当尾の里・石仏の道  

奈良の東北に位置する当尾(とうの)は、古くから平城京に近い聖域であった。 
仏たちの浄土とされた土地で、平安時代から鎌倉時代にかけては、 多くの修行僧が庵を結んでいたところである。 
尾根伝いに岩船寺や浄瑠璃寺の仏塔が多く並んでいたことから、塔尾と呼ばれたが、 後に当尾の字があてられた。 
石仏や石塔が田畑や藪の中に数多く残されている。




当尾は石仏の里として知られ、岩船寺から浄瑠璃寺への道筋には、 修行僧が刻んだと伝えられるさまざまな表情の石仏が佇んでいる。  そうした石仏と古刹の当尾の里を歩いた。  最初に訪れたのは、岩船寺である。

岩船寺(がんせんじ)

岩船寺本堂

岩船寺は、天平元年(729)、聖武天皇の勅願で、行基が開いたといわれるお寺である。 寺名の由来は、門前に置かれた石船による。  最盛期には三十九坊もあった壮大な寺だったが、鎌倉時代の承久の変(承久三年・1221)によって、 大半は焼失した (右写真ー本堂)
本堂は、昭和六十二年(1987年)に再建されたもので、平安時代の阿弥陀如来坐像が安置されている。
寺伝では、「 弘法大師空海の甥、智泉大徳が天長二年(825)に入滅の後、十年を経た承和年間(834〜847)に、
仁明天皇が智泉大徳の遺徳を偲んで、三重塔を建立したもの。 」 とされてきた。 
三重塔 しかし、現在では桁刻銘から室町時代の嘉吉二年(1442)の建立だろうというのが定説である。 
三重塔の高さは20.5m、本瓦葺きで、初重の内部には来迎柱を立てて、須弥壇と来迎壁を設けており、国の重要文化財に指定されている。 (右写真)
境内には、鎌倉時代の五輪塔、、十三重石塔、そして、石室不動明王立像があるが、これらも国の重要文化財に指定されている。 
石室不動明王立像 十三重石塔は、鎌倉時代、正和三年(1314)に建立されたもので、十三個の笠石を積み重ねた高さ六メートル余りの塔で、妙空僧正の造立と伝えられる。  石室不動明王立像は、花崗岩製の小さな石室の奥壁に不動明王像を刻んだもので、手前左右に二本の角柱を立てて、寄棟屋根を支えている。  これには応長二年(1312)初夏六日の銘がある (右写真)
なお、境内の裏山には白山神社と春日神社の社殿が並んで建ち、向かって左の白山神社本殿
は室町時代の建立で、国の重要文化財である。 


石仏めぐり

岩船寺を後にして、石仏を巡るため、山道を歩き始めた。 
少し歩くと、道から少し高いところにかわいらしい童顔の三体の地蔵が祀られていた(左下写真)

「 中央の地蔵像はやや大きく、三体とも宝珠を捧げ、錫杖をもつ姿で、過去、現在、未来の三界の萬霊を供養するために発願されたもので、 六地蔵信仰が広まる以前の一つの形態でとても珍しい石仏である。 鎌倉時代後期の作と伝わる。  左の像は苔で覆われているのは少し痛々しかった。 」

更に下っていくと、車道に出た。  ここには岩船寺南口のバス停があるが、右に入る細い道の入口に弥勒仏線彫磨崖像があり、 ミロクの辻と呼ばれているところである。 
奈良から笠置への古道に面した崖にあるのは、弥勒仏線彫磨崖像である(左中写真)

「傍らの案内板」
「 笠置寺の弥勒磨崖仏を写したもので、笠置に近い当尾で弥勒信仰を物語る作例といえる。 」 という説明があるが、 もう少し細かく説明すると、笠置山にあった五丈の弥勒如来線刻像は元弘の戦火でいためられたが、 それと同形といわれるもので、鎌倉時代、伊末行が作ったもので、 永清という人が亡き父の往生を願って造立したと伝わるものである。  又、「 願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道  文永十一年甲戌二月五日為慈父上生永清 造之大工末行 」 の銘がある。 」

道巾の狭い古道を歩いていくと、迫り出した丘陵は段々畑になっていて、 菜の花が咲いていた(右中写真)
その先を見ると、農作業をしている夫婦がいた。  愛知県で見慣れている田畑と違い、わが家の庭のようなせまい面積しかない畑での作業なので、 出来るものは限られる厳しい土地のように思えた。 
その先の小高いところに、上部の岩が屋根のように張り出したようになっていて、 その下にわらい仏と呼ばれる阿弥陀三尊像が祀られている(右下写真)

