江戸時代の豊原村(現在豊原町)は間の宿として、
十九世紀初頭には、本陣や伝馬所などが置かれ、旅館や茶屋も軒を連ねていたところで、
宿場の名称は、櫛田宿という名で知られていた。
その先からは上り坂になるが、途中におもん茶屋とおかん茶屋があり、へんば餅を名物にしていた、という。
櫛田川の名は、神宮に向う斎王が櫛を落としてしまい、流されたという故事による。
赤い欄干の祓川橋を渡ると明和町で、ここは古代に伊勢神宮の斎宮があったところで、
その跡が国の史跡として公開されている。
伊勢街道は、残り二十五キロ程。 近鉄松阪駅から松阪駅入口交叉点で左折し、垣鼻町交差点に出ると、前回終了した三角公園がある。 今日の旅はここから始まる。
伊勢街道は、この三角公園の先の陸橋のある変則交叉点を直進して、南東へと進む。
すると、二車線が、突然、一車線になり、右側にはガードレールが建っていた。
極端に狭くなった道を行くと、三叉路に出たが、直進して進む。
道は一車線幅しかないのに、一方通行ではない。
そのため、両側の溝のブロック部分も道として使用される。
当てられ防止のため、家の外にブロックを置いている家が多い。
左にカーブした道の先にある三叉路の先の交叉点も直進し、小さな川を渡り、
志村病院を過ぎると、左にカーブし、三叉路の先で名古須川にでた。
川に架かる里中橋を渡った左手には、荒神橋稲荷の石碑と鳥居がある。
道の右側に信楽寺がある。
「 信楽寺は、天台宗真盛宗の名刹で、門前の仏足石は、天明五年(1785)に、
広瀬永正寺の名僧・天阿上人が建立したものである。
その右隣には閻魔堂があった。 また、境内には面白い形をした旧本堂の鬼瓦もあった。
道の反対側に、大小の常夜燈があったが、これを見ると、現在の道は寺の境内を通りぬけているような気がした。 もとの街道はもっと左側だったのではないか? 」
道を進むと徳和坂で、上り坂になる。
左側の森の中に御乳母稲荷と神戸神社がある。
「
神戸神社は、かっては三宝荒神社と呼ばれた神社で、旧垣鼻村の鎮守社である。
境内には、常夜燈の隣に皇太神宮遥拝所もあった。 」
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右側に、黒い板の上に白い漆喰の塀を張り巡らせている、出格子の窓が玄関の両脇に付いた屋敷があった。
その先の交差点の先は少し左にカーブしていた。
徳和坂の頂上付近の左側の小高いところには、小さなお堂の庚申堂があり、
中に青面金剛の石像が祀られていた。
そこを過ぎると、下りになり、金剛川に出る。
川に架かる金剛橋を渡ると、これまでの道筋とは違い、両脇には田畑が点在する風景に変わった。
ここから楼門橋までは徳和畷といわれ、直線的な道が続く。
江戸時代には、白酒を名物とする数軒の茶屋が並んで建っていた、といわれるが、
今や人家も疎らな田園地帯である。
自転車が近づいてきて、おはようと声を掛けられた。
登校途中の生徒である。
見知らぬ人に声をかける風景は、都会では見かけなくなったので、大変うれしい。
五百メートル程歩くと、前方右側に常夜燈が見えてきた。
「 加茂川に架かるのは、極門橋で、橋の袂にある「永代常夜燈」と書かれた燈籠は、 文化十二年(1829)に、江戸干鰯問屋等により寄進されたもので、嘉永二年(1849)に修理されている。 」
そこを過ぎると、下村町の四ツ又の集落である。
このあたりの道の両脇には、格子造りの家やしっくい壁の家など、古い家が多くある。
こうした家を見ると、街道を歩いているという感じになれる。
下村町2交差点の左にある交叉点を越えると、左側に神戸保育園があある。
その先の道の左右に用水が流れているが、道の左側に、小さなお堂があり、地蔵尊が祀られていた。
その先には踏み切りがあるが、その手前の右手にJRR紀勢本線の徳和駅がある。
踏切を越えると、左側に天保二年(1836)建立という常夜燈が建っている。
その手前には川とは思えない小さな川が流れているのが加茂川で、
