東日本の往還(街道)の目次


かうんたぁ。




◎ 東海道

東海道は日本橋から京都三条大橋までの街道だが、江戸への備えのため、橋をかけないなど、工夫をした。  参勤交代の大名の多くが利用した道として、街道に松並木や一里塚を設け、宿場には本陣や脇本陣、問屋などを、 整備した。  歌川広重の東海道五十三次の浮世絵や十辺舎一九の東海道中膝栗毛により旅ブームが起きた。 


東 海 道

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◎ 中山道

中山道も日本橋を起点に、都三条大橋までの街道だが、途中に山坂や渓谷、川が多い。  東海道は大名の行き来が多いため、庶民や将軍の姫君やお茶壺道中や例幣使が利用した。  幕末近くになると善光寺参りが盛んになり、多くの人が利用した。 
 


中 山 道

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◎ 甲州街道

甲州道中とも呼ばれた道で、江戸城に異変が起きた時、甲府に避難できるよう設けられたと言われる街道である。  最初は日本橋を起点に甲府までのだが、その後、中山道の下諏訪宿まで延長された。  利用する大名も数藩だけということもあるが、他の五街道に比べ、宿場の整備などは貧弱だった。 
 


甲州街道

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◎ 例幣使街道

江戸幕府を開いた徳川家康の死去後、三代将軍徳川家光により日光東照宮が造営された。  京都御所はその翌年から毎年、東照宮へ例幣使が遣わした。  例幣使が通った道を例幣使街道といい、京都から東海道、中山道と進み、 中山道の上野国倉賀野宿から下野国楡木宿で日光壬生街道に、今市で日光街道に合流して、日光に到着していた。  倉賀野宿から楡木宿までを例幣使街道と呼ぶが、東照宮を造った宮大工が通った文化伝承の道でもあった。 
 


例幣使街道

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◎ 会津西街道

会津西街道は栃木県日光市今市から男鹿川や鬼怒川に沿って北上し、県境を越え、 福島県の大内宿を経て会津若松 に至る街道である。  会津藩の参勤交代や廻米の輸送では、会津西街道が一番多く使われたが、 会津西街道が不通になった時には、五十里湖の出現により誕生した会津中街道が一時利用された。 
 


会津西街道

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◎成田(佐倉)街道

成田街道は水戸街道の新宿から成田山のある成田までの街道である。  当初は佐倉藩の参勤交代で利用する道として、江戸と佐倉藩城下をむすぶ道を佐倉道と呼んだが、 江戸時代後半になると成田詣での参拝客が増えたので、成田道、成田街道と呼ばれるようになっていった。  また、千住宿が開設されるまでは浅草を起点小岩に出る道が利用された。  この道を旧佐倉道という。 
 


成田街道

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◎ 大山道(大山街道)

大山道(おおやまみち)は、大山街道ともいわれ、 関東各地から神奈川県西部の大山にある阿夫利神社へ向う参拝者が通った道である。  最盛期には大山道と呼ばれた道は関東一円に多く見られたが、 今は国道246号の旧道・矢倉沢往還にその面影を残すのみといえる。 
 


大山街道(おおやまみち)

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◎ 伊豆西海岸の道(国道136号)

国道136号は、静岡県三島市の国道1号線南二日町IC交差点から南下し、 伊豆長岡、修善寺を通り、 出口交差点で西に向かい、土肥峠を越えると、伊豆市土肥で伊豆半島の西岸に出て、 伊豆半島の西海岸を南下して、最後は下田市に至る道である。  夕日のきれいなことや恋人岬のネーミングで若い人のハートを得て、人気のある道である。 
 


伊豆西海岸の道

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