「 銘文には、 「 永仁七年(1299)二月十五日願主岩船寺住僧大工末行 」 とあり、大工伊末行がミロクの辻に弥勒仏を彫った二十五年後に作った石仏である。  蓮台を捧げた観音、合掌した勢至の両菩薩を従えた浄土への来迎を示す、 阿弥陀如来が座高七十六センチの大きさで刻まれている。 」

わらい仏は七百年もの年月が経たとも思えぬしっかりしたもので、 やさしく笑みをたたえて見下していた。 
すぐ横には半分土に埋もれたねむり仏があった。  

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三体地蔵
磨崖像
段々畑
阿弥陀三尊像


わらい仏を過ぎると、右に上っていく道があり、先程の春日、白山神社へ行ける(左下写真)
その途中には、「一願不動」といわれる等身大の不動明王立像があるが、 そのまま、狭い山道を歩いていくと、下の方には畑があった。 
木々の下を歩いて行くと、パッと開けたところに出た。 
道の分かれ目の扁平な岩の上に、烏の水飲み場のような穴があいている。 
ここは古くからの分岐点で、烏(唐臼)の壺と呼ばれているところである (左中写真)
すぐ横の大きな岩の正面に阿弥陀如来座像があり、 「 康永二年癸未三月十五日願主恒生 」 の銘が記されている(右中写真)
  その脇には線形燈籠、火袋に彫り込みを作り、そこに灯明が供えられるようになっていた。  これは大変珍しい。 
岩の左側には、「 康永二年癸未三月廿四日願主勝珍 」 の銘があると地蔵菩薩立像があった (右下写真)
一つの岩に阿弥陀と地蔵を祀る阿弥陀地蔵磨崖仏は、後に多数造られたようであるが、 小生は始めての経験であった。 

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上にのぼる道
烏の壺
阿弥陀如来座像
地蔵菩薩立像


この先の細い道をいくと、一クワ地蔵があり、更に行くと水呑み地蔵に行けるが、 そちらに入らず、右側の広い道を進むと、
春日神社の脇に出た。  ここは東小田原寺跡とあるところで、上っていこうとしたら、立ち入り禁止とあった。 
車道になっている道を進むと、両脇で六軒程の家があった。 その中を進むと三叉路に出た。 
そこには、東小のバス停があり、その脇に上がとがった形のあたご燈籠が建っていた。 
火伏せの神である愛宕神社への献燈籠で、火袋は四角く彫り込まれ、 上部が細くなってユニークな形をしている  (左下写真)
道を左にとり、県道を左に進むと、農産物や花などが売られている無人販売所があった (左中写真)
当尾の道沿いには、こうした無人販売所が点在していて、 それらを覗きながら歩いているご婦人達のグループが目立つ。  その先に右に入る小道があり、その中に入っていったが、 実は左側に藪の中の三仏磨崖像があったようである。 
一つの岩に阿弥陀仏座像、もう一つに地蔵菩薩とやや小さく観世音菩薩の両立像が祀られているもので、見落としたのは残念だった。 
入った道は左右にカーブする上り道になるが、左側の小高いところにある、 今時珍しい火の見櫓の下の建物の裏側に、石仏が並んで祀られていた。 
その中に、首切り地蔵の案内板が建っていた  (右中写真)

案内板
「 首切り地蔵は、左側端の大きな石柱に彫られている阿弥陀如来座像で、 阿弥陀笠石仏といわれるものである。 
「 弘長二年壬戌卯月十二日刻彫華 願主 小田原住□□□ 」 の銘があり、 当尾にある銘石仏では最古である。 
この地蔵像は、ここから北方、昔首切りの刑が行われていたといわれる地にあったが、 一時姿を消し、都会に出ていたのを村人の努力で戻し、釈迦寺跡の現在地に祀られたものである。 」

道に戻り、坂を上って行くと、右側に墓地があった。 
石段を上ると五輪塔があった。 これらの五輪塔は鎌倉時代に造られたものだろう (右下写真)

「 五輪塔は、上から虚空、空気、太陽の熱と光、水、大地という生命の五大元素を 表すもので、塔の下から地、水、火、風、空と呼び、それらを司る大日如来の法身と説く。  当尾には、このように立派な鎌倉期の五輪塔が、西小墓地などにも健在という。 」

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あたご燈籠
無人販売所
首切地蔵
五輪塔




墓地の下には、南無阿弥陀佛と書かれた石碑があったが、これは南無阿弥陀佛名号板碑である (左下写真)

