北国街道は北国脇往還ともいい、
中山道の追分(軽井沢町)と北陸道の高田(新潟県上越市)を結ぶ、
三十五里(140km)の道のりである。
佐渡の金山から江戸の金座に金を運ぶ馬が通る幕府にとって重要な道であり、
また、加賀の前田藩をはじめ北陸の諸大名が参勤交代で通る道でもあった。
途中に、善光寺があるため、寺への参拝客が多くあり、
ここまでの道を善光寺街道とか善光寺道と呼ばれていた。
善光寺道は、追分宿から浅間ヶ原を通り、小諸宿、上田宿を経て、
屋代(当時は矢代)から川舟に乗って千曲川を渡り、篠ノ井宿に向い、善光寺を詣でる、
という道であった。
善光寺道(北国街道)は、上田宿を出て、生塚交叉点から国道18号を歩き、
すぐの常磐城4丁目交叉点の手前の右側に旧道があり、入口に真言宗智山派の正福寺がある。
正福寺の塀の上に「北国街道」と書いた横に広い板がある。
旧道に入ると、右側に覆屋に保護された「秋和の杉並木古株」が祀られている。
「 真田昌幸が、上田城築城の際、秋和村の北国街道沿いに杉を植えた、と伝えられる。 」
その先の右側に曹洞宗の長昌寺がある。
「 飛騨高山で城を築いていた、飛騨守の小林長昌は、武田氏に敗れ、妻の里である村上義清を頼り、 この地にきて、出家し、小林堂を建立したのが当寺の始まりである。 」
秋和集落を進むと、NAGANO21S電器店の先の交叉点で右斜めの道に
入る。
分岐点の中央に、小さな道標があり、「右ねずみ 信仰の道」 とあるが、ねずみは阪城町鼠集落
を指している。
この道は北西方向へ左右にカーブしながら続いていて、
国道18号バイパスに出る手前に、かっては北国街道の一里塚があった。
国道の高架下をくぐると、「北国街道」、「信仰の道」、「大名行列の道」、「金の道」と記された
道標がある。
突き当たりを右折すると小川の袂に、「北国階」「蚕種の里」の道標がある。
橋を渡って直進し、北陸新幹線を越えると、道は左に大きくカーブする。 このあたりは上塩尻である。
上塩尻集落には気抜き屋根の家が残っている。 かって、養蚕をしていた家である。
小さな川を渡り、川に沿って進み、三叉路で右折し、西に向う。
まっすぐ行くと、塩尻地区公民館や塩尻郵便局である。
道は左にカーブし国道に合流する。
国道を横断して進むと、しなの鉄道西上田駅がある。
善光寺道(北国街道)は、国道を少し歩き、右に入る道を行く。
左に嵐の湯上田店がある。
このあたりは下塩尻で、左に国道と鉄道が平行になるように進み、国道に合流してしまう。
国道の右側に「和合城跡(村上氏連珠砦)」の石碑がある。
右手に巨大な「下塩尻岩鼻」が迫ってくる。
この岩は、太古には対岸の岩と連結していたが、千曲川の寝食によって削られたものである。
自然の神秘と考んがえられないスヶールの時の流れである。
新地交叉点を越えると左にGSがあり、右側のこうだ内科手前の三叉路を右に入るのが、
善光寺道(北国街道)である。
国道に沿って道が続き、谷川に架かる鞍掛橋を渡ると、
まちだ食堂で、国道に合流する。
国道を歩くと左側に「天領中之條陣屋跡」の石碑がある。
「 坂木村は、戦国時代には村上氏の拠点であったが、
武田信玄の信濃攻略により、この地を去り、武田領になっていた。
元和八年(1622)に天領になり、
天和二年(1682)に、坂倉重種が坂木藩が立藩したが、その子の重實の時代の
元禄十五年(1762)に、陸奥国へ転封になり、この地は天領になった。
明和四年(1767)に、坂木陣屋が焼失、安永七年(1778)に約2キロ南に、中之條陣屋として、
再建された。 」
