司馬遼太郎の「街道をゆく 三十三巻(朝日新聞社発行)」 には、奥州白河・会津みちが収録されている。
司馬遼太郎は関西で生まれ、育ち、そして死んだせいか、関西や北陸の旅ではかなり正確にその地を紹介しているが、
行ったことのない信州や関東、東北などは取材で始めて訪れたという程度で、
街道と名前はついていても必ずしも通っていない。
また、自分の関心がある場所は行っているが、それもタクシーでいっただけなので、表面的な訪問で終わっている感じがする。
表題に「白河・会津みち」とあるが、彼は白河からの会津街道は通っていないので、
会津みちと抽象的にいいかたをしているのかも知れないが・・・
小生が白河や会津若松に訪れたのは今から十年以上も前で、宇都宮で単身赴任の生活をしていた時だった。
裏磐梯に風景写真を撮りにでかけていた頃だったが、引っ越しの時写真を処分したようで、
残念ながら写真はなく、記憶のみ残っていた。
それを基に、彼の訪れた白河・会津みちについて、書いてみたい。
「奥州白河・会津みち」の冒頭の「 一 奥州こがれの記 」 に、
遼太郎は 「 私は、大阪府に住んでいる。 住まいから遠からぬところに、摂津の古曾部という在所があり、
いまは全域が開発されて住宅地になっている。
平安のむかし、能因法師がなにやら意味ありげに住んでいた村が、古曾部である。 」 と記し、
能因法師が詠んだ 「 都をば 霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関 」 (後拾遺和歌集) という歌は、
実際に旅をして詠んだ歌ではなく、机上の作品と記している。
小生は、能因法師が白河に来たものと思っていたのでまず驚いた。
さらに、 「 能因は机上の作品とおもわれたくないあまり、数か月外出をせず、
「 色をくろく日にあたりなして 」 人前にでて、
ちょっと陸奥へ行ってました、といって歌を披露したともいう。
真偽はともかく、こういう話がおもしろがられたのは、都びとのあいだに奥州へのあこがれがあってのことで、
たとえば薩摩の国へ行って参りましたというのでは始まらない。 」 と書いていて、
当時、東北ブームが起きていたと遼太郎はいう。
遼太郎は奥州を有名にした人物として、源融(とおる)をあげ、
遼太郎は 「 かれこそ陸奥好きの第一世代の人だったろう。 」 と書き、
彼が詠んだ 「 陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れんと思ふ われならなくに 」 (古今和歌集) をあげている。
源融は平安初期の歌人で、嵯峨天皇の子だが、臣籍に入り、
京都下京区の別荘河原院(その跡にあるのが枳殼邸)に住み、河原大臣などと呼ばれる文化人だった。
平安時代の始め、坂上田村麻呂が征夷大将軍として、延暦二十年(801)に陸奥にゆき、
胆沢城と志波城を築き、無時平定した。
このことが辺境へのあこがれとなり、
源融や清少納言そして能因法師などにとりあげられるブームになっていったという訳である。
「奥州白河・会津みち」の次章は 「 二 関東と奥州と馬 」であるが、遼太郎は関東と関西の違いを語っている。
「 源氏は馬、平氏は牛というイメージがあるが、その後も、箱根以西とくに近畿地方は上代以来農耕に牛をつかっていて、
馬はいっさいつかわない。 関東・東北は、逆だった。
牛はつかわず、農耕に馬をつかい、その馬は馬小屋をべつに設けず、一ツ棟のなかで飼っていた。 」 とあり、
関西は牛文化で、関東は馬文化という。
「 芭蕉が鳴子という歌枕の地をたずね、そのあと出羽国へ山越えするときのことである。
宿がみつからぬまま、たまたま仙台藩の藩境あたりに番人の家があるのをみつけてとめてもらった。
まことに粗末な家で、のみやしらみに攻められ、あまつさえ、枕もとをたたきつけるような音で、
馬が尿をした。 」 と書き、 「 ともかくも、関東・東北ともに、馬文化の国である。
それでこそ、十二世紀末、源氏の奮戦によって、鎌倉幕府ができたといえる。 」 と記している。
