大山道は、大山街道ともいわれ、
関東各地から神奈川県西部の大山にある阿夫利神社へ向う参拝者が通った道である。
落語にも「大山詣で」を題材にした演目があり、江戸から気楽に出かけられる観光地になっていたようである。
最盛期には「大山道」と呼ばれた道は関東一円に多く見られた。
今は国道246号の旧道・矢倉沢往還にその面影を残すのみである。
@ 大山阿夫利神社
大山阿夫利神社は、神奈川県西部の伊勢原市にある神社で歴史は古い。
大山は標高1252mの山で、太古より山そのものが信仰の対象になり、
山頂に阿夫利神社が祀られた。
「 社伝には崇神天皇時代の創建とあり、
延喜式神名帳にも記されている。
天平勝宝四年(752年)、東大寺初代別当の良弁僧正は大山に入山し、
山の中腹に大山寺(不動堂)を建立し、不動明王を祀った。
神仏混淆の時代に入り、大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになった。
源頼朝そして北条氏の崇敬を受けたが、戦国時代には疲弊したようである。
徳川家康などの徳川家の庇護により、復活をとげ、
神宮寺である山腹の石尊大権現・大山寺の建物は、威容と善美を尽くしたという。
しかし、安政元年の大みそかの山火事により焼失し、仮殿のまま明治を迎えた。
更に、明治の神仏分離令により、神宮寺である山腹の石尊大権現・大山寺は廃される。
そうしたことから、大山寺不動堂は阿夫利神社の下社となり、山頂の祠は上社となった。
仮殿だった阿夫利神社下社(拝殿)が再建されたのは昭和五十二年のことである。 」
小生が山岳部で丹沢山系を登り、訪れたころは仮殿だったと思うが、
記憶に残っていない。
忘年会を兼ねた登山で、そこで家内と出逢ったところの印象だけが残っているが・・・
拝殿の左手に鳥居と石段があり、 そこに 「 奉納 東京日本橋 お花講 」 と書かれた片開門がある。
「
江戸時代までは大山全体が神聖な信仰の山で、山開き期間以外は立ち入ることが許されなかった。
山開きの任にあったのが、江戸浅草のお花講で、
お花講が毎年山開きに立ち会ったといわれる。
現在は年中門が開かれているが、その歴史を伝えるのが鳥居前の片開き門である。 」
大山阿夫利神社下社 | お花講の片開門 |
ケーブルカーで一つ手前の駅に降りて、 少し歩くと雨降山(あぶりさん)大山寺がある。
「 神宮寺の大山寺は、明治政府の実施した廃仏希釈により、廃寺となった。
その後、地元民の嘆願で政府から許されて、
明治九年(1876) 、来迎堂があったところに不動堂が再建され、明王院と称した。
大正四年、観音寺と合併して、現在の雨降山大山寺となった。 」
堂内には、(国の重要文化財)鎌倉時代の作、鉄造の不動明王とセイタ童子とコンガラ童子像が祀られていた。
ロープウエー駅の下部の大型バス駐車場の下側に、良弁滝(蛇口之滝)がある。
「 大山寺開山の良弁僧正が 入山の際、最初に水行を行った滝である。
江戸時代の浮世絵師・歌川国芳(画号:一勇斎)の、「大山石尊良辧瀧之図」 には、この滝に参拝する人々を描いている。
今回訪れた時は、水がわずかしか流れていなかった。 」
本堂の脇には、銅造の宝しょう印塔が建っていた。
火災に遭っているので、再建されたものという説明があった。
ロープウエー駅に戻る途中、 「 雲折々 人を休る 月見かな 芭蕉 」 という句碑があった。
芭蕉が野ざらし紀行から帰ってきた頃の句で、当地とは関係ないと思うのだが・・・
なぜ建立されたのか分らなかった。
雨降山大山寺 | 蛇口之滝(良弁滝) | 芭蕉句碑 |
A 大山講と大山道
大山は雨降山(あふりやま)と呼ばれ、古来から雨乞いに霊験のある山として、
農民の信仰する山であった。
日照りが続いて飢饉が多くなると、多くの農民達が阿夫利神社に雨乞いの祈願に訪れた。
また、大山修験道も盛んになると、山頂には修験者が多くいた。
「 関東に移封された徳川家康は、大山寺を安堵する一方、
修験者が僧兵になるのを恐れ、
妻帯者などの還俗化を進め、修験者の多くを麓に転住させた。
坂本や蓑毛に降りた修験者達は、各地に出向き、お札を売り、大山寺の布教を行い、
生活の糧とした。
江戸時代中期になると、庶民の生活が豊かになり、お札を配る御師が檀家を組織化、