国道の右手に300m入った所に国道と平行する道があり、 この通りにはセブンイレブン、坂城町図書館、長野市信用金庫などがあり、 この町の中心地だろうと思った。
四ッ屋交叉点で、国道と別れ、右側の狭い道に入り、北上する。
小さな川を渡ると、田町十王堂交叉点がある。
ここが坂木宿の南の入口で、
田町十王堂の裏手に、村上氏の党主・村上義清の墓所がある。
「 村上義清は、天文二十二年(1553)、武田信玄にここから南方にあった、
居城の葛尾城を奪われ、上杉謙信のもとに身を寄せました。
永禄四年(1561)の川中島合戦で、信玄の弟・武田信繁を討ち取っている。 」
そのまま北上すると、西宮神社で左折する道が横町である。
横町の中央部分の山根屋商店の反対側にある小路を北に進むと、鉄の展示館がある。
横町を進むと坂城駅前バス停があるT字路がある。
左折するとしなの鉄道坂城駅で、右折すると県道339号で、江戸時代の立町である。
右側に坂木宿ふるさと歴史館がある。
「 坂木宿は、慶長八年(1603)の北国街道開設時に、伝馬宿として成立。
当初は立町と横町しかなかったが、
越後高田藩時代に、代官・長谷川利次が宿場を北に拡張し、大門町と新町を新設した。
三ヶ所の井戸を掘り、街道の中央に長谷川用水を流して、並木を設けた。
本陣は1軒、問屋は2軒、名主は2軒、旅籠は幕末の嘉永七年(1854)には64軒もあった。
加賀藩主前田氏が参勤交代で通過する際は、500人の家臣団が宿泊したという。
参勤交代や善光寺詣りで通行が増加し、北国街道では、善光寺門前の権堂村に次ぐ規模の
遊郭が存在した。
」
本陣は宮原家が世襲していたが、坂木宿ふるさと歴史館の前にあるのが、
本陣の長屋門で、ここに移転し、保存されている。
その先に、名主であった坂田家があり、
道の向かいに人間国宝の刀匠・故宮入行平の宮入鍛刀道場がある。
日名沢川を渡ると坂木宿の北端は大門町で、出格子造りの商家が残っている。
県道339号はその先で左折するが、狭い道を進むと、
右側に満泉寺の参道があり、その奥に村上氏の居館跡とされる満泉寺がある。
また、細い道を更に進むと大宮公民館前バス停があり、
その先に坂城神社の一の鳥居がある。
奥に見える山が村上義清が築いた葛尾城があったところである。
善光寺道(北国街道)は、県道339号で、満泉寺の入口で左折し、西に向う。
ここから新町で、250mも歩くと、道は左に曲がる。
この角に、善光寺常夜燈が建っているが、ここが坂木宿の北の入口である。
江戸時代の善光寺道(北国街道)は、横吹坂を左に巻くように、
道があったが、千曲川の北岸の高台に道が通っており、交通の難所といわれていた。
横吹坂は国道の開通により、その難題は解決された、という。
坂木宿を出ると、県道339号を歩き、
しなの鉄道は葛尾トンネルに入るのを見ながら越えると、県道18号に合流する。
国道が千曲川すれすれに建っているのを見ながら歩いていると、刈屋原交叉点がある。
その手前の左側に、刈屋原ミニパークがあり、安永三年(1774)建立の芭蕉の句碑と享和元年(1801)
の二夜庵句碑があり、また、「笄の渡し跡」の石碑が建っている。
「 天文二十二年(1553)、武田信玄との戦いに負けた、村上義清の夫人が、 千曲川を渡って、支城の荒砥城に逃れた時、夫人は船頭に笄をお礼に差し出しことから、 笄の渡しという名が付いた、といわれる。 」
国道の右側に「国道舗装記念碑」 がある。
善光寺道(北国街道)は、この先に一部残っている。
刈屋原交叉点の先で、国道と別れ、右の狭い道に入り、しなの鉄道の岩崎踏切を渡ると、
