松阪は、蒲生氏郷が松阪城を築き、松ヶ島の住民を移してできた町だが、
江戸時代に入ると、松阪木綿を中心に商人が江戸に出て店を開いた。
松阪大橋のたもとに、松阪商人の御三家の一つに数えられた紙問屋の小津清左衛門家があり、
松阪商人の館として公開されている。
その先の白い壁に囲まれた立派な門のあるところは、三井高利が創業した三井家の発祥の地である。
本居宣長の旧宅、鈴屋は松坂城址に移築されて残っている。
松阪は史跡が多く、食べものもうまいので、楽しめるところである。
阪内川に架かる松阪大橋は、松阪築城の頃、
蒲生氏郷が三度川に架かる笹尾橋を移したのが最初の橋といわれる。
江戸時代には、長さ約四十四メートル、幅六メートルの木製橋が架けられ、
文政九年(1826)に欄干柱頭に擬宝珠が付けられた。
橋を渡るとすぐ左側にある商家は、小津清左衛門家の邸宅だったところである。
「 小津清左衛門家は、江戸時代、松阪の御三家の一つに数えられた紙問屋で、
現在も東京の創業以来の地で、紙卸業を中心として活躍しているという。
江戸で紙や木綿を手広く商いしていた豪商の家は、松阪商人の館として、公開されている(200円 、月休)
「 千本格子と虫籠窓の卯建が上がった家に入ると、
見世の間には御所型のひな飾りと吊るし雛が展示されていた。
間口に比べ、奥行は長い感じで、部屋の数は多く、二つの土蔵も残っていた。
蔵の中の展示品には千両箱ならぬ万両箱もあった。
外観は質素に見えたが、庭や広々とした敷地には、江戸店持伊勢商人の暮らしぶりを感じるものがあった。
」
商人の館の奥は正円寺で、ここの小路は矢下小路というが、嬉野矢下町からつけられた、という。
伊勢街道は現在は県道60号で、
道の両側には、時計屋とか、はきもの屋など、昭和によく見たような店が残っている。
その先左側の白い壁に囲まれた立派な門のところは、三井高利の生まれ育ったところである。
ここは三井家同族会の所有で、非公開である。
「
三井高利は松阪から江戸へ出て、のちに越後屋、三越と発展を遂げた三井家全盛の基礎を築いた人物で、
ここは三井家発祥の地である。
邸内には、初代三井高安と二代高俊の墓碑、創業の祖三代高利の産湯の井戸、
高利の長兄らの供養碑がある。 」
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伊勢街道は本町交差点を直進するが、松坂の史跡を見るため、寄り道をする。
本町交差点を右折し、反対側に渡り、少し行くと松阪もめん手織りセンターがある。
隣の産業振興センターを含め、この土地は三井家創業の祖・三井高利(1622-94)が、
最初に店を構えたところである。
手織りセンターは、江戸時代、江戸っ子に好まれた松阪木綿の手織り技術の復活と伝承を目的に開設された施設で、手織り体験ができる。
その先の交差点の左右の道は魚町通で、右折すると、左側に江戸木綿問屋の長谷川邸がある。
「
長谷川本家は、丹波屋治郎兵衛と称した松阪木綿商で、現在も東京の創業以来の地で、
会社経営を続けている。
千本格子、虫籠窓、妻入りの蔵、そして、卯建が上がった屋根など、落ち着いたただづまいの中に、
当時の松阪商人の繁栄ぶりがうかがえる。
内部非公開であるが、立派な池を取り巻く日本庭園があるようである。 」
その隣の見庵は、魚町一丁目のまちづくりやおもてなしの拠点だが、 江戸時代には、小泉見庵が住んでいたところである。
「
彼は本居宣長の親友で、代々医者の家だった。
明和九年(1772)には、本居宣長を含めた親友五人で吉野山の桜と飛鳥を巡る旅をしている。 」
本居宣長の家はかれの家と道を隔てた反対にあった。
現在、「 特別史跡 本居宣長宅趾 」 の石柱が建っている場所がそれである。
