上田は、信州でも早くから開けたところで、
奈良時代には国府や国分寺があった。
真田昌幸が千曲川の段丘に上田城を築き、城下町が
できると、江戸時代には北陸街道(善光寺道)の宿場町になった。
海野宿より上田宿までの距離は二里(約8q)である。
海野宿を出た善光寺道(北国街道)は、江戸時代、海野新田を通り、
千曲川の川幅が広くなるところで、左からくる道と合流し、大屋集落に入り、
喫茶店を過ぎたところで、左の狭い道に入り、
はらだ内科クリニック前を通り、瀬沢川を渡る。
道は国道18号に接近するが、三叉路で左に入ると道は右にカーブしていく。
この地区は岩下集落で、右側に伊波保神社がある。
千曲川に沿った道を西北に進む。
右側からくる道と合流して神川を渡る。
川を渡ると神川小学校がある三叉路にでる。
三叉路を右に行くと、国道18号に出て、600mも行くと信濃国分寺僧寺跡である。
善光寺道(北国街道)は、左の道をいくが
、右側にJA信州うえだ上田東支所神川店がある。
国分そして下堀集落を
千曲川に沿って進む。
北陸新幹線を越えると、左に千曲川市民緑地があるので、それに沿って歩き、
歩道橋の先は右の大きな道を進み、北陸新幹線、しなの鉄道線を越えて、
上堀交叉点にでる。
この先から、上田宿である。
「 江戸幕府が誕生し、北国脇往還が設置されると、上田は宿場町になる。
上田宿は、北国街道、正式には北国脇往還の宿場であると共に、
上田藩の城下町であった。
上田宿は、常田町、横町、海野町、原町、木町、柳町、とんや丁、鎌原、西脇、西新田、
すかべで、構成されていた。 」
交叉点を越えて、北西に進み、信号交叉点で県道141号を横断する。
踏入二丁目で、小さな川を渡り、道なりに進み、ファミリーマートのあるT字路を右折し、
次の変則交叉点は左折して進む。
この通りは常田通りで、県道79号に突き当たると、当面に科野大宮社がある。
「 科野大宮社は、
信濃国総社と推定され、中世には常田荘の中心に位置し、「大宮諏訪大明神」と称した、と
伝えられる。
真田氏の上田城築城以来、真田城の鎮守と定められ、藩費で修繕された、という。 」
大宮社の左の道をすすむと、交叉点の右側に毘沙門堂がある。
そのまま歩くと、県道79号に突き当たる、
三叉路で右折するが、この通りが、横町である。
「 横町は、海野町の発展に伴って、北側の鍛冶町と共にできた町で、
日輪寺、宗吽寺など、寺院が多い。
城下町防衛のため、寺を集めた、といわれる。 」
右手の日輪寺は、天文十四年(1545)、 真田家の祖先である海野小太郎幸義によって建てられた曹洞宗の寺である。
宗吽寺(そううんじ)は、真言宗智山派の寺院で、もとは上田城の堀の近くにあったが、
上田城築城の時際、ここに移された。
その後、
上田藩主の祈願寺となり、藩主の参勤交代の江戸への發の日をこの寺が占った、といわれる。
出本堂前の六地蔵石幢は、切妻屋根の家形で、六角形の石灯籠型が普通なので、珍しい。
「 正面と左右両面に、二体の地蔵像を浮彫し、
中央の前後に長方形の口を開けている。
裏面に、正平四年(1349)の印刻があることから、南北朝期のものと思われる
が、南朝の年号なので、南朝方を支持していたということになる。 」
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宗吽寺を出て、道を行くと、横町交差点に出るので、 ここで左折すると、海野町バス停があった。
「 海野町は、真田昌幸が上田城を築城した際、
先祖の地の海野郷・海野宿から住民を招き、町並みを作らせたのが起源と伝えられる。
江戸時代になると、北国街道の上田宿の中心になり、旅籠や商人、職人などが増加し、
隣の横町や鍛冶町ができた。 」
通り(県道142号)の右側の高市神社は、恵比寿、大黒を祭神として、
商売の神として祀られているが、場所が転々として代わり、
最近ここに祀られたようである。
神社の前に出店が出て、野菜と果物を売っていた。
説明板
「 商家高名録の 「海野町市神」 には、
