雲出川に架かる雲出橋を渡ると、江戸時代の須川村で、
民家の壁には江戸時代の屋号や職業が一軒づつ書かれている。
江戸末期から明治時代に蝦夷地から択捉島や樺太まで探検した松浦武四郎の生誕の地で、
誕生地の標柱がある妻入りでがんぎの付いた家は築後百七十年である。
松坂市中林町には月本おひわけの道標が残っている。
ここは、江戸時代、奈良から伊勢へ向かう伊賀街道の追分で、月本には、役人常駐の立場茶屋があり、また、旅人の休憩所として茶屋や煮物屋が立ち並び、大変賑わっていたという。
その先の六軒茶屋も伊賀越え道の追分で、六軒追分道標が建っている。
六軒茶屋は、江戸時代後期には茶屋や旅館が立ち並び、参宮街道と初瀬街道を利用する旅人で賑わった。
県道413号を雲出川に架かる雲出橋で渡る。
最近できたので、歩道はしっかり確保されていて、歩きやすい。
天気は良いが風が強いので、帽子を飛ばされないように頭を押さえて歩いた。
橋を渡り終えたところに、常夜燈が建っていた。
説明板
「 この常夜燈は、寛政十二年(1800)に奉納されたもので、宮立型で高さ四メートル七十センチの花崗岩製である。
昭和十九年の東南海地震で倒壊して火袋を補修したが、建設当時の姿を留めているといわれる。
燈籠の西面に、「 常夜燈 」、東面に「 寛政十二龍集庚申晩春穀旦 」、
北側と南側には寄進者の京都○講 大阪屋 藤七 などの名前が刻まれている。
常夜燈の奉献の際、建立する土地と献燈用の油代を賄う田が寄進され、これを基に地元で管理された。 」
県道と別れて、常夜燈の前の土手の道を左に行き、
対岸の伊勢街道があった延長線上の元の橋があったところに立つ。
常夜燈は、ここにあったのである。
階段で下に降りると、狭い道があるが、これが伊勢街道で、県道と並行して続いている。
民家の壁に、「松阪市小野江町」とあり、江戸時代の屋号や職業が一軒づつ書かれていた。
ここは江戸時代には須川村で、今回の町村合併前は旧三雲町西小野江だった。
車も通らない静かな通りを歩いて行くと左側に、「 史跡 松浦武四郎誕生地 」 の標柱がある妻入りでがんぎの付いた家がある。
説明板「松浦武四郎誕生地」
「 松浦武四郎は、旧須川村の郷士、松浦桂介の四男と生まれ、
蝦夷地から択捉島や樺太まで探検した人物で、幕府の蝦夷御用御雇に任命され、
明治政府でも開拓判官となり、蝦夷地を北海道という名前を付けた人物である。
彼はアイヌ人にもやさしく接したといわれ、北海道の地名にアイヌの地名を残す努力をした。
この家は築後百七十年位だろう。 」
道は左へ、右へとカーブするが、伊勢特有の妻入りの家が多い。
「
江戸時代、須川村には渡海屋、樽屋など六軒の旅籠があり、雲出川が増水した時には、
旅人が多く逗留した、という。 」
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街道を歩くと、右側に小野江小学校があり、
その先の左側の民家の壁に、「南無妙法蓮華経」の碑がある。
小野江小学校の奥に松浦武四郎記念館があるが、寄らずに進む。
十分程歩くと、肥留町の小さな用水路の手前にある交差点の左側に金剛寺、
右側に常夜燈が建っていた。
「 文政七年(1824)の建立の、「宮立型」と呼ばれる常夜燈で、 台座には 「 江戸 乾物問屋中 」 tと、彫られている。 」
その先の右側の肥留公会所を過ぎ、左に折れて進むと、左側に川(用水)が流れるところに出た。
左右に県道413号が通る交差点を横断して、川に沿って進む。
この道は小村縄手と呼ばれた道で、
左手にCHUSEI TAIHEIYOの大きな広告塔(?)があるが、工場や畑が混在し、
やや殺伐したところである。
川には水門が開け下げできる装置が付いていた。