「
本居宣長は、十二才から七十二才で生涯を閉じるまで、その家で過ごした。
宣長は、ここで医者を営む傍ら、日本の古典を研究し、古事記伝や源氏物語玉の小櫛などを著した。
本居宣長の居宅は、明治四十二年に保存のため、松阪公園に移されたので、
現在あるのは礎石と宣長の長男、春庭の旧宅と本居家の土蔵である。 」
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先程の交差点に戻り、右折して四百メートル程行くと、突きあたりに「松阪城跡」の石碑がある。
「 松阪城は、蒲生氏郷が天正十六年(1588)に、
この北の松ヶ島城からこの四五百森(よいほのもり)に構築した平山城である。
その際、松ヶ島城を壊し、領民を全てこの地に移住させた。
氏郷はこれまで海より通っていた参宮古道を町の中央に通るようにし、
商人の保護育成や町の治安維持に努めた。
氏郷が会津若松に移封になると、服部一忠、古田重勝が城主になったが、
元和五年(1619)八月、紀州藩領となり、勢州領十八万石を統括する代官が派遣された。
紀州藩時代の松阪城は、一国一城令による規制もあって、荒廃の一途をたどる。
天守閣は、正保元年(1644)七月二十九日の大風で倒壊したが、再建されず、
築城当時にあった櫓や建物も姿を消していった。
寛政六年(1794)に、二の丸御殿が築造され、徳川陣屋として使用された位で、
城門、石垣、堀などの防御施設が最少限度の修復が施された。 」<
現在、松阪城跡は松阪公園になっている。
二の丸跡には、藤棚があった。
「 明治十四年(1881)に城址公園になったが、明治二十三年に、藤田藤助が二の丸跡に、 料亭・亀甲亭を開き、南庭に愛知県の旧鍋田村から樹齢二百年の老藤を移植した。 」
ここからは松坂市内が一望できる。 また、いくつかの石碑が建っていた。
その先の右手を上ると、本丸跡で、左手の小高いところは天守閣跡である。
「 本丸は、上下二段からなっていた。
上段には一段高い天主台に三層の天守閣を築造し、敵見櫓や金の間櫓を配していた。
下段には、太鼓櫓や月見櫓と遠見櫓を構え、これらの櫓間は多聞を配していた。 」
その先のきたい丸跡には梅林があった。
もと来た道を戻り、中御門跡を過ぎると、小高いところに門があり、「本居宣長の旧宅」の標石が建っている。
中に入ると右手には桜松閣があり、その先に本居宣長の旧宅、鈴屋が建っていた。
このあたりは、隠居丸の跡で、宝蔵や道具蔵、米蔵があったようである。
左手には鈴屋遺蹟之碑があり、
どこから持ってきたか分からないが、山室山神社魚町旧宅趾 花岡対山室奥墓 省線松阪停車場 と
書かれた道標が建っていた。
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「裏門跡」の石柱がある石段を下ると、城の石垣が切れたところの右手に、手前と奥と常夜燈が二つある。
「
文政六年(1823)発来とある常夜燈は、津の新玉講が寄進したもので、以前は、津の藤枝町にあったが、
昭和初期にここに移された。
もう一つは、旧櫛田川渡し場常夜燈といわれるもので、江戸干鰯問屋仲間が安永九年(1780)に寄進した、
書家・三井親和揮ごうの常夜燈である。
最初は伊勢街道筋の早馬瀬河原にあったが、昭和二十九年(1954)に現在地に移設されたものである。 」
道に下りて、右折して進むと、右手の小高いところに、本居宣長記念館がある。
宣長及び一族、門人の遺稿、遺品類が一万六千点を収蔵、展示しているが、
その道に弱い小生は入らないで終わった。
下に降りて、道の延長を行くと、本居宣長の宮がある。
「
祭神は本居宣長で、相殿に平田篤胤。 もとは宣長の奥墓付近にあり、山室山神社と呼ばれていた。