川の右岸に石柱があり、「 片岡山大日如来 是より三丁 」 と、刻まれているが、大日寺の道標である。
その先のこれ又、小さな真盛川の左岸の堤防の上にあるのが、明治十三年建立の女人の供養塔である。
どういういわれがあるものか分からなかったが、お堂の前に数輪の水仙が咲いていた。
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上川西交差点を越えると、右手の川沿いを進むと北上神社があり、
行き倒れた参宮道者の霊が祀られているようであるが、立ち寄らないで進む。
ふなだ外科内科病院の先の右側の民家の一角に、「禁酒の神 この夫婦石 」 と書かれた石柱と説明板がある
説明板
「
この家には、夫婦石が祀られているが、夫婦石はお酒が好きで、 この神様にお酒をかけると、 段々お酒を飲まなくなるそうである。 」
その先の右側に八柱神社があり、鳥居の脇に明和五年(1768)の常夜燈がある。
その先の交差点から、車のすれ違いが厳しい狭い道になったが、
町並みは、落ち着いた伊勢街道の情緒を残していた。
道の左側にあるカーサ ル・シエCとある集合住宅の先に、
弘化三年(1846)に建立された、「 従是外宮四里 」と刻まれた道標があった。
外宮まで十六キロと、いよいよ伊勢神宮が近くなった感がする。
右側の林の中に、天保年間に建立された常夜燈があり、右手にお寺があった。
そのまま進むと、右側に松阪商高の看板があり、高台にグランドが見えた。
「
この先からは松阪市豊原町、江戸時代は豊原村で、櫛田村から分離した村で、
江戸時代には紀州藩と藤堂藩の入組地であった。
間の宿で、十九世紀初頭には、本陣や伝馬所などが置かれ、旅館や茶屋も軒を連ねていたが、
宿場の名称は、櫛田宿という名で知られた、という。 」
上り坂を歩くと、このあたりには連子格子の家が残っていた。
道は左にカーブするが、左側の田畑の向こうには近鉄参宮線を走る電車が見えた。
その先もうねりながら、緩やかな上り坂が続いていた。
南豊レンタリースを過ぎると、伊賀町公会堂があった。
右側の虫籠窓のある白壁の家はおもん茶屋の跡である。
その左隣には連子格子の家が二軒並んで建っていた。
ここには、おかん茶屋もあった、といい、へんば餅を名物にしていたようである。
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道は相変わらず緩やかな上り坂が続く。
左側の民家の玄関の前に、櫛田橋の橋柱のようなものが並べて建っていたが、旧櫛田橋のものだろうか?
少し歩くと、豊原南交差点で、県道鳥羽松阪線(701号)を横切って進む。
「
江戸時代、藤堂藩の豊原本陣は、奥田清十郎家が務めた。
その家はこの交差点付近にあったといわれるが、その場所は確認できなかった。
奥田家は、代々藤堂藩の豊原組大庄屋を務めた名家で、豊原三角という学者も出ている。 」
ここから櫛田交差点までは古い家は残っていない。
櫛田神社と豊養稲荷大明神へ立ち寄る。
櫛田交差点を渡り、狭い道を直進して行くと、近鉄櫛田駅の脇の踏切に出た。
通りかかった人に、櫛田神社はどこですか? と、聞くと、踏切を越えて行く道を教えられた。
神社は一キロ程離れた鬱蒼とした森の中にあった。
櫛田川下流の西岸に立地する神社は、式内社、旧社格は村社。
理容美容業者の信仰を集め、境内に接した場所に、三重県美容業生活衛生同業組合らによって建立された
、櫛の碑がある。
7月の博多祇園山笠や10月の博多おくんちなどで知られる、福岡市の櫛田神社は、
天平宝字元年(757)に伊勢国のこの神社を勧請したと、伝えられる。
祭神は大若子命、櫛玉命、須佐之男、天忍穂耳、市杵島姫である。
大若子命は、竹田の国を治めていた豪族で、当地を訪れた倭姫命が大若子命とのやりとりをした後に、
櫛が落ちたため、当地を櫛田と名付け、櫛田社を定めたという。
社伝
「 垂仁天皇22年(紀元前8年)に、倭姫命が天照大神を祀る場所を探す旅の途中で、
この地を案内した大若子命を祀るために創建されたとされる。