岐阜県大垣市付近のは洪水対策であるが、こちらのは農業用水を分配するためのものに思えた。
昭和橋の近くの左に向かう三叉路の民家の垣根に、文政四年(1821)建立の道標があり、
「 旅神社 小舟江是より三丁 右からすみち、」 とある。
数百メートル歩くと、松坂市中林町の表示がある。
左手の大きなお寺のような建物を見ながら直進すると、
三叉路があり、道の左側には、大きな花崗岩製の「両宮常夜燈」、
道の右側の家の前に大きな道標と常夜燈が建っている。
説明板「月本追分」
「 伊勢街道と奈良街道との分岐点で、江戸時代、伊勢参宮が盛んになるに伴って、
立場や茶屋、煮売屋などが軒を並べていた。 月本という地名は、古くから月読社が勧進されており、
月読社のもとの集落という意味から生まれたといわれている。
この追分には、道標と道の東側に大型の常夜燈がある。
道標は高さ三百十センチで、伊勢街道最大の道標である。
「 月本おひわけ 」(左横)、「 右さんぐうみち 」(右横)、「 右 いかこ江なら道 」(正面)、
「 左やまと七在所順道 」 と彫られており、筆者は小津村中村正雅、石工は市場庄村甚兵衛(石甚)、
世話人は当所の角屋清兵衛ほか奈良までの道中旅籠屋四人によって、
天保十三年(1842)に建てられている。
また、常夜燈は、江戸の三人が天保期(1830〜43)に発起し、
角屋清兵衛・綿屋萬助・村田屋新兵衛によって建立。 再発起は当国有信中により、
明治三年十一月に建立された。
二〇〇七年三月吉日 松阪市教育委員会 」
大きな道標の隣の常夜燈は、「変形宮立形」で、小ぶりであるが、道標を兼ねている。
「 右 大和七在所道 ならはせこうやいがごゑ道 」 とあり、明治十六年の再建である。
月本追分は、役人常駐の立場茶屋があり、伊賀越え奈良街道の追分であったので、
奈良から伊賀越えの山道を歩いてきた人達の休憩所として、茶屋や煮物屋が立ち並び、大変賑わっていた、
様子は感じられた。
その先、みかど橋北の左側に、「右からす道」と書かれた道標がある。
「 香良洲道(からす道)を少しだけ入ると、
天保三年(1832)建立の常夜燈と大正八年建立の勅使塚がある。
勅使塚は、勅使大中臣定隆が、壱志駅で亡くなったことにちなんだものである。
なお、御門橋の西付近には、江戸時代、曽原茶屋があり、
こわめし、田楽、さざえの壷焼を売っていた、という。 」
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右側には、軒に雨除けのがんきを付けた平入りの立派な民家があった。
「
北勢では雨除けを「幕板」といっていたが、南勢では「がんぎ」と呼ぶようである。
伊勢路は妻入り(出入口が妻側にある)の家が圧倒的に多い。
東海道の関宿には、平入り(出入口が平側にある)の家が多いので、対照的である。
同じ三重県なのに、場所により、建て方が異なるのは驚きである。 」
中道町に入り、小さな川(用水路?)を渡ると、変則交叉点で、
伊勢街道は左にカーブする道を川に沿ってすすむ。
このカーブするところの民家の前にある三角形の土地に、「左さんぐう道」の道標と
常夜燈と石橋の親柱が建っている。
これらは、伊勢神宮の第61回遷宮を記念して、地元の人々が建てたもので、
石橋の親柱は山の神を意味するものである。
幾らか広くなった通りを進むと、交差点の正面に、中道公会所と消防団の分団がある。
その前に「天白村青年団」の石柱と柱形の常夜燈と小さな道標が並んで建っていた。
「
穴のあいた道標には、「右さんぐう道」とあるが、これはからす道への道標である。
建物の左奥に、金毘羅大権現碑と山の神が二基祀られていた。 」
伊勢街道は右折して南下すると、左手に三雲中学校があり、その先で国道23号のガードをくぐる。