諸国煙草問屋・上野屋喜左衛門の店の様子が描かれていて、
店の隣に、市神が祀られている。
江戸時代、海野町は原町とともに市場に指定され、一と六の日、
後で原町との市日調整が行われ、最終的には三と五の日に変更になった。 」
左側の衣料店オオムラの前に、 「 北国街道上田宿本陣問屋 」 と書かれた石柱が 建っていた。
説明板
「 上田宿の本陣は柳沢家が務めて、問屋も兼ねており、屋敷は広大だった。
客殿の門の東側に、高札場も設けられていた。 」
そのまま進むと中央二丁目交差点に出る。
善光寺道(北国街道)は、この交差点を右折する。
「
上田は、宿場であると共に、城下町であった。
城下町では、町人町と侍町とは区分されていて、
海野町から南側の侍町に入る道は海野町口のみだった。
道の両側から互いに土塀を突き出して、見通しを悪くし、次に木戸を建て、
その奥に番所を設けていた、という。
原町交叉点 原町交差点をこえた右側に池波正太郎の真田太平記館がある。
数年前、善光寺のご開帳に合わせて、善光寺、真田氏が転封になった松代、別所温泉を
訪れた時、真田太平記館を見学した。
同行した妻が別のページで、ペーソスも交えて。その旅のことを書いています。
ぜひ、 「信濃路から甲斐の国へ」 をご覧ください。
中央3丁目交叉点で左折すると木町バス停があるが、
善光寺道(北国街道)は、交叉点を左折したら、すぐ先を左折し、狭い道にはいる。
ここが柳町で、狭い道ながら両脇に古い町並みが残っている。
保命水の井戸で左に行き、「北向観音道」の道標の前を過ぎると、
元禄五年(1692)建立の 「右ぜんこうじ道」 の道標が建っている。
善光寺道の道標を右に曲がる。
交叉点で左折して住宅街を通る。 この辺りが新町で、交叉点を越えて進むと鎌原、
その先の右側に新町郵便局がある。
現在地名、常磐城2を進むと、その先は宿場の防衛となる桝形になっている。
道は右に曲がり、かって城を守っていた矢出沢川を渡り、
丁字路を左折して、次の丁字路を右折する。
そして、高橋を渡ると、生塚交叉点に出て。国道18号に合流する。
上田宿はここで終わりである。
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旅をした日 平成19年(2007)11月
中央2丁目交叉点を西に進むと、上田城跡で、上田市役所、上田高校、上田西中がある。
その先に、大手1.2丁目交叉点があり、その対面が上田城跡である。
城跡に入ると、右手に市立博物館があり、その先の右手は水堀、
正面に南櫓と北櫓がある。
これは昭和に入り民間に売却されたが、寄付されて、当時の姿に復元された、とあった。
「
天正十一年(1583)、真田昌幸が、上田の千曲川の段丘の要害の地に上田城を築き、
小県郡の戸石城から移ってきた。
天正十三年(1585)八月、徳川家康が大軍で真田討伐を謀ったが、
城の地理的条件と真田昌幸の采配により、撃退した。
慶長五年(1600)の関ケ原の戦いでは、真田昌幸と息子真田信繁(幸村)の采配で、
徳川秀忠の西行の大軍をこの城で長時間引き留めた結果、
秀忠が関ケ原で戦うことができないという、事態を招いたことは歴史に残る通りである。
関ヶ原の戦い後、上田城は徹底的に破壊された。
江戸幕府誕生後、家康の女婿となっていた真田昌幸の長男・信之が、
上田藩の藩主となったが、元和八年(1622)に信濃松代に転封となった。
隣の小諸藩から移封された仙石忠政が、
寛永三年〜五年(1626〜1628)に、残された城石を使って、上田城を築いたが、
天守閣は財政上もあり、造られなかった、という。
仙石氏は、三代八十五年間、上田藩主を務めた。
宝永三年(1706)、松平忠周が、但馬出石藩から上田藩に所替になり、
松平氏が明治維新の版籍奉還までの七代、百六十四年間、藩主を務めた。 」
南北櫓の入口の城壁に、「真田石」 という案内がある、大きな石は、
真田昌幸が築城の際、近くの山から切り出してきたものである。
真田信之が松代に移る時、昌幸の遺産として、松代に運ぼうとしたが、