江戸時代の明暦頃に社殿も失われ中絶となったが、享保年間に再興された。
明治40年(1907)2月27日、合祀とともに字室垣内に移転、大櫛田神社に改称し、
翌明治41年に山添町の神山神社を合祀した。
その後、氏子が分祀を希望し、昭和8年(1932)に現在地に分祠された。 」
お詣りをすました後、先程の交差点まで引き返し、
県道37号に沿って右に回り込むように行くと、左側に赤い鳥居が並ぶ小さな祠があった。
鳥居の右側に、「式内大櫛神社」と「櫛田大市」の石碑が並んで建っている。
鳥居の脇に、豊養稲荷大明神の幟がはためいていた。
「 この地は、延喜式神名帳の伊勢国 多気郡に鎮座と記述がある大櫛神社の旧地で、
江戸時代には大楠社と称していた。
明治四十一年に神山神社に合祀されたが、昭和二十九年旧宇気比神社の地に、
豊原神社を立て分祀した、とある。
分祀する際、この地には豊養稲荷大明神が祀られてしまったので、
ここから南西の現在地に豊原神社の名で、旧大櫛神社の祭神を祀ったのだろう。
」
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道の左側に切妻平入り、二階は黒い漆喰壁に虫籠窓、一階は格子造り、幕板が下がった家がある。 この付近で、古い家はこの一軒だけだった。
その先の右側に、文化二年(1819)建立の背丈ほどの大きな道標がある。
道標には、「 左さんぐうみち 」、「 右い賀みち 」 と書かれていた。
正面には石段、右手は車道(?)の工事中だった。
これから推察すると、道標の位置も変わっているのかも知れない。
これに従い左折し、理容若林の先のT字路で、右折すると堤防に突きあたった。
櫛田川の堤防に上がる石段の脇には、大正三年に建てられた、旧櫛田村大字豊原の里程標があり、
松阪 宇治山田 津迄の距離が刻まれていた。
石段を上り堤防に出ると、川が見えた。 櫛田川である。
「
川の名の由来は、神宮に向う斎王が櫛を落としてしまい、流されたという故事による。
江戸時代は渇水期には仮の板橋が架けられたが、通常は渡しによった。
渡しも橋も有料だったようである。 」
渡し場跡の表示はなかったので、その跡は確認できなかった。
右手に、県道の櫛田橋が見えるので、堤防の道を歩き、櫛田橋で櫛田川を渡った。
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橋を渡ると、櫛田川南詰交差点で左折し、堤防上を少し行く。
その下に街道が延びているが、入るところは工事中であった。
なお、この道は県道428号伊勢小俣松阪線である。
その先の右側に大乗寺がある。
大乗寺の地続きにある小さな社(やしろ)は早馬瀬神社で、
境内に「文化十三年櫛田川・・・ 」 と書かれた碑があり、
その隣に、「 右けのう 左さんくう 」 の文字が見える道標がある。
その下は土の中で分からないが、この道標はもともとは渡し場付近にあったもので、
何時か分からないがここに移設されたものである。
道の右側に、切妻平入りツシ二階、格子造りの家があった。
少し歩くと、家がまばらになる。
変則的な交差点を左に行くのが機殿(はたどの)道で、ここは追分である。
「
井口中町にある神麻續機殿(かんおみはたどの)神社に至る道である。
神麻續機殿神社は、倭姫命が御巡幸の時、飯野の高宮に皇太神を奉祭した時、
ここに機殿をたてたとされる神社である。 」
道の右側には、天保九年の建立された石地蔵が祀られていた。
ここは、漕代(こいしろ)のはずれにあたるが、背面にある文字は読めなかった。
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このあたりは田園風景が広がる。
左手に近鉄山田線の線路があり、時々電車が通り過ぎていくのが見えた。
今日は天候に恵まれ、暖かい。 道はわずかにカーブを描きながら進む。
稲木の集落に入ると、先程見た切妻平入りの二階家が多く残っていた。
江戸時代、小稲木には、茶屋や旅籠が点在していたといわれるが、その名残りであろうか?