左手で老人がクワを振っていたので、
声をかけると、前の県知事の時は予算を獲得してきたが、知事が代わってからは
全然駄目で、バイパスが全面開通するのは何時のことか、と嘆いていた。
手前の用水の脇に、小津一里塚跡の小さな碑があった。 伊勢街道で一里塚跡の碑は珍しい。
小津一里塚跡碑には、 「 一里塚竜宮橋より南九十五メートル 」 と刻まれていた。
肝腎の竜宮橋がどれなのか、確認できなかった。
この用水が道をくぐっているので、これなのかとも思ったが・・・
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少し歩くと、変則交差点の左側に、すらりとした伊勢神宮式の小津(おづ)常夜燈が建っている。
その足元には、大正になって建てられた、「からす道」 の小さな道標があった。
道標には、「 右松阪及山田 」、 「 左津及香良洲 」 など、と刻まれているが、
下部は地中に埋まり分からない。
曲り角の右側の細い道を行くと、紀勢本線の六軒駅に出る。
「 明治の終わりに鉄道の参宮線が開通したが、参宮者は鉄道で直接伊勢神宮には行かず、
この駅で降りて、この曲がり角を通って、伊勢まで参宮したと伝えられる。
常夜燈も明治期のものなので、道標も共にその人達の為に建てられたものかも知れない。 」
その先、道は左、右に少しカーブし、小津西交差点に出る。
交差点を横断すると、六軒郵便局があり、道は右になだらかにカーブする。
左側に三雲南幼稚園があり、道なりに進むと、三渡川に架かる三渡橋に出る。
「
三渡川(みわたりがわ)は、涙川とも呼ばれた川であるが、
中世の伊勢参宮古道の時代には、渡し場が三ヶ所あったので、三渡の名が付いた、といわれる。
川幅はけっこうあった。 その上流には巡見橋がある。 」
橋を渡った右側に、初瀬街道との追分を示す大きな六軒追分道標が建っている。
「
道標には、「 いがこえ追分 」 の下に、小さく 「 六けん茶や 」、
その右側には、 「 やまとめぐりかうや道 」、左に 「 右いせみち 六軒茶屋 」 と、ある。
伊勢音頭に歌われた六軒茶屋は、文政六年(1823)に市場庄村から独立して、三渡村と称した。
この道も月本の道と同じ、伊賀越えの道だったが、
六軒茶屋は、江戸時代後期には茶屋や旅館が立ち並び、参宮街道と初瀬街道を利用する旅人で賑わったのである。 」
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道の反対側(左側)には、大阪の人が二反半の田を付けて寄進したといわれる、文政元年(1818)建立の常夜燈がある。
「 常夜燈の対面の空地には全国各地の伊勢講の常宿として繁盛した旅籠磯部屋があったところで、 数年前まではスパーマーケットで、当時の宿屋の看板や伊勢講の看板が展示されていたが、 今回訪れるとなくなっていた。 」
その先、右側の六軒町 池田屋と表示した格子戸の家はすばらしい。
「
一、二階とも格子がはまっていて、一階の格子戸の左右は出格子で、片方は細く細かい。
もう一方は太く粗い格子になっていて、部屋への光の入れ方を格子の粗さで微妙に調節していた。
これまでいろいろ見てきたが、これはすごい。 」六軒町は短く、すぐに市場庄町に入る。
雲出橋を渡り、旧三雲町に入ったところから、それぞれの家に昔の屋号が掲げられていたが、
ここでも天満屋、藤音、ふろ屋など付けられている。
この集落で印象的なのは、堂々とした構えの家が多いことと、古い家に手を加えて使用していることである。
右側には、屋号大清とある妻入りで雁木の付いた連子格子の重厚な家があった。
その先の両側には白壁に黒板貼りの塀を巡らした家があり、塀の中に何軒かの建物が建っていた。
その先には切妻の家が続き、平入りの家も一部あった。