三叉路(Y字路)があり、庚申塔と道祖神が祀られている。
ここから上戸倉宿に入って行くが、なだらかな上り坂である。
百五十メートル行くと、左手の空地前のゴミ集積所に「上戸倉宿本陣玉井家跡」の表示板がある。
空地の玉井家跡の先右側に、本陣であった、小出家の屋敷がある。
「
小出家は玉井家より、本陣を引き継いたものだが、建物が当時のものかは確認出来なかった。
上戸倉宿は下戸倉宿との相宿で、問屋業務を22日〜月末まで、担当した。 」
小出家の向かいには、芝宮神社があり、鳥居の先の蔵の中に、小さな社殿が祀られている。
神社の先を左折して進むと、左からくる道と合流するが、その道に慶応三年(1867)の二十三夜塔と
安永二年(1773)の道祖神が祀られている。
しなの鉄道の磯部踏切を渡ると、国道18号に出てしまう。
国道に合流してすぐ左手の千曲坂城消防署の前で、左にはいる。
左手に千曲市サッカー場と道祖神のあるところを過ぎたところの変則交叉点
(大正時代に建立された聖徳太子碑がある)で、右折し、すぐ右折する。 即ち、Uターンし、東に向う。
善光寺道は、その先で国道に突き当たり、この先なくなっている。
これらの旧街道は前述した横吹坂の残骸と思われ、難航した道の面影を残すもので、
国道の石碑は横吹坂を征服した勝利宣言だったのだろう。
国道を歩くと、右側に戸倉キリスト教会があり、戸倉上山田温泉入口交叉点では、
左に県道498号(聖高原千曲線)が通っている。
さらに進むと、戸倉交叉点の手前の左側に、
「埴科郡戸倉村道路元標」の石碑が建っている。
「 戸倉は、元和八年(1622)に上戸倉と下戸倉に分かれた。
下戸倉宿は、上戸倉宿と合宿で、一日から二十一日までは下戸倉宿が、
二十二日〜月末までは上戸倉宿が問屋役を勤めた。
下戸倉には、明治中期に戸倉温泉と上山田温泉が開湯し、
善光寺参拝者により、大いに賑わった。 」
戸倉交叉点を左折すると、右側に水上布奈山神社がある。
諏訪神社より勧請した神社で、本殿は寛政元年(1789)に、名棟梁・芝宮短重により、
再建されたものである。
水上布奈山神社にある石灯籠は、宿場の飯盛女が寄進したもので、
当時の宿場の繁栄を示すものとして、市の指定有形文化財になっている。
「 下戸倉宿は、坂木宿から一里半(約6km)の距離で、
宿場の長さは八丁(約1q)で、三百五十軒の人が生活していた。
道の中央に用水が流れていて、両側に建物が建っていた。
しかし、国道工事で、用水は埋められ、古い家は建て替えられたが、交通量は多い。 」
戸倉交叉点を過ぎた右手に、「柳沢本陣跡・明治天皇行在所」の石碑が建っている。
「 本陣は柳沢家と宮本家が勤めた。
柳沢家は、明治天皇の巡幸の際、行在所になったが、その後、衰退し、
「上の酒屋」と呼ばれた建物は残っていない。 」
宿場中央付近、戸倉駅入口交叉点の左手にある茅葺きの建物は、当時、「下の酒屋」と呼ばれた、坂井醸造店で、信濃国屈指の大地主として名を馳せた。
建物群は国の有形文化財に登録されている。
坂井家の前を右に入ると、しなの鉄道の戸倉駅がある。
先に進むと、右側の駐車場脇に、松の木があるが、ここが下戸倉宿本陣・宮本家跡である。
奥に、宮本姓の新しい建物が建っていた。
下戸倉宿本陣跡の斜向いの露地角に、赤いホース収納箱があり、道標が建っている。
道標には、「左おばすてやはた道」 とあり、月の名所の姥捨山へ行く案内である。
下戸倉宿は、このあたりで終わりである。
国道を進むと、今井交叉点を過ぎたところの右側で、善光寺道(北国街道)は、国道と別れる。