大稲木交差点を過ぎると、左手の柿畑の角に、梵字が刻まれた六字名号碑があった。
ここは大稲木集落の西口にあたり、この石碑は文化四年(1817)に建立されたものである。
道が右にカーブすると、古びた赤い欄干の橋が架かる川がある.。
その手前を左に入ると漕代駅で、橋柱に、「はらいかわばし」 と書かれていた。
「
祓川は、古代の斎王群行の際、ここでお祓いをして、斎王宮に入ったことからついたといわれ、
多気川、稲木川とも呼ばれる。
江戸時代には、渇水期は板橋が架けられたが、その他の時期は舟渡しだった。 」
赤い欄干の祓川橋を渡ると、明和町になった。
街道の右側に、黒板張り白漆喰の倉があり、隣に「洋服 呉服 田所」の看板を掲げた、
切妻ツシ二階の平入りの家があり、その隣も同じような家である。
道の反対側には、従是三里外宮の道標が建っていた。
集落に入ると、道は上り坂になった。
道の左側は竹川地区、右側は金剛坂と表示されている。
切妻ツシ二階の平入り、格子造りで、軒に幕板が下がっている家が多く残っていると思うと、
左側に切妻妻入りで、一階部分は出格子、庇屋根が付き、幕板が下がっている家がある。
妻入りの家は、伊勢地方独特の建築様式のようである。
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交差点の左側に斎宮歴史博物館の←道標があったが、そのまま直進した。
その先も妻入りと平入りの家が混在して建っていた。
斎宮小学校前交差点を越えると左に入る道があるので、
左折すると、近鉄斎宮駅が目の前にある。
駅前を右折して、その先の三叉路を左折し、線路を越える。
正面に「斎宮」と書かれた大きな看板があり、馬鹿でかい敷地が横たわっていた。
「 斎宮は、いつきのみやとも呼ばれ、
斎王の宮殿と斎宮寮という役所のあったところである。
天皇が即位するたびに伊勢神宮に天皇の名代として奉仕する未婚の皇女のことを斎王というが、
この制度は平安時代から南北朝時代まで六百六十年間続き、その間、記録では六十人余の斎王がいた、という。
斎王は、京都で潔斎を済ませた後、五百人の行列と共に百四十キロの道を旅し、斎宮に到着。
その後、天皇が交替するまで、ここで寝泊まりをして、年三回、伊勢神宮に奉祀のため通った。 」
いつきのみや歴史体験館がある。
いつきのみや歴史体験館では、平安時代の貴族の住まい、
寝殿造を模したガイダンス棟と古代の役所の建物をモデルとした体験学習棟があり、
十二単衣や直衣の試着体験などが出来る。
その右側にある空間は全て斎宮跡の敷地で、その一部に1/10模型で、内院と神殿、そして、寮庫の
建物群が再現されていた。
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神殿の1/10の模型の前には説明板があった。
説明板「神殿」
「 斎王の神殿があった内院の北側で、掘立柱塀と溝に囲まれた2棟の建物が見つかりました。
建物は桁行4間・梁行2間の建物が鉤型に配置され、建物の周囲には隅が途切れた溝状の遺構が巡っています。
厳重に囲まれており、斎王や主神司が祭祀を行った所と思われます。
建物は、掘立柱の高床で、屋根は茅葺、千木と鰹木をもつ神宮正殿のような建物と推定されます。 」
また、建物の右側に斎王御館之遺跡の碑があり、碑の後方には休憩施設があった。
街道に戻ると、左側の牛葉公民館の奥に、秋葉神社と庚申堂が祀られていた。
牛葉公民館の場所は、かって観音寺という寺があったところで、
地元の人が建てた「観音寺跡」の木柱が建っていて、説明板があった。
傍らの説明板
「 天正四年(1576)、斎宮の乾源休が、菩提寺として創建し、その後、
この地に移されて観音寺とされたが、明治元年に廃寺になった。
本堂は現在佐田清光寺の本堂になっている。 」
ここへくる前の右側に、「乾」という標札がかかった由緒のありそうな立派な門構えの屋敷があった。
塀は瓦屋根が乗り、上半分が黒漆喰壁、下は黒い腰板、所々に連子窓があった。
この家は、前述の観音寺と関わりのある家かも知れない。
少し進むと、道の左手に林があり、石垣の一角に「斎宮城跡」の標柱がある。
傍らの説明板には、 「 室町時代、斎宮の住人野呂三郎がここに城砦を築き、勝手に徳政を敷き、
狼藉を働いた。 国司北畠材親はこれを討伐した。 」 と、あった。
その先の鳥居の右側に、「延喜式内竹神社」の石柱が建っていた。
