会津西街道  

会津西街道は栃木県日光市今市から男鹿川や鬼怒川に沿って北上し、県境を越え、福島県の大内宿を経て会津若松 に至る街道である。 会津藩の参勤交代や廻米の輸送では、会津西街道が一番多く使われたが、会津西街道が不通に なった時には、五十里湖の出現により誕生した会津中街道が一時利用された。



五街道の一つ、奥州街道(陸羽街道)の白河宿から会津若松に通じる道を、江戸幕府は脇往還(脇街道)と公認し、 会津街道と呼んだ。  この道は、奥州街道の白河宿から勢至峠を越えて、猪苗代湖の南東岸へ出て、会津若松へ至る道である。  会津の人達が白河街道と呼んでいる道だが、途中の勢至峠越えがかなりの難所だった。  それに対し、会津の人達は南山通りと呼び、栃木県では会津西街道と呼ばれる街道がある。  この道は会津若松の城下を南下し、大内峠を越え、岩代国と下野国の国境、山王峠を越え、下野国に入り、 男鹿川や鬼怒川に沿って南下し、今市宿に出るルートである。  現在の国道121号とほぼ同じルートで、約三十二里(130km)ほどの距離だった。  この道は江戸時代の改修により、会津街道の脇街道ながら、会津地方と江戸を結ぶ本街道的な役割を果たすようになった。  この街道が利用されたのは、江戸への距離が短いことと河運輸送ができたことによる。  会津藩の米は年間十万俵以上あったが、これらを江戸や大阪で換金するために送るのに陸路輸送を減らし、 利根川を下る川舟が利用できたからである。

それでは、会津西街道である国道121号を走ってみよう。  現在の国道121号は今市から温泉地で有名な鬼怒川温泉、川治温泉を通過していく。  鬼怒川温泉の鬼怒川公園岩風呂や川治温泉の薬師の湯は手軽に入れる日帰り温泉なので、しばしば利用している。  川治を過ぎると高度がぐんとあがり、五十里湖へ出た。  

冬の五十里湖


冬の五十里湖


会津西街道は、高原峠、山王峠、大内峠といった山また山を越える険しい道であり、 さらに、川沿いの狭い道を行かなければならなかった。  その上、街道は、天和三年(1683)に起きた大地震で、男鹿川がせき止められ、 五十里湖という大きな湖が出現し、通行不能になった。   この時のことを歴史研究者は次のように書いている。
『 会津藩は米の運搬ルートを白河経由に変えたが、会津西街道沿いの米問屋は死活問題になった。  問屋達が協議した結果、新道の新設を決意し、元禄七年(1694)、新道の新設を会津藩に申し出たのである。  現在の福島県下郷町杉野沢から栃木県那須塩原市の板室を経由し、栃木県氏家町の阿久津に抜けるルートで、 鬼怒川の阿久津河岸から利根川を経由し、船で江戸へ運ぶというものである。  会津藩はこの提案をもとに、幕府に申請したが、元禄八年(1695)に幕府の許可が得られた。 』
新たに作った街道は会津中街道と呼ばれたが、那須連峰の一つ、三本槍岳西方の大峠(標高1468m)を越え、 三斗小屋宿から、茶臼岳の峠を越えて、沼原(同1240m)に出て、そこから板室宿に下るというコースである。  新街道には会津若松と阿久津の間に、十八の継立場が設けられ、米問屋が置かれて、会津藩や会津南部の幕府領 (南山御蔵入領)の廻米輸送に利用された。  また、参勤交代にも利用されたので、板室などに本陣や脇本陣が設けられたようだが、詳しいことはわからない。  しかしながら、登山するのと変らないくらいの高低差があり、 冬には雪が多く降るところなので交通が途絶するという難所だった。
ところが予想できないことが起こるもので、会津中街道が開道された二十八年後の享保八年(1723)に、 またまた、大地震が起き、この地震で旅人の行く手を阻んでいた五十里湖が決壊したのである。  復旧工事を行ったところ、会津西街道が再び使えるようになったので、 険しい道が続く会津中街道の交通量は激減し、会津中街道の問屋は大打撃を受け、 このルートによる米の輸送は終わりを告げたのである。