平家軍には馬が少ないため、源氏のような長期戦にはむかなかったというのである。
司馬遼太郎が昭和六十三年(1988)の七月九日の午後、新幹線で新大阪から東京、そして、東北新幹線で白河に向かった。
当時の東北新幹線の始発は上野だが一時間二十五分で、白河に着いた。
こんな短い時間では、古の陸奥への旅人の体験というか、
都を出て、はるばる白河の関にたどりついた旅人が持つ感慨は体験できないだろう。
芭蕉は、奥の細道で 「 心もとなき日数重ねるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ。 」 と書いており、
現代語訳では、 「 待ち遠しく心落ち着かない旅の毎日を続けていくうちに、白河の関までやって来て、
やっと旅に徹する心に落ち着いてきた。 」 という意味だろう。
「奥州白河・会津みち」の 「 四 二つの関のあと 」 に移る。
白河の関は奥羽三関の一つとして、勿来の関、念珠の関と共に推古天皇の時代の五〜六世紀に
蝦夷への備えとして置かれた関である。
坂上田村麻呂や源頼朝はこの関を越えて陸奥に入っていったが、蝦夷が平定された十世紀頃にはこの道は荒廃し、
代わって、十一世紀ごろに陸羽街道が開かれ、新しい関所が白坂峠に置かれ、江戸時代の頃まであったといわれる。
上記に対して、遼太郎は、名だたる白河の関の跡が二ヵ所あって厄介なので、
二つで白河の関といういいかげんな態度をとると書き、
「 ともかくも江戸時代、ずーと使われていたほうをめざした。
白河市街地から南へ数キロ下った。 道は、旧陸羽街道をひろげた国道294号である。 白坂という旧宿場の村にいたる。
そこからゆるやかな勾配をのぼると、低い峠の中どころに、境の明神と呼ばれる幽すいな場所がある。
ここが関所であるかどうかはべつとして、江戸時代、参勤交代の大名行列が通る道である。 」 と、その様子を記している。
ここは栃木県の那須町と福島県白河市白坂との境にある白坂峠で、境の明神といわれるところである。
遼太郎は、ここから栃木県側を見た印象を 「 印象派以前の絵のように、暗い林のかなたに光があふれていて、
那須高原の一端が見えており、人家はない。 古代そのもののように、草木だけが波立っている。
この道を、秀吉も通った。 そのころは、道はこの小山の上にあったが、その後、切り下げられた。 」 と記している。
境の明神といわれるのは、福島側に境神社、栃木側に玉津島神社があることによる。
それぞれ住吉明神と玉津島明神が祭られているためで、福島側の境神社にその由来を記した解説板がある。
「 古来、国々の先には、男神と女神が一対としてまつられたという説があり、その意味においてはここはその典型といっていい、
下野国の側には、住吉の神である中筒男命がまつられているのである。 」 とあり、上記の解説版とは異なっている。
遼太郎の「奥州白河・会津みち」では、福島側が女神の玉津島神社、栃木側の明神が男神の住吉神社としている。
また、玉津島神社の祭神の衣通姫命は、日本書記にある 「 其の麗しき色、衣を徹りて晃れり 」 とある美人だったという。
このように、福島県側と栃木県側で表示が違うのは、
「 国境に男女神を祀るのは、内に女神を置いて国内の繁栄を祈り、外に男神を置いて外敵から守るというような意味がある。 」 という説があるので、
これによるものかも知れない。
また、別名「二所の関」とも云われ、道路の向い側に同じく由来を記した石碑が置かれている。
大相撲の二所ノ関部屋はこの明神から名付けられたもので、江戸中期のころ、南部侯の御抱力士にその四股名の人がいて、
親方になってからそれを部屋の名前にしたという。
芭蕉は、旧暦の元禄二年(1689)三月二十七日江戸を発ち、四月二十日にこのあたりにたどりついたが、
白河の関については、 「 白河の関にかかりて旅心定まりぬ。 」 とあるだけで、くわしく書いていないが、
陸羽街道の白河の関もこのころにはなくなっていたのではないだろうか?