「当尾の石仏」 というパンフレットを見ると、
「 南無阿弥陀佛名号板碑には交名衆の名が彫られ、永禄を中心に1550〜60年代に限られている。  この時期、斎講(トキコウ)の結衆による供養がさかんだったことを示している。  名号板碑は、当尾の各地で見られる。 」 とあった。  なお、交名(きょうみょう)とは、人名を列記した文書のことである。 」

その先の三叉路に出ると、穴ヤクシを訪れるため、右に入る。  この道は右に左と大きく蛇行し、続いていた。 
四、五百メートルも歩くと、三叉路に出たので左折すると、すぐ右側に石垣が造られ、 その上に石の祠を中央にし、 周りには五輪塔と思われるものや阿弥陀地蔵双仏石を含む石像群が祀られていた (左中写真)
石祠の中は暗かったが、覗きこむと小さな石の薬師像があった。 
先程の三叉路まで戻り、先に進むと右側に鎮守社の春日神社があった  (右中写真)
道の左側には、夥しい数の石仏が祀られている  (右下写真)

「 地蔵仏、阿弥陀仏、阿弥陀地蔵双仏石に混じり、十三仏石もある。  これらは大門石仏群と呼ばれるもので、大門の阿弥陀寺跡や春日神社の近くにあった石仏や石塔などをここに持ってきて安置しなおしたものである。  当尾の大小無数の石造仏が今日まで伝えられるのは、地元住民のこうした奉仕活動によるもので、 頭が下がる。 」

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名号板碑
石像群
春日神社
大門石仏群



石仏群の山を見ていくと、阿弥陀地蔵双仏石がずらーと並んでいるのを見つけた (左下写真)
最初、二体が並んだ石碑を見た時、双体道祖神と思ったが、道祖神が京都府にあると聞いていないので、疑問に思ってよく見ると、仏様のようで道祖神ではないことに気が付いた。 

「 これは、一つの石龕(せきがん)に、 現世にまで救済にきてくれる地蔵菩薩と、 来世に迎えてくれる阿弥陀如来を並べて彫られているものである。 
平安時代の平等院鳳凰堂が落成した前年(1052年)から末法に入り、 浄土信仰が盛んになったことと関係があるのだろう。 」

道は下り坂であるが、左側から右側へ傾斜した土地に沿って続いている。 
カーブする道を下りていくと、道脇に「大門磨崖仏への道」と書かれた看板があるので、 下に降りていく(左中写真)
畔道みたいな細い道の右側は畑で、その先は山が続いている。 
山を見ながら歩くが、崖はなく磨崖仏のようなものは見えないまま歩いていったが、 先程の道と合流してしまった。 
その先で休憩している人に聞くと、合流した坂の途中に見渡せるところがあるといわれた。 
早速、坂道を上っていくと、「大門仏谷」と書かれた道標があり、 そこから対面を見ると、はるか先の木立の中に小さく石仏が見えた  (右中写真)

その脇の案内板には  「 仏谷阿弥陀磨崖仏 巨大な花崗岩に厚肉彫りされた丈六(約25m)の如来形座像です。  堂々とした体躯からは荘重な風格がうかがえます。 」 とあった。 
前述の「 当尾の石仏 」 のパンフレットには、  「 制作年代は平安後期説と奈良時代説がある。 また、阿弥陀如来とされているが、 弥勒如来の説もある。 」 とあるが、この案内板には、鎌倉時代か?とあった。  今後の研究課題を与えてくれる大きな仏様である。 」

そのまま坂を下ると、六百メートルのところの右側に加茂山の家があった。  少し先の三叉路では府道高田鳴川線が左右にあるが、手前の左側に入る道を上っていくと、 三叉路のところに石柱が建っている  (右下写真)
これは浄瑠璃寺の参道入口から加茂の里に向かって一丁(約110m)毎に立っている「丁石」 と呼ばれる笠塔婆である。 
浄瑠璃寺の浄域に近づく感動を一丁毎に味わっての道往きを演出していたと思える鎌倉時代頃の石柱であるが、現在はこれを含めて四本だけが残っている。 

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阿弥陀地蔵双仏石
下って行く
磨崖仏を遠望
丁石(笠塔婆)


三叉路では右の道を上ると、道の左側にツジンドの焼け仏がある(左下写真)

案内板には、  「 やけ仏(阿弥陀三尊の石仏 古くは辻堂と呼ばれる屋形がありましたが、 たびたびの火事で焼失し、阿弥陀石仏も火災で痛々しいお姿になっています。 」 とある。  石仏はひび割れているが、それは火災によるものだろうか?  碑の銘文は、 「 願主賢範 元享三年(1322)癸亥六月八日造立之 」 とあるので、 造立されたのは鎌倉時代末期である。 

