例幣使街道  

徳川家康の死去後、家光により日光東照宮が造営され、 毎年、京都御所から東照宮へ例幣使が遣わされた。 
その使者が通った道を例幣使街道といい、東照宮を造った宮大工が通った文化伝承の道でもあった。




例幣使街道は、御所から御幣を日光東照宮へ遣わす勅使が利用した道である。 

「 京都から中山道を下り、上野国(群馬県)倉賀野宿で別れ、玉村、五料、木崎、太田を経て、下野国(栃木県)に入り、八木、佐野、栃木から楡木(にれき)で、 日光壬生街道に、今市で日光街道に合流して、日光に到着していた。 
このうち、倉賀野宿から今市宿までを「例幣使街道」と呼ぶようで、 江戸幕府は重要なルートとして道中奉行のもとで管理していた。
家康の死後、遺言により元和三年(1617)四月、日光東照社が造営された。
京都御所が、正保二年(1645)十一月、東照宮の宮号を授けたので、 「日光東照宮」と呼ばれるようになった。 
朝廷は、古いしきたりに従い、翌年の四月、日光に臨時のささげものをしたが、 翌正保四年から家康の命日の四月十七日に、金のご幣(金幣)を奉納するため、 勅使が派遣されるようになり、幕府が滅びるまで続いた。 」

例幣使とは、日光東照宮の春の例大祭(4月17日)にご幣(金幣)を奉納するため、京の朝廷より派遣される勅使のことで、公卿が充てられた。 

「 例幣使の行列は五十人〜八十人ほどで、大名も宿泊のための本陣をゆずるほどの絶大な権威をもっていた。 
例幣使が通る時の街道沿線の気の使い方は、宿場役人、宿場から周辺の百姓に至るまで大変なものだったらしく、藤村の書いた小説『 夜明け前 』 で、  「 お肴代もしくは御祝儀何両かの献上金を納めさせることなしに、かってこの街道を通行したためしがないのも日光への例幣使であった。 」 と記している。  
例幣使側のこのような我儘や狼藉は公家の幕府に対する不満が背景にあったといわれる。 」

倉賀野宿の町はずれにある三叉路が中山道から例幣使街道へ入る追分で、 今も道標と常夜燈が残っている。 

「  常夜燈は文化十一年(1814)五月に建てられたもので、建立者の中に当時の力士の名前がある。 
柏戸、雷電、鬼面山などの力士の他、木村庄之助、式守鬼一郎という行司もあった。 」

下野国(栃木県)の最初の宿場が八木宿だが、宿場の上下に四本ずつ八本の松の木が あったことから名がつけられたといわれる。 
現在は足利市福居町となっていて、八木節の発祥の地である。 
県道の八木宿交差点のあたりに旅籠が並び、遊女もいて宿場町は賑わったとあるが、 その面影は現在はまったく残っていない。 
梁田宿跡には 「 本陣2軒、旅籠32軒、総戸数105軒あった 」  と書かれた看板があった。 
次の宿場の天明宿までは二里半というから約十キロであるが、 この先、渡良瀬川に突き当たり、当時の道は消えている。 

しかたがないので、川崎橋を渡り、寺岡に出ると、国道293号に合流する。 

「  街道とは関係はないが、近くにある足利フラワーセンターには大藤があり、一見に値する。 花好きとしてもう一つのが、館林のつつじ。 関東一と言ってもよかろう。 」

免鳥町を過ぎると現在は佐野市になっている天明宿に着く。 

「  当地で作られる佐野鋳物は千年の歴史があり、西の芦屋、東の天明といわれた。 
梵鐘や茶道で使われる茶釜の製作を得意としているようである。 
佐野厄よけ大師は、厄除け元三慈恵大師を安置して、厄除け、方位除けの祈願を続け、 正月になると大祭を開催し、百万人の参拝者が訪れる賑わいをみせる。 
徳川家康の遺骨を久能山から東照宮に遷葬の際には、 この寺に一泊するなど徳川幕府との縁も深かったところのである。 」  

次の宿場は佐野から二千五百メートル程の犬伏宿だが、徳川家にとって歴史的な地である。 

「  徳川秀忠は上杉氏の会津征伐のため、慶長五年(1600)七月十九日に江戸を発ち、 大庵寺で休みをとっていた。 
大庵寺は佐野昌綱により現在地に移された浄土宗寺院である。 
真田昌幸、信幸、幸村はこれに合流するために七月上旬に上田を発ち、 二十一日にここに到着したが、その時、石田三成からの書状(密書)が真田父子の元に届けられた。 
真田父子はここで関ヶ原合戦を前に東西に分かれる決断をしたと言われている。  」