右側の「いちのや」とある、切妻造り、連子格子に出格子、雁木のある家は無料休憩所とあったが、 当日は休みだった。
説明板「いちのや(宇野家住宅)」
「 いちのや(宇野家住宅)は、大正三年(1914)に宇野家の別宅として建てられたもので、
建物は切妻造り妻入り形式で、そこに庇屋根を付け、通りに面した側には大きな出格子を付けている。
内部は、北側に店、中間、仏間、屋敷が一列に並んでいる。
明治以前のこの地区の町屋で見られる摺り上げ戸から出格子戸への過渡期の建物である。
この変化は宿場町から農村集落へと市場庄町が性格を変えてきた明治中期から大正初期ともほぼ一致している。 」
地名から商人町と思ったが、上記説明で商家もあった町が農村に変わっていったことが分かった。
この地区には、伊勢街道時代の面影が残る建物が残っていると思った。
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三叉路の左側、黒板張りの蔵の下に、宝暦三年(1751)に建立された、「忘井之道」と書かれた道標があった。
ここは米之庄神社への分岐点で、左の小道を百メートル程行くと、左側に林という程の樹木は生えていないが、その下に、屋根を付けた下に井戸跡があった。
井戸の右側の石の柵の中には、小さな祠と山の神碑が祀られていた。
説明板「忘井」
「 別れゆく 都のかたの恋しきに いざ結び見む 忘れ井の水
この歌は、斉王群行に同行した官女(おつきの女官)甲斐の詠んだ歌である。
(注) 千載和歌集に載せられて、後世に残っている。
古代、天皇の即位ごとに伊勢神宮の斎宮(多気郡明和町)へ斉王となる皇女が派遣され、
その行列を斉王群行と言った。
天仁元年(1108)の卜定(ぼくじょう・占いの儀式)により、天永元年(1110)九月に群行が催された。
官女甲斐は、伝説上の斎王を除き、大来皇女が斎王に選ばれてから四百三十五年後の斎王、恂子内親王
(在位期間1108〜1123)に従って、
壱志駅家(いちしうまや・現松阪市曽原付近とする説と松阪市嬉野宮古町付近に当てる説とがある)
の頓宮に一泊し、この忘井を通った際、都を離れはるばると伊勢の地に来て、
望郷の念やみがたく涙とともにこの歌を詠じたといわれている。
2006年11月17日 松阪市教育委員会 」
街道に戻り、先に進むと左側に、かっての学校みたいな懐かしい建物があった。
説明板には、 「 大正七年(1918)に建てられ、昭和三十年(1955)まで米ノ庄村役場として利用され、
現在は市場庄公会堂として利用されている。 」 、とあった。
その先、左にカーブする道の両側には、妻入りの家がノコギリ歯のように連なって建っていた。
このような集落は後世に残るといいなあ、と思った。
近鉄山田線のガードをくぐると左側に、「格子戸の町並み案内」という案内板が建っていて、
市場庄の道すじと家の屋号が表示されていた。
ここは市場庄の南のはずれで、家並みもここで途切れ、田畑が顔を出した。
久米集落に入ると、道は左側にカーブし、その先も少しくねくねしている。
両脇には定番になった感のある妻入りの家が続くが、三叉路に突き当たる。
三叉路には消防格納箱があり、その隣に 「左さんぐう道」 の道標、役の行者を祀る行者堂、
嘉永五年(1853)に江戸日本橋室町の人により建立された常夜燈と、
文字庚申を祀る庚申堂が並んで建っている。
庚申塔から少し離れた右手に山の神二基が祀られ、その右に松坂市岩内への近道を示す、
「いおちかんのん」 の道標がある。
伊勢街道でこれだけまとまってあるのは珍しい。
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伊勢街道はここで左折し、川を渡り次の変則的な交差点を右折し、道なりに進む。