そのまま上って行くと、府道に合流。 府道には西小のバス停があるが、府道をしばらく歩く。 
まがりくねった坂道を上っていくと、右側の少し小高いところに西小区公民館があり、 その一角に石仏群が祀られているが、その中でひときわ大きなのがたかの坊地蔵である (左中写真)

「 左右に小さな石仏を従えた船形光背の地蔵尊で、鎌倉中期の作という。 
小さな石仏達は室町時代のものらしい。 」

道は左にそして右にカーブしながら上っていく。 車道だが、車が少ないのはありがたい。 
道の左に丁石があった。 
道が左にカーブするが、右側に夥しい石仏が林立した石仏群があらわれたが、 これは西小石仏群と呼ばれるもので、これらは、府道建設などで、 邪魔になった石仏が一か所に集められたものだろう  (右中写真)
隣は墓地になっているが、その中には五輪塔もあった。 
坂道の傾斜はきつい。 右側に丁石があった  (右下写真)
この丁石は三本目だが、石の上部には笠塔婆ともいわれる特徴があった。 

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焼け仏
たかの坊地蔵
西小石仏群
三本目の丁石


道の左側は浄瑠璃寺の管内であることを示す標識があった。 
少し行くと、「浄瑠璃寺奥之院不動」の表示板がある。 
これまで浄瑠璃寺には何回訪れているが、奥之院の存在は知らなかった。 
入口で出会った二人連れのご婦人達は、 「 坂が急のようなので、途中で引き返してきた。 」  といっていたが、その時はそれほどとは思わず、右折して狭い道を上っていった (中央写真)
しばらく間は小さな車なら通れそうな道が続いた。 四百メートル位行ったか?、 そこからは下に降りていく山道になり、一人で歩くのがやっとの細い道に変わり、 急斜面をどんどん下っていく (左中写真)
帰りのことを考えると大変なので、前述のご婦人は中止したのだと気が付いた。 
さらに下りると、道は平らになって続き、川を渡って進む  (右下写真)

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奥の院に向う
狭い道
川を渡る


府道から入って十二分経過した頃、浄瑠璃寺奥之院に到着した。 
奥之院というから、ちゃんとした建物があると思って探したが、小さな滝と三体の石仏、 そして、蝋燭を立てる社が立っているだけである  (左下写真)
大石の上に立つ石像が不動明王のようで、豪快で毅然とした姿をしていた。 

「 当尾の石仏 」のパンフレットにある奥之院不動磨崖仏がこれだとすると、  「 願主僧祐乗 永仁四年(1296)丙申二月四日 」 の銘があるはずだが、 確認はできなかった。 
ここにそうした案内板があると助かるのだなと思った (中央写真)

この後、先程降りてきた場所まで戻った。 
その先に続く道があり、この道を行けば集落のどこかに行けそうに思えたが、 迷子になるといけないので、急な坂道を上り、府道と合流する三叉路に戻った。  なお、その後の調査結果では、 先程の道をそのまま行くと西小集落の一角には出られるようである。 
府道を浄瑠璃寺に向かって進むと、右側の石垣の上に巨大な笠石を持つ長尾阿弥陀如来があった  (左下写真)

傍らの案内板には、 「 ながおのあみだ 阿弥陀如来座像は立派な屋根をもち、 美しい蓮弁台座をもった定印の阿弥陀座像 」 とあったが、  「 徳治二年丁未四月廿九日造立之 願主僧行場」 の銘があることから、 鎌倉時代後期の徳治二年(1307)の造立である。 

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奥の院
不動明王
長尾阿弥陀如来


浄瑠璃寺(じょうるりじ)

そのまま歩くと、浄瑠璃寺の門前へ出た。 参道の左側には丁石が建っていた。 
丁石は一丁毎に建てられたのであるが、残されているのは四本とあり、小生はそれを全てみてここに辿りついたということになる  (左下写真)
馬酔木の白い花が盛りといわんばかりに咲いていた。 春も近づいたと実感できる風景である。 

説明板「浄瑠璃寺(九体寺)」
「 この寺は、平安時代後期(藤原期)の日本が生みだした浄土式伽藍が、 ただ一つ完全に残られてきた寺である。  即ち、西方極楽浄土の阿弥陀如来を西に、東方浄瑠璃浄土の薬師如来を東に、 中央に宝池をおいて、美しい浄土を現出している。  しかも、西の阿弥陀如来は、これも現在はただ一つになった九体仏である。  特別名勝に史跡指定の境内には、四件の国宝、八件の重要文化財、 数にして二十五のこれらの宝物が昔のままで守り通されていて、 藤原時代の堂塔、仏像、庭園がまとまって存在するこの浄土式伽藍は、 いつまでもみんなの力で守らなければならない。 」