県道11号に沿って行き、岩舟町で左折すると、富田宿のあった大平町富田に到着。 
日立の工場が二つあったが、宿場があったことを想像するものはなにもない。 
更に歩くと、栃木市内に入る案内があったので入っていった。 

「  栃木は皆川氏が統治していたが、慶長十四年改易に遭い、城が取り壊された。 
その後、幕府領、旗本領と大名領に細分化されたが、 宝永元年、足利藩戸田氏の所領になり、明治を迎えている。 
市内を流れる巴波川を利用した河運で北関東屈指の賑わいを見せる商人街でもある。 
明治維新の後、栃木県の県庁が置かれたが、宇都宮県と合併し、現在の栃木県が誕生した際、時の三嶋県令が自由民権運動が激しかった栃木を嫌い、宇都宮を県庁にしてしまった。 
更に、鉄道が曳かれる時、河運業者の反対で通らなかったことから、 県内の中心地としての座を追われた。 
最近は、古い家や倉を博物館として公開している家が数軒あり、蔵の町として宣伝している。 」

小説「路傍の石」の作家、山本有三の出生地で記念館がある。 
墓は近龍寺にあるので、おまいりをした。 
嘉右ヱ門町には代官岡田嘉右ヱ門の大きな屋敷が右側にある。  
左側の大きな商家は、天明年間創業の油屋傳兵衛で、味噌・田楽の暖簾が懸かっていた。 

合戦場宿は東武日光線の沿線にあり、駅名にもなっているが、 戦国時代、宇都宮軍と栃木軍とが戦かったことから名が付いた。 
日立製作所の創業者の一人、小平浪平の出身地で、「生誕の地」と刻まれた大きな石があった。 

金崎宿(西方町)には本陣だった古澤家がある。 
思川を小倉橋で渡って、堤防をしばらく歩いて、国道121号に合流する。 
堤防には桜並木が続き、桜の名所だが、以前のような凄さはない。 
このあたりは、西方町で、立派な門と蔵のある大きな屋敷が続く。 

楡木宿に入る手前の追分交差点で、壬生街道(国道352号)と合流する。 
厳密には、例幣使街道はここで終わりということだろう。 

追分から少しで楡木(にれぎ)宿。 現在は鹿沼市に属する。 

「  このあたりは小生が勤めていた会社の近くでよく知っているが、宿場を語るようなものは残っていない。 
赤ん坊を抱いて向かい合わせ、泣かせた方が負けという泣き相撲で有名な生子神社(いきこじんじゃ、鹿沼市樅山)がある。 
毎年九月十九日以降の最初の日曜日に行われる行事で、 文久年間(1860年代)より続くと伝えられるものである。 」

ここから宇都宮に通じる楡木街道は、昔は宇都宮から鹿沼に行くのに使ったが、 現在は立派なバイパスができたので、利用することが少なくなった。 

「  鹿沼宿は江戸時代、東照宮で仕事に携わった職人が当地に留まったといわれ、今でも木工業が基幹産業である。 
屋台が旧市内に二十七台あり、それに、楡木町に三台(うち一台は山車)、上大久保(かみおおおくぼ)の一台を加え、三十一台の屋台が現存している。 
今宮神社の秋祭りには山車が競り合うぶっつけは祭のメインになっている。 
屋台は、江戸の屋台の系統を引く踊り屋台から発展したものと考えられ、唐破風の屋根を載せた単層館型で、四輪を内車式に付けたものだが、日光山社寺の豪華な彫刻の影響を受け、全面が豪壮な彫刻に飾られている。 」

鹿沼宿を出ると、いまでも残る杉並木の下を通る。 
日光街道にも杉並木があるが、ここの方が江戸の街道の雰囲気を残していると思う。 
自動車が通るので、排気ガスで枯れないかと心配で、保存方法を考えてもらいたい。 

「  杉並木の中にある東武日光線の文挟(ふばさみ)駅のあたりに、宿場があったのだろうが、そのようなものがあったとは思えない静かな佇まいである。 」

杉並木が途切れたところが板橋宿。 
ここには通る時には必ず立ち寄る蕎麦屋があり、比較的古い家が残っているが、江戸時代のものではないのでは? 
また、杉並木に入る。 
しばらく行くと右側に家が見え、今市宿に入る。 
ここで、宇都宮から来た日光街道に合流し、日光に向かっていくことになる。

(最後に) 小生が例幣使街道を歩いたのは宇都宮に単身赴任していた平成十三年のことで、当時はフイルムカメラで撮影したが、 今回の編集にあたり探したが、引っ越しの際に無くしたようで、残念ながら写真は掲載できなかった。 残念無念である。 



 戻る(東日本の道目次)                                                




かうんたぁ。