旧道は、この後、屋代交叉点まで残っている。
今井町バス停を過ぎると、しなの鉄道が右から接近してきて、線路の右には山が迫る。
しなの鉄道は、山裾を通っていて、旧道と線路に間には細い用水が流れている。
道は左にカーブし、左からの道と合流する。
左の川に沿って進むと、柏王公民館入口バス停がある交叉点に出る、
交叉点の左側の鉄塔の下に、
明治十四年(1881)に建てられた「信濃宮」の石碑がある。
信濃宮とは、醍醐天皇の皇子・宗良親王のことである。
交叉点を右に進に進み、踏切を渡ると、突き当たりに柏王神社と柏岩寺がある。
「
柏王は、信濃宮と呼ばれた宗良親王のことで、この神社は千三百年頃に建立されたようである。
隣の曹洞宗の柏岩寺本堂前には、徳本上人の「南無阿無駄仏名号碑」や、庚申塔などが立っていた。 」
街道に戻り進むと、右手は田圃で、道は左右にカーブする。
左側のブロックの上に、道祖神等の石碑が五つ位並んで祀られていた。
千曲駅バス停がある交叉点を右折すると、しなの鉄道千曲駅である。
交叉点を越えて進むと、道は右にカーブし、寂蒔上町集会所バス停がある。
右側に上町集会所があり、
その前に「青麻大神」碑と石祠が祀られていた。
集会所の隣に、寂蒔水除土堤(じゃくまきみずよけどて)がある。
「
この堤は、千曲川の氾濫から田畑や家屋を守るために、
元禄六年(1693)に、寂蒔・鋳物師屋・打沢・小島の四村で、築いたものである。
植栽の中に、道祖神や二十三夜塔などがあった。 」
右手に鉄道と用水があり、それに平行して進む。
寂蒔仲町バス停を過ぎと、道は右にカーブし、直線になった道を進むと、
左手に天皇子神社の鳥居がある。
「 祭神は第十一代垂仁天皇の第十四皇子、鳥取の王子と言われた、 伊豆志和気命で、境内はこの地で亡くなったとされる命の陵墓である。 」
さらに進むと、三叉路の右側に「永昌寺」の石標が建っている。
永昌寺はしなの鉄道を越えた突き当たりにある。
街道を進むと鋳物屋地区に入り、左側に埴生小学校がある。
鋳物屋地区はすぐに終り、打沢地区になる。
街道右手にある埴生公民館の前を右に入ると、筆塚がある。
小嶋はさなだ織の産地である。
道が拡張され、往時の面影は全く無くなっている。
屋代駅前交叉点で、国道392号と合流し、国道392号を北上する。
一キロ進むと、須須岐水神社に突き当たる。
このあたりが、矢代宿の中心である。
「 矢代宿は、慶長十六年(1612)、北国街道の宿場になった。
長さは十丁(約1100m)で、本町、横町、新町で構成され、
本陣は1軒、脇本陣が2軒、問屋が2軒、旅籠が39軒あった。
700軒の家があった。
この先、千曲川を舟渡しで渡るので、交通の要所であった。 」
須須岐水神社の手前が最も栄えた本町である。
このあたりには旅籠が軒を連ねていた。 藤屋旅館はその内の一軒である。
須須岐水神社は、比叡山延暦寺より、山王権現社を分霊されたとされ、
宿場設立の時、他よりここに移されたといわれる。
神社を避けるように、東側を枡形状に北上していた。
現在は国道403号線である。 善光寺道(北国街道)の旧道はここまでである。
この通りが江戸時代の横町である。
国道を歩き、酒乃生坂屋酒店で、左折し、北に進むと、国道は右に曲がっていくが、
善光寺道(北国街道)は、直進する狭い道に入る。
高見町交叉点から二百メートル程で、江戸時代の新町である。
右側の民家の前に「信濃矢代宿脇本陣跡」「柿崎平九郎家」の石柱が立っている。
ここが矢代宿脇本陣の柿崎家である。