びくとせず運ぶのを断念した、と伝えられる。
明治維新後、城の大部分が売却されたが、本丸と二の丸は篤志家により、真田神社が建立され、また、買い戻され、現在の姿で残っている。
真田神社の裏側にある西櫓は、築城当時のまま残る唯一のものである。
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旅をした日 平成19年(2007)11月
司馬遼太郎は昭和五十一年の夏頃、「信州佐久平みち」 を週刊朝日に連載している。
その中で、上田と真田氏についてはかなりのページを割いて書いている。
「 滋野氏という氏族が、平安中期から上田平で勃興し、荘園の管理人として勢力を増やし、平安末期には最盛期を迎えた。
しかし、源平の時代になるころには衰弱し、
本海野に本拠を持つ海野氏にとってかわられていたが、
この地方の箔を付けるために、(海野氏は)滋野氏の主族と称し、その系図をひき継いだ。
六文銭の家紋は、海野氏のころから使われていたらしい。
真田氏は上田盆地の東北の山中の真田村から興った。
盆地で繁栄した海野氏の主族であることは間違いない。
従って、真田氏も、また滋野系図をかかげて、自家の千曲川流域における筋目を誇った。
ということのなると、千曲川流域では、滋野氏というのは、よほどの名族だったと想像される。
(中略)
江戸中期に、新井白石が諸大名の成立事情を主題とした『藩翰譜』を書いた。
その中で、滋野系図は、「 清和天皇の御子・貞秀親王と申しまして、
信濃国海野白取の庄に下り住ませ給ひ、薨じ給ふ。
後に、白取明神と崇め、また滋野天皇と申し奉る。 」 と 記述している。
司馬遼太郎は、 「 滋野天皇という者が、平安初期、 千曲川ぞいの田園に住んでいたという伝説を作ったのは、滋野氏のおもしろさといっていい。 」 と書き、 その後、平安時代以降に勃興した武士達が政治的に安定させるため、 系図をつくったことが記されている。
「 真田昌幸は、武田信玄に属することによって、信玄の卓越した陣法と、
それ以上にすぐれた民政の方法を身につけた。
信玄の死や信長の非業の死により、武田の旧領の信州は、
徳川家康と小田原の北条氏の草刈り場となった。
その中で、真田昌幸は千曲川流域に独立圏をつくろうとした。
六文銭とか六連銭とか言われるかれの旗印が有効になったのは、この時かと思われる。
この旗はかって海野氏が用い、真田氏が継承した。
千曲川沿いの豪族、郷士、農民は、たいてい、
自分たちが海野氏の後裔であると信じているために、
この旗のもとに集まる習慣をもっていた。
六文銭こそ、千曲川統合のシンボル・マークだったようである。
昌幸は、千曲川流域をおさえる城が必要になった。
かれは、この川の尼ヶ淵というほとりに斬新な設計による城郭をおこし、
松尾城 (上田城) と名づけ、当時流行の城下町をつくった。
いまの上田市は、このときから始まる。 」
司馬遼太郎は、「 信州佐久平みち 二 上田の六文銭 」 で、
上田平を中心とした滋野氏から真田氏に至る経緯と徳川政権後の上田藩に触れているが、
本人は夜上田市内を通過したのみで、立ち寄った形跡はない。
そういう意味では、遼太郎にとって、歴史的には関心はあったが、
この地に興味はなかったということになる。
塩田平は上田市の中心である市役所や上田城から見ると、西南西にある地区で、 上田電鉄別所線が通っている。
「
塩田平を含む上田地方は、信濃の中では暖かく少雨であったので、肥沃な地として知られ、
奈良時代(8世紀)には、信濃国の国分寺や国分尼寺が建立され、
初期の信濃国府も上田にあったと推定されている。
鎌倉時代に入ると、鎌倉幕府の重臣・北条重時(塩田北条氏)が、
信濃守護として塩田城を設け、塩田平を中心に、三代六十年間にわたって治めた。
戦国時代に入ると、埴科坂城の葛尾城を本拠とする村上氏が、塩田平を支配したが、
武田氏の信濃進攻により、武田氏の手に渡った。
鎌倉時代には、北条氏の居城が塩田にあったので、別荘のように温泉が使用されたといわれ、そのことが別所の地名の由来という説があるようである。 」
