『 伊勢街道を歩く (9) 斎宮から小俣宿 』


伊勢街道の斎宮から小俣宿までは、伊勢街道の中では坂道が多いところだった。 
駕籠や三宝荒神を付けた馬に揺られて行き、宮川岸で馬を返し、そこの茶屋で休憩したことから、 へんば茶屋といわれた。 
へんば餅はそうした茶屋で供されたお菓子だが、安永四年(1775)から続く老舗へんばやで売っていた。 
宮川を渡るといよいよ伊勢神宮であるが、小俣宿はその川渡し場にあった宿場である。  




斎宮から小俣宿

県道428号の勝見交差点の左手前に石積があり、石積の上に山の神三基が祀られていた。
伊勢街道ではこれまでも多くの山の神を見てきた。 
勝見交差点を過ぎると、小さな笹笛川に架かる新笹笛橋橋を渡るが、手前の用水路の方が大きく思えた。 
ここからは道の両側に家が建っているところは上野集落である。 

道は左にカーブしていくが、カーブする手前の右側に小道があり、 「斎王参向古道」 と書かれた矢印道標がある。
中に入っていくと、わずかの区間だが古道らしい雰囲気の道が残っていた。

「   斎王が、斎宮より伊勢神宮に赴くための官道が斎王参向道で、この地を横断して作られた。 
この道は年三回の斎王参向時だけでなく、朝廷の儀式や政情によって、随時、 神宮に祈願や報告に派遣された勅使や奉幣使らさまざまな使者が往還した、といわれる。 」

街道に戻ると、道は右にカーブ、その先も少しくにゃ々しながら上って行く。
両側の家は、平入りと妻入りが混在しているが、これまで平入りが多かったのに対し、 妻入りが増えたという感じである。 

左側に、「安養寺」 の石柱があり、右手の木柱には「明星水(井戸)」 と書かれている。

「  安養寺は、永仁五年(1297)の創建と伝えられ、天正十六年(1588)に当地に移転した寺である。 
山門の左側には、庚申堂があり、石仏などが二基祀られている。
その左手には、五輪塔と元禄十五年(1702)の地蔵尊などが建っていた。 」

境内の奥にある明星井は、日本三霊水の一つと呼ばれたようである。

明星水の木柱にある説明文
「 清水の湧き出る井戸水で、江戸時代、寺では明星水を汲みあげ、 参宮道者にお茶の接待をした。 
江戸時代、参宮客に浄めの茶の接待をしたのが人気を呼び、門前が大いに賑わい、明星茶屋とも呼ばれた。 」

左側の4階建てのマンションの先に上野交差点があるが、このあたりはなだらかな下り坂である。 
その先の小さな大堀川を過ぎると、明星集落になり、道は緩やかな上り坂に変わる。
右側の垣根の一角に「そうめん坂」という標柱がある。
標柱には、 「 江戸時代から明治の初めまで、 この坂周辺で参宮客を相手にそうめんを出す店があったことから名が付いた。 」 と書かれていた。 

山の神三基 x 上野集落 x 安養寺 x そうめん坂
山の神三基
上野集落
安養寺
そうめん坂


道は緩やかな上りとなって続く。 
道の上の標識に、「 水池土器製作遺跡→0.2km 」 とある。 
少し行くと、今度は 「 ←近鉄明星駅0.2km 」 とあり、左折して200m行くと、近鉄明星駅である 
街道の右手、少し奥にある寺は天台宗から真宗高田派に改宗した轉輪寺である。
表門を入ると、大きな本堂があり、前身の寺の本堂だったという庫裏も残っていて、 格式の高いお寺だといわれるのは当然だろう。 

明和町による説明板
「 本山門主が伊勢参宮の時には宿泊、休憩したと言われる。
表門は、もと玉城町田丸城内の門で、銅鐘は延宝八年(1680)の作、 庫裏はこの寺の前身の本教寺の本堂で、明暦年間の建築である。 
表門、鐘楼、庫裏は明和町の有形文化財に指定なっている。 」 

本堂の手前の右手に大きな鬼瓦が展示されていた。

傍らの説明板
「 本堂は天保九年(1838)の建立。 昭和五十九年に屋根瓦を取り換えた際、古い鬼瓦を残して展示した、。 」 

このあたりは明星集落の中心で、切妻、連子格子の家が多く残っている。 
平入りや妻入りの家が混在し、蔵が付いている家が多い。 
そうした家を眺めながら歩くと、左側に明星郵便局があるが、このあたりから民家は少なくなった。 