大山講を造って、関東各地からの参詣者を石尊大権現・大山寺へ送りこんだ。 」
川の左側の坂道には「大山講」の石碑が建つ旅館があるが、御師の末裔である。
この先は坂道になっていて、とうふ料理店が数店ある。
説明板「とうふ坂」
「 江戸時代より参拝者たちがとうふを手のひらに乗せ、すすりながらこの坂を登った。 」
ロープウエー駅までの参道のタイルは独楽をデザインしたものである。
説明文には「 こま参道 大山の名産品にこまがあったので、こま参道といわれる。 」 とあった。
これらの坂道は昔ながらのたたずまいが残る参道と思った。
「
大山講は、江戸中期から後期にかけて最盛期を迎え、
最盛期の宝暦年間には、年間二十万人の参詣者を数えたという。
関東各地からの道がすべて大山に通ずると言っても過言でない状況となった。
参詣者は、五〜六人、多い時は二十名以上の大集団で、
身なりは白の行衣、雨具、菅笠、白地の手っ甲、脚絆、着茣蓙という出で立ちに腰に鈴をつけた。
「 六根清浄」の掛念仏を唱えながら、大山へと向かっ道は大山道と呼ばれて定着化し、
道標にも記されるようになっていった。 」
今回歩いた下部にある社務所からロープウエー駅までの参道に、
大山講の人々が建てた石碑が残っていた。
江戸の火消し集団のものが多いようだが・・・
「
関東各地から大山への参拝道は、大山道とか大山街道と呼ばれた。
江戸から直接向う矢倉沢往還はその代表格で、
現在の国道246号の原形になるものである。
赤坂〜青山〜三軒茶屋〜二子の渡し〜溝口〜荏田〜長津田〜下鶴間〜国分〜厚木の渡し〜愛甲〜下糟屋〜上糟屋〜石倉〜大山というルートである。 」
義兄が住んでいた厚木市長谷の住宅地の狭い道の角に、 「おおやま道」 の道標が建っている。
この道は七沢温泉や大山薬師にも通じているが、
矢倉沢往還へ通じる追分に建っていたものかも知れない。
とうふ坂 | 大山こま | 木遣塚 |
東海道の大山道で人気があったのは、田村通り大山道である。
この道の起点は藤沢市四ツ谷の一の鳥居。
四ツ谷〜一の宮(寒川町)〜田村の渡し〜下谷〜伊勢原〜〆引〜石倉〜子易〜大山というルートである。
大山詣はレジャーとしての要素も兼ね備えていて、
参詣の帰路には江ノ島や鎌倉などにも立ち寄った。
この道は藤沢宿を挟み、江の島道に通じていたので、
東海道と大山道が交差する四谷辻には、多くの茶屋が立ち並び、参詣客を誘い込んでいたという。
その場所は国道四ツ谷交叉点の近くである。
天狗のお面が付いた鳥居の下の狭い道が田村通り大山道で、その先にわずかに面影が残っていた。
道脇の祠の中には、片足をぶらんと下げ、眼をひん剥いてこっちを睨んで座っている、
四谷不動と呼ばれる不動明王が祀られている。
これは大山道の道標を兼ねたもので、
江戸横山町講中が、延宝四年(1676)、四谷辻に建てたもので、
不動尊下の正面に、 「 大山道 」 、両側面には、 「 これより大山みち 」 と、刻まれている。
祠の外にある道標は初代のもので、万冶四年(1661)、
江戸浅草蔵前の講中・御花講によって建てられたのである。
このことから、この道は「御花講大山道」とか、「御花講道」とも呼ばれたようである。
中山道からの道の一つが、大宮郵便局北交叉点の手前右側のファミレスの角に、 安政七年(1860)に建てられた追分道標として残っている。
「
道標には 「 大山 御嶽山 よの 引又 かわ越道 」 と、彫られている。
大山とは阿夫利神社のことで、川越道は、中山道とここで西に別れ、
レストランと魚屋の間を通り、
大成町2丁目の普門院 の東側へ通じ、与野に至っていた。 」
江戸時代には、 男子が15〜20歳になると、大山にお参りをすると一人前、という風習が生まれた。
最初は、成人を迎える神事であったが、この頃には娯楽化していたようで、
江戸町民だけでなく、
関東各地からも大山に向ったことがこの道標からもうかがえる。
明治に入ると鉄道を利用する参詣者が増え、それと共に 大山道を利用するものが減り、
道そのものも部分的に消滅し、忘れられてきた。
現在、大山道と呼ばるものは矢倉沢往還などわずかで、
地元民に別称として呼ばれる例が散見される程になってしまっている。
大山道鳥居 | 四谷不動 |