昭和六年に本居神社、平成七年に現在の名前に改称した。 」
裏門跡を下りた道の右側を下りると、御城番屋敷が残っている。
本町交差点まで戻り、街道歩きを続ける。
交差点から先は道幅も広がる。 プラザ鈴バス停から先は中町になる。
「肘折橋跡」の石柱が建っていた。
「
肘折橋は、めでたい時は渡らない方が良いという迷信があった、といわれる。
現在は、暗渠になり、川の姿はなくなっていた。
江戸時代の中町は松阪宿の中心地で、肘折橋の先から先の左側に柳屋奉善、
その向かいに米屋、少し先に脇本陣、本陣、馬問屋、新上屋があった。 」
道の左側に松坂牛で有名な和田金がありその隣に天正三年(1575)の創業という老舗・柳屋奉善がある。
四百年の歴史を持つ和菓子、老伴(おいのとも)は、最中の皮を半分にした中に、餡を入れ、
固めたものである。
「
餡ものや羊羹は苦手という我が妻は、買ってきた老伴を食べ、甘みが抑えられているし、最中の皮が厚いし、餡ものというより、干菓子感覚で大変気にいった、と大変気にいったようである。
気にいらなければ、あんこ好き、虎屋の羊羹が大好物の小生が食べればよい、と買ってきたのであるが、
小生は一つだけ食べただけで、残りは彼女の腹に収まったのである。 」
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その先の中町交差点から先も、近代化された商店街が続き、昔を彷彿させるものは残っていない。
右側のビルになっている日本料理の快楽亭付近に、大和屋与兵衛が務めた脇本陣があったようである。
また、本陣を務めた美濃屋庄右衛門の家は、松崎屋食堂から山作餅店の付近にあったようで、
脇の小路には「美濃屋小路」という名が付けられていた。
よいほモールバス停の左側には、本居宣長のからくり人形があった。
松阪は、どこに行っても、本居宣長が登場するという感じである。
その先から日野町で、鯛屋旅館がある。 和風のしっとりした良い感じの旅館だった。
道の反対には、カリオンプラザという大きな施設と有料駐車場があり、飲食店が何軒が入っている。
このあたりに、宣長が三十四才の時、伊勢参りに来ていた賀茂真淵と出会った新上屋があったようである。
この松阪の一夜が宣長の古事記研究のきっかけとなった、といわれる。
その先は日野町交差点で、交差点を左折して行くと松阪駅である。
交差点を越えた右側のヒシナカ薬局の前に、大きな道標があり、 「 右わかやま道 」、
「 左さんぐう道 八雲神社 」 と、刻まれている。
直進するのが伊勢参宮街道、右に行くのが和歌山街道で、ここは日野の追分だった。
「 江戸時代の松阪は、参宮街道が縦貫し、和歌山街道を分岐する宿場町として栄えたといい、このあたりには旅館や遊郭が軒を連ねた、という。
蒲生氏郷が、近江国日野から移転してきた際、日野から移り住んだ人もあったことから、
町名になったのである。
明和六年(1769)の頃、問屋役を務めたのは、日野町の舟橋屋新右衛門で、現在の江戸屋結納店の付近にあったようである。 」
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交差点の先の右手には、浄土宗の寺・樹敬寺がある。
代々、本居一族の菩提寺で、本居宣長夫妻とその息子、春庭夫婦の墓が背中合わせに立っていた。
その先の交差点は湊町交差点で、湊町の標石がある。
湊町の標石
「 城下町建設の際、伊勢大湊から商人を誘致して成立した町であり、移住した商人の中に、
角谷七郎次郎がおり、その次男、七郎兵衛は、寛永八年81631)に安南国(現在のミャンマー)に渡り、
海外貿易にあったが、鎖国令により鎖国になり、故国に帰ることなく、生涯を終えた。 」
