るその八重垣を 」 と刻まれた石碑は、
本殿の左手の境内にあった。
本殿は江戸中期、拝殿は昭和三十九年(1964)に再建されたものである。
本殿にあった国重要文化財指定の板壁画・板絵著色神像は宝物殿に納められている。
「 小泉八雲は、明治二十四年四月五日、西田千太郎と行楽と取材を兼ね、
人力車で松江郊外の神社めぐりを行い、
八重垣神社を訪れ、とくに鏡の池には興味を示した。
また、八重垣神社のお札類をイギリスオックスフォード大學の博物館に贈っている。 」
神社の出口から宮橋を渡ると、夫婦杉がある。
ここは「奥の院」といわれる、小さな佐久佐女の森である。
「
この森は佐久佐女(さくさめ)の森といい、小さいながら老杉などが生い茂り、
地表にあらわになった木々の根が異様である。
八重垣神社にまだ社殿がない古代に、
人々が巨石や老木に神々が宿ると、信仰した磐座(いわくら)、
神籬(ひもろぎ)の跡と思われるところである。 」
鏡の池は、稲田姫が化粧の時の鏡がわりに使ったという伝承がある。
また、大蛇退治の時、稲田姫が身を隠されたという故事に由来する、
五月三日の身隠(みかくし)神事もここで行われる。
八重垣神社拝殿と本殿 | 八重垣歌碑 | 鏡の池 |
山陰道は竹矢交叉点を北西に進むと手間交叉点に出る。
追分の道標には、「右 馬潟港」、「左 武内神社」とある。
さらに進むと、大橋川に出る。
右手前方に大きな中海大橋がある。
中海と宍道湖を結ぶ大橋川に架かる橋である。
大橋川の南岸を西に進むと、右側の旧道に矢田の渡しがある。
矢田の渡しは風土記の時代から今日まで続いている。
更に西に進むと、JR山陰線松江駅前に出る。
江戸時代には、大橋川の北側に、松江城や武家屋敷、そして、城下町があった。
川の南部は寺院と商人が住む町家になっていた。
大橋川に架かる松江大橋を渡り、北側の松江城下に進む。
「 この地は、室町時代には出雲守護を代々継承した京極家の守護所が置かれた。
戦国時代に入ると、京極家分家の尼子家が月山富田城を本拠にし、松江はその支配下におかれた。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦で尼子氏は敗戦し、
堀尾吉晴の子・忠氏が、出雲、隠岐両国二十四万石を拝領し、月山富田城に入城。
月山富田城は、周囲を高い山に取り囲まれ、大砲などを使う近代戦には不向きであり、
また、侍や商人を住まわせるには広大な広大な城下町を形成しなければならない。
堀尾吉晴は、港がある松江の亀田山の末次城跡に城を築くことにした。
慶長十二年(1607)から慶長十六年(1611)の足かけ五年をかけて、
松江城及び城下町の建設を行った。
寛永十一年(1634)、京極忠高が出雲・隠岐両国二十六万石で入封し、
三の丸を造営し、城下は近世都市として整備された。
江戸時代中期以降は親藩松平家(松江藩)の城下町として盛えた。
中でも有名な藩主が「松平不昧公」の異名を持つ松平治郷である。
明治時代になると、松江は島根県の県庁所在地となった。
小泉八雲が訪れたのもこの時代である。 」
松江城の北側、塩見縄手と呼ばれるところには、今でも、武家屋敷が残っている。
この武家屋敷群の西端に、小泉八雲の居宅が残されている。
松江城は宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれた輪郭連郭複合式平山城である。
千鳥城とも云われ、出雲藩18万6000石の本拠であった。
「 松江城は、亀田山の山頂に建てられた東西三百六十米、南北五百六十米の城で、 標高二十八米余の地点に本丸を築き、 周囲を荒神櫓を始め六ヶ所の櫓とそれをつなぐ細長い多門をめぐらせ、 城を囲む内掘りの堀川は巾二十米〜三十米で、 宍道湖とつながる薄い塩水(汽水域)で、外堀は城の南に流れる京橋川を利用している。 」
大手門駐車場から県庁のあたりが三の丸で、藩主の御殿などがあったという。
駐車場から城山公園に入ったところは、
松江城の「馬溜」 と呼ばれる一辺四十六米程の正方形の平地で、
入口は桝形になっていて、大手木戸門があった。
「