このあたりは畑と家が混在している。
左手の樹木の先に白壁の家が見え、立派な塀が現れる。
この家は、南北朝時代から続く舟木家の武家屋敷である。
小路に入ると立派な長屋門があった。
「
長屋門は文政年間(1818〜1830)に作られたといわれ、門の入口には家紋が二つ彫られていて、
左右に出格子の窓があり、そこには注連縄がかけられ、笑門の木札が付けられていた。
その両脇はなまこ壁で塗られていて、屋敷全体は黒と白の塀で囲まれていて、堂々とした屋敷である。 」
ここを過ぎると民家が多くなってくる。
川の両側には慶應三年(1868)に建てたという石柱が残っている。
これは幟を立てるものというが、これから先、伊勢神宮までにところどころで見かける。
その先の三叉路の突き当りに庚申堂が建っていた。
伊勢街道は左にカーブし、続いて右にカーブ、そして、左にカーブする。
まさに鉤型のようになっている。
その先の交差点の左手に、近鉄松が崎駅がある。
交差点を過ぎると、左側に、「古川水神常夜燈」と書かれた石柱が建ち、
その奥の右側に、ずんぐりした万延弐年(1861)建立の古川水神常夜燈、
その左に小さな祠と古川水神遥拝所碑が建っていた。
その左手に、山の神が二基祀られていたが、
これは以前、庚申堂の道の反対にあったものを移転したのではないか?
その他にも、火防御神碑ともう一つの碑が祀られていた。
その先県道756号のガードをくぐると、三叉路に出る。
右折すると道は左にカーブし、続いて右にカーブする。
百々川に架かる塚本橋の手前、右側の水門奥に、富士大権現の石碑がある。
ここは塚本と船江の境であるが、塚本村で富士講が行われていたことがこの碑で確認できる。
橋を渡ると、左側に嘉永五年(1852)建立の常夜燈がある。
常夜燈には、 「 両宮 奉納常夜燈 」 とあり、「 江戸日本橋室町 紅林氏 」 と刻まれていた。
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その先には、JR船江踏切があり、左が松阪へ、右はすぐ先で、名松線と紀勢本線に別れていく。
踏切を渡ると、右側に薬師寺の仁王門が見える。
「 正式名称は、天台宗の利生山延命院薬師寺という寺で、承応弐年(1653)の建立である。
本尊の薬師如来坐像は平安後期の作で、県の指定文化財になっている。
仁王門は唐様式に和様式を取り入れた造りになっている。 本堂も同様な様式である。
境内の小さなお堂の脇に、山の神が数基祀られていた。 」
江戸時代、この先の道は鉤型に作られていた。
道は右に曲がり、船江町東交差点を越えると三叉路に突き当たる。
突き当たりには、街道の雰囲気を残す連子格子の家があった。
ここは左折し、続いて、右折し、次の交差点では左折する。
このあたりから川井町で、昔はこの辺りが松阪宿の北の入口であった。
「 酒楼妓院軒を並べ 弦歌湧くが如く 遊客群集す 」 と、いわれたほど、多くの茶屋や娼家があって、
賑わったところである。
ここから約一キロは、道の左右に、一階が格子で二階が虫籠窓の家があり、
また、二階が低く袖壁を持った家が何軒か並び、宿場らしくなってきた。 川井町3交差点の左右道は県道53号線である。
交叉点を横切ると、ほぼ直線の道である。 この道(県道24号)は狭いこともあり、車の姿はほとんどなかった。
右手の奥に、花山寺が見えた。
左側に、なまこ壁の蔵と袖壁、虫籠窓のある、須川屋金物店があった。
その先には、朱塗りの手摺、欄干に擬宝珠のある松阪大橋が見えた。
いよいよ松阪宿である。
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旅をした日 平成21年(2019)3月5日