その証拠に同行した曾良の旅日記によると、白河の関とは書かず、関明神だけ書かれている。
曾良の日記では、芭蕉一行はこの後、籏宿へ二里歩き、そこに泊っている。
「奥州白河・会津みち 六 白河の関 」で、司馬遼太郎は松平定信と白河の関の関係を綴っている。
松平定信は、寛政の改革で重農主義を唱え、出版の自由を禁じて、質素倹約を説いたが、改革に失敗して白河に戻った。
白河では南湖という人口池をつくるなど灌漑工事を行うなど、名君の誉が高い。
松平定信が古の白河の関としたのは籏宿にある低い丘で、そこに寛政十二年(1800)に白河の関の石碑を建てた。
その後、白河の関の旧関について様々な論争が続いたが、昭和三十四年から四年間、ここで発掘調査がおこなわれて、
関の役人や兵士が駐屯していたことを示す多くの出土品や土木の跡も露出した。
遼太郎は、籏宿に訪れ、 「 二重の柵にかこまれた竪穴住宅群の遺跡が確認されたが、これは兵営だったろう。
駐屯用の兵器や、ときに農具もつくったはずの鍛冶場のあとも発見された。
土師器や須恵器、あるいは灰釉陶器、灯明皿も出た。
土師器のなかには門、厨、司と墨書されたものもあった。
土器の形式からみて、どうやら平安初期の九世紀か十世紀ごろと推定されるらしい。
といって、奈良朝あるいはそれ以前の白河の関がここにあったかどうかというと、
この遺跡はそこまで保証してくれない。
ともかくも、平安初期に、ここに関門が設けられ、すこしは軍事力をもつ人数が駐屯していたことだけはたしかになった。
松平定信は、正しかったのである。 」 と書き、
小川を渡った小橋の先に文部省と白河市教育委員会による説明板があり、
昭和四十一年に国の史跡になったと記している。
その先は森になっているが、土地の人はむかしから関の森といったいたという。
細く長い石段をのぼりつめると、延喜式神名帳にある白河神社(明治以前は白河明神)で小さな社殿をもつ。
その脇から関跡への小径に入る。 やがて、関の駐屯人員の本拠地だったかと思える平坦地にいたる。
地面が波立っているのは空濠と土塁になっている訳で、
遼太郎は、 「 奈良朝はともかく、平安時代の歌人がしきりに慕いあこがれた白河の関がここであることはまぎれもない。 」
と記している。
現在は車道の脇に道の駅ができて、観光地化されているが、それども訪れる人は少ない。
芭蕉の奥の細道に、 「 いかでみやこへ と便もとめしも断(ことわり)なり。 」 とあるが、
これは百人一首にある宮廷人の平兼盛が詠んだ 「 便りあれば いかで都へ つげやらむ 今日白河の関は 越えぬと 」
という歌によるものである。
むかし、平兼盛が白河の関まで来て、 「 なんとか伝てを求めて、この関越えの感慨を都へ告げたい 」 と、
願ったのももっとものことであるというのが、芭蕉に気持のように思われる。
遼太郎によると、平兼盛が訪れたころは関の構えはあったが、
源頼朝が文治五年(1189)に関を越えたときにはもはや関は名ばかりだったろうと推定している。
また、 「 それより四十余年前、若い西行がここを越えたときは、関の建物も傾き、関守もなかったようである。 」
とも書いている。
司馬遼太郎は白河に数日滞在し、その間に八溝山の麓の旧表郷村の犬神ダムまで行き、八溝山を眺めた。
かれが行ったのは、遣唐使が旅費として持参したのは黄金で、それが取れたのが奥州、その中に八溝山があったからという。
八溝山は福島、栃木、茨城の三県にまたがる山で、その頂上近くには八溝嶺神社があり、
