お伊勢参りの最終目的地は伊勢神宮の内宮だが、その前に外宮に参らなければならない。
別宮も数多くあるが、できるだけ寄られるとよいだろう。
江戸時代の旅人の楽しみは参拝が終えたあとの無礼講にあった。
その雰囲気の一部を再現したのが、おかげ横丁である。
また、古市にある旅館麻吉は、江戸時代、花月楼 麻吉という名の多くの芸妓を抱えたお茶屋だったところで、現在も当時の雰囲気を残したまま営業を続けている。
江戸時代は桜の渡しから対岸に舟で渡った。
今は渡しがないので、渡し跡から上に上り、宮川に沿って歩く。
宮川橋と思っていた橋はJR参宮線の鉄橋だったので、その下をくぐり少し行くと宮川橋があった。
しかし、歩道が付いていない上、道路に一本の白線すら引かれていないので、
歩く側からすると大変こわい。
なお、県道428号はさらに南下し、度会橋西詰交叉点で県道37号に合流し、県道37号は度会橋を渡り、
度会橋西詰交叉点へ出る。 こちらは安心して渡る橋である。
宮川橋は何時架設されたのだろうか?
幸い通行している車が少なかったのでよかったが、それでも車が近づいてくると、身がすくんだ。
やっとの思いで宮川の対岸に到着。
橋を渡り終えると、土手の左側に桜並木があるが、葉を落して寒々していた。
石垣の上に「 旧蹟 宮川・桜の渡し(下の渡し) 」 の説明板があった。
「 宮川は、東国から来ても西国から来ても、
神都伊勢に入る者はかならず渡らなければならぬ、伊勢最大の河川であった。
江戸時代のもっと昔から、対岸小俣とこちら山田宮川町を結んだのが「桜の渡し」であり、
関東・東国あるいは京からの人々は、参宮客も勅使もみなこの渡しによった。
春には桜花が美しく咲く堤に沿って茶屋が並び、御師の出迎え看板が林立し、
また、めでたく参宮を終えて帰える伊勢講を送る道中歌がひびいた。
人・かご・馬あるいは長持一棹何文と定めて、参宮の歴史のすべてを運んできた「桜の渡し」は、
明治三十年、参宮鉄道の開通まで生きつづけました。 」
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説明板には安藤廣重の宮川桜の渡しの絵があった。
安藤広重の浮世絵には、当時の様子が描かれている。
お揃いの姿をした女子衆など、参宮に向う意気込みが伝わる。
また、御蔭参りの流行により、子供だけの参詣、犬が参拝犬として登場したという時代で、
その犬を描かれている。
広重の絵には長い旅のはてに辿りついた旅人の道中の苦労と達成感が破裂したように賑わった風景が描かれている。
この一帯は静かに沈んだような雰囲気で、現在の風景からは想像はできなかった。
伊勢(参宮)街道は、一車線余の幅しかない道で、くねくねと曲がっている。
しかし、車は平気で走り抜けていく。
狭い街道に家屋が建て込み、これまで歩いてきた集落とは、かなり違う雰囲気である。
JR参宮線の右側をくねくねと曲がりながら、少し雑多な町を抜けて歩いて行くと、 道の左側に 「 右宮川渡場 」、「 左二見浦 」 とある道標があった。
「
文政五年(1822)の建立で、「 すく外宮江 十三丁半 」、「 内宮江 壱里三十三丁半 」、
「 左 二見浦 二里十五丁 」、「 右宮川渉場 六丁三十九間 」と、刻まれている。
このすくとは真っ直ぐ行くというのことで、一丁は百九メートルである。 」
左折して、道なりにすすむが、家の玄関には三月に入っても、正月飾りが残されている。
「
笑門とか蘇民将来子孫と書かれた立派な正月飾りが目に付くが、この地方の風習で一年中掛けられている。
蘇民将来とは、一種の厄除けで、牛頭天王が旅をしたとき、裕福そうな家を訪れ、
一夜の宿を頼んだら断られた。
その弟の蘇民将来の家は貧しかったが、こころよく引き受け、粗末ながらももてなしてくれた。
牛頭天王はその好意に感謝し、 「 その子孫が蘇民将来の子孫です!! と、名乗れば疫病から守られる。 」 と、約束された、という言い伝えによる。 」
このあたりは浦口一丁目で、旧道は途絶え、広い道に出る。
県道37号・鳥羽松阪線で、伊勢神宮(外宮)1.4kmの標識が歩道にあるが、そこには横断歩道はない。
次の浦口交差点まで歩き、ここを右折する。