少し先に「明治天皇御小休所」の石碑が庭にあるが、ここは矢代宿本陣跡で、
脇本陣と同姓の柿崎家は、本陣と問屋場を兼任していた。
本陣と脇本陣との間に、街道と交叉している細い道があるが、
これは北国街道の脇往還である松代道である。
「 北国街道が出来た頃はこの道が本道であった。
当時、善光寺に向う道は通行禁止になっていたが、通行が許されると、その道が繁栄し、
事実上の本道になった。
松代道は矢代から松代を経由し、丹波島宿、牟礼宿へ通じる街道で、ここは松代道の追分である。 」
その先の右手に屋代寺がある。 そのまま進むと、国道18号に合流する。
国道を百五十メートル歩き、左の道に入る。
高速道のインターの側道に沿った道で、北上して行くと、長野自動車道の下をくぐり、
千曲川堤防道(千曲市道3100号線)に出たところで終わっている。
対岸のから根古神社へ、渡しが出ていたようであるが、迂回のため、
しなの鉄道の東にある篠ノ井橋を渡り、対岸に向うしか方法はない。
矢代宿から善光寺までは四里十二丁(17q強)の距離である。
篠ノ井橋を渡り、篠ノ井橋北交叉店で左折して、長野新幹線と篠ノ井線を越え、阿良根古神社へ行く。
千曲川で分断された善光寺道(北国街道)は、ここから北に続いている。
阿良根古神社の脇の道を北上すると、県道77号バイパスを越えた左手に、
旧更級郡の「郡役所跡・警察署跡」の石碑がある。
煙出しの小屋根がある家や土蔵のある旧家がある道を進むと、T字路に突き当たり、
左手前角に「篠ノ井追分」の石碑がある。
また、「北国街道篠ノ井追分宿跡」と書かれた新しい石碑もある。
新しい石碑の裏面
「 北国街道と北国西街道の重要な分岐点である。
千曲川の渡船場を控えて繁栄した宿場であった。 」
ここは、間の宿・篠ノ井宿で、 屋代の渡しで、千曲川を舟で渡り、一里行くと篠ノ井追分であった。
「 篠ノ井追分は、善光寺西街道(北国西街道)の追分である。
この道は松本道とも呼ばれ、松本経由で中山道の洗馬宿に出る道である。
江戸時代の宿場は、伝馬のための人馬提供が義務づけされ、
江戸幕府や藩が公認した土地でしか認めなれなかった。
篠ノ井は間の宿で、大名などが昼間に休憩したり、食事するだけの施設しか認められないのに、
宿泊営業をやめなかったので、度々、宿泊営業の禁止令が出されたが、やめなかった、という。 」
追分碑を右折すると、篠ノ井の町並みがある。
左側の小路に入ると、欣浄寺があり、徳本上人の「南無阿弥陀仏」の石碑が建っている。
JRのガードをくぐり、篠ノ井塩崎を過ぎると、県道77号に出る。
左折して県道77号に入り、岡田川に架かる見六橋を渡るが、
橋の手前に、嘉永二年(1849)建立の道標と嘉永三年(1850)建立の筆塚がある。
「 この道標には、「せんく王し(善光寺)道」と刻まれていて、 上部に右手の人差し指の画が刻まれている。 」
見六(みろく)橋交叉点の
三叉路で左に入る。
この道が善光寺道(北国街道)である。
400m行くと、左側に香福寺があり、その先に火の見櫓がある。
「 香福寺は、慶長十年(1605)に開山した浄土宗の寺で、
香福寺の入口に、天保三年(1832)建立の筆塚がある。
街道側の塀の裾に「松代藩御幣川村高札場跡」の石碑がある。
表の街道側には、「栄村役場跡」の石碑がある。 」
このあたりは旧家が多く残っている。
左側に曹洞宗の寶昌寺があり、ここにも筆塚がある。
御幣川(みことがわ)五差路に出ると、直進する道を行くと、 100m先の左側に幣川神社がある。
神社と地名の由来
「 慶長年間に、田用水の清壁を開削中、