この神社が平安時代からの式内社で、黄金神社という。 このあたりは平安時代には砂金が産出していたようである。
また、鎌倉時代末期から南北朝にかけての南朝方の結城宗広の墓地がある関川寺や白河基督正教会聖堂を訪れている。
寛永四年(1627)に会津領から独立した白河藩が誕生し、藩主には棚倉城から移封された丹羽長重が十万石でついた。
丹羽長重は、白河に移ると寛永六年より、小峰城と呼ばれた中世の城の大改築に着手して、
近世式の段層式(梯郭式)の構造にして、四年の歳月を費やして寛永九年に完成した。 また、城下町の建設もした。
徳川将軍家としては、伊達政宗への備えという意味があっただろう。
伊達政宗の死によって、戦国の余風はおわる。
その死の翌年、丹羽長重も亡くなり、その子の光重が継ぐが、寛永二十年に二本松に移される。
それ以降は譜代あるいは松平などの一門が継ぎ、七家二十一代の城主の交代の上、
幕末の慶応三年(1867)に幕府領となり、城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなった。
戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、
翌慶応四年五月一日、白河小峰城は大半を焼失し、廃城になる。
小生が小学校の時の遠足で、南湖と白河機関車区にいった時は城壁が残るだけになっていたが、
現在の木造天守閣は平成三年(1991)に復元されたものである。
司馬遼太郎は、「 奥州白河・会津みち 五 江戸期の関守 」 で、丹羽長重のことを長々と書いているが、
城址を訪れたとは書かれていない。 石垣だけなので、駅から見ただけで終えたのだろう。
小生は、白河の関跡の見学後に訪れたが、小さいながら、木造で好感のもてる建物だった。
司馬遼太郎は、白河に数日滞在したのち、会津若松に行った。
江戸時代、陸羽街道から分かれる会津街道は、国道4号の薄葉交差点から始まる国道294号だったはずである。
五街道細見によると、大谷地、二枚橋、飯土用(旧大信村の庁舎あたりか)を抜け、天栄村に入り、牧の内の集落を抜けると、
立石山の峠を越すと須賀川市(旧長沼町)の江花にでるが、左折して勢至堂渓谷に沿って山道を上り続け、
途中で渓谷とは別れて勢至堂峠を越える。
現在はトンネルができたので、容易であるが、勢至堂峠越えが会津街道の一番の難所だったという。
道は下りになり、郡山市(旧湖南町)三代(みよ)から福良に出ると猪苗代湖の南岸に出る。
国道から離れて猪苗代湖の北岸に行く道もあるが、国道を行くと赤津で黒森峠をトンネルでくぐり、
原にでて、赤井を経て、一箕町大字金掘の石山交差点で、越後街道(国道49号)と合流して、国道294号は終わる。
この道が江戸時代の会津街道を原型とした道と思われる。
「奥州白河・会津みち」には人造湖の羽鳥湖を経て、西に向かい国道121号に出たという記述がある。
司馬遼太郎が地元民の運転で向かった道は、白河羽鳥レイクラインと呼ばれる県道37号で、
羽鳥湖の先で左折して、国道118号に入る。
遼太郎は、 「 羽鳥湖のあたりは、福島県の背骨にあたるらしい。
湖を過ぎて西にむかうと、地面は日本海に向かって傾き、山峡を流れる鶴沼川も、会津盆地を目指している。 」
と、その様子を書いているが、この道は湯の上温泉で会津西街道(国道121号)と合流するので、
右折してどこまでも行けば、会津若松市内に入っていける。