なお、交差点を左折すると、JR参宮線の山田上口駅である。
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道を進むと、左側の海野デイサービスセンターの前に、「外宮(豊受大神宮)1.2km 」 の標識があるので、その先の浦口南交差点を左折する。
すると、筋向橋バス停があり、その先にY字型の太い道の五差路の筋向橋交差点がある。
県道22号に入ると、右側に百五銀行があるが、その前に立つと、道の両側に小さな筋向橋の欄干が残っている。
説明板「筋向橋」
「 関西方面から相可・川端を通るの伊勢本街道と関東、中部方面からの津・小俣などを通る伊勢街道とは、ともに筋向橋で一つになりました。
ここからは整然と市内に入りました。
古く反り橋でしたが、大正四年(1915)から平橋になり、昭和三年(1928)からコンクリート橋になりました。
川は、宮川の支流の清川です。 昭和四十五年に暗渠になりました。
古くから造替のときは地元からの寄金でまかないました。
嘉永二年(1849)には飾りの擬宝珠もつけ、それに主な寄付者の名を十四名刻んでいます。
橋の近くにもと当市の道路元標もありました。
またJR(旧国鉄)も明治三十年(1897)開通以来筋向橋駅でありましたが、大正六年山田上口駅と
改称しました。 」
百五銀行に掛かっている正月飾り(注連縄)の護符には、「千客萬来」とあり、
客商売の注連縄は民家と違っていた。
ここからの道は広くなっているが、伊勢街道である。
その道をを進むと、右側に、「 →阿弥陀世古 」 とある真新しい石柱があった。
道標だろうと思いながら通り過ぎたが、帰宅後、伊勢市のホームページを閲覧すると、世古の説明を
見つけた。
「 伊勢の道を歩くと、家々の間を縫うように、小さな路地がたくさん目につきます。
伊勢では、これを世古と呼び、江戸時代から明治時代にかけて、名前が付いているものだけでも、
130以上あったと記録されています。
世古は迫とも呼び、ちょっとした広場で遊び場になっていました。
しかし戦後、大半の世古は拡張されるなどして姿を消していきました。 」
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その先には今は珍しくなった結納屋があり、さらに進むと楼門のある常照寺があった。
少し進むと、道の右側の屋敷門の前に、「御師福島みさき大夫邸跡」の石柱が建っていた。
福島みさき大夫は、徳川将軍家の祈祷所もつとめたほど格式の高い御師で、
ここに広大な屋敷を構えていたようである。
説明板「御師福島みさき大夫邸跡」
「 お伊勢参りが最んだった江戸中期
この八日市場界隈には約八百軒ものの御師邸があった、といわれます。
御師は、全国の神宮信徒とつながりをもち、はるばる伊勢を訪れた参宮者を邸内に宿泊させ、
参拝の面倒をみて参りました。
現在、福島みさき大夫邸の正門は、神宮文庫の門となっています。 」
その向かいには、このあたりでは珍しくなった伊勢独特の建物、切妻の古い家があった。
ここは、「 漢方薬 万金丹 」 で、有名な小西万金丹薬舗である。
「 延宝四年(1676年)の創業で、四日市と草津にも出店があったそうで、
大きな鬼瓦にむくり屋根、切妻の建築様式を今にも伝える立派な建物で、
通りに面した店の間は開け放たれ、古い看板や屏風が飾られている。
江戸時代、万金丹は伊勢みやげの代表であり、業者も多かったが、
明治以降、ほとんどの店が廃業し、現在は野間家と小西家の二軒が残るのみ、という。 」
NTTの手前の交差点の左側に、「大世古」の新しい標石があった。
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右側のNTTビルの前には、お木曳き行事の写真とお木曳き行事と山田の関係を記した説明板があった
説明板「お木曳き行事と山田」
「 伊勢神宮には二十年毎に御宮を遷しかえる式年遷宮という行事があります。
これは千三百年程前の持統天皇の御世に始められたもので、この伝統が堅く守られ、
営々と現在に伝えられています。
お木曳き行事とは、木曽の山から切り出された御用材を宮川より外宮の北御門まで、