その先には、愛宕川と書かれた橋のように造られたものに、「ゆめの樹通り」とある。
道の下は暗渠に なっていて、愛宕川が流れているのだろう。
その先の愛宕町西交差点で、国道166号を横切ると愛宕町である。
愛宕町は松阪宿の東の入口で、西の川井町と共に紅灯を競ったといわれる。
道はなだらかな上り坂になって行き、上りきったと思える右側に小津安二郎青春館がある。
「
昔の映画館のような造りで、 手書きで描かれた、彼岸花、東京物語、お嬢さん、突貫小僧、懺悔の刃の映画看板が掛かっていた。
看板は時々描きかえられるようである。
小津安二郎は青春時代の十年間を松阪で過ごしたことから、小津の青春時代を偲ばせる物や写真、資料などが展示されている。
( 開館日は金〜月曜日と祝日、一月〜三月は十時から十六時、四月から十月は十一時から十七時、資料代として百円 ) 」
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坂を下ると、左から松阪駅前からくる道と、三角公園の先で合流する。
ここまでが愛宕町なので、松阪宿は終りである。
道を引き返して、愛宕町西交差点まで戻り、左折して行くと、
愛宕町交差点の左側に、赤い鳥居と山門が見える。
ここには、「愛宕さん!!」 と、市民に親しまれている愛宕山竜泉寺がある。
「
この寺は真言宗に属し、本尊は火防の神、愛宕大権現(愛染明王)である。
山門は、切妻造り、本瓦葺きの一間一戸の薬医門で、桃山時代の風格を示す建造物である。
松阪で一番古い建物で、松ヶ島城の裏門だったといわれる。 」
赤い鳥居の右側には、「正親町天皇天正九年勅願所」 の石柱が建っている。
「
この寺の前身は、嬉野滝之川町にあった滝川寺の下之坊である。
滝川寺は、永禄十二年(1569)の信長による伊勢攻め、阿坂合戦の時に全焼したが、
下之坊の本尊・愛染明王と愛宕権現を保持して松ヶ島城に逃れ、上福院になった。
その後、松ヶ島城の城主になった蒲生氏郷が松坂城を築城し、町を移転したが、
寺はそれより以前の天正八、九年に当地に移転した、という。
天正九年に正親町天皇の勅願所となり、嵯峨御所大覚寺の命で松ヶ島より移転した、という説がある。
江戸時代には愛宕神社の別当寺となり、
参宮街道の要路にあったので、このあたりは愛宕神社の門前町として賑わった。
明治の神仏分離の際、神殿を仏殿本堂として、竜泉寺となった。 」
境内左手の小高いところに、竜泉寺の本堂があり、本尊の愛染明王、不動明王と毘沙門天を祀っている。
ここには、松阪藩初代藩主の古田重勝の墓がある。
境内の左側の建物には、滝川五社稲荷が祀られている。
「 入口に鳥居と山門があること、愛宕権現社や稲荷神社が混在していることなど、 今なお、神仏混合の影響が色濃く感じられた。 」
寺を出て、左折し、愛宕町交叉点の西側にある道に入り、駅に向かうと
右側は京町、食事処の一升びんがあり、左は平生町。
左右が広い道に出るので、交叉点を右折する。
次の交叉点を左折し、狭い道を行くと、日野町になり、右側に八雲神社と善福寺がある。
「
八雲神社は、蒲生氏郷によって、松ヶ島城から遷社された産土神四天王社の一つ。
宝暦十二年(1762)、宝殿、拝殿の建て替えの際、本居宣長と門人達が奉納した、二巻の百首歌が近年になって発見された。
善福寺は、かっては松ヶ島の弥勒屋敷にあり、隣の八雲神社の別当寺だった、という寺である。 」
時計を見ると、十七時過ぎ、拝殿で今日一日の無事のお礼を述べた。
神社を出て、ベルタウン交叉点を右折し、駅前通りを通り、松阪駅へ到着した。
松阪駅で牛めしの駅弁を買い、近鉄特急の車内で食べながら、名古屋に帰った。
千三百円の駅弁は松坂牛ではなかったが、うまかったですよ!!