甲越戦争の武将の兜標に用いたと思われる黄金の御幣を掘りだした。
八幡宮の三文字が刻まれていたので、産土神として八幡宮を祀り、村名を御幣川とした。
当時は民家が20数戸、村名も産土神もなかったという。 」
善光寺道(北国街道)は、御幣川五差路で、右側の道を行くので、神社から戻り、その道を進む。
左に西友があり、道は北東へ進み、左手にある篠ノ井駅から来る道に出る。
正面に小路があり、斜めに進む道があるが、それに入らず右折すると、横町バス停がある。
その先を左折して進むと、先程の道が合流してくる。
ここから川中島町までは北北東へ直線に道が続く。
交叉点を越えた右側に芝沢バス停があり、その前に小さな祠がある。
その先の右側の民家の奥に、文政五年(1822)の「諸国神社仏閣供養塔」がある。
芝沢交差点を越えると、高田交叉点に出る。
このあたりは、江戸時代、布施高田といわれていたところ。
交叉点の右手に海鼠壁の土蔵造りの篠ノ井高田簡易郵便局があり、
その先の右側に「高田公会堂」の標札がある、お堂がある。
「 お堂の中には、室町時代の制作とされる石造地蔵菩薩坐像と石造薬師如来坐像が祀られている。 」
高田交叉点を北に進む。 篠ノ井高田バス停がある。
道は右にゆるやかにカーブし、川中島町原に入る。
南原上町バス停の手前の左側の塀隅に、「原村役場跡」の標柱が建っている。
その先に火の見櫓があり、その先の右側の旧家の手前を奥に入ると、
塀の脇に「明治天皇御小休所」の石碑が二基建っている。
ここは茶屋本陣跡である。
街道に戻ると、左側に入ったところに浄土宗の連香寺がある。
「 貞治六年(1367)に、川中島原の西畑沖に創建され、
慶長元年(1596)に、現在地に移転再建された。
入口には立派な二層の楼門兼鐘楼が建っている。 」
少し行くと、左側の連子格子の家前に「明治天皇御膳水」の石柱が建っている。
南原バス停を過ぎ、300m行くと昭和小学校前交叉点があり、右手前に昭和小学校がある。
その先、右側のアパート前に「長野区裁判所中津出張所跡」の説明板がある。
「 明治二十三年(1890)八月、更級郡唯一の長野区裁判所中津出張所として、
開所された。
その後、機構改革によって、改称移り変わって行き、長野地方法務局川中島出張所として、
昭和四十一年(1966)に他地に移転された。 」
すぐ先の消防団詰所の半鐘櫓の下に「中津村〜昭和村役場跡」の石碑が建っている。
北原西交叉点を越えた左側に、茅葺をトタン板で覆った旧家がある。
その向かいに「今井村役場跡」の標柱がある。
「 今井村は、明治九年(1876)、原村の飛び地の北原12戸を編入。
明治二十二年(1889)、今井村は原村と合併し、中津村になった。 」
このあたりは、左右に門構えのある家や土蔵のある家、煙出しのある家が残っている。
街道を進むと、長野市川中島支所の植え込みに、「川中島町役場跡」の標柱が建っている。
このあたりは旧今井村、その後の川中島町の中心地であったのだろう。
川中島支所前交叉点を越えると、小川の手前の路地角に、
道標を兼ねた「御大典記念碑」が建っている。
小川に架かる三俣橋を渡ると、オートバイ店の横に、
昭和十二年(1937)建立の馬頭観世音碑が建っている。
国道19号(長野南バイパス)が通る荒屋交叉点があり、高架下をくぐって進む。
横断歩道の左にある消火栓の奥に、文化四年(1807)の道祖神が祀られている。
橋場交叉点を過ぎると道は右にカーブし、左側に親鸞聖人御旧跡碑がある。
その脇を入って行くと、真宗大谷派の唯念寺がある。