各団の誇るお木曳き車に載せ、木遣り歌、伊勢音頭などを囃したり、練ったりしながら、
神領民と呼ばれる地元の人々によって行われる民俗行事です。
時期的には遷宮の七、八年前に行われ、いよいよまち全体が遷宮の年に向けて走り出す行事といえます。
外宮領の山田地区では陸曳きと呼ばれ、街中を曳き、内宮領の宇治地区では川曳きと呼ばれ、
五十鈴川をソリで曳きます。
(以下省略) 」
伊勢街道(旧道)は、NTTの辺りから現在の道より一本南の道を通っていたが、
今は道がないので、その先の道を右折して、旧道に入ることになる。
ここには、「月よみの宮さんけい道」 と刻まれている、明治26年建立の道標がある。
折角の機会なので、月夜見宮に参拝することにした。
「 参道名は、神路通(かみじどおり)といい、 月夜見宮の神様が、石垣の一部を白馬に変え、それに乗って外宮に通われるので、 人が夜通る時には真中を避けて、道の端を歩かなければならない、と伝えられている。 」
交差点を左折して、神路通を進むと、左側に「東邸」 という石柱がある。
「 古今伝授の創始者、東常縁(より)を祖に持ち、
漢学者の東夢亭などの文墨の才人を輩出した家系である。
古今伝授とは、古今集の解釈を中心に、歌学などの学説を口伝、切紙、抄物により、
師から弟子に伝授すること。 」
交差点から三百メートル程で、月夜見宮に到着した。
「 月夜見宮は外宮の別宮で、
月夜見尊(ツキヨミノミコト)と月夜見尊荒御魂(ツキヨミノミコトノアラミタマ)の二神を祀る。
境内はそれほど広い感じはしないが、荘厳な雰囲気が漂っていて、身が引き締まる心地がした。 」
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大阪の版元が発行した浮世絵を見ると、
伊勢神宮に乗り込む晴れ姿と期待感に満ちあふれた表情をみてとれる。
現在は伊勢神宮の外宮と内宮は両方とも同じ伊勢市内になっているが、江戸時代は外宮が山田町、内宮は宇治町と違う町だった。
十辺舎一九の東海道中膝栗毛では、
弥次郎兵衛と喜多八が山田の町に入ってきた様子を次のように表現している。
「 此町十二郷ありて、人家九千軒ばかり、商賈、甍をならべ、各々質素の荘厳濃にして、 神都の風俗おのづから備り、柔和悉鎮の光景は、余国に異なり、参宮の旅人たえ間なく、 繁盛さらにいふばかりなし。 町の両側には、御師の名を板にかきつけ、用立所の看板は林のように立っていた。 袴、羽織の社家侍が何人となく馳せ違い、往来の旅人を迎え、どこの講中か、御師の大夫は、と聞く。 」
伊勢講は、伊勢参宮のため、資金を積み立て、代わる代わる、あるいは揃って参詣を果たす信仰者の組織であった。
御師は、地方を巡って、護符を配布し、寄進の交渉にも当たり、伊勢講を組織化した。
御師は、参詣の信者を広大な敷地を持つ自宅に泊め、接待した。
食事なども当時の庶民にとっては特別だったので、神宮の持つ素朴で気高さとともに感動を与えたのである。
御師の数が最盛期には八百軒あったというから、伊勢講の隆盛のすごさが分かる。 」
月夜見宮御参りを済ますと、先程の交差点に戻り、外宮に向かった。
交叉点を直進し、旧道に入ると、右側に外宮の北御門があるが、そこを過ぎると、表見張り所があり、
豊受大神宮(外宮)宮域図が立っている。
表参道火除橋を渡る。
表参道手水舎の向かいにある、高さ十米、樹齢千余年の楠の大木は、平清盛が勅使として参向したとき、
冠に当たった枝を切らせたという逸話からその名が付いたといわれるもの。
緑の濃い木立の中を歩いて行くのは気持がよいものである。
第一鳥居、第二鳥居の先に神楽殿があり、その先には九丈殿と五丈殿と広場がある。
表参道から見て手前の建物が九丈殿で、建物正面の長さからその名称が付いているのだが、
豊受大神宮の摂末社遙祀の祭典が行われるところである。
五丈殿は表参道から見て奥の建物で、雨天のときの修祓や遷宮諸祭の饗膳などが行われる。
その前の庭は「大庭」といわれ、遷宮祭の玉串行事や幣帛点検の儀式が行われる。
その先の右手には豊受大神宮(外宮)の御正殿があり、内宮と同じ唯一神明造の様式であるが、
鰹木は奇数の九本で、千木が垂直に切られているなど、いくつかの違いがある。