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旅をした日 平成21年3月5日
駿府城主だった徳川頼宣は、元和五年(1619)八月、和歌山城へ入城し、紀州藩主になった。
紀州藩の誕生で、後世に於いて、尾張徳川家と水戸徳川家と紀州徳川家は御三家と称された。
禄高は紀州領三十七万五千石と伊勢領十八万石、併せて、五十五万五千石の大大名となった。
紀州藩伊勢領(勢州領)は、松阪領、白子領、田丸領の三領で、勢州三領と呼ばれたようである。
紀州藩は伊勢領を統治するため、松阪に代官を派遣して管理監督した。(右写真-和歌山城)
和歌山街道で和歌山と通じていたことと松阪城があったことが選ばれた理由であろう。
この時代には松阪城も機能していた (右写真ー松阪城址)
明暦三年(1657)には、松阪城代が置かれ、松阪城の守護と勢州領の諸役所を総轄する仕事をした。
また、寛永十四年(1637)には、勢州奉行が置かれた。 最初は、松阪奉行だったが、その後、勢州役、勢州奉行と改称された。
勢州領の民政、農政、財政全般を司るのが仕事である。
また、松崎浦にあった船蔵の艦船を管理するため、松阪御船奉行が置かれた。 更に、承応年間(1652〜)には、城下町の民事や刑事等を司る松阪町奉行が置かれた。
初代の代官(長野九左衛門)は、勢州領の全体の総轄者として派遣されたが、
寛永十四年の城代などの新設により、代官はその指揮の下に組み込まれて、三人になり、松阪、白子、田丸に1人ずつ配置された。
その他にも郡奉行や目付なのが置かれて、支配体制は強化されていったのである。
松阪城築城当時の石積みは野面積みであるが、宝永六年(1709)〜七年と安永六年(1777)の修復時には、打込みハギや算木積みの工法を用いている。
築城の石垣には、古墳石室や石棺、宝きょう印塔を使用された、という (右写真)
松阪城代が置かれたのに松阪城が荒廃していったのは、元和元年(1615)発令の一国一城令の影響はあろうが、それだけでは説明できない。
天守閣が壊れても再建されなかったのは、将軍家からの監視が厳しくなったことと財政上の理由によるものであろう。
紀州藩の参勤交代は、当初は、和歌山から和歌山街道を通って松阪に出て、松阪城の二の丸屋形で宿泊し、
翌朝、大口浦から船で東海道の宮宿(名古屋市熱田区)か、吉田宿(三河国豊橋市)へ渡り、そこから東海道を歩くというルートを採った。
延享二年(1745)からは陸路で大阪、枚方を経て、山科に出て、東海道を行くルートに変更された。
紀州藩の大名行列の費用は莫大なもので、幕末近くなると財政破綻で、中止せざるをえない事態に追い込まれている。
参勤交代のルートがここを通過しなくなったということも松阪城の衰退に追い打ちとなっただろう。
これを物語るのが、二の丸屋形で、ルート変更の五十年後には荒廃して壊され、
寛政六年(1794)に徳川陣屋(二の丸御殿)が造られている。
また、三の丸にあった重臣達の屋敷は紀州藩時代になると、城外に移されて、
両役所、城代役所、御城番屋屋敷、馬屋、牢屋、火薬倉などを置いたにすぎず、
大半の敷地は畑地に転用された。
明治に入ると、残っていた建物も壊され、三の丸は払下げられ、
今日まで残った部分は明治十四年に県管轄公園となった。
松阪商人についてであるが、紀州藩の松阪城代に関する商売については、
松ヶ島城時代の出入り商人が担っていて、その代表的なのが伊豆蔵である。
松阪木綿などを商い、江戸店を張った商人の多くは、近江日野から来たものと、
かっては北畠家の家臣などの武家の出身が多かった、という。
松阪の町は蒲生氏郷の楽市楽座の政策の影響が大きかったと感じた。
勢州奉行と紛らわしいのは伊勢奉行である。
伊勢奉行は、江戸幕府が設けた遠国奉行の一つで、正式には山田奉行である。
任務は、幕府天領の伊勢神宮の守護と門前町の支配、伊勢、志摩における訴訟、鳥羽港の警備などである。
旗本が担当する職位で、有名なのは大岡越前守忠相である。
ここから伊勢神宮にかけては、天領と紀州藩領が接するので、争いが絶えなかったようである。
大岡忠相が徳川吉宗がいた紀州藩領との訴訟で断固とした裁きをしたことから、
吉宗は彼に注目、後日北町奉行に抜擢した、という説もあるが、真偽の程はどうだろうか?
旅をした日 平成21年(2019)3月5日