浄瑠璃寺の山門をくぐると目に入るのは宝池である  (中央写真)

「 当尾は奈良興福寺の別所として寺院や石仏が造立されたが、 この寺もそうした別所の一つとして創建されたものである。 
寺に残る浄瑠璃寺流記事(じょうるりじるきのこと)によると、  「 当麻の僧、義明上人が永承二年(1047)に西小田原浄瑠璃寺を創建し、薬師如来を本尊とした。 」 とされる。  しかし、六十年後の嘉承二年(1107)になると本堂を壊し、その跡に九体阿弥陀堂が建てられた。  更に、久安六年(1150)には伊豆僧正恵信が伽藍や坊舎を整備し、浄土式庭園を造った。 
現在ある池はその時始まったもので、阿弥陀堂を東に向け、その前に苑池を置き、 東に薬師仏を祀って浄土式庭園とした。  更に鎌倉時代始めの元久二年、少納言法眼がそれを補強した。 」

池の左側には三重塔がある。 これは平安末の治承二年(1178)に京都一条大宮の寺から移築されたもので、ここに池の東にあった薬師如来を安置した。 

「 塔の初層内は、扉の釈迦八相、四隅の十六羅漢図などと、 装飾文様で壁面が埋められている。  只今修理中ということで、白い幕に覆われていて、なにも見えなかった。  なお、秘仏の薬師如来像と十六羅漢図は重文、三重塔は国宝である。  」

右下写真は平成二十年十一月に訪問した時のものだが、紅葉が美しかった。 

「 薬師如来は東方浄土の教主で、現実の苦悩を救い、 目標の西方浄土へ送り出す遺送仏である。 
それに対し、 阿弥陀堂に祀られている九体阿弥陀如来は西方未来の理想郷である楽土へ迎えてくれる来迎仏である。 
薬師に送られ出発し、この現世へ出て正しい生き方を教えてくれた釈迦仏の教えに従い、 煩悩の河を越えて彼岸にある未来を目指して精進する。  そうすれば、やがて阿弥陀仏に迎えられて、西方浄土へ至ることができる。 
そうした阿弥陀信仰を表現した寺院構成になっている。 」

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4本目の丁石
浄土式庭園
三重塔


阿弥陀堂は、当時、京都を中心に競って造られた九体阿弥陀仏を祀るための横長のお堂で、 現存する唯一のものとして国宝に指定されている (左下写真)

「  現在残る唯一の九体阿弥陀仏は西の本尊で、観無量寿経の九品往生の考えから九つの如来を祀った。  中尊は丈六像で来迎印(下生印)、他の八体は半丈六像で定印(上下生印)を結ぶ寄木造、漆箔の仏像で、国宝である。  この仏像を正面十一間、側面四間のお堂の中で東向きにし、太陽が沈む西方浄土へ迎えてくれる阿弥陀仏を西に向かって拝めるようにし、 その前に浄土の池を置き、その対岸から文字通り彼岸に来迎仏を拝ませる形にしたものである。 」

本堂と三重塔の前、池の両岸にある石燈籠は阿弥陀仏と薬師仏のためのもので、 三重塔の前のものには「貞治五年」の銘があり、これらは南北朝期のもので、重文である  (中央写真)
九体阿弥陀堂には、九体阿弥陀の中尊の右側に、重文の子安地蔵菩薩像、右端に元護摩堂の本尊だった三尊像(不動明王とこんがら童子、制多迦童子)、左端に四天王の持国天と増長天が祀られている。 
力強く、眼光の鋭い不動明王が特に印象に残った。 
切手にもなっている秘仏の吉祥天女像は公開日でなかったので、拝めなかったのは残念である(公開日ー1月1日〜15日、3月21日〜5月21日、10月1日〜11月30日)
境内には、南無阿弥陀仏の石碑や三体地蔵、阿弥陀地蔵双仏石などがあった  (右下写真)
堂前の石鉢は永仁四年のものである。 
なお、今回の旅で大蔵、千日墓地にある、不動明王から虚空蔵菩薩に至る、 十三仏を梵語で表した十三仏石に出会うことができなかったことが少し心残りであった。

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阿弥陀堂
石燈籠
南無阿弥陀仏碑など




旅をした日  (当尾石仏めぐり)平成22年(2010)3月3日
      (浄瑠璃寺)平成20年(2008)11月15日




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かうんたぁ。