「 外宮は、正式には豊受大神宮といい。
祭神の豊受大御神はお米をはじめ衣食住の恵みを与る産業の守護神である。
豊受大神宮(外宮)は、内宮(皇大神宮)の創始より四百八十一年後の雄略天皇二十二年、天皇の夢に天照大御神が現れ、
「 自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せるように!! 」 という神託があったので、豊受大御神を丹波の国から天照大御神に食事を司どる神(御饌都神)として、
内宮に近いこの山田の地に迎えたものである。 」
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内宮も同様だが、鳥居をくぐった外玉垣南御門までしか入れず、そこからの撮影は禁止。
伊勢神宮の正式参拝は二見浦で沐浴して、外宮をお参りし、その後、内宮をお参りするのが順序とされる。
御正宮は四重の垣に囲まれている。 一番高く見えるのが御正宮。
我々が入れるのは、二番目の外玉垣南御門までなので、そこにある純白の綾の御幌(みとばり)ごしに参拝を済ませた。
突然の突風で、御幌が持ち上がり、御正宮が見えたような気がしたが・・・
手前左隅(西南)の榊は一本榊または廻榊(めぐりさかき)と呼ばれる。
昔は、お祭りが終わると神職が冠につけていた木綿(ゆう)をこの榊の枝にかけたといわれるものである。
正殿の右側に、日々供える食事の神饌を整える忌火屋殿(いみびやでん)と、
天照大神などの神様に食事を出す御饌殿(みけでん)があり、
内宮の神様は外宮まで食事をとりに来ていたことを知った。
御正殿の道の反対側には、亀石と三ッ石がある。
外宮正殿前の道を曲がり、別宮の参拝へ向う水路に架かる石橋の平らな大きな石が亀石と呼ばれているもので、
三重県最大の横穴式古墳の高倉山古墳入口の石だったと伝えられるものである。
その近くに結界を結んでいる中に三つの石がある。
式年遷宮の時、お祓いをする場所で、三ッ石の上に手をかざすと感じるパワースポットとして有名である。
亀石の先には外宮別宮の風宮と土宮があり、その先の高台には多賀宮がある。
外宮の別宮である土宮(つちのみや)に、ここに祀られているのは、
土地の守り神の大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)である。
その東にある、風宮(かぜのみや)には、
級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)が祀られている。
もともとは、風雨の災害なく、農作物が順調に成育するようにと祈りが捧げられる小さな社であったが、
弘安四年(128)の元冦の際、風宮の神様と内宮の風日祈宮(かざひのみのみや)の神様がカを合わせ、
侵攻してきた蒙古軍に神風を吹かせて、敵軍を全滅し、日本国を守ったことから、別宮に昇格したといわれる。
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少し高いところにある多賀宮は、豊受大御神の荒御魂(あらみたま)をお祀りしている。
「 神様の魂には、穏やかで優しい和御魂(にぎみたま)と行動的で激しい荒御魂がある。 外宮の御正宮には豊受大御神の和御魂を、多賀宮には豊受大御神の荒御魂と分けて、お祀りしているのである。 」
右側に少し入ったところに下御井神社がある。
小さな社殿の中には清らかな水をたたえる御井戸がある。
神宮内のお祀りには外宮の御神域に上御井神社があり、
そこから汲み出された水を使用するが、不都合が生じた場合には下御井神社の井戸を使用するという。
忌火屋敷と御酒蔵から苔が生えた鳥居をくぐり、森閑とした森に入り、北の火除橋を渡ると、
北御門に出た。
正面に火除橋、右側に裏見張所があり、左側に手水舎がある。
「 江戸時代、外宮の北御門は、伊勢参りに訪れた多くの人々が神宮にたどりついたと感じる終着点だった。
それと同時に、全国各地への旅立ちの始まりの場所でもあった。
熊野古道に向かう多くの人々も、ここから三山を目指して新たな旅を始めようとしていたのである。 」
時計を見ると、十六時三十分、これから内宮まで行くが、閉門時間までに着くことができるだろうか?