(ご参考) 三斗小屋温泉
三斗小屋宿の近くに、1142年に発見されたという三斗小屋温泉がある。 
会津中街道が賑わっていた頃は湯治と白湯山信仰の行者で栄え、 最盛期の明治元年頃は、柏屋、大黒屋、三春屋、佐野屋、生島楼の五軒が営業していたと伝えられる温泉で、 現在は明治四十四年に黒磯駅前より進出した煙草屋と大黒屋が営業を続けるだけである。  三斗小屋温泉に行くに会津中街道(板室から皇太子様がよく行かれる沼原湿原脇を通り、姥ヶ平を抜けるルート)があるが、 現在では余り使われず、那須岳(茶臼岳)の峠の茶屋を経由するルートが一般的である。
小生が始めて訪れた昭和二十年代は那須湯本から大丸温泉まで歩き、大丸温泉か弁天温泉に一泊。  そこから峠の茶屋を目指したが、くまざさとがれきの道を悪戦苦闘しながら、ランプの宿にたどり着いたという記憶がある。 
現在は有料道路も那須岳ロープウエイもあり、大変楽になったが、三斗小屋温泉まではそれなりの距離があり、 それなりの覚悟がいるので、訪れる人が少なく、秘湯として残っているのはうれしいものである。

三斗小屋温泉


三斗小屋温泉


最近のことに触れてみたい。 
現在の五十里湖は水力発電の為、昭和30年前後に造られた人工湖である。  五十里湖からの道は、山が川側にせり出しているので、十年前では車がすれ違うのが難しいところが多くあったが、 トンネルが掘られ、道も拡張されたので、今では楽に走れるようになっている。  湖岸を通り抜けると三依(みより)地区に出る。  このあたりは国有林が多く、住民は明治から昭和までは国有林の間伐作業や切り出した雑木で炭を焼き、生計を立てていた。  灯油やガスの時代に入ると、炭焼きは廃業、そして、林業の衰退により若者は都会に出て行ってしまった。  なぜか分からないが、蕎麦屋が多く、しかもおいしい店も多いところである。 
上三依には水生植物園があり、初夏から夏にかけてはひつじ草(すいれんの1種)が咲き誇っているが、 その近くに会津街道の遺蹟ともいえる石仏群がひっそり残っている。  植物園に行く途中の橋を渡った突き当たりを左折し、少し歩いたところにある。  馬頭観音群の中には文政六年とか、安政二年と年号が刻まれているものがあった。 馬頭観音は、三依宿の馬方達が山王峠越えや尾頭峠を越えで亡くなった馬や行き倒れの旅人を慰霊したものといわれる。  また、六面体形六地蔵もあったが、この地方ではめずらしいものではないだろうか。  会津に行き来するこの街道に残った石碑を訪れるひともほとんどなく、 一部の人だけが知るというなのは、さびしい感じがした。 

六面体形六地蔵


六面体形六地蔵


先程の話に戻すが、会津中街道の成立は、会津西街道との競争を生んだ。 
そのうえ、さらに新たな道を誕生させた。 地元での呼称、会津東街道である。
この道は、三依宿の手前、上三依から尾頭峠を越えて塩原に出て、矢板から奥州街道(陸羽街道)に入るルートであり、 下野国の中で三つのルートが出来たので競争が激化した。 
明治の鉄道開通により、塩原を通る道は使われなくなったが、地元出身の代議士、渡辺美智雄氏の尽力で、 国道400号として尾頭峠にトンネルが掘られ、塩原から野岩鉄道の上三依塩原駅に通じるようになり、 塩原温泉から鬼怒川温泉や日光へ簡単にいけるようになったのである。 

(ご参考) 野岩鉄道
小生が子供のころ、会津から塩原を経て矢板に結ぶ野岩鉄道の計画があり、 栃木北部では推進運動が盛り上がったが実現しなかった。  その後、故郷を出て忘れていたが、バブルの頃になって、 旧国鉄田島線(現在第3セクターの会津鉄道)と東武鬼怒川線を結ぶ線路として、第3セクターの野岩鉄道が誕生した。 
今回、この稿を書くにあたって調べていたら、野岩鉄道の企画は明治三十年代からのもので、 それで出来たのが田島線であることを知った。  官軍に負けたとはいえ、その当時の会津若松は福島県の主要都市であったわけである。 野岩鉄道は東武鬼怒川線と会津鉄道(会津若松から田島)とを結ぶ役割を担っているが、 経営状況はあまりかんばしくないようだ。

上三依塩原駅


野岩鉄道上三依塩原駅


(ご参考) 戊辰戦争による街道への影響
会津中街道は慶応四年(1868)に起きた戊辰戦争で致命的な打撃を受けた。  栃木県内は戊辰戦争に巻き込まれた。  新政府側の板垣退助が率いる官軍と旧幕府の大鳥圭介が率いる 旧幕府軍の戦闘が県内に各地で行われた。 
小生が十年以上住んだ宇都宮市滝谷町に近い六道に残る戊辰役戦士碑は、戦争で亡くなった人たちを埋葬したところである。  日光街道の瀬川の一里塚近くにも砲弾が打ち込まれたが、宇都宮城などは特に抵抗しないで終わった。  また、家康を祭った日光に向かうという懸念から東照宮が栗山村に移されるなどの混乱もあったが、無事だった。  しかし、幕府軍は負けて敗走し、会津中街道から会津に向かったので、 街道の村々は戦禍に見舞われ、甚大な痛手を被った。  三斗小屋宿は戊辰戦争の時全戸が焼払われてしまい、板室宿も二戸残して全焼したと伝えられる。  その後、再建されることもなく、今や見る影もない状況である。 