街道に戻り、進んで行くと、川中駅入口交叉点がある。
県道380号を左に進むと、しなの鉄道の川中島駅がある。
県道380号を越えると、新田バス停がある。
左手に新田共同井戸がある。
「 この井戸は、明治十年(1877)に、新田地区二十三戸の為に掘られた井戸で、 昭和三十年(1955)まで使用されていた。 」
道は北東へ続いていて、三本櫛団地入口交叉点を横断する。 このあたりの右側は久津町である。
川を二つ渡ると丹波島交叉点がある。
交叉点の手前観音堂がある。
「 元禄時代に創建されたもので、観音菩薩が本尊であるが、
地蔵菩薩が祀られている。
享保七年(1722)、江戸から運ばれてきた地蔵菩薩が、ここで根が生えた様に
動けなくなったので、地蔵菩薩の御導きだろうと、ここに安住させることに決めた。
お堂は、寛延元年(1748)に建立されたものである。 」
境内には、徳本上人の名号碑と、丹波島宿問屋・柳島市郎左衛門寛休の経塚がある。
交叉点を越えると、道は突き当たり、右に屈折している。 これは枡形である。
左手に於佐加神社がある。ここが丹波島宿の西の入口である。
「 丹波島宿(たんばじましゅく)は、江戸から五十六里二十八丁、
善光寺へ一里十二丁にある宿場である。
於佐加神社は、丹波島宿の鎮守で、宿場開設後の寛文二年(1662)、
諏訪川原より移設された。
境内には、秋葉社、弥栄社など、九社が祀られている。 」
枡形の突き当たりの家の屋根に、鍾き像が祀られている。
街道から入ってくる邪鬼を追い払うためのものである。
善光寺道(北国街道)は、神社の前で東方向へ曲がる枡形の路地を形成している。
真直ぐの道を進むと、左側に宿場の中程に高札場がある。
「 丹波島宿は、江戸幕府と松代藩の二重支配下にあり、
松代藩の主要な高札場であった。
明治五年に撤去されたが、平成二十三年に復元された。 」
高札場の隣の冠木門の屋敷は、丹波島宿問屋であった柳島家である。
門前には、明治天皇北陸巡幸の御膳水記念碑が建っている。
「 柳島家が宿場開設時から幕末に至るまで継続して、問屋を勤めた。
建物は江戸時代中期に建てられたもので、脇本陣を兼ねた造りになっていた。
冠木門は松代藩廃止後譲り受け、移築したものである。 」
50m先に「明治天皇御小休所」の石碑が建っている。
ここは丹波島宿本陣跡である。
「 問屋場と同じ、柳島家が務めていた。
柳島氏は武田氏の家臣として松代に入封し、物見役を務めていた。
三代目・太郎左衛門政雄の代に、松代城主・松平忠雄の補佐役・大久保長安に命じられ、
北国街道丹波島宿の開設と本陣、問屋場を委任されました。
丹波島宿の北側に流れる犀川は、毎年、千本の鮭と鱒が獲れた。
丹波島宿本陣から加賀前田家に、毎年、初鮭が送られたという。 」
本陣を挟んだ向かい側の道が、松代道で、ここが追分であった。
「
矢代宿で別れた松代道はここで善光寺道に合流していた。
松代道は松代で、川田、牟礼宿へ向かう道と、丹波島へ通じる道に分かれていた。 」
善光寺道(北国街道)は、本陣から300m先で、左折し、北方向へ曲がっていた。
ここが丹波島宿の北側の入口になっていたのだが、
今は、曲がった先で、環状道路が穏やかにカーブしている。
この枡形は、犀川沿いの堤防に設置された枡形で、ここを過ぎると丹波島の渡し場であった。
現在は、「丹波島の渡し跡」の大きな石碑が、堤防道の手前に建っている。
碑には小林一茶と十辺舎一九の句が刻まれている。
丹波島宿を出ると、さい川を舟渡しで越える。
「 出水の度に、渡し場が変わっていた。