道は、だらだらした上り坂(?)である。 
轉輪寺から千五百メートル位歩いただろうか? 
右側の近代的建物の先に、門と屋根瓦の乗った黒い高板塀の家・旧三忠の前に、伊勢街道の道標がある。

「  この家は、三忠の屋号で、江戸時代から昭和初期にかけて擬革紙製の煙草入を販売していたが、 お伊勢参りの土産として人気があった、という。 
大ヒットした擬革紙製の煙草入などを展示する私設資料館として公開していたのだが、 そうした表示はなくなっていた。 」

小川を渡ると、新茶屋集落になる。 

「  江戸時代、参宮客が増えるようになると、明星茶屋だけではさばききれなくなり、 この辺りにも茶屋が出来て、新茶屋と呼ばれるようになった。 
江戸時代、新茶屋には坂田藤十郎の恋のモデルになった事件があった秋田屋をはじめ、 何軒かの茶屋があったが、そうした面影は少しも残っていなかった。 」

道の左側のブロック塀の脇に、嘉永六年(1853)建立の 「 従是二里外宮 」 と書かれた道標が建っていて、お伊勢さんのゴールへ一歩近づいた。 

轉輪寺 x 古い鬼瓦 x 旧三忠 x 従是二里外宮道標
轉輪寺本堂
古い鬼瓦
旧三忠
従是二里外宮道標


細くなった街道の両脇は、マキの垣根の民家や田畑が混在している。 
そうして所をしばらく行くと、左側に名古屋プロパン瓦斯の営業所がある。
その先に参宮客の信仰を集めた弘法大師堂が建っていた。
コンクリート製のお堂の中には二体の弘法大師が祀られていた。

少し歩くと、「伊勢市」の標識が現れ、伊勢市に入った。
この辺りは旧小俣町明野であるが、今回の町村合併で伊勢市に併合された。 
明野庚申前交叉点に、環境省三重県の木製道標があり、「←明星駅2.9q 伊勢街道 」 とあり、 明星駅から約3キロ歩いたことを知った。 

道の右側に、大きな石塔があり、 その脇の小さな石碑の前には花が供えられている。 
徳浄上人千日祈願の塔と呼ばれる石塔は、 一メートル程の高さの台座の上に、「南無阿弥陀仏」と彫られている。
横の小さな石碑は、寛保元年(1741)建立の廻国供養碑である。 

説明板「徳浄上人の千日祈願の塔」
「 むかし、一人の僧が、勢州明野の庚申堂を霊場(根城)として修行していたという。 
天保の頃、村が大飢饉にみまわれ、悪疫大流行、世情騒然となったとき、 この僧が村民の窮状を救わんものと、伊勢両神宮に千日の間、 村民の無事息災祈願のため素足で日参された。 
その後、明野村は疫病も無く、盗難、火災もなく、平安に暮らすことが出来た、という。 
この僧の名を徳浄光我上人といい、千日祈願の徳を称え、 明野や宇治山田の人々が世話人となって建立したものである。 
裏面に 満行、天保七年(1836)丙申年三月二十九日  とある。 
 一九九四年八月  伊勢市教育委員会   」

傍にある庚申堂は、寛政年間(1789〜1801)の建立と伝えられる。

伊勢街道(県道428号)は右から左へと大きくカーブし、 明野交叉点で近鉄山田線明野駅前からの県道713号に突き当たる。
この三叉路は右折して、南下していくのだが、道が狭いのに車が多い。 
その先も情緒ある建物が建っていた。 
また、背が高いしいの木が印象深く感じられた。
ここは椎の木辻である。
左側には切妻妻入りの大きな屋敷があり、庭にはケヤキの大木が茂っている。 
江戸時代、この辺りには街道名物の紙煙草入屋があったという。 

弘法大師堂 x 徳浄上人千日祈願の塔 x 庚申堂 x 椎の木辻
弘法大師堂
徳浄上人千日祈願の塔
庚申堂
椎の木辻


左側の蔵の先に情緒ある古い建物が建っていた。 
中から買い物をした女性が出てきたので、下看板を見ると「へんばや」とあった。 
「 名物へんば餅 」 の下げ看板と、暖簾の下がった、へんばやは、 安永四年(1775)から続く老舗である。