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鳥居をくぐり中にはいると、樹木が茂っていて、その先も鳥居があり、狛犬が鎮座していた。
説明板「竹神社」
「 竹神社の誕生については、 垂仁天皇の御代に、
竹連(竹氏)という豪族が、天照大神の奉行に供奉して、この地に留まり、
孝徳天皇の御代に竹郡が創建された時、その末裔が当社を創祀したと、伝えられる。
また、竹連(連は姓の祖)は、宇迦之日子の子、吉日子とある。
斎王制度が確立されるともに、地名も 竹の都から斎宮に変わっていった、と思われる。
竹神社は、斎宮歴史博物館の南隣接の中垣内の地にあったといわれ、郷社竹神社御址の石碑が建っているが、もともとは斎宮内に祀られた十七社の一つだったようである。
この地は、古来、野々宮と呼ばれ、斎宮があったとも伝わる地であるが、
明治の神社合祀令により明治四十四年、江戸時代には八王子祠と俗称された社を合祀移転し、
竹神社となった。
その際、観音寺にあった八王子と称した宇志葉神社など、近隣の二十社がこの神社に合祀された。 」
境内の大きな石灯籠は、池村の氏神だった饗庭の森八王子の宮の常夜灯として、
嘉永七年に建立されたものである。
従って、この常夜燈も移転したものだろう。
他に、丑寅神社の常夜燈もあった。
竹神社では、毎年六月、斎王行列を復元した斎王まつりが行われるので、機会があれば見たいと思った。
斎王の森の前の道を東に進み、エンマ川との交じわる点から更に二百メートル東に行くと、
「丑寅(艮)神社跡」 という碑がある。
竹神社にあった丑寅神社の常夜燈はここにあった訳で、明治の神社統合令により、丑寅神社は
竹神社に合祀されたと思われる。
丑寅神社は、斎宮の鬼門鎮めと見られる神社だったようである。
街道に戻ると、竹神社前交差点で、伊勢街道の標識があったので、道に沿って歩き始めた。
竹神社の拝殿前に、竹神社と謡曲絵馬の説明板があったが、かって、
絵馬堂がこのあたりの四辻にあったようである。
参宮街道を通る人が立ち寄っていたが、絵馬堂は朽ちてなくなり、竹神社に絵馬が収納されている。
中町にも、切妻ツシ二階の平入り、格子造りで、軒に幕板が下がっている家が多く残っている。
道の左側に、天満宮云々の道標があるが、北野天満宮への道標で、最近建てなおしたものである。
昔はここに黒木の鳥居があった、とある。
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このあたりは笹笛川(旧名笛川)の川沿いであるが、河川改修で流れが大きく変わったことで、
古い姿は分からなくなっている、という。
二軒先の左側に、「 有明六地蔵 ← 」 の看板があるので、左に入ると、奥に中町公民館が見える。
説明板
「
ここは、古には有明池があったところで、明治初年まで笛川の中町地蔵堂があった。
斎宮は神領だったため、明治の神仏分離により、この地の寺院は全て壊された。
有明六地蔵石幢は歴史を語る貴重な遺産である。 」
六地蔵石幢とは、灯籠の六角形の火袋部分に六体の地蔵を刻んだものである。
石幢には、以前中山道を歩いていた時、出会ったがそれ以来である。
これは室町時代の永正十年(1513)に造られたもので、均整の取れた美しさは県下一といわれる。
石幢を跨いて三つの建物があるが、全て庚申堂である。
また、石幢の隣に、五基の山の神が祀られていた。
街道に戻ると、道の左側に蔵と門の建物の本格的な屋敷があった。
黒い板を張り、白い漆喰の蔵は緑の緑青がアクセントになる。
その隣は、中に入る入口で、屋根が付いた高塀になっていて、植え込みの木々のみどりを覗かせていた。
右側には切妻平入り二階建ての格子造りの建物があり、軒に幕板が下がっている。
手入れが整っていることもあるが、まさに立派な日本建築である。
少し歩くと、左側の小道に 、二つの道標が並んで建っている。
「
道標に「斎宮旧蹟蛭沢之花園」とあるのは、天然記念物の地元でどんど花と呼ぶ、
野花しょうぶ群落地への案内である。
斎宮小学校が建てた、「飛び出し注意」の看板を縛り付ける柱の代わりに使われていた。
その奥にある大きな石柱は、「 斎王隆子女王御墓従是拾五丁 」 、とある道標である。
この道標は、病気で亡くなった斎王・隆子女王の墓への案内である。 」
そこを過ぎると、道は右にカーブしていく。
その先の勝見交差点を過ぎると、古い家が多く残っている斎宮集落は終わりになる。
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旅をした日 平成21年(2009)3月7日