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外宮前交叉点を出て、県道32号を歩く。
岡本1交差点で左折して、県道と別れ、次の交差点を右折し、道なりす進み、小田橋を渡る。
その先はカーブし長く続く尾部(おべ)坂である。
倭町に入り、倭姫宮(やまとひめのみや)に立ち寄った。
「
倭姫宮は、第十一代垂仁天皇の皇女で、豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に代わり、
御杖代(みつえしろ)として、天照皇大神を祀る宮地を求めて、諸国を巡幸した倭姫を祀る神社である。
皇大神宮の別宮になったのは、大正年間なので、伊勢神宮の別宮の中では一番新しい。
」
近いよころにあると思っていたが、入口が遠く、思わぬ時間を食ってしまい、この後、おかげ横丁の営業に間に合わぬ結果となる。
街道に戻り、必死に坂を上る。 道は右にカーブする。
古市郵便局の道の対面には、「 近畿道は御銀―自然歩道、お伊勢さんを感じる道 古市 」 と、書いた道標が建っている
「 江戸時代、伊勢の古市は、江戸の吉原、京都の島原と並ぶ三大遊郭だった。
全盛期には、 妓楼七十軒、遊女約千人を数えたといわれる。 今は住宅地になり、その面影はない。 」
やがて、道がなだらかになった。
右に入ったところに、大林寺という寺があった。
その先、近鉄鳥羽線を陸橋で渡る。
陸橋の手前、右側のお店の前に、「 油屋跡 旧古市を代表する妓楼 歌舞伎伊勢音頭恋寝刃の舞台 」 と、
書かれた石柱が建っている。
「 伊勢まで苦労を重ねて旅して結果の反動から、旅人達は解放感に浸り、
妓楼では舞台付の大広間で連夜、伊勢音頭を唄い踊る声が絶えなかった。
妓楼油屋で起きた嫉妬殺傷事件は、当時人気のあった歌舞伎の題材となり、盛んに上演されたようである。 」
陸橋を渡ると、左側に長峰神社がある。
「 神社の祭神は天岩戸で舞をまったとされる天綱女命である。
伊勢音頭の遊女や古市歌舞伎役者の祖先として祀られた、といわれる。 」
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その先に、 旅館 麻吉の案内看板がある。
左に入ると、駐車場があり、その先に建物がある。
「 これは江戸時代から続く、今では古市で唯一昔の面影を残す楼閣として、今もなお営業を続けている。
江戸時代には、花月楼 麻吉(あさきち)という名の多くの芸妓を抱えたお茶屋で、
1782年の古市街並図に、麻吉の名があること、また、東海道中膝栗毛にも「 麻吉へお供しよかいな 」 と、登場することから、二百年以上の歴史があるといわれる。
実は清水寺のように斜面に建っていて、木造六階建てなのである。 」
街道を進むと、左側に徳川家康の孫、千姫の菩提を弔うため創建された寂照寺がある。
伊勢自動車道を渡る手前の大きな交差点角には、古市参宮街道資料館( 無料、月休 )がある。
その前の道標には、「 内宮まで2.1km 」 とあった。
また、近くの三条バス停前には、「 月よみ宮さんけい道 」 の道標が建っていた。
時間がないので、寄らなかった。
月読宮(つきよみのみや)
「 月読宮は、 この先、参宮道の左の方向に1.2kmのところにある神社(伊勢市中村町字向垣内、近鉄五十鈴川駅から600m)で、先程訪れた月夜見宮と同じ呼び方をする。
この神社は、皇大神宮(伊勢神宮内宮)の別宮で、境内には、月讀宮、月讀荒御魂宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈彌宮の四つの宮が鎮座している。
古事記には、 「
黄泉の国に行ってしまった伊弉冉尊(いざなみのみこと)と決別した伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、
黄泉の国の穢れを祓うため海水で左目を洗ったら、左目から天照大御神(あまてらすおおみかみ)が生まれ、右目を洗ったら右目から月讀尊(つくよみのみこと)が生まれた。 」 とある。
陰陽道では、天照坐皇大御神が陽であるのにたして、月夜見尊は陰であり、陰陽の両方があって、
初めてこの世の中が成り立つと説き、天照大御神は、太陽神、月讀尊は月の神と対になっている。