「 伊勢街道は櫛田川を越えたあたりから坂道が続くので、馬や駕籠を利用する旅人が少なからずいた。 
馬に乗った参宮客は宮川で馬を返し、一休みした茶屋を返馬茶屋と呼んだ。 
へんばやの屋号はそれに基づいたもので、、へんばは返馬のことである。 
最初は参宮街道の宮川のほとりで、船を待つ旅人のため茶店を設け、餅を商い初めた。 
当時、駕籠や馬上に三つの鞍を置いた三宝荒神で参宮する人が宮川で馬を返し、この店で休憩したため、 何時の頃か、商っている餅に、「へんば餅」の名が付いた。 
安永四年二月、七代前の先祖がこの地に移り、今日に及んでいる。 」 と、ある。 

店には、名物のへんば餅とさわ餅が並び、本物の三宝荒神も飾られていた。

「  へんば餅は大福を手で潰し、焼き鏝をあてた感じのもので、一個七十五円である。
さわ餅は、伊雑宮御田植祭の竹取り神事にちなんで名づけられ、 縦に並べた姿が竹笹に似ていることから、笹餅がさわ餅になったといわれる。
こし餡を餅で包んだ単純のものだが、こちらの方は美味だった。 」

道の反対にある駐車場はかなり広く、そこには大きな「へんばや」の看板があり、 大きな椎の木がある。 
このシイの木に触るとたたりがあると、古来から伝えられている、と聞いた。 

このあたりから道幅が広くなり、左右に田畑が広がっていて、何ともいえない開放感がある。 
外城田(ときた)川の支流に架かる相合(そうごう)橋を渡る。
このあたりは、道が一直線に伸びている 畷(なわて)と呼ばれるところである。 

そのまま歩くと、庚申堂前交差点にでる。
伊勢街道はここで広い県道と別れ、斜め右に伸びる細い方の道を行く。 これが小俣宿への道である。 

「  伊勢街道は、天正十六年(1588)に蒲生氏郷により改修されたが、 現在の集落は、それと相前後して構築された、と思われる。 
交差点には伊勢街道の道標があり、相合橋から0.2km、惣之橋まで0.9km、 とある。 」

道は狭くなり、カーブするが、その手前の左側に、安永年間(1772〜1781)に建立された庚申堂が建っている。

へんばや x へんば餅 x 相合橋 x 庚申堂
へんばや
へんば餅
相合橋
庚申堂


ここは新出集落であるが、道の両側には、切妻妻入りや入母屋妻入りの町屋が並び、 伊勢地方独特の景観である。 
津あたりに多かった平入りの家は少なくなった感じがする。

外城田川に架かる惣之橋を渡ると、元町集落である。 
この橋は小俣宿の江戸寄りにあるので、江戸橋とも呼ばれた。

「 先程の明野、相合、そして、ここ、元町集落は、 伊勢(参宮)街道沿いに発達した宿場町としての性格を持ち、 参宮客相手の宿屋や土産物屋があったところである。 
旧小俣町は、江戸時代の始めは鳥羽藩領と田丸藩領、 元和三年(1617)に田丸藩領は津藩領となり、同五年紀州藩田丸領となった。 
以後、鳥羽藩領と紀州藩領の相給地だった。 
この体制は、明治四年の廃藩置県まで続いた。 
明治時代、度会県誕生後、一つの行政区となったが、村の行政は元紀州藩領と元鳥羽藩領に 別れたまま、差配されていて、小俣町が誕生する昭和四年まで続いたという。  」

伊勢街道は、小俣小学校の前を通り、妻入り切妻造りの軒の下に幕板のある家の先の、 「時計、眼鏡の中川」 の看板がある店の角を左折する。
角の駐車場のブロック塀の内側に、「紀州藩高札場跡」の石柱がある筈なのだが、 いくら探しても見つからなかった。 
ここは江戸時代、宿場特有の鍵型になっていたところで、札の辻と呼ばれ、 小俣宿の西町と法楽町の境だった。 

真っ直ぐ行く道は「離宮道」と呼ばれ、斎王が伊勢へ向かう際に宿泊する離宮として造営され、 一時は斎宮となったところだが、今は残っていないので、寄らないで進む。 
法楽町に入ると、左側にいかにも古いそうな町家がある。 

