国道136号は、静岡県三島市の国道1号線南二日町IC交差点から南下し、伊豆長岡、修善寺を通り、
出口交差点で西に向かい、土肥峠を越えると、伊豆市土肥で伊豆半島の西岸に出る。 そこから伊豆半島
西海岸を南下して、最後は下田市に至る道である。 三島から修善寺までは下田街道と呼ばれているが、
下田街道は出口交差点で南下する国道414号に名前を変えて下田へ向かっている。
三島南二日町ICから修善寺
平成二十一年三月十五日、大学時代の同級生の会合が熱川温泉で開かれるので出かける
ことになった。 折角の機会なので、訪れたこと
のない伊豆西海岸をドライブすることにした。 名古屋を早朝に立ち、沼津ICで降り、国道1号線に出て、
南二日町IC交差点まで走り、国道136号に入る。 韮山、伊豆長岡を過ぎると修善寺に入ったので、
修禅寺に寄った (右写真)
修善寺温泉の真ん中にある寺だが、大同二年(807)に弘法大師により作られた寺で、本尊の大日如来像(重文)は、
北条政子が我が子、鎌倉二代将軍源頼家の菩提を弔うために建立
したもの。 修善寺の地名はこの寺名によるが、寺の正式名は福知山修禅萬安禅寺という。
赤い橋を渡り、石段を登って行くと、指月殿があるが、これはこの地で非業の死を遂げた源頼家
の冥福を祈り、母の北条政子が建立したもので、伊豆最古の建物といわれる (右写真)
本尊の釈迦如来像は寄木造りで、高さ二メートル三センチあり、右手に蓮の花を持っている。 この御堂の
左手に少し行ったところに、頼家の墓の説明板があり、 「 その奥にある石碑
は、元禄十六年(1704)、彼の五百周忌にあたり、時の修禅寺住職、筏山智船和尚が建てた供養塔で、墓はその裏側に
ある小さな五輪石塔である。 」 と、あった (右写真)
国道に戻り、旅を続ける。 道を南下続けると、出口交差点があるので、国道136号はここで右折
して、西に向かう。 このまま直進すると、川端康成の伊豆の踊子で有名な天城越えとなる道だが、これは国道
414号となっていて、熱川からの帰りに通った。
修善寺から土肥を経て堂ヶ島へ
国道136号を西に向かうと、黄金の湯船で有名になった船原温泉があるが、そのあたりから道は上り坂になり、
くねくねと登ると
土肥峠で坂を下ると、土肥に出る。 土肥はかっては土肥町であったが、平成の合併により、修善寺などと合併し、
伊豆市になっている。
町に入るとすぐ、左手に入ると土肥神社があった (右写真)
神社の由来を示す石碑によるとかなり古いようで、
石碑には、 「 神社の創建は定かではないが、既に延喜五年(905)の延喜式神名帳に伊豆国那賀郡豊御玉命神社とあり、
伊豆国神階帳
に従四位上とよめ玉命ノ明神とあり、豆誌に土肥明神ハ祭神豊御玉命ナル
ベシ 村名土肥ハ蓋し神名豊ノ転訛ナラン 」 とあり、この地の産土神として今日まで続いてきた、と思われる。
境内には、樹齢千年を越える大きな楠が土肥を見守るようにそびえ立っていた
(右写真)
この社の石垣は、江戸城建築の際、築城石を切り出した薩摩藩の石工達により築かれ
たと伝えられ、石切りや石積みの時うたわれた仕事歌がさつまころがしの名で伝承されて
いる。 国道に戻り進むと、
土肥中浜交差点で右から県道17号が合流してくる。 県道17号は、沼津土肥線と呼ばれ、沼津市を起点とし、
伊豆半島の北部から戸田を経て、伊豆半島西側をぐるーと廻り、この交差点で国道に合流する道である。
この交差点を右折し、県道に入り少し行くと辮才天があり、その隣に日帰り温泉の弁天の湯があった (右写真)
漁船が停泊する一角に温泉施設の駐車場があり、車を止めて県道に出て、温泉に入りたいと
思ったが、早いため営業していなかった。 左側に港の防潮堤の標識が見えるので、そのまま歩道の坂を登ってい