境内の四宮は、それぞれ皇大神宮(伊勢神宮内宮)の別宮である。
■ 月讀宮(つきよみのみや) 祭神は月讀尊(つきよみのみこと)
月夜見宮にまつられている月夜見尊と同じ。 見えないもの、夜をつかさどる神様である。
■ 月讀荒御魂宮(つきよみあらみたまのみや) 祭神は月讀尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)
月夜見尊の荒御魂をまつる。
■ 伊佐奈彌宮(いざなみのみや)祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)
日本の国や山川草木、天照大御神や月讀尊などを誕生させたニ柱の御親神のうちの女性神を祀る
■ 伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)<祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
日本の国土や山川草木、天照大御神や月讀尊を誕生させたニ柱の御親神のうちの男性神を祀る
その先は桜木町で、右に二百メートル行くと、桜木地蔵があるようだが通過する。
右側の大きな松の木(?)の先には、「奉献両宮常夜燈」 と書かれた石碑があった。
その脇に、大正三年建立の大きな常夜燈が二基建っていた。
薄暗くなった牛谷坂を下ると、左側に「猿田彦神社境内地」の石柱や両宮参拝碑が立っている。
更に下って行くと右側に、「宇治惣門跡」の標柱がある。
標柱の説明文
「 旧参宮街道の牛谷坂と宇治の町並みの間に設けられ、俗に黒門と呼ばれました。
明治維新までここに番屋があった。 」
街道に下ると、黒門橋があり、その先の宇治浦田西交叉点で、県道32号に合流する。
交差点を左折して進むと、左側に猿田彦大神を祭神とする猿田彦神社があった。
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猿田彦神社に祀られるのは猿田彦大神で、本殿は、さだひこ造りと称する特殊な妻入造で、欄干、鳥居に八角の柱を使っている独自の建築である。
「 日本書記によると、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨を先導をしたのは猿田彦大神とされ、
古来、交通安全、方位除けの守護神といて、各地で信仰されてきた。
天孫降臨を終えた猿田彦神は伊勢の五十鈴川の川上に鎮まり、
その子孫は、宇治土公(うじつちぎみ)として伊勢神宮の要職を務め、
猿田彦大神を私邸内に祀ったのが猿田彦神社の創祀という。 」
境内には、芸能の神、天宇受売命(あめのうずめのみこと)を祀る佐瑠女(さるめ)神社がある。
神社の説明板
「 天照大御神が天岩窟(あめのいわや)に籠られたときに神楽をされ、
大御神が再び現れて平和な世を迎えられたと伝えられる。
天孫降臨の際は、猿田彦大神と最初に対面、大神が御啓行(みちひらき)の後は詔によりともに伊勢に来られ、
功により媛女君の称号を受けられました。 」
神社の前には、「近畿自然歩道 猿田彦神社」の道標があり、「おはらい町0.3km」とあった。
宇治浦田町交差点を渡り、国道23号に入り、内宮に向かって歩く。
御神燈が建ち並ぶ道を急ぎ足で歩き、神宮会館を過ぎると、もう少し。
とうとう内宮の大鳥居まで辿りついた。
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その先には五十鈴川が流れ、宇治橋と一の鳥居があるのだが、
二十年毎に行われる遷宮の際には、社殿だけではなく、鳥居も橋も取り替えられるので、なかった。
宇治橋は掛け替え工事中で、左側の仮橋に迂回させられた。
工事開始から半年経たので、かなり進捗している様子だった。
「 宇治橋は、長さ百一b八十a、幅八b四十a、渡り板には、約六百枚の檜が、
すりあわせと呼ばれる船大工独特の技術で並べられて作られる。
宇治橋の渡り始めは、十一月三日で
、旧神領から選ばれた渡女を先頭に全国から選ばれた三代揃いの夫婦らが橋を渡る、という。 」
脇の仮橋を渡り、右折すると神苑で右手に大正天皇御手植松があり、左手には参集殿が建っている。