別所温泉は、日本武尊が発見したいわれるほど古い温泉で、
日本武尊は、「七苦離の湯」 と名付け、部下と一緒に入浴したと伝えられている。
北向観音堂は、比叡山延暦寺の中興の祖である円仁慈覚大師が建立したもので、
お堂が北を向いて建つことから、その名がある。
別所温泉には、「真田幸村公隠しの湯」といわれる石湯や大師湯などの別所温泉財産区が、
管理する共同湯がある。
大師湯は、慈覚大師が、北向観世音堂を建立するため訪れた際、
しばしば入浴したと伝えられる湯で、
昔は、北向山にお参りに来て、籠った人が夜中でも入りにきたので、
籠の湯とも言われていたそうである。
この塩田平には、
信州の学海として信州一円に鳴り渡った、高僧・樵谷惟仙が創建した安楽寺がある。
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旅をした日 平成19年(2007)11月
司馬遼太郎は、この編で一遍上人とこの地との関連を語っている。
「 一遍が京から信濃にくだったのは弘安二年(1279)で、元寇の再来の二年前である。
八月、善光寺に参籠し、その後、しばらく信濃路を歩いてひとびとに念仏をすすめた。
一遍の本質は、むろん念仏にある。
その念仏は、その師といえばいえる法然より思想的に徹底し、
また念仏を申すひととしての言動は芸術性をもっていたという点で、法然よりも豊潤で、
さらに念仏を勧めあるく聖としての生涯も、その思想に苛烈なほどに、忠実だったという点で、諸事おだやかな日常を好む法然の及びがたいところだった。 」
「
聖とは、僧として無位無官の乞食僧のことということ 」 を遼太郎のこの章で知った。
私の家の菩提寺は時宗で、本山は藤沢の遊行寺であるが、
そういえば、一遍上人が開いた寺ではなく、弟子達の開山である。
一遍は自ら捨聖といい、南無阿弥陀仏以外は生涯捨てに捨てて、
死に臨んで自分の法義を書いたものさえ焼きすてた。
「 一切を捨てずば定めて臨終に諸事を著して往生をし損ずべきなり。 」 (一遍上人語録)
遼太郎は、「 一遍が佐久平に入ったのは、
すでに捨聖としての境地を確立した四十一歳のときであった。
五十一歳で生をおえたかれとしては、晩年といっていい。
かれは夏から秋にかけて主に善光寺平にあった。
冬に入って佐久に入ったような気配がする。 」
と書き、一遍を招いたのは大井太郎という佐久武士だろうと推論している。
鎌倉期に入ると、東は相模から西は山陽道から九州にかけて、野にも山にも念仏が満ちていたという。
念仏門は、法然にはじまって、親鸞がこれを承け、別派として一遍が存在するが、
実際には法然以前に古流ともいうべき念仏集団が多数存在したのである。
たとえば高野聖を中心とする高野念仏、紀州熊野の熊野聖たちの熊野念仏、
さらには信濃の善光寺を中心にあつまった善光寺聖という集団があり、善光寺念仏といわれていた。
念仏の本尊は阿弥陀如来である。
これらの念仏集団は教団化されていないよさがあり、一遍が佐久平にきて、
「 佐久平で、別時念仏をしたい 」 ということになれば、
かれらはその後の法然や蓮如の教団のように相互に排除しあう体質はなく、
他から来たすぐれた聖に歓喜して従ったと、遼太郎は想像している。
また、一遍はここより南、伴野郷に近い小田切で踊り念仏を行った。
平安中期に市聖と呼ばれた空也が行った空也念仏といわれるのが踊り念仏の始めで、一遍は小田切で再興した。
「 このとき、河原でもやっただろうが、大井太郎に請われて、その屋敷においてもやった。
数百人をどりまはりけるほどにという騒ぎになり、
とうとう大井太郎の屋敷の床が落ちてしまった。 」
と遼太郎は書いている。
「 一遍の徒は時宗とか時衆とかと呼ばれたが、一遍の考えもあって、組織化されることがなかった。
室町期になって親鸞をかつぐ蓮如が出るにおよび、時衆の徒は、要するに同じ念仏ではないか、ということで、
本願寺という強烈な大組織の中に組み入れてしまい、すくなくとも本願寺史では時衆の痕跡を消した。 」
と記している。