くと、眼下にはいくつかの岩が海の中に飛び出していて、波が寄せしぶきになって白く光っている。 登るにつれて
、左側は切り立った崖のようになっている (右写真)
その様子を堪能しながら歩くと、広場のようなところに出た。 そこには駐車場があり、丸い橋のような下に旅人岬
と書かれたモニュメントがあり、その先は石段になっていた。 石段を登る
と、小説 旅人岬の石碑があり、ここからの情景を描いた笹倉明の文章が刻まれていた。 碑文によると、笹倉明
は直木賞作家で、96年〜97年、静岡新聞に「人びとの海」を連載。 その後、舞台となったこの峠を旅人岬と
命名し、小説名も改題したとある (右写真)
旅人岬の碑には 「 船の白い波の尾を引いて入江に向かう。 水鳥が宙を舞って、一瞬の影を水面に描いた。
それらの光景が刻々と彩を変えて行く。 赤みと大きさを増して輪郭が
くっきりとさせた夕陽が向こう岸から長い朱の帯をのばし、湾の波間に真ぷたつに割り裂いた。 これまで夕陽は
幾度も見てきたけれど、いまほどそれを美しいと感じたことはない」 と書かれていたが、作家が感動した夕陽
をいつの日にか見たくなった。 ここには男女の像もあったが、銘には1993「家族」とあったので、よく見ると
間にもう一人いたのである (右写真)
夕日を見るには一番のスポットのようであるが、ここからは富士山は見られないようで、これは
残念だった。
坂道を下り、駐車場に戻る。 なお、土肥は伊豆における最大の金山として知名度が高く、最盛期には全国で
第二位の金生産高をあげたとあり、坑道から噴き出した湯が今日の土肥温泉の始めのようである。 国道を
進むと、次第に上りになり、右下には港が見える。 車を止めてみると、先程の旅人岬の先に富士山の雄姿が
見えた (右写真)
本日始めてみた富士で感激である。 更に上ると、右側に旅館があり、その先に駐車場が
ある。 このあたりは八木沢というところのようで、駐車場に止めて北方を見ると、駿河湾の先に富士山が
くっきり見えていた。 写真を撮っていると、大きな船が画面をとらえた。 それまでは漁船だけしか、視野に
入らなかったが、大きな船はどうやら清水港から土肥港へ向かうフェリーのようで、両者を六十五分で結んでいる
(右写真)
清水から陸地を走ると一時間で来られないと思う。 それはともかく、ここからの富士山の展望
はよかった。
国道を南下すると、トンネルやアップダウンが続く。 しばらく走ると、恋人岬のバス停があるところに出て、
駐車場のペンションのような建物があったので、車を止めた。 そこには恋人岬の案内板があり、 「 およねと
福太郎の恋物語の舞台になったところで、1983年に新たに整備誕生した自然公園である。 」 と、あった
(右写真)
案内に従い、小道を下ると菜の花の咲く一角があり、その先の右側に展望台があった。
展望台には、丸く輪のようにくり抜かれたメガネ記念碑というものがあり、輪の中に富士山が見えるようになって
いた。 もう一つは金の鐘で、石の台座の上に二人の人形のようなものがあり、その上に鐘が吊り下げられていた
(右写真)
この鐘は、1989年、グアムの恋人岬と姉妹提携を結んだ際、記念に設置されたもので、銀の鐘はグアムに贈られた
、とあった。 道はその先もあるが、木道で高低差があるので、足に
自信のない人はここで引き返していた。 樹木の上に橋のように作られた道を下って行くと、もう一つの展望台が
ある。 先程のは5人位で一杯になるようなものだったが、こちらは広い。 眼下に緑とその先に入江が見える。
背丈の高いところに吊られた愛の鐘があった。 先程の金の鐘も同じであるが、この鐘を恋人二人で三回鳴らす
恋が成就すると信じられていて、当日も多くのカップルがついていたが、その後の成果はいかなるものだろうか?