水瀬が速く、けわしい川という記述があり、舟賃が平水で五十六文であった。 」
渡しはないので、土手道を進み、犀川に架かる丹波島橋を渡る。
丹波島橋を渡ると、右側に「丹波島橋竣功記念碑」がある。
渡ったところの左側に、文政六年(1823)建立の常夜燈、右に文政三年(1820)建立の常夜燈がある。
右手の土手沿いを下っていくと、公園の一角に水神宮がある。
「 公園の手前あたりが丹波島の渡し跡と思われ、水神宮の祠の中には水神と双体道祖神が祀られていた。 」
水神宮から国道117号方面に進み、国道の手前の旧道に入る。
この道が善光寺道(北国街道)で、JR長野駅の西側まで伸びていた。
今は、JRの線路の手前で、街道は途切れている。
旧道を国道372号を越えて行くと、
右手に赤い祠があり、馬頭観音が安置されている。
その先のホクト文化ホール南交叉点を右折し進むと、
信州大学工学部手前の小さな墓地に、姫塚がある。
「 源氏の武将・熊谷直實入道連生法師が、文治四年(1188)に 愛娘玉鶴姫の亡き骸を葬ったところである。 」
街道に戻り、ホクト文化ホール南交叉点を越えると左手に吹上地蔵堂がある。
「 文政元年(1818)に、再建されたもので、祀られているのは延命地蔵である。
境内には、天明二年(1782)の常夜燈、西国坂東秩父四国當国供養塔などが建っている。
その先の左手に浄土宗の蓮心寺がある。
「 建久六年(1195)、浄土宗の開祖・法然上人が善光寺に参詣した時、
蓮心という僧の願いにより、この寺を建て、蓮心寺と名付けた。
境内には明治十四年(1881)の常夜燈、南無阿無駄仏碑などがある。 」
蓮心寺の隣に木留神社がある。
「 善光寺再建の為の材木を犀川丹波島の渡しで陸揚げし、 場内に留め置いたことから、神社の名が付いたと伝わる。 」
ホクト文化ホール西交叉点付近が中の御所で、交叉点を越えると、左側に観音寺がある。
「 源頼朝が善光寺参拝の折、漆田出羽ノ守元春に託した、御守り仏・馬頭観音( 六分五厘)と政子の御持仏・厄除観音(一寸一分)と、聖徳太子作の火除地蔵菩薩(五寸)が 御本尊である。 」
長野駅前の幅広い道に出るので、道を横断し、跨線橋で、北陸新幹線、信越本線を越え、
善光寺側に出る。
長野駅前の末広交叉点から中央通りを北上する。<br>
中央通りが善光寺道(北国街道)であった。。
に入ると、右側に西光寺がある。
「 正治元年(1199)、善光寺如来に導かれて、 高野山から信濃に下った刈萱道心がこの地に草庵を建立したのが始まりとされ、 開祖・刈萱道心とその子の信照坊道念上人を刻んだ親子地蔵尊が御本尊である。
門前町の大門町は、善光寺の宿坊街で、江戸時代には旅籠・木賃宿が軒を連ねていた。
大門町の中程にあるモダンな建物は、善光寺宿本陣・藤屋で、
安永五年(1776)から本陣を務め、
現在の建物は大正十四年(1925)の建築で、現在はレストラン・結婚式場になっている。
大門町を進むと、仁王門がある。
「 宝暦二年(1752)の建立された門は、地震などにより、二度焼失し、 現在の門は大正七年(1918)に建てられたものである。 」
門をくぐると、仲店通りで、山門をくぐると、善光寺の本堂がある。
「 善光寺は、三尊阿弥陀如来が百済経由で天竺から伝えられたのが始まりと、される。
本堂は宝永四年(1707)の建造で、国宝に指定されている。
山門は、寶延三年(1750)の建造で、国の重要文化財に指定されている。 」
善光寺から先の北国街道は、仁王門をくぐったところで別れ、伊勢町を抜けて、 善光寺の東側を通り、新町宿へ向かって行った。