奥の石垣の上の左右の櫓は、中櫓と太鼓櫓で八十七米の塀で結ばれている。
これは二の丸の南側の櫓で、明治維新後、破却されたが、
平成十三年(2001)に復元されたものである。
馬溜の右側、石垣が残っているところは大手門があったところで、
高さは三・八米、巾は十五米の二階建の楼門で、屋根にはしゃちほこが載った壮大な門である。 」
その先は「二の丸下の段」で、今は空地になっている。
江戸時代には米蔵がたくさんあった。
北には屋敷地、南は幕末には御破損方、寺社修理方があった。
松江城馬溜、背後に太鼓櫓 | 松江城大手門跡 | 松江城二の丸下の段 |
二の丸に上る石段の右側に石垣がある。
上ってくる敵兵を鉄砲で攻撃するための火点(鉄砲櫓)があった所である。
石段はここで切れ、右側にまた、石段が続く構造で一気に上れなくしている。
先に進むと「三の門跡」に出て、その先は二の丸跡である。
「
二の丸は本丸南側の一段低い平地で、江戸時代には中央に御書院があり、
松平家二代藩主綱隆の時までは藩主の居宅となっていた。
御書院の北には御殿女中の住居である局長屋、南には御月見櫓があり、
その他、御広間、御式台、御作事小屋、番所、井戸があった。 」
「二ノ門跡」の標木を過ぎると、左側に鳥居があり、
その先に明治三十二年に東照宮を移築した松江神社、
その奥に明治三十六年に建てられた興雲閣が見える。
三の門と二の門間は短く、二十米しかない。
石段を上がると左側に巨石がはめ込まれた石垣と正面は南多聞による枡形になり、
右折すると正面に頑丈な一の門があり、
右側も多聞と敵兵はここで三方から攻撃を受けるということになる。
この本丸一ノ門と南多聞の一部は昭和三十五年(1960)に復元されたものである。
一の門をくぐるとここから先が本丸である。
「 本丸は標高二十八米余にあり、北東部の一部土塀を除けば、 周囲は祈祷櫓(荒神櫓)、武具櫓、弓櫓、坤(ひつじさる)櫓、鉄砲櫓、 乾の角櫓という六つの櫓とそれを結ぶ細長い多聞がめぐらされていたという。 」
天守閣は二重櫓の上に二重(三階建て)の望楼型櫓を乗せた型になっていて、 五層六階、下見板張り、白漆喰、千鳥破風付きで、千鳥城ともいわれた。
「
南側に地下一階を持つ平屋の入母屋造附櫓があるので、これが防御の役割を果たしていた。
侵入すると上部の狭間から入口に向って鉄砲や矢が撃ちこまれるようになっていた。
二重目と四重目は東西棟の入母屋造で、二重目の南北面に入母屋破風の出窓をつけている。
三階には華頂窓、外壁は初重と二重目は黒塗の下見板張り、
三重目と四重目と附櫓は上部を漆喰塗、その下を黒塗下見板張りとし、
壁の大部分は白壁でなく、黒く塗った雨覆板(下見板張り)でおおわれ、
実戦本位で安定感のあるもので、南北の出窓部分の壁だけ漆喰塗である。
屋根はすべて本瓦葺き、木彫り青銅張りの鯱は高さ二米余あり、
日本に現存する木造のものでは最大で、
入口から向かって左が雄の鯱は鱗があらく、右が雌である。
石垣は「牛蒡積み」といわれる崩壊しない城石垣特有の技術が使われている。
窓は突上窓と火灯窓があり、二階に一階屋根を貫くかたちで開口した石落しが八箇所あり、
狭間は六十もある。 」
一般的な天守閣は上から下まで一本の通し柱で支えられているが、 松江城は現代の家のように二つの階にまたがる通し柱で造られていた。
「
建物の中央部には地階と一階、二階と三階、四階と五階をつなぐ通し柱があり、
側柱など外側部分には一階と二階、三階と四階をつなぐ通し柱がある。
最上階には廻縁高欄があり、雨戸を取り付けているが、
望楼からは松江市内を眺望することができた。 」
松江神社と興雲閣 | 松江城一の門と櫓 | 松江城天守閣 |
松江城の南部に島根県庁と旧県立島根博物館がある。
京橋川に架かる幸橋を渡ると、中茶町・東茶町があり、その隣に京店がある。
「
京店商店街は、京橋川と大橋川に囲まれた地区である。
江戸時代、京の都より輿入れした城主の奥方のために、
京都に似せた町造りをしたといわれる。
京橋川沿いに旧家が多く残っている。 」
旅した日 平成28年(2016)10月25日〜26日