上三依を過ぎると上り坂になり、福島県と栃木県の県境である山王峠である。  現在はトンネルになっているので、あっという間に抜けてしまうが、 トンネルができる以前は峠を越えるのは大変だった。  このあたりはいろは楓の木が多く、紅葉の時期は美しい。  山王峠を越えると田島町に入る。  かっては鉄道の終着駅であり、南会津の中心地であったので、仕事で訪れた人は必ずここに宿泊したというが、 車が普及したころから宿泊する人が減った。 それでも今でも旅館は多い。  また、郡役所などの遺蹟が残っている。 
七月二十四日頃行われる、会津田島祇園祭は一見に値する。  厳粛で華やかな七行器行列や山車などが繰り出し、 二日にわたる行事を見ようとこの静かな町が見物客で一杯になり、旅館も活気を呈するのである。 
国道脇の草の茂みの中に沢山の庚申碑を見付けた。 

庚申碑群駅


庚申碑群


これだけの数が並んでいるのはめずらしい。 
さらに北上すると、会津中街道の起点になった下郷町。 ここの観音沼にはしばしば訪れた。  春の新緑と秋の紅葉は素晴らしく、かなりの回数通った。 やがて、浸食でできた奇岩の塔のへつりがあるところに出ると、まもなく湯野上温泉である。  何軒かの温泉旅館もあるが、湯野上温泉駅の駅舎は古びていて、待合室に囲炉裏があった。  冬の雪のたたずまいもよいが、春には桜の花が咲き、駅と絶妙にマッチしていた。 

湯野上温泉駅駅


会津鉄道湯野上温泉駅


会津西街道の宿場、大内宿は国道から少し左に入っていくが、昔の会津街道は国道より西にある大内峠を越す道だったのである。  街道をゆくを著した司馬遼太郎は、昭和六十三年(1988)の七月に大内宿を訪問しているが、大内宿の印象を以下のように述べている。 
  「 大内の小盆地に入ったとき、景色のすがすがしさにおどろいた。  まわりを、標高千メートルほどの峰々がかこんでいる。  北に六石岳、東に小野岳、西に烏帽子岳、神籠ヶ岳などといった山々で、私どもは南から入った。  大内という在所だけが、うそのように平坦だった。  そのなかにひと筋の古街道がとおっていて、その古街道の両脇に、大型の草ぶきの屋敷が、幾棟も幾棟も、棟をむきあわせてならんでいるのである。  (中略)  江戸時代そのままのたたずまいだった。  残っていつ規模が大きく、戸数五十四戸が、整然とならんでおり、どの家もよく手入れされている。  たったいま会津若松城下から、松平候の参勤交代の行列が入ってきても、すこしもおかしくない。 」  と書いている。  遼太郎は、二十年程前に民俗学者の宮本常一氏が大内宿の存在を知り、その保護にのりだしたことを書いていた。  また、建物が北近江の宿場町にも類似の建物があるが、すべてそれらより造りが鄙びていると書き、 どの家にも屋号が付き、その中の一軒のそばやでところてんをたべたという。  彼によると、会津の殿様は、大内宿の本陣で昼飯をとるのを常として、初代と二代の四十年間に十八回もこの宿場を使ったという。  遼太郎ではないが、大内宿は道の両側に茅葺きやトタン屋根の家が並び、道に沿って用水が流れていて、 こんなところに江戸時代があると驚くようなところである。 

大内宿


大内宿


芦の牧温泉を過ぎると、会津本郷に入るが、ここは会津本郷焼という焼き物の産地である。 
なお、会津本郷焼は、益子焼と似た素朴な焼き物である。 
そのまま進むと、会津若松の市内に入り、鶴ヶ城が迎えてくれる。 

会津若松の鶴ヶ城


会津若松の鶴ヶ城


栃木県に沢山あった会津街道は、明治三十七年(1904)に開通した磐越西線により、荷物の輸送が鉄道にとって替わり、 その使命は終えた。 
宇都宮から会津若松に行く場合、国道121号は信号がなく、かなりのスピードで走れるので、 郡山経由の高速道路とそれほど大きな時間差もなく到着できる。  新緑や紅葉時期は特に良いので、会津若松を訪れるときには片道は会津西街道を利用されると良いと思う。  帰りは下りになるのでその方がよいかも!?

                                        

平成17年2月


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かうんたぁ。