「  奥山家で、昔の屋号を丸吉といい、紙煙草入れや薬などを商っていたという。
背の低い二階は、黒い漆喰壁に虫籠窓、一階は、粗い格子に覆われた、当時の雰囲気が 今でも感じられた。 」

その先右折して、横町に入る。
その右折する角の左手に、浄土寺がある。

「  浄土寺は、浄土宗の寺で、本尊は鎌倉時代の阿弥陀如来である。
中世から金星の初期にかけて、熊野を本拠として全国に活躍した熊野比丘尼が、 地獄、極楽など六道を絵解きするため、持ち歩いていた曼荼羅が二巻保管されている。 
境内には不動堂と子安地蔵堂が建ち、庚申塔も残されている。 」

新出集落 x 眼鏡の中川付近 x 奥山家住宅 x 浄土寺
新出集落
眼鏡の中川
奥山家住宅
浄土寺


その先には切妻の家が建ち並ぶ。 
伊勢神宮に近づくほど切妻造りに妻入の家が多くなる。
これは、伊勢神宮が平入なので、遠慮して妻入にしたからだそうだ。 

妻入の家は二階部分に庇屋根を付けている家が多い。 
平入りの家に比べ、外壁に雨が当たるのを防ぐためだろう。
よく見ていくと、二階の屋根の下の板壁が上部だけ、二重になっている家を見つけた。 
これは、化粧庇といって、化粧のほかに日除けや雨除けの意味があるようである。 

その先で大きな道に出るが、消防団車庫前の三叉路を左に折れると、元町の町並みとなる。 
左側の最近建て替えたらしい切妻造りの家は、もと旅籠の川端屋である。 
鳥羽藩本陣は、真っ白くペンキで塗られたブロック塀の前に、 「鳥羽藩本陣跡」の石柱があるだけだった。

右に曲がり、左に曲がる道の手前、右側に 「坂田の橋跡」 という石柱がある。
側面には、「 名木 坂田の薄紅葉跡 」 と書かれている。 
以前は坂田の橋があり、紅葉の大木があったらしいが、全く面影はない。 

その先、右側に、「 鳥羽藩高札場跡 」 の石柱が建っていた。 
道はここを左に曲がる。 
宮川の西を流れる汁谷(しるたに)川に架かる宮古橋のたもとの左側に、「 参宮人見附 」 の石柱がある。 
左側面に、「永代常夜燈」 とあるので、竿部分だったのだろうが、縦に半分に切られている。 

宮古橋を渡る車が行き来する丁字路に出る。 
道の向こうには石段があり、その先には宮川の土手が広がっている。
そこの案内標識の下に、「宮川親水公園」の標識もついている。 
土手に上がると、右側に宮川橋がある。
下には広い宮川の河原が拡がり、そこには石を敷いて再現された桜(宮川)の渡し場が見える。 
河川敷に下りていくと、宮川の渡し場の説明板がある。

説明板
「  宮川は神都伊勢へ入る者は必ず渡らなければならず、その渡河方法はすべて渡し舟であった。
この渡しは、上の渡し(川端町)、下の渡し(小俣町)、磯の渡し(磯町)と三箇所あり、 特に小俣と伊勢を結ぶ下の渡し(桜の渡し)が一番よく多く利用された。 
春には桜花が美しく咲く堤に沿って茶屋が並び、御師の出迎えの看板が林立した。  また、めでたく参宮を終えて帰る伊勢講を送る道中歌もひびいた。
「桜の渡し」は、参宮の歴史のすべてを運んできた。 」 

江戸時代には、宮川の渡しを乗るため、駕籠や馬に乗ってきた人も下りて、休憩するなり、 宿泊するなりした後、船で向こう岸まで送られたのである。 
そのため、小俣宿の中でも、元町には旅籠も茶屋も多くあったようである。 

そういうところなので、小俣町に行けば、飲食店も多くあると思っていたが、 途中には店のようなものがなく、元町のうどんやに入ったのが、十四時を過ぎていた。 
ここで三十分休憩した。

切妻の家が続く x 鳥羽藩本陣跡 x 坂田の橋跡 x 宮川親水公園
切妻の家が続く
鳥羽藩本陣跡の石柱
坂田の橋跡
桜(宮川)の渡し場



旅をした日 平成21年(2009)3月7日




伊勢街道目次                             (小俣宿から伊勢神宮外宮)



かうんたぁ。