直進すると火除橋がある。
手水社と鳥居があり、その先右手は五十鈴川御手洗場である。
参詣する前に心身を清める場所で、小生も五十鈴川で手を清めた。
「 伊勢神宮の誕生は、日本書紀に垂仁天皇の御代に皇女倭姫命を使って、各地を訪れ、 この伊勢の五十鈴川の畔に移したという時に始まる、とあるが、 それはそれまでの伝承に大和政権の誕生における政治的な意図もあったようで、そのまま信じることはできない。 」
御手洗場の北側(手前左上)に滝祭神がある。
「 滝祭神社皇太神宮(内宮)にある境内社で、滝祭大神を祀っている。
滝祭大神は五十鈴川の水の神の弥都波能売神(みづはのめのかみ))で、
内宮の中でもここだけは社殿がない古来の姿をとどめている。
内宮が出来る前から地元民により信仰されていたという古社である。 」
五十鈴川の対岸には、「風日祈宮」という風の神を祀る別宮がある。
鎌倉時代の元寇のとき、神風を吹かせて日本を守った、といわれた神である。
そこを過ぎると鳥居があり、鳥居をくぐると、左側に授与所と神楽殿がある。
その隣にあるのは、五丈殿と御酒殿、由貴御倉などがある。
左手に石垣が現れ、そこには別宮遥拝所があり、籾だね石があった。
その先、左側の石段の上は今回の式年遷宮で平成二十五年に新しい正殿が建てられる新御敷地である。
(注)現在、御正宮になっているが、当時はまだ工事中であった。
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その先右側の御贄調舎は、お祭の時にお供えするアワビを調理する儀式が行われるところである。
その反対側に三十段程の石段があり、石段を上ると鳥居があり、その先に廻りを四重の垣根に囲まれた御正殿がある。
鳥居の先に幕に覆われた板垣南御門があるが、ここから先は撮影禁止である。
従って、御正殿は生絹の御幌(御幕)を通してしか、対面できないし、皇室関係者以外はここで参拝するのである。
「 皇大神宮(内宮)は、垂仁天皇二十五年に天照大神を当地に祀るため、
祠が建てられたのが始まりと伝えられる。
天武天皇から持統天皇の時代に現在のような大きな社殿になり、
二十年に一度の式年遷宮もそのころから始ったようである。
御正殿は唯一神明造りの古代様式を伝え、妻造りの平入で萱葺きの屋根には十本の鰹木(かつおぎ)がのせられ、
東西両端の破風板の先端が屋根を貫いて千木(ちぎ)がある。
四本の千木(ちぎ)の先端は水平に切られている、と警備員から教わった。 」
参拝後、荒祭宮へ向かう。
左側に稲を納める御稲御倉(みしねのみくら)と古い神宝を納める外幣殿(げへいでん)がある。
その先には石段を上ると荒祭宮があった。
「
荒祭宮は、内宮の境内にある別宮の一つであるが、天照大神の荒御魂(あらみたま)を祀っているので、
内宮の次に参拝することになっている。
社殿は、内宮に準じ、内削ぎ(水平に切られている)の千木と偶数の六本の鰹木を持つ萱葺の唯一神明造の建物である。
他の別宮に比して社殿の規模が大きく、幅二丈一尺二寸、奥行一丈四尺、高さ一丈四尺八寸あり、南に面して建っていた。 」
時計を見ると、十七時五十六分。 皇大神宮 (内 宮)の参拝は終わった。
おはらい町に寄り、伊勢の名物の赤福餅か、岩戸屋の岩戸餅を食べ、お茶を飲んで、一服してから帰る算段をしていたが、
おはらい町は一軒の店も開いていなかった。
観光地は大型バスが来なくなると、飲食店もなにもなくなる。
十八時十分、待ってきたバスに乗り、近鉄の宇治山田駅に行き、特急で名古屋に帰った。
小生の伊勢街道の旅は終わった。
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旅をした日 平成21年(2009)3月7日
伊勢神宮の誕生については、 「日本書紀」の 垂仁天皇の二十五年の項に、
「 天照大神を倭姫命(やまとひめのみこと)に託し、倭姫命は諸国を経て、
伊勢に下り、その地で天照大神を祀るようになった 」 様子が記されている。
日本書紀
垂仁天皇 天照大神を倭姫命に託す
(垂仁天皇二十五年の)三月(やよひ)の丁亥(ひのとゐ)の朔(ついたち)丙申(ひのえさるのひ)に、