恋人岬とか、旅人岬などの命名がよいせいか、伊豆西海岸は若い人が多く訪れるような気がする。 我々の青春時代は
東海岸でさぼてん公園とか、ワニ園とかを訪れて温泉に入るのが多かったのに思える。 今回西海岸に訪れ、開放的
な風景が多いことに驚いたが、ネーミングとこの風景が若い人を引き付けてると思った。 目を転じると富士山が
見えた (右写真)
ここからの富士山もわるくない。 その前には恋人の像と思われるものがあったので、若い人
たちが思い思いのポーズで携帯やデジカメで撮っているが、肖像権の問題があるので、それを避けてとるのは苦労
する。 国道を南下すると、西伊豆町に入る。 右に宇久津港を見ながら上ると、道は幾つかのトンネルをくぐるが、
その一角の海側に黄金崎があるが、そのまま通過すると、遊覧船の出る堂ヶ島に着いた (右写真)
堂ヶ島は浮石質凝灰岩が駿河湾の荒波により侵食され、断崖絶壁となったもので、伊豆の
松島と称えられるとあったので、
遊覧船乗場に向かったが、浪が高いため欠航中。 しかたがないので、右手の岩山の方角へ歩いていった。 岩に道が
続いているので、その上を歩いていくと上るに比例して視界が広がっていく。 下を見るとカップルが岩の上に座って
寛いている姿が見え、その先には松の生えた岩があった (右写真)
岩の下は切り立っていて、砕け散る波が見えた。 高度恐怖症の小生は長居は無用と早々に
切り上げ先に進むと左手に島が見え、案内板には三四郎島とあり、手前から象島、中の島、高島の三つ
の島の総称とある。 一見したところでは一つの島に見えるなあと思いながら右手に目をやると、この島と陸地の間に
細い砂浜が続いているように思われた (右写真)
案内板には、 「 トンボロ現象(陸繋砂洲)が見られるところで、干潮時には歩いて渡ることができる。 」 とあった。
レンズを拡大して覗くと人が歩いて渡っている姿が小さいながら確認
できた。 干潮時にしか現れない現象が見られたので、ラッキーと思った。 その先には地面に穴が開いているところが
あったが、近くの案内板によると、天窓洞というものである (右写真)
「 昭和10年に天然記念物に指定された、とあり、長い年月の海触によりできた洞窟で、中央の天井は抜け落ちている
ことから名づけられた。 」 とあった。 ここからだけでなく、遊覧船は
海から中に入るとあり、欠航中なのは残念だった。 堂ヶ島温泉は西伊豆最大
のようで、三四郎島に面して旅館が建って
いた。 国道脇の駐車場には加山雄三ミュージアムなどがあったが、昼になったので、お店に入り鉄火丼を注文した。
食事後、日帰り温泉を探して隣の大浜海岸へ行くと、親子が海を見ていた (右写真)
夏は海水浴が出来るのかもしれないが、サーフィンを若者がしていた。 といっても、浪はそれほど高くないので、
初心者向きの海岸かもしれない。 日帰り温泉はその近くにあり、町営なぎ
さの湯といったが、その様子は小生のホームページの温泉めぐり・静岡県/なぎ
さの湯をご覧いただきたい。
松崎町
入浴後、国道に戻り南下すると、松崎町に入った。 松崎といえば、なまこ壁で有名な町である。 とりあえず、
伊豆の長八美術館前の駐車場に車を止める。 伊豆の長八美術館は、この町に生まれた入江長八の鏝絵を保存
しており、また、建物の建設には全国の左官職人たちが関わったとある珍しい美術館である。 「 入江長八は、文化十二年
当地で生まれ、左官職人となったが、二十歳のとき江戸へ出て、狩野派の喜多武清から絵を学ぶ一方、彫刻も学んだ。
江戸時代の後半になると、火災予防のため、漆喰壁の建物が商人を中心に多く建てられたが、建物の外観を装飾する目的
で壁に鏝で絵を描くようになった。 入江長八は、江戸日本橋茅場町にあった薬師堂の拝柱の左右に昇り竜と下り竜を
造ったが、その見事さから、名工伊豆の長八と呼ばれるようになった、とある (右写真ー長八美術館の天井画)
この美術館には五十以上の長八の作品が収蔵されているという。 小生が長八の作品と出逢
ったのは東海道の品川宿にある寄木神社である。 うす暗くてよく見ることはできなかったが、天孫降臨の様子を絵
具で彩色して描いていた。 館内を見てまわり、こて絵やしっくいなどの知識は増えた。
美術館を出て、国道を少し戻ると、右側に伊那下神社がある (右写真)
延喜式内の古い神社で、祭神は彦火火出見尊と住吉三柱大神で、かっては唐大明神」と称し、源頼朝をはじめ、多くの
武士達に崇拝された。現在の名前の伊那は地名で、造船技術を
持った新羅渡来人の猪名部がこの地をイナと名付けたことに由来するようだが、国宝などの社宝が多い神社である。
道の反対には浄感寺があり、長八三十一歳の時天井に描いた八方にらみの竜のこて絵が残っている。 国道を更に