遼太郎は、せっかく来たのだからと大内宿に立ち寄っている。
遼太郎は、「 奥州白河・会津みち 十二 徳 一 」 で、会津に入った様子を書いているが、
彼が立ち寄れなかった慧日寺(えにちじ)と徳一のことも記している。
小生は徳一という坊主の名前は知らなかったが、遼太郎によると、
「会津徳一と呼ばれた学僧は、平安時代の仏教界で畏れられる存在だった。 」 という。
最澄と空海との宗教論争である。
小生は仏教について疎いが、遼太郎は次の 「 奥州白河・会津みち 十三 大いなる会津人 」 の中で、
旧仏教(奈良仏教)と新仏教(平安仏教)の教義の違いを説明している。
旧仏教は解脱中心主義で、天才的な人のみが悟り(成仏)の域に達しうるという選別主義だった。
それに対し、最澄が持ち込んだのは天台宗で、救いと思想という基準のもとに取捨選択して、一大体系をなしたものである。
最澄の持ち込んだ新仏教は宮廷人の圧倒的な支持をうけたが、それに反発したのは南都六大寺で、
「 だれでもが仏性をもつとしたら、なにを苦しんで修学をし、修行をするのか、
さらには人間には歴然と努力する者と怠ける者との区別がある。
ぐうたら者にさえ仏になる性質があるとはなにごとか、 」 というのである。
最澄や空海が説く大乗仏教では、菩薩はみずからサトリをひらいただけでなく、利他的に他人を救済し、
サトリをひらかせたり、衆生に利益をあたえる存在をさすようになった。
仏教では、乗ということばがあるが、サトリに達するための方法・手段のことで、もとの意味は乗物である。
旧仏教では、三乗という言葉を使う。 声聞には声聞のための乗(システム)が違い、
緑覚には緑覚乗、菩薩には菩薩乗がある。
それぞれの生まれつきの能力や素質に応じて、乗(システム)を変えて目的にむかうというのである。
ところが、法華経では、三乗を思想的発展の過程としてみつめつつも、いずれの種にうまれついた人も、
すべて仏の慈悲によって救われるという。
旧仏教と最澄との論争は弘仁四年(813)に興福寺の学僧との間で始まったが、全て負けたので、
会津に行き、慧日寺を開いた徳一を呼び、最澄に挑戦させた。 その後、十二年間論戦が続いたという。
徳一が起こしたという慧日寺はJR磐越西線磐梯駅の北方にあったようで、最近になり金堂などが復元されている。
慧日寺は法相宗と磐梯山の山岳信仰が結びついていたが、
多くの堂塔伽藍をそなえ、それらの奥の院は磐梯山そのものだったといわれる。
徳一の教学は彼の死後は土俗化して、磐梯修験の色彩を強めていき、密教になっていった。
戦国時代には戦場になって、伽藍は焼き尽くされ、すべて終えた。
現在ある恵日寺は真言宗の寺で、草ぶきの簡素な山門を入ると、中世の小さな土豪屋敷を思わせる本堂があると、
司馬遼太郎は書いている。
恵日寺は前述の越後街道の石山交差点から北に向かい、磐越道の磐梯河東ICの左側のガードをくぐり北上し、
道の駅のところで、左折し北上するとある。
江戸時代の会津街道は、石山交差点の手前から左に入り、吹屋山、高山、堂ヶ作山の山裾をくねくね上ったり、
下ったりして、飯森山の手前にある旧滝沢本陣のところに出たのだろう。
遼太郎は蒲生氏郷の墓所がある興徳寺を訪れて、蒲生氏郷のことを書き、
その後は、幕末の政争で松平容保が薩摩長州の反発を受け、戊辰戦争で会津若松城は陥落し、
明治政府により津軽に疎開させられ、藩民は酷い目にあっていることを同情の目で書いている。
今回の遼太郎の旅は、宗教史と幕末史を描く旅といえよう。