天照大神(あまてらすおおみかみ)を豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)より離(はな)ちまつりて、
倭姫命(やまとひめのみこと)に託(つ)けたまふ。
爰(ここ)に倭姫命、大神を鎮(しづ)め坐(ま)させむ処(ところ)を求めて、
菟田(うだ)の筱幡(ささはた)に詣(いた)る。
更に還(かへ)りて近江国(あふみのくに)に入りて、東(ひむがしのかた)美濃(みの)を廻(めぐ)りて、
伊勢国(いせのくに)に到る。
時に天照大神、倭姫命に誨(をし)へて、曰(のたま)はく、
「 是(こ)の神風(かむかぜ)の伊勢国は、常世(とこよ)の浪(なみ)の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。
傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。
是の国に居(を)らむと欲(おも)ふ 」 とのたまふ。
故(かれ)、大神の教(をしへ)の随(まにま)に、其の祠(やしろ)を伊勢国に立てたまふ。
因(よ)りて斎宮(いはひのみや)を五十鈴(いすず)の川上(かはのほとり)に興(た)つ。
是(これ)を磯宮(いそのみやと謂(い)ふ。
則(すなは)ち天照大神の始めて天(あめ)より降(くだ)ります処(ところ)なり。
伊勢神宮は、大和王朝の誕生の過程で誕生し、天皇家の宗教となった。
その後、斎宮制度により、天皇家と伊勢神宮の結付きはより強いものになっていった。
しかし、武家政治が進展し、天皇と貴族の権威が衰退するとともに、伊勢神宮の勢力も衰退した。
しかし、一方武家勢力も、あの織田信長でも、天皇の存在を自己の権威を高めるのに利用したし、
伊勢神宮には刃を向けなかった。
江戸幕府を開いた徳川家康も、京都御所と伊勢神宮の存在には警戒感を持っていて、京都には京都所司代や二条陣屋を置き、
また、伊勢神宮の管理できる山田奉行所を設けて、神社の監視と域内の治安にあたった。
山田奉行所は大岡越前として知られる大岡忠相が奉行を務めたことがあり、このころ紀州藩にいた徳川吉宗により、
のちに抜擢されることになった、という話が残されている。
天皇家の衰退とともに、伊勢神宮の財政状況は厳しくなったが、それを救ったのが御師と伊勢講で、
全国から人を伊勢に送り込み、山田は伊勢神宮の門前町として発展していった。
また、伊勢神宮も財政豊な神社になった。
江戸時代の人にとって、伊勢参りは人生最大の至福な出来事だったようである。
田辺聖子氏が書かれた姥ざかり花の旅笠は、江戸時代の天保年間に旅した、小田宅子の東路日記によるものだが、
そこにも、伊勢を訪れた様子がありありと書かれている。
「
彼女等は、浪速から大和に入り、吉野山で花見をした後、伊勢にいくため、吉野川を渡って、上市へ行き、
伊勢本街道を東吉野村の鷲家、木津を通り、杉谷から高見山に上り、高見峠を越えて、伊勢に入った。
飯高町から、舟戸、落方、七日市、田引まで行き、桜峠を越えて東に進み、宮川の田丸口を渡しで渡り、田丸の町に宿泊。
宮川を船で下り、逗留先の山田の御師・高向二郎太夫の宅に着いている。 」
吉野からの道は山また山の連続で、今はトンネルがあるにしても、車で走るのでも大変なルートである。
そうした道を一日三十キロ位歩いたというのだから、昔の人の健脚ぶりに驚かされる。
あらかじめ知らされていた高向太夫の家では、宅子さんらを迎えるため、湯を沸かして待っていてくれた。
当時の参拝は湯に入り、髪を整えて、身を清めてからお詣りしなければならなかったからである。
彼女等は、その後、駕籠にて内宮から外宮を参拝している。
伊勢参拝の満足感は、他の神社と違っていたようで、
ひょうきんでおちょこちょいの(東海道中膝栗毛の)弥次郎兵衛と喜多八でさえ、
「 自然と感涙、肝にめいじて、ありがたさに、まじめとなりて、しゃれもなく、むだもいはねば・・・ 」
と、いう状態だった。
参拝を終えると、男性衆は、精進落しという名目で古市に繰り出し、伊勢音頭を遊女と踊り、無礼講になったようで、
弥次と喜多も例外でなく、そこで遊んでいる (右写真)
江戸時代の庶民にとって、伊勢参りは一生で一度できるかどうかの短い夢のような出来事であった。
そこに詣でることで
至上の満足感と達成感を感じることができたのである。