戻ると、なまこ壁の案内があるので、左手の小道に入ると、江戸末期に建てられたという近藤家のなまこ壁の家が
あった (右写真)
道を進むと、大通りに出る。 この左手にはなまこ壁の伊豆文邸があり、案内板には
「 明治四十三年の建物で、
かっては呉服商を営んでいた家である。 木像二階建てで延べ210平方bで、正面の帳場やどまなどが当時の面影を
残している。 」 とあった (右写真)
家の中に入ると、お雛様飾りがいくつかあり、部屋全体を占拠していた。 外に出て、右の方角に向かうと、観光案内
所があった。 松崎町観光協会は警察署を改装したというが、星のような形を描いたステンドグラスの丸窓が印象的な
建物である。 受付の前には煙火松崎手筒
組と書かれた手筒花火が大小四本あったが、八月15日の花火大会で披露されるようである。 観光会館を出て、その先に
進み、交差点を左折し常磐橋を渡ると、大正十三年に昭和天皇のご成婚を記念して建設されたものを復元した時計塔が
あった (右写真)
周りの風景には溶け込まず少し違和感はあるが、童話に出てくるようなかわいいものだった。 その奥には明治の商家
中瀬邸の看板がある建物があった。 案内によると、 「 中瀬邸は、
明治中期に呉服商家として建てられた。 わずかな数代の間に財を成した大地主の建物は、現代では考えら
れない程贅沢な木造建築で、なまこ壁造りのたたずまいの中は、太い柱や梁、贅沢な素材や細工を施してある。 」 と
あった (右写真)
現在は町の資料館になっていて、当時を偲ばせる道具や調度品のパネル、モニターによる紹介をしていた。 また、大人が
三人位足を浸けられる足湯もあった。
下田市
国道136号をこのまま南下を続けるとマガレットラインと呼ばれる道だが、道幅が狭くなる。 小生の今回の目的は
同窓会に出席することだが、国道を走ると開会に遅れるおそれがでてきたので、国道を南下することを諦め、道の広い
松崎街道を通って下田にでることにした。
駐車場に戻り、宮の前橋を右折し、標高三百十六bの婆娑羅峠を越える (右写真)
峠と言いつつも実際は峠を越えるわけではなく、トンネルがあり、それをくぐるのである。
峠から降りていくところはくねくねとした道だが、その後は、急カーブはない道で、思ったより
早く下田市に入れた。 下田は江戸と大阪間の風待ち港として栄えたが、歴史に残る事件として有名なのは
ペルーの来航による和親条約の締結で、その際、下田の了仙寺に於いて、和親条約の細則を定めた全十三箇条から
なる下田条約が締結された。
下田開国博物館にはそれに関連した資料が展示されている (右写真)
もう少しくわしく説明すると、 「 嘉永七年(1854)三月、神奈川に於いて、日米和親条約が
締結されると、下田が開港場となり、ペルー艦隊が下田港にぞくぞく入港してきた。 了仙寺は上陸した一行の応接所と
なり、ここで日本側全権大使林大学頭等とペルー間で下田条約が締結された。 」 のである。 開国博物館の
近くの小さな川に架かる石橋を渡ると下田了仙寺の石標が建っていて、了仙寺はその奥にあった (右写真)
多くの見物客がいたので驚いたが、これらの客はバスによる団体客で、隣の駐車場から現れ
たのである。 お堂の中に入ると、従軍画家ハイネが描いたペルー提督黒船陸戦隊調練の図(複製)と住職が使用した駕籠が
あった。 開国に関連した寺に宝福寺がある。 寺はここから少し離れていて、裁判所の近くの大通りに面している (右写真)
この寺は幕末には日米交渉の際の幕府役人の宿舎にあてられた。 また、総領事ハリスに仕え、五十一歳の時、稲生沢
川の門栗ケ淵に投身自殺した唐人お吉の墓とお吉記念館があり、
お吉とハリスの遺品や開港当時の資料を展示している。 また、下田港の反対側にある玉泉寺はハリスが来日して最初の
米国領事館になったところで、お吉の出会いが始まったところだが、以前に訪れているので、今回はパス。 その代わり、
下田海中水族館へ行った (右写真)
案内文には、 「 下田海中水族館は、天然の入り江を利用して海上に浮かぶ浮遊円形水族館で、イルカと一緒に泳げる数
少ない施設である。 」 とある。 巨大水槽内では給餌ショーが
行われていた。 イルカショーは、天然の入り江で暮らしている元気いっぱいのバンドウイルカたちが自慢の技を披露する
とあって、巨体を使っての大ジャンプがあり、また、トレーナーとイルカが一体となったドルフィン
サーフィンが披露され、なかなか見ごたいがあった (右写真)
館内から出たところの売店で食べた小さな貝が串刺しになっているものは大変うまかった。
以上で下田の旅も切り上げ、同窓会の開催される伊豆半島東側の熱川に車を走らせた。
旅をした日 平成21年3月15日